6章_0076話_迷子 1
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「ケイトリヒ様、ケイトリヒ様ァーーーー!!!」
尋常ではないスタンリーの叫びに、ジュンとオリンピオが慌てて駆け寄ったときにはもうあの小さな体はどこにもなかった。
「スタンリー、何があった! ケイトリヒ様は!」
「ああっ、ケイトリヒ様がっ! ケイトリヒ様ァっ!!」
「落ち着け! スタンリー!! この穴に落ちたのか!? 落ちたんだな!」
恐慌状態のスタンリーを置いて、ジュンが穴を調べる。
「クッ、なんだこれ……こんな小さな穴に、落ちたのか!? 腕が肘までしか入らねえ」
「ああ、ああああ」
「落ち着くんだ、スタンリー。何があったか説明できるか? おい、スタンリー?」
ふつりと電源が落ちてしまったように、スタンリーがぐったりとしてしまう。
アロイジウスもエーヴィッツも、クラレンツもジリアンもどう動いてよいか分からず硬直したまま。ジュンの殺気だった気配に身を強張らせるばかりで、状況を説明するということも思いつかないようだった。
「お、おい……まさか。スタンリー、スタンリー!!」
「ペシュティーノ様を!」
知らせを聞いたペシュティーノの慟哭は、野営地中に響き渡った。
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「うう……ェホッ! ゴホッ」
一瞬意識が飛びかけたが、俺のちっちゃな手は何か硬いものをとらえていた。
石か、セメントか。真っ暗なのでわからないけど、とにかくちょっと指がかけられる壁。
これが登れるものなのか、垂直の壁に手をかけて、その上に手をのばすと上には平たい部分があるみたい。よじ登れば、水から出られる。
「ふ、う、うううぅ……ふえん……」
痛いほど体中が冷たくて、感覚がないが手もきっと震えてる。
必死で整えようとしてる息がすごく熱く感じた。
「よっ……いしょ」
握力も弱いし、筋力も弱い俺でも身体は軽いから、思ったより簡単によじ登れた。
じゃば、と水音をたてて全身が水から出ると、空気の暖かさを感じる。
真っ暗で何も見えないけど、ここは地底湖みたいなものかな?
「せいれい……ウィオラ。ジオール?」
呼んでも姿は見えないし、返事もない。
「なにか、あたりをてらすひかりの魔法……えっと、えっと……なんだっけ」
腰にある杖をまさぐると、ちゃんとある。でも、この暗闇の中いちど抜いてしまうと失くすのが怖くて手が止まった。
「なんだっけ……るーもす? 違う、えっと、えっと……光!」
手をかざすが、光は出ない。
どうしよう。
遭難の心得は……えっと、安全な場所から動かないこと……って聞いたような。
でも真っ暗すぎて、ここが安全なのかもわからない。とりあえず水からは出られたから、下手にウロウロしてまた水に落ちるよりはここでジッとしているほうがいいはずだ。
でも怖い。
真っ暗だし、寒いし、耳鳴りがするほどに無音。
「ふぇ……えぐっ、ペシュ……ぺしゅー、うわーーん! うわーーー!! ああーーー!ペシュ、ペシュー!! スタンリー! ガノ……ふえっ……ふえぇぇん」
たまらなく心細くなって声を上げてみたが、地下なのに反響もしない。洞窟のような場所を想像していたが、違うようだ。
なにか、近くでシュルシュル、と衣擦れのような音がしたような気がして黙り込む。
黙っていると耳が痛いほどの無音空間に、また叫んでしまう。
叫ぶと何かが聞こえる気がするので、自分自身の衣擦れなのか?
