1章_0003話_異世界、転生 3
「ほう、もう文字の勉強を? 魔法は、其方が教えているのか」
「はい。声文字についてはほぼ一週間で読み書きができるようになりました。魔法についても、理解度においては目を見張るものがございます。控えめに申し上げても、天才……といえるかと」
「ペシュティーノ……なかなかの親馬鹿ぶりだのう。其方が子を愛でる性質とは思っておらんかったぞ」
「私は親ではございません。親ではございませんが、贔屓目、欲目を抜きにしてもケイトリヒ様は間違いなく優秀です。御館様、どうか私めを、ラウプフォーゲルの魔術指導員として正式にケイトリヒ様の教師としていただけないでしょうか。次期後継者であるアロイジウス様を補佐する魔術師になれるよう、私が鍛え上げてみせます」
宮殿のような豪華さとは対象的な、ウッド調の落ち着いた部屋。
ラウプフォーゲル領主であるザムエル・ファッシュ・ヴォン・ラウプフォーゲル公爵の私室は、宮殿のどの部屋よりも落ち着いていて、装飾が少ないがすべてが高級品だ。
ペシュティーノはその部屋のドアの内側で、近衛兵に挟まれた状態で跪いている。
「……ラウプフォーゲルで魔術師は貴重だ。其方が手塩にかけて育てるとあらば、優秀さは保証付きといってよい。だが、わかっているはずだペシュティーノ。ケイトリヒは優秀な補佐、では済まぬ。王子という身分は、常に次期後継者としての未来を望まれる」
「ケイトリヒ様の存在がご兄弟の不和を招く恐れがあることは重々承知しております。しかしこれだけ優秀な子に、その懸念のために教育の機会を奪うなどということは……」
「違う。違うぞ、ペシュティーノ。兄弟の不和は問題ではない、私がそれを許さぬ。私が問うておるのは、優秀に育て上げるのならば、妥協は許さぬということだ。次期後継者としての名誉を授ける気がないのなら、高度な教育は不要だ。我が兄の末子のように、鍛冶師や学者でも目指せばよい。だが、其方は高度な教育を欲しておる。それがどういうことを示すかわからんか。誰から聞いてそう申しておるのかは聞かぬが、私はアロイジウスを次期後継者とは一度も称したことはないぞ」
広い書斎の部屋に、堂々と鎮座する重厚な机の主。
ラウプフォーゲル領主、ザムエルは豊かな髭を太い指でゆっくりと撫で、跪くペシュティーノに問う。
「ケイトリヒは甥ではない。もう私の息子として籍を入れてある。その子が勉強熱心な性格で、世話役である其方も高度な教育を施すのに前向きとあらば、本人にその意志がなくとも次期後継者として何者かに担ぎ上げられることも覚悟せねばならぬ。その覚悟がないのならば、其方の要望は受けられぬと申しておるのだ」
ペシュティーノの顔色は悪い。
ラウプフォーゲル領主の跡目相続については、まだ領主であるザムエルが剛健で子どもたちは皆幼い今でも荒れるであろうことが容易に予想された。
ケイトリヒの存在がなくても、すでに雲行きが怪しいのだ。
次期後継者として指名されているわけではないアロイジウスを、声高に次期後継者だと称する勢力がいる。それがわかっただけでも、ペシュティーノは正しく嫌な予感を感じ取っていた。
「ペシュティーノ。ラウプフォーゲルに血統は不要だ。優秀であれば、その子が民を統べるべきというのはわかるな? 私は息子のどれにも、今は肩入れせぬ。競うべきは陰謀や政治ではなく、本人の資質だ。だが、資質があれば必然的に陰謀や政治に巻き込まれる。その嵐から其方はケイトリヒを守れるか? 母親の問題もあるだろう」
母親の問題、と聞いて、ペシュティーノは顔を歪める。
