1章_0006話_魔法と世界 3
「どれ、私もペシュティーノの魔術の授業を見てみることにしよう」
「ぱぱ、今日は魔法陣のじゅぎょーですよ!」
「魔法陣だと? 普通の指導員ならば魔法と魔導の基礎が終わった頃に教えるものではないか」
でた、また「普通」。
「ケイトリヒ様に普通の指導をしていては、才能に知識が追いつきません。魔導学院でもそのような生徒は、才能と知識の乖離に悩んでおりました。今は理解度は度外視でとにかく魔術の理の広さを学んでいただくのが最善かと存じます」
ペシュティーノが跪いたまま説明する。父上は片腕で俺を抱っこしたままもう片腕で顎髭を撫で付ける。クセなのかな。
「ふむ、魔術のことはよくわからぬから任せるとするか。そうだ、ケイトリヒ。其方は将来、何になりたい? 魔法使いか、魔導士か、付与士という道もあるな。もちろん、領主になる道もあるぞ」
父上の後ろの2人の騎士が、チラリと顔を見合わせる。
ペシュティーノは跪いたまま動かない。まあまあ危ない質問してくるね、父上。
「んー将来……大きくなったら、ですか。んー、んー……わかりません!」
父上は安心したのか呆れたのかわからない脱力した顔で笑う。
まあ子供ってこんなもんだよね、というふうに2人の騎士も曖昧に笑う。
「わからないから、勉強します。僕が将来、何をすればいいか。何になればラウプフォーゲルのためになるか……。僕は、ラウプフォーゲル領主の子でしょう? 民の血税で生きる身としては、民のために何をすべきか、お勉強しないといけませんから!」
「おしげ」の舌足らずさと打って変わって流暢な物言いに、父上は目を見開いた。
後ろの護衛騎士も、揃って同じ表情をしている。
「ペシュティーノ、そなたが躾けたのか?」
「いえ、予算の話は尋ねられたので少しお教えしましたが……それだけです」
「ぱぱ、僕は子供ですけど、道理くらいわかりましゅよ!」
噛んだけどね。
父上は濃い茶色の瞳で俺をジッと見つめて、「フッフッフ!」とまた力強く魔王のように笑った。
「ハッハッハ! これは面白い。さすがはペシュティーノ、其方の教え子だ。聡明さは明らか。これでは注目するなというほうが難しかろうな」
豪快に笑う父上。
母親との関係は良くなかったようだが、父に愛されるのなら嬉しい。子供にとって親からの愛情は重要だ。ゴマをすって気を良くするような父親でないのはありがたい。
強面の父上は心底愛おしげに俺を見つめると、俺の小さな鼻に自らの鼻を突き合わせるように顔を寄せてきた。ウフフと笑うと父上も満足そうに笑う。
ふと、その父上の眉あたりに怪我を見つけた。
妙な形のホクロだと思っていたが、かさぶたのようだ。
「ぱぱ、お怪我してる」
「ん。ああ、これか。其方の父は領主になった今でも剣の稽古は日課だ。昨日、騎士隊長に手ひどくやられてな。あいつは俺に恨みがあるから、容赦ないのだ」
ははは、と豪快に笑うが、何かを強くぶつけたであろう傷は鬱血の跡もありまあまあ痛々しい。
強打による裂傷かな。医者ほど詳しくはないけど、前の世界では一般よりちょっと知ってる、くらいの医療知識はある。サイエンス系や医療系、自然系のチャンネルや記事を見るのが好きだった……って程度なので、まあお察しだけど。
ちっちゃな指を差し出すと、父上はそっと傷口を見せるように近づけてきた。
俺の指の先からふわりと白っぽい光の玉が現れる。やはり骨と硬いものがぶつかった衝撃による皮膚の裂傷だ。これくらいなら血流を活発化して、真皮の再生を促せばすぐ治りそう……。
そう思った瞬間、白っぽい光の玉がゆらりと揺れた。
「ん」
異変を感じ取った父上が怪我に触れると、一番大きなかさぶたがポロリと落ちる。その下には何の傷もない、皮膚。鬱血もきれいに消えてしまった。
「な、ま……まさか、ケ……ケイトリヒ様……」
「んん? どうなっておるのだ?」
ペシュティーノを見ると、真っ青な顔で口元を押さえている。
父上が騎士に怪我を見せると、騎士も全く同じ顔をした。
「こんな……こんな魔法は見たことがありません! これは、これは……!」
「なんだ、まさか怪我が治ったのか!?」
「お……御館様、仰るとおりです。鬱血の跡も、怪我も、きれいに消えております」
あれ?
