3章_0032話_ユヴァフローテツ 2
3話同時公開の2話目です
『ラウプフォーゲルの希望の星、ケイトリヒ第4王子殿下にお目見え致します』
広場で微妙にバラバラに並んだ大人たちが、屋敷の坂を下ってきた俺を見つけてバラバラと跪いたり頭を下げたりしながら口々に言葉にしたのは決まりきった挨拶文句。
ちなみに「◯◯の希望の星」というのは、その領地やその国の主、この場合は領主である父上の「子」全てにつく称賛を交えた枕詞みたいなものだ。
「帝国の希望の星」というと皇帝陛下の子、ほかにも帝国に属する騎士団の子や宰相の子なども指すのだそーだ。まあ、ふーん、って感じね。
服装も年代も種族もバラバラな人々の集団の前に、体格のいいおじさんが一歩前に出る。
青や緑のぱやぱやした光は基本的にはヒトの周囲には集まらないみたいだ。
ペシュティーノは例外。特に頭のあたりにたかってるけど、アレが見えないなんてうらやましい。たまに俺の前を横切るけどさほど気にならない量になってきた。
「王子殿下。私の名はシュレーマンと申します。家名はございませんので、そのままお呼びください。僭越ながら、このユヴァフローテツの暫定統治官という地位を領主様より拝命しております」
シュレーマンの後ろに並んだ人々は頭を下げつつも、俺のほうをチラチラと見る。
いや、見てるのは俺じゃなくてギンコかな……?
「近い未来、王子殿下が我らのユヴァフローテツの小領主になっていただけると聞き及びました。ここにいる者たちはそれを歓迎し、また忠誠をもって王子殿下に仕えさせていただきます」
その物言いだと、ここにいない人は俺を歓迎してくれていないのかな。
いかんいかん、邪推してしまった。挨拶を受け流していると、突然目をキラキラさせた青年が一歩前に出て土下座級の敬礼をしてきた。なんだなんだ。
「ああ……王子殿下! 間違いなく感じます。ええ、間違いありません! 精霊は王子殿下の来訪を寿ぐかのように舞い踊り、讃え謳い合っております! これこそがこのユヴァフローテツの主たるお方に相応しい証! 希望の星などという生ぬるいものではありません! 王子殿下は我らが太陽! ご来光に感謝と忠誠を!」
突然うっとりと喋りだした青年が早口でまくしたてると、数人が「感謝と忠誠を!」と復唱して彼に同調した。なにこれこわい。そろってんのこわい。
「え、こわい」
つい声に出ちゃったよ。彼らには聞こえてないみたいで良かったけども。
「彼らは旅エルフが説く精霊学に感化された者たちです。元は中央の魔術研究所に所属していた者や冒険者、宮廷魔術師と前歴は様々ですが、精霊を至高のものと崇める以外は特にこれといった宗教的思想はありませんのでご安心ください。……やや、暑苦しいだけですので」
宗教系のひとじゃなくて学術系のひとか。
それでも微妙にこわいけど、まあなんとなくちょっと大げさなだけならいいや。
精霊学に感化された……割には、微精霊たちが彼らを避けている気がする。
「僕の精霊のこと、ちょっとバレてる?」
「そうですね。なんとなくは察しているかもしれません。エルフは精霊の気に敏いので」
改めてシュレーマンのほうを見ると、場違いに暑苦しいのは先ほどの青年だけで後ろに連なる人たちは静かに俺を観察しているみたい。なるほど、こちらの出方を見てるなって感じ。俺の様子を見て、シュレーマンの後ろから長い耳の青年が一歩前に出る。
エルフ族だ。初めて見た! けど、ペシュティーノをはじめ美形に囲まれている俺としてはおおっ、と言うほどの目新しさはない。単に耳が長い美形の青年だ。
このヒトは他のヒトより微精霊がまとわりついてる。エルフでも見えないんだ?
「王子殿下、私の名はラウリ。エルフのヘイヘ一族の末席にございます。ユヴァフローテツの小領主となるにあたって、先んじてそちらの側近の方とすり合わせを行いましたが、すでに共有はお済みでしょうか?」
ヘイヘイ一族? ごきげんな名前だね。
「ラウリ・ヘイヘ。試すような言動は謹んでいただけますか。ケイトリヒ様に何を話すかは私が決めることです。控えなさい」
エルフの美青年は隣りにいた女性と曖昧に笑い合って「失礼しました」と頭を下げる。
ヘイヘイじゃなくてヘイヘさんね。ちょっと感じ悪いエルフと覚えたぞ?