暖かく感じていたはずの空気がだんだんと冷たく感じ、ブルリと身体を震わせた。
濡れたままの服を着ているのは良くないんじゃなかったか? バブさんのいる背中だけがポカポカと暖かく、それ以外は芯まで冷える。でも濡れていても、服を脱いだほうが寒そうな気がする。
もっとサバイバル知識を付けておくべきだった。もたもたと服を脱ごうとするけど、何も見えないし脱ぎ方もわからないので結局脱げない。
「ふ……だれか……だれかー! だれかぁーーー! たすけてーー!」
なんとなく叫んでみたけど、当然返ってくる声はない。
「だれか……コホ、コホ」
地上からだいぶ落ちた気がするし、ここがどこかもわからない。
魔法が使えないなら、自力で脱出することは難しい。
「あ……なんだっけ、神の権能は……?」
もともとコントロールの怪しい「神の権能」は当然、うんともすんとも反応しない。
どうでもいいときにばっかり発現するくせに! くうっ! 役立たず!
せめて「全知」だけでも働いてくれれば、ここがどんな場所かわかるのに。
「破壊」は……まずい。ここに落ちてくるまでの間、死ぬかもと思ったときに勝手に発動しなくてよかったと思うべきか。
地上のペシュティーノは気が狂うくらい心配してるだろうな。
そう思うと、なんとかしないと、という気持ちが湧いてくる。
でも、寒すぎて身体が動かない。
「ペシュ……」
冷たい石のような地面にバブさんを敷いて、その上にうつ伏せて寝転ぶ。
真っ暗なので身体が離れてしまわないよう、背負い紐はそのまま。
空気にさらした背中からどんどん体温が奪われていく感覚がある。それと同時に、どんどん眠気が強くなってくる。
(このまま寝たら死ぬかもしれない)
そう思いながらも、身体のエネルギーそのものが失われていくような眠気に抗えない。
(……目が、醒めますように)
そう祈って、意識を手放した。
シュルシュル、シュルシュル。
夢の中で聞こえてくる音は、衣擦れのような、何か重いものを引きずっているような音。
なんか、こういう昔話あったな……。
そう思った瞬間、ふと意識が戻った。
目を開けても、閉じても、真っ暗。相変わらず何も見えない。
(死ななかった)
打開策はないけど、死ななかった。それだけで嬉しい。
相変わらず服は水浸しだし、寒さは酷いがなんとなくマシになった?
(もしもこんな謎の地底で死んで、遺体もペシュティーノの手元に戻らなかったらと思うと、怖い。俺の人生だけじゃなく、いろんなヒトの一生を奪う気がする)
ごしごしと目をこすっても、何も見えない。
さて、どうすりゃいいかな。幾分おちついた頭で、必死に考える。
魔法を出すことはできない。
おそらくだが、古代遺跡によくある「魔力を封じる空間」なのかもしれない。
ガルハミス……いや、ハルガミス遺跡にもそういった存在があるという話は以前聞いた。
そして、その空間に俺が入ると死ぬ死ぬ言われたことも思い出した。
絶賛死にかけてますよ。どうしようね。
シュルシュル、と微かな音を立てて、なにかが俺のそばで動くのを感じた。
……なにかいる。
俺のそばで空気が動く。何かが、すごく近くまで近づいている。何かはわからないけど、襲うつもりなら寝ている間に何もなかった説明がつかない。
俺に気づいていないか、襲う気が無いかのどちらかだ。
怖いけど、何も見えないから逆に麻痺してきた。
脳だけがフル回転して、良いこと思いついた! みたいな感覚になる。
これが瀕死ハイってやつかな。
確か、身体強化の魔法は魔封じの影響を受けないってどこかで聞いたような気がする。
こういった古代の魔封じ空間は放出系の魔法を封じるものであって、体内に存在する魔力そのものを失わせるものとは限らない……みたいな話を聞いた、気がする。
半分、そうであってほしいという願望も含まれてるかもしれないけど。
つまり、光で周囲を照らすのではなく、「見える」ように俺の身体を変化させればいいんだ。ということは、ジュンから習った冒険者の必須魔法を……!