魔法といえば怪我を治すのが定石じゃないのか?
「ケイトリヒ、今の……魔法は、どうやったのだ?」
父上がなるべく動揺を気取られないように優しい口調で聞いてくるが、俺もやっちまったかと焦ってしまう。
「ええっと……いたいのいたいの、遠くへとんでけー! ……みたいな気持ちで……」
鈍い音がしたので振り向くと、ペシュティーノが跪いていた。いや、敬意を込めた跪きではなく、両膝をついて項垂れて、頭を抱え込んでいる。どした?
「そんな……まさか……ケイトリヒ様……私は、私はこんなことまでは……」
「ペシュティーノ、落ち着くがよい。其方たち、この件は決して口外してはならん。この場にいる者以外には、誰一人言うなよ。良いか?」
「「は」」
「かしこまりました」
2人の騎士と、ミーナがひときわ丁寧に腰からお辞儀して従う。
やっぱりやっちまったのか。
「おっ……御館様ッ……」
「ペシュティーノ、ケイトリヒの魔力が誰よりもコントロールされていると断言したのは其方であろう。この力は、ケイトリヒの意志なく出るものではないのだろう?」
ペシュティーノは跪いたまま、父上の腕の中にいる俺を見上げる。
とんでもないことをしてしまったのかと実感した。ペシュティーノは驚愕の顔から、今は絶望に突き落とされたような表情でうっすら涙まで浮かべている。
どうやら傷を癒やすような魔法は、この世界ではとんでもないもののようだ。わからないけど、うっかり出たら世界を揺るがすようなことになるのか?
……勉強する前に、やっちまった。やっぱり、常識を知っていたほうがよかった。
「ペシュ……ごめんね、お勉強する前に魔法を使ったせいで……使っていい魔術とそうでない魔術をちゃんと、お勉強するから」
「ケイトリヒ様……どうか、御館様!! この件は……どうか、お願いです!!」
「わかっておる、ペシュティーノ」
父上は俺を抱っこしたまま土下座するペシュティーノの肩を掴んで起こす。
そこまでするほどヤバい案件なのか。
「この件は皇帝陛下の使者には秘匿する。心せよ、ペシュティーノ」
涙を浮かべるほど絶望していたペシュティーノのライムグリーンの瞳に、ほのかな希望の光りが灯る。なるほど、皇帝にバレなきゃいいんだね!?
それなら地政学で習ったとおり、ラウプフォーゲルは帝都から離れてるし、ラウプフォーゲルのなかで内緒にしておけばバレないよね!