「……先日の新型モートアベーゼン『トリュー』の発表を拝見しました。あれほどまでに画期的な研究の一端をこの街の者が担えること、この上ない幸せにございます」
あっ、モートアベーゼンの事業の研究部門を任せるつもりなんだ。
ということは、俺は自重しなくていい感じですね!? なるほど、ユヴァフローテツの魔術師たちは研究気質が多いらしい。なんていい隠れ蓑!
俺とペシュティーノに功績が集中するのを防げるね!
「はい、みなさんの研究にきたいしてます」
俺はにっこり笑ってそれだけ言う。シュレーマンを筆頭にしたユヴァフローテツの重鎮たちは、俺のその反応に満足したようだ。
それからペシュティーノとシュレーマンの間で何か話して、広場の集会的なものはお開きになった。集まった人々はそれぞれの家だか職場だかに戻り、俺たちはシュレーマンと数人の案内人を連れて査察行脚。ラウリ・ヘイヘは同行しないようだ。
「ここから見えるものがユヴァフローテツの市街地の全てです。周囲は深さもよくわからない湿地帯。一部、水に浮くタイプの建築物がありますが、まだ実験段階です」
『水の荒野』と呼ばれた台地は、大小様々な低い山が円環状に並ぶ内側にある。
今、俺達がいるのはそのうちのひとつの山、内側になだらかに傾斜を持つ『第4の山』だ。他の山にも一応、時計回りに順番に名前がついている。
少し歪んだ円の形をした台地を時計にみたてて、北を12時として4時方向にある山がつまりこの『第4の山』ということだ。
ちなみに東と西北西の方向には山がないので、それ以外の10個の山にそれぞれ名前がついている。3つの山をまとめてるものもあれば、山とは呼べない丘くらいのものもあるけど、まあ場所がわかりやすくていいネーミングだ。合理的ね。
……と、ここまでおおまかな説明を受けたけども、目の前に広がるのは地平線の向こうまで湿原。こういう場合は水平線って言ったほうがいいのかな? 隣の第5山にさえも空気遠近法の青いモヤがかかるくらい遠い。円環状の台地なんて景色を見ただけではとてもわからない。
その広大な水の荒野は、ラウプフォーゲルが王国だった頃からずっと土地開発が不可能と断じられて手つかずだった。水資源が豊富にあるにも関わらず、それらを運ぶ運河や街道を建設することが出来なかったから、ユヴァフローテツの土地にはもともと人口数十人の小さな漁村があっただけだという。
「ぎょそんはあったんですね」
「そうですね。しかしラウプフォーゲルの記録では正式な村ではなかったようなので、集落といった扱いでしょう。街道からはだいぶ離れていますし、馬車で入るのは難しい土地ですから」
「じゃあ僕はどうやってここに」
「途中からは転移魔法陣ですよ。魔法陣を使わない場合ですと周囲の環境の過酷さも相まって、どんなに急いでも1、2週間はかかります」
「え!? ぜんぜん知らなかった!」
「そのために私はこちらに先に到着しておく必要があったのです」
「そっかあ。トリューがふきゅうしたらラクになるね」
「そうですね」
前世でちょっとだけ乗馬をした経験があるが、それでも勘違いしていた。馬車って意外と遅いんだ。しかも燃費悪い。生き物が動かしてるんだから当たり前だけど。いかに車が産業にとって大きな革命だったかがわかる。
ここ20年で急速に発展した街ということで、建物や道は新しく、道は京都のようにマス目状の作りになってるのにどこか雑然とした街並みだ。
建築物に統一感がないせいかな? 石造りの家もあれば、藁の家もある。泥で作られたようなものもある。この街の住人はほとんどが魔術師か魔術系の研究職という話なので、魔法で空調するせいだろう、気候と建築物が合致してない。
「じゃあ僕がいちばんさいしょにやることは、みちをつくることかな?」
「それはユヴァフローテツの代表者たちとの話し合いで、しばらくは後回しにすることになりました。訪れにくいということは、防衛の観点からは理想なのです」
ラウプフォーゲルからユヴァフローテツを訪れたい場合、最寄りの街道を外れて整備されていない獣道を通らねばならず、荷台つきの馬車は進入不可能。今は街道にペシュティーノが設計した臨時の転移魔法陣を設置しているが、それを起動するには当然、ペシュティーノ個人の承認が必要。基本的に部外者には使わせないつもりらしい。