「暗視!」
パッ、と明かりがついたように周囲が見えた。
俺を守るように、巨大な手が俺に触れないように包み込んでいる。
「て?」
巨大な手には、とうぜん腕があって、肘があって、肩がある……。
理解が追いつかず順番に視線を追っていくと、ものすごく巨大な女性がいる。
目の前にいる。俺、めっちゃ見られてる。
でかい。
女性は俺と同じような真っ白な長い髪を前に垂らし、巨大なおっぱいを心ばかり隠している。肌はところどころタイルのようにキレイなガラス質の鱗のようなものがあって、巨大な顔にも鱗があって、全体的にツルリとしていてニンゲンとヘビのハーフみたい。顔に赤みはなく、瞳まで真っ白。大きさを無視したとしても、とても普通のニンゲンには見えない。ヘビの獣人……獣人と呼んでいいのかも謎だけど、そういう人種がいるのだろうか?
表情筋が存在しないかのように、俺をジッと無表情に見つめている。
「あ、の」
俺を見つめたままピクリとも動かないその巨大な女性は、とりあえず俺を守ってくれたと判断した。だって、正直このヒトがもし俺を食料だと思っているのなら……ひと口だ。
パクリだ。じゃがりこかじるくらいの容易さだ。
「たすけてくれたの?」
巨大な無表情の女性はスッと瞬きするように目を細めると、背筋を伸ばすように上体を起こした。そこでようやく、女性の全容が見えた。
巨大なバストの下、くびれたウエストよりも更に下の腰あたりから、鱗が密集し太いヘビの体になっている。そしてその太いヘビ部分は、俺の周囲全体を覆うようにぐるりと取り囲んでいる。俺のいる部屋は、東京ドーム何個分と表現するくらい広い地下空間。
だが壁も天井もしっかりした人工の建造物で、いくつもの太い柱が天井へ伸びている。
下はほとんどが水面で、俺がたどり着いたのはプールの中に沈んだ立方体のような場所だった。崩れた瓦礫や柱が折り重なって島のようになっている。
(えと……これは、メデューサ……じゃなくて、ラミアっていうんだっけ?)
上半身が女性、下半身はヘビという、インドだかギリシアだかの神だと思うんだけど詳細は知らない。ファンタジー作品では割と有名なほう……かな?
「えと、あの……僕、ケイトリヒっていうの。あなたは?」
ラミアさんは言葉がわからないのか、俺を見たままゆっくり首を傾げた。
(肉体の構造がヘビに近いんだったら、そもそも発声器官が無いかもしれない)
俺はバブさんを抱えて、ヨタヨタとラミアさんに近づく。
強制的に泳いだせいか足はフラフラで、寒さのために手は震えてる。
白いヘビの鱗に触れてみたかったが、途中でカクンと足が萎えて座り込んでしまった。
そんな俺の姿に少し慌てたように、ラミアさんが手で包んでくれる。
近づいてきた巨大な手に、俺のちっちゃな手で触れるとラミアさんは乗るのを促すように手のひらを上に向けて静止してくれた。
どうやら、この白ラミアさんは俺を保護するつもりらしい。
俺はバブさんをにぎったまま手のひらによじ登り、柔らかくて温かい感触にホッとしながらころんと寝転んだ。正直、割と限界だ。ラミアさんとの出会いにびっくりして色々とぶっとんだけど、おそらく今、俺は発熱している。
このまま独りでいれば、確実に死しかない。
「あの……僕、ここに落ちてきたの。ちじょうにもどりたいんだけど、道わかる?」
相変わらずラミアさんは無表情のままキョトンとしている。
(ラミアというのは異世界の神の名前だから、相応しくないかもしれない)
「えっと……ん〜、名前……こゆうめいし……かってにつけるよ? えっと、じゃあ」
ヘビの女性は、俺に顔を近づけてあらゆる角度からまじまじと見つめてくる。
いきなりパクっとかされないよね? 同じ真っ白だから、仲間だと思ってくれたかな?