なんて、のんきに考えていた。
帝政なんてものに馴染みのない俺は想像すらできていなかったのだ。
「皇帝にバレなきゃOK」とは、つまり皇帝への反逆罪。万一詳らかになればラウプフォーゲル全土を巻き込む一触即発の政治戦争に発展するということに。
父上の、この異例の決断と決意ともいえる「秘匿」の意味を知ったのは、随分あとになってからだった。
「ケイトリヒよ、よく聞きなさい。お前がたった今使った力は、察する通り『使ってはならない魔法』だ。万一お前のその能力が皇帝陛下の使者に知れてしまえば、この城から連れ出され皇帝陛下の養子となり、そして幼いうちから戦争に駆り出されるだろう。帝国は年中他国と戦争をしておる。そこに連れて行かれ、足がもげたり腸の飛び出した兵士を癒やす羽目になる。そんな将来は望まぬな?」
「御館様、それは流石に幼子には……」
と、お付きの護衛騎士がたしなめるけど、俺はその時ようやくペシュティーノが何に絶望したのか理解した。今度は俺が顔を青ざめさせる番だ。意識しなくても涙まで出ちゃう。
「養子……ぱぱと、ペシュとミーナとララとカンナと、離されちゃうの?」
「そうなるだろうな」
やっとペシュティーノとメイドたちとの生活に慣れてきたのに。
父上に気に入られて、今度は愛される息子になれると思ったのに。
そんな展開、あんまりだ。子供は家族から離されるべきじゃない。
滲んできた涙が、蛇口をひねるように一気に溢れた。
「いあ……いっ、嫌だぁー! いやっ! いやぁーー!! うわああぁーーん!」
「おおよしよし、大丈夫だ。私がそんな事はさせん、大丈夫だ。落ち着きなさい」
泣き喚く顔を晒したくなくて父上の肩口に顔を埋めようとしたけど、肩パッドみたいな硬い金属に勢いよく額をぶつける羽目になった。ものすごく痛い。泣きっ面に蜂って、このことだ。
「いだっ、痛いよぉ、うわぁん!!」
「ペシュティーノ、代われ」
「はい」
ペシュティーノはディアナに比べたら骨ばってて筋肉質でカチコチだけど、金属の肩当てをつけた父上よりは断然柔らかくて温かい。柔らかさって大事なんだな。
ちょっと強く抱きしめられて、ペシュティーノの淡い金髪の匂いをクンクンすると程なく落ち着いた。ひぐひぐ言ってるけどそこはまあ許して。
「ケイトリヒ、よく聞きなさい。傷を癒せることは、ペシュティーノと父だけの秘密だ。他の誰にも話してはならん。もし誰かが怪我をして苦しんでいても、決して使ってはならん。父とペシュティーノの許可がない限りはな。よいな?」
チラリと頭数に入っていなかったミーナを見ると、ミーナは真剣な顔でゆっくり頷く。
「ひぐっ……ふぁい……」
「たとえペシュティーノやそこのメイドが怪我しても、とっさに使ってはならんぞ。我慢できるな?」
ペシュティーノやミーナが怪我をする。それを想像しただけで悲しくなってまたポロポロと涙をこぼしてしまうけど、それを我慢しなければ離れ離れにさせられてしまう。
「……死ぬような怪我でなければ」
俺がボソリというと、ペシュティーノが咎めるように「ケイトリヒ様」と呼ぶ。
だがこれはちょっと譲れない。
「まあよい。命に替えられぬというのがわかっておるだけ良い。万一バレたときは、そのとき初めて使えるようになったと申すのだぞ。……しかし、これは早く護衛騎士をつけねばならんな。ペシュティーノにそこなるメイド。其方たちも心せよ、ケイトリヒを守るためには其方たちが怪我することも適わぬ。よいな」
「「心得ました」」
父上がその返事を認めてうなずくと、ドアが再びノックされた。
「御館様、王子殿下の泣き声をききつけてメイドが2人心配そうにしております」
ドアの外を守っていたのであろう騎士が、申し訳無さそうに顔を出す。
「そうか、入れてやれ」
ララとカンナが部屋に入ってきて、父上に向かって跪いて頭を下げる。
「驚かせたようだな。これからもケイトリヒを頼むぞ」
「ありがたきお言葉……!」
「全てはラウプフォーゲルのために、ケイトリヒ様をお守り申し上げます!」
ララとカンナはさらに頭を深く下げる。
「恐れながら王子殿下に何があったかお聞きしてもよろしいでしょうか。ご無礼は承知の上ですが、今までこのように激しく泣かれたのは初めてのことで、心配で心配で……」
「ふむ……何故泣いた、ケイトリヒ?」
父上は俺の方を見ながら、ニヤリと笑いながら言う。
これは、嘘を付く練習だなっ!? 俺が上手にはぐらかせるか試されている!