馬で来るにしても、湿地の下に広がる土地は岩砂漠。昼間は灼熱、夜は極寒という気候はかなり旅慣れた冒険者や行商人でも過酷だ。備えのために荷を割かねばならず、交易のための荷物は二の次になると、ろくな荷を積めない。
「なんでそんなに来るものこばむの?」
「この街を興したのは魔術研究者たち。研究が盗用されたり、安易に持ち出したりされないように、交通量そのものを抑制しているのです」
「長い間、ラウプフォーゲルから迫られていた統治官を拒否していた理由はそこにもあります。我々の方針に理解のない人物が統治官になってしまうと、すぐに道を作ってしまいますから」
案内のために先導していたシュレーマンが振り向いて、ペシュティーノの説明に補足を追加してくれる。
「ご覧ください、こちらが漁港区画です。他所に輸送しない分、規模は小さいですが良質の魚と加工場がございますよ。漁師はユヴァフローテツ設立前からこの地に住む人々が多いです」
手で示されたほうを見ると、漁港と言われても信じられないくらい簡素な桟橋があり、カヌーのような原始的な船が停泊している。網を直す女性が数人、桟橋の上に座り込んでなにかの作業をしていて、遠く見える水面には今まさに網を投げ入れようとしている人のシルエット。
なんだか東南アジアとか、ポリネシアみたいな印象だ。実際行ったことはないけど。
「あ、なげる」
「投網漁なのですね」
俺とペシュティーノが見ていると、船上のシルエットがよたよたと心もとない動きで網を手繰り寄せて体をひねり、ぽーんと投げる仕草で大きな網がパッと広がる。
心もとない動きの割には、すごい技術! いや、ちょっと動きに対して不自然すぎる。
「あれは、まどうぐ?」
「おお、さすが王子殿下は目聡くいらっしゃる。よくお気づきになりましたね、あれは網自体に遠くへ飛ぶような風魔法が施されているのです」
シュレーマンが嬉しそうに応えてくれる。
じーっと見つめると、風魔法だけじゃなく何か別のものが見える気が……。
ああんもう、ぱやぱやと飛んでる微精霊がお邪魔だな。
「ケイトリヒ様、詳しく見ないでください。瞳が」
ペシュティーノが耳打ちしながら、俺の目を隠す。
ちゃんとシュレーマンさんがあっち向いてるときにやってますからー!
「なんか、とくていの魚がはいるとあみが広がって逃がすしくみもあるっぽい。すごいなあ、このまちはあみの魔道具をかいはつするひとがいるんだ」
前半はペシュティーノだけに聞こえるように、後半はシュレーマンにも聞こえるように声を張る。
「魔道具の開発はこの街の漁師と農夫以外のほぼ全員が手掛けるほどです。ユヴァフローテツの人口比からすると漁師はごくわずかですが、魔道具のおかげで彼らだけで住民が全て賄えるくらい効率は上がっていますよ」
「のうふ? のうじょうもあるの?」
「もちろんございます。こちらです。普通の農場を想像すると、違うものに思えるかもしれませんが」
マス目状になった街の中の、比較的きれいな道を歩く。並びだけは整然としているけど道の素材にも統一性がない。石畳もあればセメント、アスファルトっぽいもの。
「みちのそざいもけんきゅうしてるの?」
「……さすが、ご明察です。道路素材はラウプフォーゲルの依頼を受けておりますので、最も大規模で資金も潤沢な研究課題です。次いで馬車、農水産業と続きます。街には魔法陣の専門家も多くいるのですが、領の防衛魔法陣などは最高機密ですので、さすがに我々が手掛けるわけにはいきません」
なるほど、ユヴァフローテツはラウプフォーゲルにとって外注研究機関か。
今まで干渉を嫌い中立と独立を貫いていたけど、ここにきて俺を受け入れた理由は本当に俺の魔力だけなんだろうか? まさかね。
「僕がしょうりょうしゅになったら、てがけられる」
シュレーマンがハッとした顔で振り向いて、困ったように笑う。
「……その通りです。今までのやり方では我々の技能は金ばかり浪費して無駄になることのほうが多い。帝国中の研究好きが束縛を逃れて作られた街ですが、大規模な研究をするには費用も動機も不足しがちです。それを得るには皮肉ではありますが結局のところ、どこかに所属するしかないというのが我々の判断です」
先ほどから、シュレーマンは「我々」と言っているけど、それはユヴァフローテツの全てなんだろうか。
「はんたいいけんはないの?」
俺の言葉を聞いて、シュレーマンは奇妙なものを見るような目つきになった。なんで?