「じゃあ、ヘビ代さん。えっと、僕ちょっと、ねるね? あったかいところにつれてってもらえるとうれしいけど、わかんないよね」
冷たい石よりははるかに心地いい柔らかくて温かい手のひらの上でモゾモゾと横たわると、再び無表情のヘビ代さんは手を傾けたりして俺を見つめる。
(……見慣れない無害な小さな生き物を見つけたときのニンゲンの反応と、大差ないかもしれない)
そのあとはでっかい指でつんつんされたり、ころりと裏返しにされたりしたりしてときどき痛かったけど、痛いときはちょっと大げさに悲鳴をあげると慌てたように止める。
やはり俺を傷つける意図はないみたいだ。
なんて観察していたが、いよいよ意識が朦朧としてきた。弱々しい咳をすると、ヘビ代さんはもう片方の手で空間を作るように包まれる。ようやく俺が寒がってることに気づいてもらえただろうか。両手に包まれた空間は、だんだん暖かくなってきて快適。
シュルシュル、と衣擦れの音はヘビ代さんのヘビ部分が動く音だったみたいだ。
今まで控えめだったその音がかなり大音量になり、手のひら空間が揺れる。
どうも俺を包んだまま、移動を始めたみたいだ。
(……今は食べはしなかったけど、例えば子ヘビに与えるとか……ないよね?)
ドキドキ不安になりながらもひとまずは命の危険から逃れられたことで再び眠気が襲ってきた。移動中は周囲の音に耳を澄ましたけれど、ヘビ代さんが動く以外の音は聞こえなかった。
「ペシュ!」
見慣れたシルエットを見つけて、喜んで駆け寄ろうとするけど足が動かない。
ペシュティーノらしき影はさめざめと泣いていて、周囲に同じような影が集まる。
(大きな影はオリンピオかな。いや、父上? あっちの小さいのはきっとスタンリーだ)
ぼんやりそう考えながら影の動きを見ていると、俺に気づかずに去ろうとしている。
「ペシュ、まって。僕ここだよ! ねえ、ここにいるよ!」
ペシュティーノらしき影は、必死に誰かを呼んでいる。きっと俺のことを探してるんだ。
行かないと、と思うのに、身体はピクリとも動かない。
「ペシュ! まって! いかないで! ペシュ、ペシュー!!」
大声を上げているのに、影は気づかない。
「いかないで!!」
自分の声でハッと目覚めると、周囲は真っ暗で何も見えない。心臓の音がうるさいほどドキドキとしていて、自分の呼吸音が空間に満たされている気分だ。
汗をかいてじっとりと肌が濡れているのに冷たくない。ヘビ代さんは温かい場所に連れてきてくれたみたいだ。
「はあ……な、暗視」
パッと明るくなった瞬間、目の前にやっぱり巨大な女性がいた。
「ふァっ!? ヘビ代さん……じゃ、ない?」
その女性は巨大だけど、全体的にヘビ代さんの半分くらいしかない。ちょっと大柄なニンゲンと言っても……いや、過言だわ。多分オリンピオよりは大きいもん。
俺の大きさ基準はオリンピオ。
こちらの女性は見た目は完全なニンゲン。顔立ちは妖艶な美人で、淡い桃色の髪は豊かですごくキレイ。顔も身体も真っ白ではあるがどこか血色が良く、そして安定の全裸。もう全裸というかおっぱい見すぎて何の感想も出なくなってるよ。
でも俺の寝そべる寝台のような台に上半身を預けるようにして肘をついてこちらを見ているので、下半身がヒト型なのかはわからない。
女性の後ろには何か大きな毛皮に覆われた山がある。荷物に毛皮をかぶせたものかな?
なんの場所? ここはどこ?
