2章_0021話_世話係のいない1ヶ月 3
エグモントは本城の庭園で父上に叱られて以来3日間姿を見せなかったが、その間は常にガノとメイドたち、そしてギンコがつきっきりだったのでいなかったことを忘れていた。
俺の中でエグモントの存在って、ちょっと薄い。
朝食が終わって、ひさしぶりに現れたエグモントは頬が少しこけて表情も険しい。
本当に叱られたのかな。
「エグモント? だいじょうぶ? おなかいたいの? なにしてたの?」
俺が無邪気に聞くと、エグモントは俺をじっと見つめて目を細めて無理に笑顔を見せる。
なんだか見ているほうが痛々しい笑顔だ。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。私は大丈夫です。ケイトリヒ様もおかわりありませんか? よく眠れていますか?」
笑顔は無理しているけど、俺をいたわる気持ちに嘘はないように思える。なんていうか、ジュンやとガノは考えてることがすぐわかるのにエグモントは難しい。
これが相性ってやつかな。それとも貴族の嗜みとして、サトラレないようにする処世術?
「うん、げんきだよ。ペシュティーノがもちかえった素材にね、ぐっすりねむれるやさしいおくすりがつくれる素材があってね、リンドロース先生といっしょにつくったの。エグモントにもあげようか? いっぱいつくったけどこうかが1しゅうかんしかもたないんだって」
エグモントは俺の話をうんうんと聞きながら困惑しているような、悲しそうな、でも何か言いたそうな、そしてどこかイラついたような顔を浮かべる。複雑すぎて読み取れない。
心配になってジッと見つめると、エグモントの胸元には再び赤いモヤモヤが見える。
これってなんなんだろう。
「……いいえ、必要ありません。お気遣いありがとうございます」
俺とエグモントの会話をガノが心配そうに伺っているのがわかる。
「ケイトリヒ様、今日は楽器の授業ですね。ラウテは上達しましたか?」
ガノが努めて明るく言う。
ラウテというのは日本語でいうところのリュート。ギターの原型みたいなものだが、これを弾くのが貴族の嗜みなんだそーだ。音楽や芸術ってのは、教養も経済力も豊かでないと楽しめないものという考え方は、地球と同じだ。モンスターが跋扈してアンデッドの恐怖に怯える世界じゃあ、音楽を楽しむほど心に余裕があるのって貴族だけの特権なのかも。
「ラウテねー。ならうのはたのしいんだけど、すぐにゆびがいたくなっちゃう。つめで弾くと、せんせいが『音が濁る!』っておこるの。こわいよ」
「楽器の授業ですか。では本城の音楽室へ?」
エグモントが聞いてくる。なんだろう、どうしても含みがあるように聞こえる。
「いいえ、御館様の御命で楽器師範を西の離宮に呼ぶことになりました。ケイトリヒ様、1階の応接室で授業をしますので準備しましょう」
西の離宮は小さな宮殿だが、それでもやっぱり宮殿というだけあって広い。日本で考えると美術館とか会社の入ったビルくらいの広さ。知らない部屋は多いけど、やっぱり自室のある西の離宮は俺にとってホームだ。本城を訪ねるよりずっとリラックスできる。
ギンコもいるしね。
「ラウテのじゅぎょうにギンコをつれてってもいい?」
「もちろんいいですよ。ラング先生にもその旨は伝えておりますので」
「ギンコ」
「主、ここに」
「ラングせんせいが詩をろうどくしはじめたら、ながくなるからうなってくれる?」
「御意」
「ケイトリヒ様? ギンコをそのように使ってはいけませんよ」
「あ、いまのガノのいいかた、ペシュににてた」
俺とガノとギンコがキャッキャと軽口を交わす間も、エグモントは仄暗い目つきで注意深く俺たちを観察している。胸元のモヤモヤは赤から黄色にときどき色を変えているけど、本人の表情は変わらない。あれなんなんだろ? 雑でもいいから神|(仮)が教えてくれると助かるんだけど。
……。
もしもし? そんな都合よく答えてくれないってことかな。
(え、キミの能力で見えるものが何かって聞かれてもわかんないよ。あのねえ、もっかい言うけど神はキミ。精霊が言ってたでしょ、キミのそのいろいろなものが見える能力は神の権能『全知』だよ。でも神の力といっても、捉え方や現れ方はキミ自身の価値観や想像力に依るものだ。理解も追いつかないほどの現象っていうのは起こらないはずだよ)
おお、答えた! ん? でも、どういうこと?