チラチラとペシュティーノの反応を気にするように目線が泳ぐのが気になる。
「反対意見……を掲げる者は、おります。先ほども申し上げましたが、我々は中央やその他の領の大手研究機関から爪弾きされた身。ユヴァフローテツ全体がラウプフォーゲルの直属になれば、自然と体制も変わるでしょう。今まで好き勝手な研究をしていた者が、鼻つまみ者になることだってあり得ます」
ちょっとそれは端的すぎないかな? だって俺が小領主になったとしても、この街全体を支配下に置くわけじゃない……いや、置くのか。だから反対意見があるのか。
「そこまでしめあげるつもりはないよね?」
そう言ってペシュティーノを見ると、曖昧に笑っている。
「街のひとをいっしょくたに支配するんじゃなくて、そしきを作ったらどうかな? 商会みたいなものをつくって、しょぞくしたくないひとは、しなくていいように。ぎじゅつだけを買い取るようなしくみをつくって……」
技能が高くて組織への所属を嫌う人物がいれば、個人事業主として適正価格で技能だけを買い取ればいい。技能が低くて所属を嫌うのは、まあ自己責任ってことになるけど。メインの組織体制をしっかりすれば、伴って下請けやバイト、短期雇用や派遣雇用といった雇用の多様性も生まれてくるだろう。
自身に合う働き方をして、技術や知識をお金に変えてもらいたい。
「技術者を単に抱え込むのではなく、街の中で自由競争させるということですか。興味深いですね。この件は、街の研究者たちを交えて改めて話し合いましょう」
抱え込んでるんじゃなくて自分の意志でこの街に引きこもってる人たちだよね?
道を作るような高官を拒んで。
ペシュティーノがニヤニヤしている。
後ろでガノもニヤニヤしている。ガノは多分お金のこと考えてるな。
「イヤイヤでやるしごとはしごとじゃなくて修行、ってディアナがいってました」
そう言うと、シュレーマンを含めた側近たちが声を上げて笑った。
好きなことを仕事に出来ているひとなんて、現代日本でも多くはないだろうけど。少なくともイヤイヤではなくある程度のモチベーションはもって働かないとツラいだろう。
趣味にお金を注ぎ込むために! とかでもいい。メインの研究のためにサブの研究を売ってお金にするのでもいい。器用なひとならそういうこともできるだろう。
強制は反発を生む。それだけは間違いない。
「ははは。ヒメネス卿とお話しても思いましたが、この街は最善の選択をしましたね。正直に申し上げると、うまいことを言っているのは側近だけで、実際の主人と会ってみたら正反対のことを言われたという研究者は少なくないのです」
そうこうしている間に、次の目的地に着いたっぽい。
目の前にはコンテナっぽい、長四角の立方体が横たわったものがいくつか縦に重なって並んでいて、なんとなく前世の港っぽい雰囲気。
この辺りは、ぱやぱや微精霊がすごく多い。
えっとたしか農場に行くはずじゃ……農場、どこ?
「目の前の建物が、先ほど少し……態度が悪かったラウリ・ヘイヘが考案した水耕栽培の施設です。エルフのヘイヘ家といえば農業研究で名高い一族なのですよ」
水耕栽培! なるほど!
子供の頃、学校でなにかの球根を水栽培したことがあるけど、それの本格的なやつね! 前世の記憶で、野菜を育てる動画を見たことある。ちなみに学校で育てた球根は水が腐ってしまって途中で捨てたので、成長した姿を見ていない。
「のうぎょうけんきゅう! ああっ、ペシュ! こんど、おにわにね、レオがあつめたおやさいの種をうえてね、やくそうえんをつくりたいの!」
「薬草園と菜園のお話ですね。レオから相談を受けております。ユヴァフローテツの館を改装すれば、すぐに実現されますよ」
あ、そっか。西の離宮に作ってももうしょうがないか。
やったね! 農業研究の権威がいれば、レオの求める作物は問題なく増産できそうだ。
「王子殿下は農業にも興味がおありなのですか。やはり、ラウリの言う通りユヴァフローテツの小領主として王子殿下よりも相応しい方はおりませんな。」
「え?」
ラウリって、先ほどお話しに出たちょっと態度悪いエルフのラウリ・ヘイヘよね?