「あの、僕、ケイトリヒっていうの。上からおちてきたの。ちじょうに出たいんだけど、みちをしってる?」
女性はヘビ代さんと同様に、無表情で少し首を傾げた。
……やっぱり言葉は通じないか。
少しがっかりして周囲を見ると、ヘビ代さんが運んでくれたらしく先ほどの空間とは違う。地下神殿と呼ばれる首都圏外郭放水路みたいな空間から、妙に生活感のある小部屋になった。部屋の端っこは少し崩れてるけど、ざっくり12畳くらいの広さ。
壁からニョキッと生えるように棚のような段差がせり出ていて、そこには食器か花瓶か、何に使うかわからない小物が無造作に置かれている。いくつかは地面に落ちていて壊れているものもある。すごく高い天井には照明用のような穴がいくつもあいているし、俺が寝転んでいる場所は寝台のように見える。不思議な形をしているものの、座るためのものなんだろうなと思しき家具っぽいものもある。
……むかしはヒトが住んでいた、廃墟かもしれない。
「ここはなに?」
目の前の女性に声をかけると、脅かさないように気遣っているのかゆっくり手をこちらに伸ばしてきて、胸から頭に掛けてをそっと押されて寝ころがされる。そしてまたゆっくりその手で俺の髪を撫でてきた。撫でると言っても、手のひら自体が俺と同じサイズなので指先でふわふわといじるようにしているだけだ。体は若干の熱っぽさが残っているけれど深刻な発熱ではない気がする。苦しくないし、ダルくも痛くもない。
こんなに早く熱が引くものかな? 暖かくしてたから治ったのかもしれない。
女性はそっと俺に白い布をかけてきた。
「あ……ぬの? あれ、僕、ふくは?」
着ていた服が変わっている。ブカブカのワンピースのような服だ。何も触れてないかのように柔らかい布で、光沢がある。
「ぬのがある……ここは、家? もしかしてヒトがいるの?」
女性は反応せずただジッと俺を見つめてくる。参ったな。異国人とか、そういうレベルでもない。ヒト型ではあるけど、そもそも言葉という概念があるのかもわからない存在とどうやってコミュニケーションをとろうか?
ボディランゲージか……いや、絵ならわかるだろうか?
周囲を見渡すと、ほどよい湾曲した壁と散らばる石。石で壁を削れば説明する程度の絵は描けるかもしれない。
「よっ、い、しょっ。ほっ」
寝台から降りようと、縁の方へズリズリと動くと、すかさず大きな手がすくい上げるように妨害してきた。寝台から降りるな、ということだろうか? とはいえここには長くいられない。なんとか彼女たちとコミュニケーションをとって地上へ戻らないと。
大きな手をイヤイヤするように払い除けると、拘束する気はないみたいだ。でも、手をすり抜けて寝台から降りようと足を伸ばしたところで抱き上げられた。
「んにゃ! やめてー、おろしてー!」
女性はすかさず俺を抱え直し、自らの胸元にくっつけるように抱っこする。
(……これ、赤ん坊を抱くような姿勢……やっぱりこの女性は、ヒトなのかな)
抱っこしたまま立ち上がるように、女性の上体ごとぐわんと揺れた。
女性の後ろにあった毛皮の山だと思っていたものが、女性の動きに合わせて揺れる。
(え、もしかして毛皮の……ヘビ?)
ポカンと見ていたら、毛皮の山はいくつもの長くて太いものにわかれ、音もなく地面をしっかり踏みしめた。その数、10本。そしてひときわ大きな毛皮の山が呼吸するように膨らむ。その10本の「脚」が何の音もたてずにバラバラに動いて身体の向きがかわる。
これは……これは、これは!!! この女性の下半身は!!! 信じたくないけど、でも間違いなく、ももももももしかしなくてもー!
クモだ!!!
「んきゃァーーーーーー!!!」
俺の奇声に驚いた様子もなく、女性はポンポンと俺の背中を優しく叩く。
「ヒェッ、ひ、ひえ……ひえーん……」
ああ……外見が1歳児とはいえ……。中身は大人だと言い張っていたのに……。
股間が、あたたかいです……。
やっちまった。盛大にチビッたよ。死にたい。実際死にかけて絶対死にたくないと思ったけど、今だけは死にたいって言わせてほしい。気分だけはそんな気分なんだよ……。
「ぷえ……」
俺のお漏らしに気づいたクモの女性は、どこからか布を取り出して丁寧に俺の下半身を拭ってくれる。うぅ……。ママか……。ママなのか……。俺は赤ん坊なのか……。
お漏らししてちゃ否定もできないわ……。
クモの脚って10本だったっけ? なんて現実逃避してても、視界の隅で動く脚。全体像を想像するだけで背筋がゾクゾクしてまた叫びたくなっちゃう。
視線をそちらに向けたくない一心で女性の顔を見ると、少しだけ笑ってる。
表情筋がある! ヒト部分もだいぶヒト離れしているヘビ代さんよりもコミュニケーションの可能性があるかもしれない。
……このままこの巨大な女性たちに飼われたりしないよね?