「……カタリナの不義を返上するためにも、ケイトリヒ様はラウプフォーゲルに貢献できる存在にならなければなりません。学者や研究者の道を考えておりましたが、御館様がそれを許さぬとおっしゃるのであれば、私も覚悟を決めます」
ザムエルはペシュティーノの悲壮な決意を目の当たりにして、満足そうに頷いた。
「……シュヴェーレン領の出である其方に、この地は辛いであろう。それはカタリナも、ケイトリヒもまた同じ。其方の尽力なくしてケイトリヒに未来はない。魔術指導員としての再契約については、私の方で進めておく。……ケイトリヒを頼んだぞ」
「はい。この生命に替えても、ケイトリヒ様をお守りいたします」
ザムエルは最後の言葉を少し濁して、近衛兵に合図を送る。
近衛兵はペシュティーノに起立を促し、敬礼をして部屋を出ていった。
静かになった部屋に、ザムエルのため息が響く。
「もしも息子たちが争うことになったら……それは私の不徳、か」
革張りの贅沢な椅子に背中を預け、目頭を揉みながら呟く声は、夜の闇に溶けて消えていった。
――――――――――
「帝歴283年、ときの第11代皇帝テオバルトは、オラーケル……せい、せい、せい……りょう? せい、き……せいきょう! オラーケル、聖教法国でしけい……じゃなくて処刑、された、し……使節団の、遺体返還を拒否されたことにたいし、武力で抗議した」
「はい、お上手ですケイトリヒ様。読めない『読文字』には、上にふりがなを書き込んでも構いませんよ。……ん、何を書いているのですかな?」
総合授業の家庭教師として毎日1時間だけやってくるデリウス先生は、優しいおじいちゃんって感じ。白髪まじりの眉毛はふさふさで、長く伸びて下に垂れているので、ひっそり心のなかでは「フサ眉先生」と呼んでいる。
「読めなかった読文字をかきだして、かきとり練習用のリストをつくってます」
6歳になった俺は舌足らずもちょっと改善し、長い文章も一気に喋れるようになった。
「感心、感心。ケイトリヒ様はお勉強がお上手ですなあ、ふぉっふぉっ。声文字も一週間で覚えられましたし、将来は賢人になりそうですなあ」
「ケンジンってなあにー?」
「賢く、頼られるヒトということですよ」
ああ、漢字にすると賢人かと納得。
この世界、不思議なことに言語が完全に日本語と一致。
声文字と言われるひらがなが五十音でほぼ一致してたところまではまだ納得できる。部分的には「きゃ」「きゅ」「きょ」など日本語だと二文字で表していたものが一文字になってたりすることはあるが、母音の数は同じ。
納得いかないのは読文字と呼ばれる漢字と同じ役割を持つものがほぼ漢字の部首や部位が別の象形文字に差し替わっただけという謎の一致と相違。
例えば「泪」や「潤う」などの漢字に使われる「偏」である「さんずい」は、この世界では水滴のようなマークになっている。
これは感覚的にわかるので許容範囲だが、「にくづき」はDみたいなマークだし「しんにょう」はよくわからんうねうねした記号になってる。
似ているのに見た目が違うというものすごく厄介な存在になってしまった。
だがこれ、いくら異世界だからと言っても日本語の干渉がないとありえない一致度だ。
「デリウスせんせい、読文字ってどうやってできたんですか?」
文字はほとんどペシュティーノに実戦形式で教えてもらい、その歴史や遍歴までは習っていないため聞いてみる。
「ほうほう、文字を歴史から考えますか。素晴らしい着目点ですな。帝国と、クリスタロス大陸の広い地域で話されている共通語は元は異世界からもたらされたものと言われております。たしか、『ニポン語』と呼ばれる言語が元であるとか」
あっさりつながった!!!