同一人物よね?
「ああ、実は王子殿下に小領主になって頂きたいという打診を発案したのは、にわかに信じがたいでしょうがあのラウリなのですよ。彼はユヴァフローテツの中でも農業を研究している関係上、ラウプフォーゲルにはよく登城しておりまして……そこで王子殿下のお噂を耳にしたそうです。まだお会いしていない頃から、やや傾倒している様子で……おそらく側近のヒメネス卿のお立場を羨んでのあの態度ではないかと存じますので、何卒おめこぼしを」
シュレーマンが苦笑いしながら教えてくれるけど、傾倒って。
会ってもいない、噂だけの子供に傾倒って、大丈夫? そうじゃなく、エルフってことならなにか感じ取ってるのかもしれない。それでも大丈夫? ツボ買わされたりしない?
「ほう、私の立場を羨んでいると……ふ、仕方ありませんね。優秀で愛らしい我らのケイトリヒ様の側近になりたい者は、多いでしょうから」
あっ、ペシュティーノさんが目に見えてご機嫌なようす!
親バカにも程度ってものがありますよペシュティーノさん。こういう公式の場では控えていただけませんかね、気恥ずかしいので!
「殿下のお側に仕えたいのならば自らの能を示すだけで良いのですよ」
ペシュティーノに代わり、横からガノが口を挟む。
確かに農業研究者と知った上で会っていたら俺の反応ももう少し良かったかもしれない。
「施設の中はご覧になりますか? 王子殿下は調温結界を張っていらっしゃるようですが、中に入るとそちらが外れてしまいます。中は蒸しますがいかがしましょう」
「いえ、結構です」
「え、みたい……」
「ダメです。ケイトリヒ様、調温結界を外したこの地は危険ですよ」
「ちょーんけっかいってなに?」
「今、外してみましょうか」
ペシュティーノが杖を取り出してくるりと回す。
途端に、尋常ならざる熱気と湿気にムワッと包まれて、息苦しいくらいだ。
日本の湿気の比じゃない。サウナ一歩手前。
「うえっ!」
「これよりさらに蒸すとなると、ケイトリヒ様の体調が不安になります。水耕栽培は乾燥地帯の多いラウプフォーゲルでユヴァフローテツと城下町、あと西側の一部の地域でしか有効利用できない技術ですので、ラウリ・ヘイヘに任せましょう。それより、魔道具研究所にご興味は?」
喋りながらまた杖をくるりと回すと、熱気と湿気が遮断されて適温になった。やっぱり今までだいぶ手厚く保護されてたんだ。
「まどうぐ! みたい!」
「では参りましょう。シュレーマン、案内を」
「はっ、喜んで」
シュレーマンを先頭に、ぞろぞろと俺を囲んだ行列が続く。田んぼのあぜ道のような、両側に草が生い茂り、その先はもう水、という道を進む。水には相変わらず、カトンボのようなぱやぱやと光る微精霊がいっぱい。
「ちょーんけっかいがないとあんなに暑いんだ……およぎたくなっちゃうね」
「水遊びはお勧めしませんよ。街中の水辺には王子殿下の太ももくらいのヒルが、街を外れると30シャルクほどもあるユヴァクロコディールがおります」
30シャルクってどれくらい? ペシュティーノに説明求む感じの目で訴えると、ちょっと口ごもりながら教えてくれる。
「ケイトリヒ様が3シャルクに満たないくらいですから……ざっと11人分くらい並んだ大きさですね。私が8シャルクほどですから、私が4人分と考えてもよろしいかと」
ペシュの4にんぶん!! でっか! たぶん感覚的に10メートル前後。ユヴァクロコディール……っていうのは多分、ワニかな。ワニって獣? ギンコに平伏してくれる種?
「こわい……ギンコ、ユヴァクロコディールがでたら、かてる?」
「一捻りでございます。あれは水から出れば動きも鈍く、さほど凶暴でもございません。臆病でもありませんが、魔導を使うヒトならば容易く狩れるでしょう。肉は美味ですよ」
美味しいの!! っていうか食べたの!?