「あれ、そういえば……バブさんは?」
キョロキョロと周囲を見回していると、クモの女性……こちらはクモ美さんでいいか。彼女が心配そうに俺を見つめている。
「バブさん! ふわふわの、僕のせなかにあった、ぬいぐるみなんだけど」
俺は俺の背中に何かを背負うような動きをして、背中を指差す。
クモ美さんはちょっとハッとしたようにどこからかバブさんを取り出して俺に渡してくれた。伝わった!
バブさんをギュッと抱きしめると、ふっとペシュティーノの匂いがした。
……野営訓練で、ずっとペシュティーノの隣に座ってたもんね。
あにうえたちは責任感じてないかな。父上にはもう連絡が行っただろうか。学院はどう対応するんだろう。捜索隊はここまでたどり着けるだろうか。
僕の11班はどうなっただろう。これ、棄権扱いかな。ファビアンたちの成績に響いたらどうしよう。
お漏らししたときの惨めな涙とは違う涙が目玉からぶわりと盛り上がってポタポタとこぼれ落ちた。
「ペシュ……ふえ、ふえぇん……ぐずっ、ぐすっ」
目下の命の危険がなくなると、途端に今この境遇が心細くなってきた。
クモ美さんが優しく撫で回す温かい手も、ペシュティーノを思い出させて余計に泣けてくる。
「ふえっ、ふわぁん! うえ、ぐずっ、ひう……」
シュルシュル、と音がしたのでそちらを見ると、壁が崩れた場所からヘビ代さんが入ってきた。クモ美さんはヘビ代さんを迎え入れるように少し部屋の隅に移動する。この2人……ふたり? どういう関係なんだろう。
と、考えながら見ていたら、ヘビ代さんが部屋の地面にビタン、となにかをおもむろに投げ出した。赤黒いそれは、ピクピクと動いている……。
こ、こ、ここここれは。
説明するのも気が引ける、何らかの動物の……瀕死体。
「ぴやーーー!!!」
思わず間抜けな悲鳴を上げ、クモ美さんの胸に顔を埋めてしがみつく。
ホコリっぽかった空気に、もったりした血の匂いが混じってくるのが耐えられない。
「びゃーーーん!! うえっ、うえええん、もうムリぃーー! ペシュー!!」
視界から必死でその瀕死体を避けてるのだが、視界の隅でなんかブチブチッてちぎってる音―! 俺と同じような悲鳴のような声を上げる生き物、一体何なの! 何かわからないけど可哀想すぎて直視できない。
クモ美さんが俺を胸から引き剥がし、ヘビ代さんの方を向かせる。
やめて、血まみれのそれを見せないでほしいの!
狩りの後の解体は平気だったのに、瀕死の動物の足を引きちぎるのはムリ!!
なんか弱々しい声あげてるし、ほんとにムリ!!
ヘビ代さんは、引きちぎったそれを俺の顔の前に差し出してきた。
ま、まさか食えと!?