「ぱぱにだっこしてもらったら、ぱぱの肩がカチカチでおでこゴッチンしたから!」
どやっ! 事実に則した完璧な嘘だろ!
言い切ったところでちょっと恥ずかしくなってペシュティーノの肩口に顔を埋めるけど、心配したララとカンナが寄ってたかって俺のおでこを確認する。
「まあまあ、それは痛かったですわねえ」
「あらほんと、おでこが赤くなってますわ。痛むようなら少し冷やしましょうか」
「ケイトリヒの世話人は十分なようだな。あとは護衛騎士か。騎士隊入隊希望者の応募用紙の閲覧権限をペシュティーノにも与える。めぼしい者がいるようなら入隊試験前に声をかけても構わん。ああ、それと……」
部屋を出ていこうとしていた父上が渋い顔でペシュティーノに視線を向ける。
「衣装代だがな……領主付にするとはいったが、あれはあんまりだぞ、ペシュティーノ。少し、今後の予算から引いておくからな」
「は、はい。御意のままに」
「いや発言を覆すのはどうかとは思うが、さすがにあれは……」
「……申し訳ありません、お針子長に一任してしまい、上限を定めておりませんでした」
「なに、お針子長に? ……ふむ、そうか……ならば仕方ない。まあ、少しだ。少しだけ相殺させてもらうぞ」
「はい、もとよりいただく身にございます。額面はご随意に」
やっぱあの衣装、とんでもない値段になったのかー。
泣いた後で鼻が完全に詰まった状態だったけど、そのやりとりが面白くてフフッと笑うと父上がそっと寄ってきて俺の頬を指の側面で撫でる。くすぐったくてまた笑うと、満足げに笑って部屋を出ていった。
あとからコッソリお針子に聞いた話だけれど、父上は俺の予算から衣装代を少し賄う件を取りやめたらしい。理由はディアナに「発言を守らぬ男が領主を名乗るとは」などと叱られたからだそうだ。
父上とディアナは幼馴染で、強面の父上でも女性には弱いらしい。
おかげで父は新調する予定だった私物の馬車を、修理で済ませたとぼやいていたそうだ。
これもお針子情報。お針子衆の情報網って、すごい。
翌日。
本当は今日は授業がない日だったんだけど、昨日父上の電撃訪問で棚上げになっていた魔法陣の授業をやることになった。
ギャン泣きしたせいで、あの後はやっぱりすぐに寝ちゃったからね。
朝起きたらまぶたはパンパンに腫れてたけど、ペシュティーノの丁寧な顔面マッサージとホットタオルのおかげで今はぱちくりお目々ですよ。
魔法陣の授業は、魔術の次段階の学問ということで確かになかなかに難しかった。
魔法と魔導も理解してない俺だが、どちらかと言うとそれらの理解はどうでもいい。
この魔法陣というものは、どうやら前の世界に置き換えると「電子基板」や「プログラミング」に置き換えられそうな……気がする。どちらも専門外だが、考え方的には多分あってると思う。
「魔道具は、ほとんど全てのものが魔法陣によって制御されます。魔力をエネルギー源として、魔法陣によってその働きを決められ、作用する。このランプを使って試してみましょう」
ペシュティーノが机においたのは小さな手持ちランプ。
コップのような持ち手がついていて、自転車のライトみたいに前方向を照らすような形をしているが、材質は真鍮製。ちっちゃなメガホンに取っ手がついてるみたいな?
「これはどこが光るのですか」
「魔晶石をここに入れるとですね」
メガホンの奥に突っ込むように小さな黄色っぽいクリスタルを突っ込むと、明るい部屋の中でもわかるくらいピカーッと光った。
「すごい、あかるい!」
「取っ手の横にあるツマミを回してみてください」
ちっちゃな指でくりくりとツマミをまわすと、明るさがどんどん落ちていって、最後には消えた。
「この魔道具には、最も単純な魔法陣が込められています。魔力を【光】属性へ【変換】する記号と、【発光】。3つだけ記号で構築された、ごく簡単な式です」
メガホンみたいな形の一番細いところに、小さな模様が光って見える。
たしかに、円のなかにさらに3つの円があって、その中に何か記号がかいてある。これが魔法陣かな?