「おお、よくご存知ですね。確かに、一部の研究者がよく狩って食しております。王子殿下のガルムは人語を解すと前もって聞いておりましたが、本当に人間と変わらぬ発音で喋れるのですな。それは風魔法でしょうか? 獣人が使っているのを聞いたことがございますが、これほどまでに明瞭な発音は初めて耳にしました」
「我が名はギンコである。主から頂いた唯一無二の名。ヒトが定めた勝手な名で呼ぶのは構わぬが、我が耳の前ではギンコと呼べ。敬称は要らぬ」
「し、失礼しました。ギンコ……殿」
「敬称は要らぬと言った」
「いやしかし……」
「ギンコ、ここは引きなさい。彼らにもヒトの世での立場というものがあります。主たるケイトリヒ様のお側に侍る貴女を呼び捨てるのは、主に対する不敬にもなりかねません」
「そういうものか。ならば先ほどの呼び名で構わぬ」
シュレーマン、すごくギンコにビビってる。今までは平然を装ってたのに、怖かったんだね。まあこれだけ大きな狼だもんね、本能的に怖いよね、女性の声で流暢に喋ったとしても。本当はもっと大きいけどね!
「それと、発音の良さについては今初めて知った。他に風魔法を使って喋る者を見たことがないからな。我が魔法の技量を褒められたようで嬉しく思う」
ギンコが言うと、シュレーマンは少し驚いて、ホッとしたように笑った。
「ユヴァフローテツにも数は少ないですが、獣人の住民がおります。よろしければ彼らと話す機会を作りましょうか」
え、獣人! 見たい! じゃ、なくて、会ってみたい。いや、正直に言うと見たい。
獣人って、すごく異世界っぽくない!? まあ喋る大狼は別として。
エルフ族が思ってたよりフツーだったから、期待しちゃう。明らかに身体の構造が違う種族って、前の世界では存在しなかったもんね。
「今回の訪問はユヴァフローテツの街への理解度を高めるのが目的ですが、滞在期間は1週間あります。その間で、どこか都合が合えば、というくらいでお願いしたく」
ペシュティーノが微妙に消極的!
「ははは、王子殿下がお望みになれば、彼らは喜んで馳せ参じるでしょう。今でもほら、あの辺りから興味津々にこちらを伺っています。ガ……いえ、ギンコ殿がいらっしゃるので気になるのでしょう」
シュレーマンが指した方向を見ると、遠くの石造りの家の屋上あたりから頭の上におおきな耳がピンとたった2人の人物がこちらを見ている。遠くて何系の獣人かまではわからないけど、本当にケモミミなんだー!
「あれは、ルクス族ですね。……ふむ、カッツェ系とはあまり相性が良くないのですが、言葉が通じるのであれば問題ないでしょう」
相性とかあるんだ。
カッツェ、ってことは猫か。猫って単語は言っちゃいけないんだっけ。
ふとペシュティーノを見ると、ちょっと複雑そうな表情をしてる。まさかペシュティーノは獣人嫌い?
「(……獣人には、ギンコがゲーレであるとわかるのではないでしょうか)」
ギンコに耳打ちするようにペシュティーノが言う。た、たしかに!!
「獣人でなくとも、私がただのガルムでないことくらいエルフならば見ただけで露呈していることでしょう。ペシュティーノ、貴方が事前にガルムだと言い張ったから渋々受け入れているだけでは?」
がーん。
忖度? 忖度ですか?
あ、ペシュティーノもがーん、って顔してる!
パッとシュレーマンさんを見ると、ものすごい苦笑いしている。
「あ……すみません、ギンコ殿の声は、聞こえてしまいました。確かに、エルフ族の者などはギンコ殿を見てすぐ『ゲーレだ』と言っていたので……その、すみません」
「何を仰っているかわかりかねますね、これはガルムです」
「あ、はい。承知しました」
シュレーマンさんが力なく笑う。忖度はんぱない!
というかペシュティーノ、それで押し切るって雑すぎない?
「……ユヴァフローテツにはあまり大声では言えない研究成果がときどき出てきたりするので、こういった対応は慣れております。さ、気にせず魔道具研究所へ! この坂を登ればすぐです。担当がきっと首を長くして待っておりますよ!」
忖度に加えて、スルー力もはんぱない!
シュレーマンさん、オトナだぁ……!
(2025/03/06)単位が間違っていたので修正しました
「スール」→「シャルク」
1スール……約3センチ
1シャルク……約30センチです