「イヤァァだぁぁーーーー!!」
無茶苦茶に暴れて、必死で生肉から顔を背ける。
考えてみたらそうだ、ヘビにクモといえば自然界では捕食者。
その食事は、専ら活きの良い生き物だ。
「うわああん、うあっ、うぁーん!」
泣きじゃくっていると、クモ美さんは諦めたのか胸元に抱き直してくれた。
精神的ショックが……やばい。本気で赤ん坊になってしまったようにグスグスと泣きながら巨大バランスボールのようなおっぱいに顔を埋める。
俺、地底では絶対暮らせない……。というか、今すぐ戻りたい……。
このままここにいたら、近いうちに餓死する。
いや、まて。
抱きしめすぎて完全に首が締まっていたバブさんのポッケに手を突っ込むと、レオお手製パルパのカスタードタルトがホールで出てきた。動かないし防衛機能もなくなってるけどポッケの機能は生きている。よかった……野営訓練の班のみんなと食べようと思ってたんだけどな。しかし、いまは緊急事態。
俺が抱えるほどのそれを、クモ美さんもヘビ代さんもジッと見つめている。
ふわりとかぐわしい匂いが鼻に届くと、お腹が空いてることにようやく気づいた。
床の血まみれのものはちょっとどうにかしてほしいけど、今はそれすらどうでもいい。
ぱくりとタルトの端にかぶりつき、柔らかく煮たパルパを一切れ口に突っ込む。
「うぅ……おいひい……おいひいよぉお」
また涙が出てきた。こんどは嬉し泣きだ。間違いない。
とんでもない目に遭ってる状況だけれど、まだ打開策は見つからないけれど、スイーツが食べられるのはこの上ない幸せ。活力になり、生きる気力も湧いてくるってもんだ。
泣きながら食べていると、クモ美さんとヘビ代さんが見つめていることを思い出した。
迷ったけど、ここにはナイフもなければ食品を置けるような場所すらない。手で割る、というよりもタルト自身の自重に任せて少し分割されたそれを、大きい方はヘビ代さん、小さい方をクモ美さんに差し出す。
「……ぐすっ……どうぞ!」
2人は顔を見合わせるような仕草をする。やはりヒト型だけあってヒトっぽい動きをするし、2人は仲良しみたいだ。
ヘビ代さんにとってはホール半分ほどでも指先でつまむほどしかないけど、俺が食べるのを見ていたので食べ物であることはわかっている。2人は少し匂いを嗅いで、ぱくりと口に入れた。
「フッ!」
クモ美さんが発声した! ほとんど息だったけど。
ヘビ代さんも、驚いたように目を見開いた。表情筋があった!
2人とも、タルトをつまんだ指先をペロペロ舐めている。かなり気に入ってもらえたみたいだ。……ヒト型とはいえ、日頃からこんな食事をしていると思うと、ちゃんとした味覚があるかちょっと心配だったけどよかった。
「おいしい?」
言葉の分からない2人だけど、なんとなく目が輝いてる気がする。
指だけでなく自分の口元もペロペロ舐めて、さらに俺の顔まで舐めてきた。
「べふっ! ぷあっ、やめて、もうないよー!」
べショベショになった顔を、クモ美さんが布で優しく拭いてくれる。
ヘビ代さんはお礼といわんばかりに生肉を差し出してくるけど、それは勘弁してください。全力で顔を背けると、ちょっとションボリしてしまった。ごめん。
でもそれだけは受け入れられないんだ!
生肉を諦めたヘビ代さんは、思い出したようにどこからか何かを取り出して俺に差し出してきた。何かの死体だったらどうしようとドキドキしてたけど、巨大な指の間にコロコロとしているそれは何かの果実みたいだ。
潰さずに持ってくるの大変だっただろうね! というか、これどこになってたんだろう。
外見はビワに似てるけど、でかい。まあこの世界のものは総じてデカいんだけどさ。
「ありがとう! ぼく、生肉よりこれがいいな!」
また生肉を差し出されてはたまったものではないのでことさら果物に喜んで見せる。
タルトを食べたこともあって喉が渇いてたので、指でスルスルと皮を向いてかぶりつく。簡単に皮がむけるのもありがたい。
あまり甘くなくて、水分が多い。タルトの後にちょうどいい水気だ。
笑顔でもりもり食べていると、やっぱりヘビ代さんもクモ美さんもジッとみつめてくる。ちょっと居心地悪いけど、俺が好んで食べるのは果物なんだと理解してほしいので頑張って食べる。
……これ、この人たちには効かないけど俺には毒があったりしないよね?
でもまあ食べなければ乾くだけだ。お腹を壊すくらいで済めば上等……。
ハッ。
衣食住。もうひとつ、重要な生活環境を忘れていた。いや、正確に言えばこれは「住」に含まれてるのかもしれないけど。
安全を確保し、食料の悩みも解決。
でっかいクモとヘビの女性が甲斐甲斐しく世話をしてなんとか存命できる望みがあるとわかった状況でようやく、目下の死活問題が見えてきた。
……ものすごく、ウンチしたいです!!
どうしようペシュティーノ!!