それを手元の鉛筆でカリカリと真似てみると、ペシュティーノが絶句した。
「ケイトリヒ様? 予習したのですか? たった今その簡単な魔法陣をお教えしようとしたのですが……」
「え、ここにかいてあるよ?」
「ええ?」
俺が指差したところを見るが、ペシュティーノは黙ったままだ。
「……ここに、いま書いた記号が?」
「うん。……見えない?」
「……ケイトリヒ様、ちょっとお待ちを」
ペシュティーノがガサゴソと教材セットが入ってるチェストをあさり、金属製の円筒形の小箱を出してきた。
「これには、なにか書いてありますか?」
「えっ、表面にでっかく書いてあるけど。ええっと、これは……【火】? 【熱】を【閉じ込め】て、残ったものを【凝固】……燃やせるごみばこ、かな?」
「……、……、……」
ペシュティーノがフリーズした。たっぷり10秒ほど。
さすがに記号の意味は教本を見なければわからないけど、これまでの魔術の授業でいくつか習っているものと重複しているのもある。
魔法陣を見る限り、円の位置や模様の繋がり方などで作用する順番などがかなり秩序だって描かれていることが丸わかりだ。小さく描かれているものは作用が弱くなったり、はみ出すほどに大きく描かれているものは影響力が強い。
まだ規則性や法則がわからないので漠然としてはいるけど、魔法陣って便利。
「魔法陣が……見える……」
ペシュティーノが授業開始5分で撃沈してしまった。
文机の足元でガックリと四つん這いになっている。そんなにショック?
「えーっと、普通は見えないんですか? 見える僕がヘン?」
「……ヘン、という言葉は使いたくありませんが、たしかに普通ではありません。ケイトリヒ様、この件についても癒やしの術と同様に誰にもお話になりませんようお願いしますね……」
「僕、秘密がどんどん増えちゃいますね」
「そう……ですね、護衛騎士は身元をしっかり確認しなければ……」
「あっ! そうだ! ペシュ、魔道具には、どんなものでも魔法陣が使われてるって言いましたよね!」
「ええ……そうですが、どうしました?」
「兄上たちからもらったおもちゃ箱!」
ぴょいと椅子から飛び降りて、ててて、とクローゼットに駆け寄って扉を開けようとするけど、取っ手にギリギリ指が届くくらいでとても開けられない。
「ペシュ、開けてー!」
「はいはい……これが、どうしました?」
「これ!」
「これは……」
蓋のない大きな長持から出そうとしたけど、重くて持ち上がらない。
車輪のついてない自転車のようなフレームに、緑色のフッサフサの毛がみっしりとついた木製のそれは、メイドたちも見るなりげんなりしていたものだ。
「兄王子たちったら、モートアベーゼンを押し付けてきましたね!?」
「これ、いまだにあるんですねえ」
なんて口にしていたけど、俺からしたらワクワクドキドキ不思議魔法アイテム。
そう、モートアベーゼンとは、ものすごく低速で動いて、ものすごくちょっとしか浮かない、『魔法の飛行ホウキ』なんだそうだ。
なんだそうだ、というだけあって、まだ使ってない。
存在自体は数百年前からあって、貴族の子供の遊び道具として一時期人気だったらしいんだが、いかんせんものすごく低速なうえにものすごくちょっとしか浮かないので子供の遊び道具としてすら役不足。その割に高価で大ぶりなので贈り物には重宝するらしく、だいたいどの貴族子息も1回は贈られて1回は乗るみたいだ。
でも全ては1回で終わるらしい。
そんな贈答品のハムだかメロンだかを入れる桐箱くらいの役割しかないモートアベーゼンだが、これって改造して大人も乗れるようなものになればすごい革新的な移動手段になるんじゃない?