聞き捨てならない間違いがあった気がするけど、それよりも。
「いせかい? 異世界とは、昔からつながりがあるんですか?」
「それはもう、クリスタロス大陸の発展は異世界からの関与なしでは考えられないと言われております。元々はアンデッド討伐のための勇者を召喚するための儀式とされておりましたが、近年では勇者としての力よりも異世界の進んだ知識を求めて召喚することのほうが多いそうですぞ。おや、異世界に興味がありますか?」
「ある! あります!」
「なんとまあ……これはこれは。では、帝都図書館にかけあってみましょうか……あそこには、異世界人の知恵の一部が記された禁書があるそうです。この世界で実用には至らなかった技術や概念が記されておりますが、閲覧には厳しい制限があります。しかしラウプフォーゲル領主のご令息とあらば、もう少し大きくなったら閲覧を許されるやもしれませぬな! ふぁっふぁ!」
デリウス先生の授業では、他にも色々興味深いことがわかった。
この世界は、ユニヴェールと呼ばれている。
っつーか、ユニヴェールってたしかフランス語でいう「ユニバース」、つまり世界って意味だよね。発音は完全にカタカナっぽくなっているけど、フランス語との関連も考えたほうがよさそうだ。
そしてこの帝国は、ギフトゥエールデ帝国。
この名前も、ドイツ語で「毒の土」と訳せる。
俺は曾祖母がドイツ人で、当然親戚にはドイツ人がいたので子供の頃からドイツ語に親しんできた。その流れで教えるのが好きなフランス人の友人がいて、フランス語も日常会話なら話せる。日本語はもちろんネイティブだが、加えてドイツ語とフランス語、そして嗜みとしての英語を操るマルチリンガルの能力を認められて社長になったという経緯もある。語学力はこちらの世界でも強みになりそうでよかった。
毒の土には由来があるそうだが、それはまた改めて。
さらにラウプフォーゲル領。
父が治める帝国一豊かな領土だそうだが、こちらはドイツ語で「猛禽」。
もともと帝国よりも古い歴史のあるラウプフォーゲル国という国だったそうだが、帝国への編入の際に細かく分領された。元々ラウプフォーゲルだった領を総称して「旧ラウプフォーゲル領」と呼ぶそうだ。
そして、前の世界と全く違う事情がふたつ……いやみっつ……いや、たくさんある。
まず大きく違う1つめが、アンデッドの存在。
これは、前の世界でいうゲームの世界でモンスターとしてのアンデッドというより、パニック映画とかにでてくる絶望的な方のゾンビに近い。実際にはゾンビに限定してないみたいだけどね。骨だけとか、肉だけとか、色々種類があるそうだ。肉だけってなんだよ。
アンデッドはすべての生命の敵であり、襲われたものはアンデッドになり、対抗するには徹底的に殲滅する他ない。
この世界ではアンデッドの存在が最大級の恐怖の対象で(当たり前だけど)、ここ帝国ではとても厳しい政策のもと、アンデッド対策がされている。
そして2つめが、前述したゲームの世界のモンスターが存在する点。
スライム? います。オーク? います。ドラゴン? います。たぶん。
ぜんぶいる!!! まだ詳しく勉強してないけど、だいたいいる!!
