第1話
風が強く吹いた。
一瞬の出来事だった。
8月1日、高校最後の夏休み。じりじりと体力をむしばむ蒸し暑さと、吹く風は救済にもならない程生ぬるい。はずだった。
8月1日、午前11時。そろそろ宿題を2ページ程進めようとソファに寝転がりながらやる気を貯蓄していた時。妹が急に「アイスが食べたい、お兄ちゃん買ってきて」と、そう、可愛い声でねだった。
何で俺が買ってこなければならないのか? 朝の天気予報では今日の気温は過去最高になりそうだと予報が出ていた。正直面倒臭い、行くなら自分で行けばいいのに。
そんないつも出さないような「妹」という最大のスキルをを最大限利用したようなネコナデ声で俺は騙されないぞ。
いや、でも、しかしながら、However。
かわいいかわいい妹のために炎天下の中アイスを買いに行くというのが良い兄の姿ではないのか。
それに今のところ宿題に費やすやる気の貯蓄は20%を満たない。そうだな、うん。仕方ないな。
俺は良い兄だしな。
「なんのアイスが食べたいんだ?」
こうして俺はしぶしぶ徒歩10分先にあるコンビニエンスストアまでご足労致すことになったのだった。
さて、ストーリーを進める前に、少し俺のトンデモ自己紹介をしたいと思う。
俺の名前は東雲 右京。
そこそこ良い親元で生まれ、そこそこ良い環境で育ち、そこそこ良い高校に入り、これからそこそこ良い大学に入る予定だ。
さて、そんなそこそこな人生を送ってきた俺には、両親にも友達にも、こども電話相談室にも言えない悩みを抱えている。
『私もアイス食べたいなあ』
これは俺の言葉でも、妹の言葉でもない。
もう一度言う。
これは俺の言葉でも、妹の言葉でもない。
そう、俺の中には、もう一人の俺がいる。いや、もう一人の俺というには少しが御幣があるかもしれない。
『ソレ』に気づいたのは俺がまだ小学校低学年だった時。
『ソレ』は急に言葉を発した。
体の奥底から、もともとそこにいるように言葉を発した。
それは若く澄んだ女の声だった。
急に友達感覚で話してきた『ソレ』に、俺は最初とてつもなく混乱し、動揺し、おののいた。
俺の考えが女の声をなして体から湧き上がってきているのかとも思ったが、そうでもない。
その声の言葉と、俺の考えは100%合致しないからだ。
俺は黒が好きだ。声は白が好きだという。
俺はピーマンが嫌いだ。声は好きでも嫌いでもないという。
これは俺の考えを女の声として具現しているわけではないと理解できた。この声は俺ではない。では誰なのか?
「お前は一体何なんだ?」
俺は口に出してそう女に問いかけてみた。声は答えなかった。
「お前は一体何なんだ?」
俺は心の中でそう女に問いかけてみた。声は答えなかった。
何度か質問を変えて質問してみたが、声は一向に応えない。
しかし一方的になんらかについての感想や意見は述べる。どうやら俺の意思疎通は伝わっていないようだった。そして俺はその声と話すことを諦めた。
しかしいつしか俺はその声を楽しむようになっていた。小学校低学年から現在まで、ふとした時に一方的に紡がれるその言葉は、ゆったりとしたクラシックを聞いているようで心地よかった。
そんな声との生活が今後もずっと続いていくのだと思っていた。
8月1日、午前11時。高校最後の夏休み。じりじりと体力をむしばむ蒸し暑さと、吹く風は救済にもならない程生ぬるい。はずだった。
家から徒歩10分先のコンビニからの帰り道、声はふとつぶやいた。
『ーー準備が整いました。異世界人、東雲 右京の召喚を開始します』
その瞬間、風が強く吹いた。
一瞬の出来事だった。
生ぬるい風は消え、変わりに肌を突き刺すような強い寒気が襲う。
暴風で目が開けられない。
踏ん張って耐えようとするも、強烈な風に体をもってかれる。ジリジリと後ろに引っ張られる。
寒い。
痛い。
なんなんだこれは? 一体なぜこんなことが……。
『おいで』
声がつぶやいた。その瞬間、体が浮いた。
もう何も考えられなかった。
俺の体は平成のある日、選ばれし子供たちがデジタルワールドへ導かれるアニメのOPと同様、butter-flyしたのであった。