「これってきっと、魔法陣を改良すれば大人が乗って高速で移動できるくらいのものになると思うんだよね! ええっと、この魔法陣はー」
ペシュティーノがクローゼットから引きずり出してくれた飛行ホウキの柄の部分をジッと見つめると、ふわりと魔法陣が浮き上がってきた。
「……ケイトリヒ様」
突然、ペシュティーノが長い指で俺の顔をやんわり掴んで強引に顔を上向かせられる。
蜘蛛のような長い指でほっぺを両側から押し付けられて、お口がブーの形になる。
「うみ゛」
「お待ち下さい。その研究は、ちょっと、帝国を揺るがす大発明になってしまいます」
「んぶ」
「本当に、大人が乗って、さらに高速移動できるようになったらどれほどの存在になるとお思いですか」
「ふごい?」
「すごいどころではありません。モートアベーゼンの魔法陣は長い間、帝国中央研究所がその解析を行っていましたが未だに解析できていないのです。それを、ジッと見ただけで見えてしまうのですか?」
「うぶ」
「先程、ケイトリヒ様がモートアベーゼンの魔法陣を見つけようとしていた際、瞳に謎の文様が現れました。これに心当たりは?」
「むい」
「ない? 本当ですか? 何か、ヒトならぬ声を聞いたとか、他に見えざるものを見たとか、そういうことはありませんか?」
ヒトならぬ声?
もしかして……神|(仮)のこと?
「ぶ」
「あるんですね!?」
ようやく顔を離してくれた。ほとんど言葉になってなかったのによくわかったね?
「夢を見た……だけかもしれません」
「竜脈の意志は夢を介して交流してくることもあるそうです。どのような夢ですか?」
リューミャクのイシ? それはなんでしょうか? まだ習っていませんけども。
「なんか、『この世界の神になってねー』……って、軽い感じで言われる夢」
「カミ……かみ? 神ですか?」
あ、神のドイツ語の発音。この世界の古代言語ですね。
「そう、神」
「……、……、……」
ペシュティーノは頭痛をこらえるように額に手を当て、絶句してしまった。
これ、中身が異世界からきた大人だってことを明かすタイミングでは?
でもそれを告白して、ペシュティーノが俺のことを気味悪がったらどうしよう。
今まで溢れんばかりに愛情を注いでくれたこの庇護者を失ってしまったら。
保身の意味でも恐ろしいが、それよりも何よりも、目の前のこの男から奇異の目で見られるのが何よりも恐ろしかった。俺の命を握っているのは、今は領主である父よりもペシュティーノだ。
頭を抱えていたペシュティーノが、何かに気がついたように息を飲む。
「ケイトリヒ様が昏睡状態から目覚めた日……息をしているかどうかも定かでなかった数ヶ月の後、小さな咳をしたあの日。史上初めてとなる、三国協力異世界召喚が執り行われ、失敗した日……」
ペシュティーノはゆっくり俺を眺め、瞳を覗き込んでくる。
その目つきには、奇異なものを見るような嫌悪感も忌避感もない、俺の瞳の中に何かを探すような目だ。
「……これまで一度もまともな教育を受けていない割に、妙に物知りで老成していると思ってはいましたが……もしや、魂が……? 記憶がないのは、何か、前世の記憶か異世界の魂が混じってしまったからでは?」
あっ。
バレた。
……どうしよう。
肯定してしまえば何かが大きく変わってしまうような恐怖と、もう隠さなくてもいいという安心感と、これからどうすればいいという不安と、あまりにもぐちゃぐちゃになった感情が入り乱れる。
感情や計算や打算や計画などが入り乱れて膨れ上がり、許容量を超える感覚。
もう何も考えられなくなって、顔がくしゃりと歪んで涙がぽろりとこぼれた瞬間、俺は頷いてしまった。
もう戻れない。
もし、ペシュティーノに見放されてしまったら俺はどう生きていけば良いんだろう。