でもこれは恐怖の対象というよりも、共存関係にあるっぽい。前の世界でいうところの野生動物みたいな扱いだなあ、とデリウス先生の話し方を聞いていて思った。
危険だけど、恐怖の対象ってわけじゃないみたい。
そして3つめは……あまり世界と関係ないけど、文化的に大事そうな点。
帝国、さらに旧ラウプフォーゲルでは女性が男性の3分の1しかいないということ。
これは千年以上前から続く状態で、新生児の男女比が男4:女1なんだそうだ。
そのため旧ラウプフォーゲルの特に平民となると女尊男卑の傾向が強く、貴族のほうは平民から妻を娶ることを厭わないためか、その傾向は薄い。
この辺りで、すでに似たような爵位制度のあった地球の中世ヨーロッパあたりとは思考や文化が全く違ってくる。
平民の間では女性の重婚は合法で、貴族の間でも女性の浮気は浮気と認められないことさえあるという。これが文化的にどういう影響を与えたかと言うと、「血統重視」の価値観がそもそも発達してない点だ。
さらにこの世界では古くから、魔法による父子鑑定が確立している。そして女性は絶対数が少ない。男が子を持てる確率が下がった結果、確実に自分の血を受け継いでいるかどうかよりも自分の「意志」を受け継いでいるかどうかに重きをおくようになった。
これって生物的にはどうなんだろうと思うところはあるけど。
もし地球の中世の社会が同じような状況になったら、女性を独占するような風習が生まれたりしそうなものだ。この世界は……というか帝国は、俺が思う以上に文明的だね。
「とはいえ、血統主義は存在しないわけではないのですよ。ラウプフォーゲルではあまり良しとされないものですが、ラウプフォーゲルほど嫁不足ではない中央貴族や他国ではまだ根強い考えです」
ベッドの中で本を読みながら、今まで習ったことや初めて知ったことを俺の意見も交えてペシュティーノに話していたところ、意外な答えが返ってきた。
寝る前の会話は復習にもなるし、ペシュティーノの意見も聞けるし、補足もしてもらえるので俺の好きな時間だ。以前はキチンと椅子に座っていたペシュティーノだが、ベッドに座るようになり、今では横で寝転がっている。添い寝と寝物語サービス付きだ。
「ふーん。そっかー、魔法で父子鑑定できるなら、じつの子じゃないかも、っていう不安はないもんね。血統主義が根強いかんがえ、っていうのも、わからなくないかなー」
「ケイトリヒ様、魔法の父子鑑定は秘術といわれるほど複雑な魔法で、使える者は千人以上いる宮廷魔術師でも2、3人くらいのものです。高位貴族でも依頼するには高額の依頼料がかかりますし、何より外聞が悪いですから、滅多なことでは使われない魔法ですよ」
「そっか、がいぶん……」
「そんな世知辛い話ではなく、もっと学術的な話をお聞きしたいですね」
「学術的だよ。しゅっせーとぶんか!」
血縁的には領主の甥であるということで、実子との格差が存在するかも知れないと懸念していたけど気にする必要はなさそうだ。実力さえ伴えば、旧ラウプフォーゲルでは特に傍系や親戚筋から領主になった例も少なくないという。とはいえ父上の一族、ファッシュ家の直系はそれなりに周囲から尊敬を集めているようだから、完全に血統主義が存在しないというわけでもなさそう。
「まったく、それっぽく言って……ああそうだ、ケイトリヒ様。ようやく御館様から魔法実技指導の許可がおりましたから、明日からは魔法の練習をしましょうね」
「まほう! やったー! やっとじっせんじゅぎょう!」
「ええ、ずっと楽しみにしていましたものね。実践のまえに少し検査をしますから、今日はたっぷり寝てくださいね。魔法は魔力を消費するので、疲れますよ」
「つかれて眠くなったら、ペシュにはこんでもらうー」
「もうすっかり歩けるんですから、抱っこは卒業でしょう?」
「眠いときはべつ!」
「それはわがままというのですよ。ケイトリヒ様はもっと歩かないと……」
そうやって冷たいことを言うけど、ペシュティーノと俺の歩幅は桁違いに違う。なにせ俺はペシュティーノの股下を自由にくぐれるもんね。つまり俺の身長以上の足の長さがあるってことだ。うーん、俺、ちっちゃい。
だからだいたい移動のときは俺の足の遅さにしびれを切らして、抱っこするんだよね。
「歩かないと?」
「……いえ、やはり時々は抱っこします」
ペシュティーノは口の端をニヤリと上げて、蜘蛛のような長い指で俺のほっぺをぶにぶにと揉みしだく。最近よくやってくるけど、微妙に気持ちいい。
「そろそろお休みください。明日は忙しいですよ」
「魔法のれんしゅうで?」
「そうです。さあ」
「ふぁーい。おやすみなさい……」
ほっぺを揉んでいた手が髪の毛を梳くような仕草になり、やがて胸元を優しくトントンする動きにかわった。この、優しくトントンが……効くんだよね!