父親との関係も良好ではあるが信頼できるとも言い難い。
子供になってしまった身体と、よくわからない世界で俺ひとりで生きていけるはずない。
不安ばかりが膨れ上がってきたその瞬間、ペシュティーノから抱き寄せられてぎゅう、と抱きしめられる。
「そうだったのですね……! お一人で辛かったでしょう、私はケイトリヒ様の味方ですよ、何があろうとも、何者であろうとも!!」
ぶわ、となんだか説明のつかない感情の波が溢れてきて、堪えきれない。
「ふっ、うっ、うわ、うわぁぁああんん!!」
「大丈夫ですよ。私がついてますからね」
「わぁ、わぁぁああん!! こわ、こわかったよぉ!」
「よく我慢しましたね、もう心配いりません。私が守りますから」
口に出して初めて理解した。怖かったんだ。
「ぺしゅっ、ペシュ……きっ、嫌わないでっ、僕っ、ほんどは、ながみおどなだげどぉ」
「中身大人? そうですかそうですか、そうだったんですね。それだけで私がケイトリヒ様を嫌うわけないでしょう?」
「れもっ、でもっ、かだだはこどもだかだぁっ」
「そうですね、体は子供ですね。心配いりませんよ、今までと変わらず、あなたはケイトリヒ様でファッシュの子、私の愛子です。何も変わりませんよ、魂が大人でも同じです」
「えうあぅあーーー!」
「うーんさすがにわかりませんね、とにかく大丈夫ですよ」
勢いよく部屋のドアが空いて、ミーナとララが駆け込んできた。
「ケイトリヒ様っ、どうしました!? ペシュティーノ様、何事ですか!」
「またゴッチンしましたか!?」
「いえ、魔力指導のときによくあることです。混乱して、空想の中で恐怖体験をしたようです。大丈夫ですよ、すぐ落ち着きます」
……あれ?
なんか微妙に本気にされてない? かもしれない?
これ本当にミーナとララへの言い訳なのかな? あとでちゃんと聞いてみないとな。
と、思ったのもつかの間だった。子供のギャン泣きって、本当に全身運動なんだな。
いや、ごちゃまぜの感情の波が体力というか思考力を奪ったのかもしれない。
落ち着く頃には意識を失っていた。
「庇護者に即バレとか、マジでウケる。でも理解ある庇護者でよかったねえ? 本当の親だったら、逆にドン引きされてたかもしんないよね。まあ、結果オーライってことで。また相手が良かったのかなー、あれエルフの血引いてる奴っしょ? やっぱさすがに勘がいいんだなー、エルフの血縁者って!」
夢の中で、また聞き覚えのある声がする。
エルフの血縁者? ペシュティーノのこと?
「固有名詞とか出されてもわかんないわー。ってワケで、第一関門はクリアだね? それじゃ、お願いがあるんだけどさ、神になる前に。神になる前の下準備として。いくつか神の眷属が世界に散らばってて主がない浮遊霊みたいになって彷徨ってるからさー、いいかんじにまとめといて? じゃないと世界的にあんま良くないんだワ。よろしくー」
いや第一関門ってナニ。第二、第三があるってこと? 初耳ですけど?
眷属ってなに! 浮遊霊ってなんだよ!! いい感じってなんだよーー!!!
もうこいつと話すのマジで嫌! 説明不足どころか混乱させてくるばかりじゃん!
二度と話しかけてくんじゃねぇー! ばかやろー!
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「あらまあ……ケイトリヒ様、よっぽど怖い思いをされたのね」
「また嫌な夢でも見ているのかしら……すごく嫌そうなお顔」
すやすやと安らかな寝息に相反して、眉をしかめてものすごく嫌そうな顔をしたケイトリヒが夢の中で本当に心底嫌がっていたものの正体について、見守っているララもミーナも知るよしもなかった……。