体感でいうと1分ほどで寝たと思う。
――――――――――
子供が眠ったら、夜は大人の時間。
と言っても、ケイトリヒはよく眠る。
夕方を過ぎて暗くなればもう眠ってしまうので夜として使える時間は長い。
ペシュティーノはすやすやと寝息をたてはじめたケイトリヒの寝台を揺らさないようにゆっくり抜け出し、隣の書斎へ入る。
愛用の両袖机に座り、一息つく。
それから始まるのは、明日からの魔法指導に関係する復習、指導計画、達成目標など、教育指導方針の計画と報告書作成。これはケイトリヒの父であるラウプフォーゲル領主への提出用。
ペシュティーノは木簡に計画の大筋をスラスラと書きあげ、それを報告用のスクロールへ清書する。紙は高級品なため、書き損じは予算を無駄にしてしまう。
このラウプフォーゲル城でペシュティーノが使える予算は、もとはケイトリヒの母でラウプフォーゲル領主の第3夫人カタリナが管理していたものだが、カタリナの虐待事件を機にペシュティーノに権限が移った。
その予算は領主令息たるケイトリヒのためのラウプフォーゲルの公金であり、領主ザムエルの温情。一銭たりとも無駄遣いするわけにはいかない。ペシュティーノは報告書を一気に書きあげ、二度三度読み返して不備がないかを確かめる。
そうして、両袖机の前の本棚から金属の飾りつき装丁が施された本を引き抜いて開くと、その本に向かっておもむろに話し出す。
「ケイトリヒ様は年齢と生い立ちの割に、妙に老成していらっしゃいます。しかしそれでも子供は子供。政治や謀略に巻き込まれないようにするには、私が導いて差し上げなければなりません。母であるカタリナに代わり、そして尊敬するクリストフ様に代わり。命の限りあの子を守り抜きます」
本は白紙だったが、ペシュティーノの声に合わせて文字が浮かび上がるように書き込まれていく。ペシュティーノ特製の魔法が仕掛けられた手記帳は術者の魔力に合わせて調整されているので、市販されている魔道具ではない。
「ケイトリヒ様は『死線に触れた者』の姿になりました。そのお姿で差別されるといった話は聞きませんが、特異なお姿です。子供であのお姿は目立ちますし、これから苦労されることも多いでしょう。そしておそらく……成長も、大変ゆっくりになるはずです。この先も辛抱強く、ケイトリヒ様の健やかな成長だけを願います」
ペシュティーノは少し考え込んだが、やがて本を閉じて元の場所へ戻す。
そうして今度は収支報告書の作成に入った。
いつまでも兄君のお下がりのシャツではケイトリヒの存在感を示せない。
お洋服と、靴と、お帽子に鞄、そして杖を仕立てなければ。
用意できる予算は……。
ケイトリヒ側近、ペシュティーノの夜は長い。
――――――――――
「うぁいっ!! おはようございますっ!」
お目々ばちーん!! 今日は念願の魔法訓練!
目がさめた瞬間から楽しみ!
「ず、随分お元気ですね……良い夢でもみたのですか?」
ペシュティーノがドン引きである。
なんでよ。
「えっ、きょうは魔法のじっせんくんれん、だよね?」
「なんと、それが楽しみなのですか?」
「うんっ!」
ペシュティーノが温かいお湯でタオルを絞っているので、顔拭きが来る!
……目をつぶって待ち構えていると、ペシュティーノが息だけで笑った。
んもー。俺のスタンバイ顔を笑わないでくれないか!
抗議しようと目を開いた瞬間、ばふ、と顔に温かい濡れタオル。ひどいフェイント!
「んむ、むぶぅ」
「今日は検査がほとんどなので、あまり実践の練習はできないと思いますよ。ああ、でも朝食を全部召し上がることができたら、授業を延長して実践練習をすこしだけやりましょうか」
「吐いてもいい?」
「……無理はいけません」
以前、ペシュティーノがあまりに少食っぷりを心配するのでちょっと無理して分厚いハムを詰め込んだら、そのあとゲーしちゃったのよね。子供の限界値って難しい。
今日の朝食はポトフと黒パンとミルク。
黒パンは以前の限界値を考慮して、一切れだけだ。その分、ポトフは具だくさん。
煮込まれたお芋は、おおぶりの鶏肉っぽいやつの出汁が効いてて薄味でも美味しい。
ポトフは俺の好物メニューだ。
この世界の料理は素材そのままの味を楽しむといったら聞こえがいいが正直どれもこれも薄味。多分塩とちょっとしたハーブが使われているくらい。
前の世界でもあまり食事にこだわりがあるタイプではなかったのだが、さすがにちょっと飽きてくる。お醤油と味噌ほしい……イタリアンが恋しい……マヨネーズ食べたい……。ちがった、マヨネーズつけて食べたい、だ。
目下の俺の楽しみは、はちみつ。この世界はまだ砂糖は高級品のようで、甘味にははちみつが使われることが多い。そして当然、はちみつも高級品だ。
そんなはちみつを黒パンに少し垂らして食べるのだ。これが……腹にたまる。異様に。
「もう……無理そうです」
大きな骨付きの肉と芋を半分残した俺に、ペシュティーノが優しく笑う。
「先程の話は冗談ですよ。ケイトリヒ様が検査を問題なく終わらせて、まだ余裕があるようなら少しだけ実践授業をやりましょう」
やったー!
元の世界では物語のなかでしか存在しなかった、魔法。それが授業として秩序だった教えのもと学べるなんてワクワクが止まらない。なにせ魔術そのものが存在しない世界からやってまいりましたからね!
朝食の後、すこし休んでそのまま自室でお勉強することに。
ペシュティーノがどこからかゴトゴトと音を立てながら木製のカートを部屋に持ち込む。
キャスター付きの袖机みたいなやつだ。
「ケイトリヒ様はベッドで休んでいてください。できるものは私の方でササッと済ませてしまいますので」
テキパキ動くペシュティーノを尻目に、俺はベッドでその動きをポカンと見つめる。
なにかの器具を組立てて、試運転して、何か不思議な石をセットして、書類を見つめて指差し確認して試運転して……。
「その器具、何を測るものなの?」
「こちらの銀色のものが魔力の質を測定するもので、こちらの石は御身の属性を調べるものです。こちらは魔力量の測定器、こちらは最近帝国の研究所が発明した『ステータス測定器』だそうで……まずは簡単な属性確認からしてみましょうか」
ペシュティーノはカートを俺に近づけて、謎の魔法陣が描かれた台座の上に鎮座している小さな透明の石を指差す。
「ケイトリヒ様、こちらの石を手にとってギュッと握ってみてください。危険はありません。以前の授業で習いましたね? 属性には何がありますか?」
「んーと、光と、闇と、水、風、火、土」
「正解です、きちんと覚えてますね。私が触れると私の属性が影響してしまうのでケイトリヒ様がご自分でこの台座から手にしなければなりません。さ、どうぞ」
俺はちっちゃな手をぐーんと伸ばして、カートの上の台座に乗った石を取る。
「持ち上げていいの?」
「いいですよ。重いようなら両手でも構いません」
片手で持ち上げようとしたけど、まあまあ重い。両手にとって目の前にかざしてみると、なんの濁りもないきれいな透明の石だ。ガラスみたい。
「ギュッと握って」
「ぎゅー」
顎の下で抱え込むように握りしめると、だんだん手のぬくもりが石に移っていく感覚。
「……そろそろいいでしょう、この台座に戻してみてくださ……」
ペシュティーノは俺の握った石を見つめて、言葉を失ってしまった。
不思議に思って見てみると、石は俺が握る前と全く変わっていない、完全な透明だ。
「け、ケイトリヒ様。もう一度、ギューッと握りしめてみてください。体温が石に移るくらいギューッと手のひらを密着させて」
「えー? してるよー? ……ぎゅー」
「……まだ?」
「まだです、しっかり握って」
「……、……まだあ?」
「まだです、もう少し……、……はい、見せてください」
両手を開いて見せた石は、相変わらずの無色透明、なんの濁りも曇りも手垢すらもついていない、きれいな透明色。
「そんな……そんなはずは。ちょっと失礼します」
ペシュティーノが俺の手から石を取ろうと指先が触れた瞬間、触れた部分からインクが水に広がるようにフワッと黄色と茶色、そして赤がマーブル模様に交わったような不透明の石に変わった。クールな見た目に反して、暖色系ですね?
「……問題なく作動してますね」
あ、正しくはこういうふうに変わるんだ。
ペシュティーノは不思議そうに首をひねりながら石を再び台座の上に乗せる。
マーブル模様はだんだんと沈殿していくように消えていき、徐々に透明になっていく。
「この石は属性色が完全に抜けきるまで2、30分かかりますから、その間に別の検査をしましょう。次はこちらの、魔力量検査です」
「まって、ペシュ。まずお手本みせて!」
「お手本といっても……この棒を握るだけですよ」
ペシュティーノがコードのようなものに繋がれた水晶のような棒の部分を握ると、縦長の機器のメーターの針がグン、と振れた。古い血圧計みたい。手を離すと、針はストンと下へ落ちて反応しない。なるほど?
「ケイトリヒ様、ご自身で魔力を感じたことはありますか? 魔力は心臓から体中をめぐる血のように、心胆と呼ばれる部分を中心にして体中をめぐっています。体の表面を風のように巡っていると感じるというヒトもいれば、骨の中を音として伝わるような、と表現するヒトもいますので個人差があるのですが、そう聞いてなにか感じるものはありませんか?」
「んー……」
俺は目をつぶり、意識を自分の体にむけて考えるけど、そんな謎の物質というか感覚というか存在はないように思える。いや、ないと思ってるからないのかな?
あるのが普通みたいな感じだったよな、ペシュティーノの反応から考察すると。
じゃあきっとあるんだろう。あるよね? 中身は大人の異世界人だけど、外側はこの世界の少年だもんね?
……もしかして魂と肉体が一致しないから魔法が使えないとか?
そういえば、この体の持ち主……ケイトリヒの魂は、一体どこへいったのだろう。
俺が乗っ取ったみたいな形になってないよね? ケイトリヒの魂から恨まれてたらどうしよう……。
雑念が入りすぎてよくわからなくなった瞬間、またあの声が頭の中に聞こえてきた。
「あ〜、魔力? 魔力ね……はいはい。もちろんあるよ、当然ね。まあたしかに一応、扱えるようにならないと神にもなれないよね……おっけーおっけ、じゃあコツを言うよ? コツはただひとつだね。キミにはそれが『在る』ってただ信じるだけでいいよ。とりあえず、がんばって〜」
えっ……なにそれ、雑! 説明から何から、相変わらず雑!!
そしてその声はもちろんペシュティーノには聞こえてない模様。意識がある状態でもアクセスできるようになったってことかな?
でも、とりあえず信じよう! ペシュティーノが、この世界の生物にも無機物にも魔力は在るって言ってるんだから、俺にも在る! はず!
「ふんむ!」
「……魔力は意気込んで出るものではないのですが……まあ、いいでしょう。ではこれを握ってみてくださいね……はい」
ちっちゃな紅葉のお手々で水晶の棒をギュッと握ると、ほぼ同時に「パァン!」となにかが弾ける音がして驚いて手を離しちゃった。
「えっ?」
ペシュティーノも今度は完全に絶句して10秒くらいフリーズして動かなかった。
縦長の古い血圧計のようなものが、上半分粉々になって跡形もなく飛び散っていた。跡形もなくというのが正しくて、本当に破片すら周囲に飛んでいないくらい、痕跡も残さず消し飛んだのだ。
「これは……え? ええ? ど、どういう……えええ?」
たいへん。
ペシュティーノも壊れちゃった。