「ケイトリヒ様!?」
ガノが慌てた様子で俺の顔を覗き込んできた。
「あ、ごめん。ボーッと……してた?」
俺がヘラッと笑ってガノに聞くと、ガノは俺の予想以上に真剣な顔で声を潜める。
「瞳の色が真っ白になって……魂が抜けてしまったかのような様子でした。一体何をなさっていたのです、今のはご自分で制御できる状況ですか?」
あ、そんなふうになってたんだ。
人目のあるなかで神|(仮)と話すのは控えたほうが良さそう。あ、神って呼んじゃダメなんだっけ。いずれにしてもアレが俺のことを何でも知ってるわけではなさそう。
「うん、ちょっとためしてみただけ。そんなじょうたいになるんだったら、やめとくね」
ガノは俺の返答を聞いてホッとしたようだ。
そういえば魔法陣を見破ったときも瞳に模様が現れるってペシュティーノが言ってた。神獣と呼ばれるゲーレは瞳の色が金色とも言うし。死線に触れたヒトは髪と瞳の色が変わるとも。この世界ってけっこう安易に体の色が変わるのね。
「ガノ、魔法をつかうとひとみのいろがかわるってこと、よくある?」
「ええ? いいえ、ヒト族でもエルフ族でも他の種族でもそのような話を聞いたことはありません。何か魔法を使ったのですか? 先程の状態をペシュティーノ様がご覧になったら取り乱したかもしれません。それくらい異様なお姿でしたよ。幸い、エグモントは少し離れていたので気づかなかったようですが」
魔力で外見が変わるのは珍しくないことらしいのに、瞳に紋様が浮かんだり色が変わるのは異様なのか。そのへんの匙加減がわからん。どういう姿になってるのかよくわからないけど、異様と言われることはやめておこう。
「ああ、そうだ。ガノはペシュティーノ様との通信連絡があるのではないですか? 先生が本城ではなく西の離宮にいらっしゃるのなら、ギンコもいることですし護衛騎士は私一人でも充分です」
少し離れたところで音楽の授業に持っていくエグモントが振り向いて硬い笑顔で話しかけてくる。ガノは少し困惑したように俺を見つめる。
「僕はエグモントと2人でもいいよ?」
大人ですから。
そう言ってもガノはエグモントを微妙に警戒しているようだ。本城の庭園で父親に合わせたことは、そんなに問題になることだったのかな。ハメられたとは思ったけど、俺の身に危険が及ぶようなことではないと思う。危険があるとしたら多分、政治的な意味。
ガノは心配そうだけど、エグモントは再び俺に向けて複雑そうな表情を見せる。
何考えてるんだろう。以前、病床のときや魔導演習場に行ったときにはヒトの考えみたいなものが脳内に響いてきたことがある。アレって自由に使えないの?
神|(仮)に聞いてみたいけど、アレとの会話はあまり人前でしないほうがよさそうだ。
「準備ができたのなら参りましょうか。さあ、抱っこしましょう」
「んーん、あるく。から、手つなご」
エグモントの抱っこは必要最低限にしたいのでお断り。と言ってもね、手をつなぐのも下手なんだよねエグモントは! これまた下手とかあるのか、って話だけど、なんていうか子供の扱い慣れてないヒトの動き。腕は妙に捻り上げられるし、歩幅も合わせてくれるようで完全に合わせてはくれない。無意識に子供から避けられるヒトってこういうことなんだなーと思えるエグモントくんなのである。残念。
西の離宮の応接間には初めて入ったけど、内装も家具もアイボリー調にまとめられた上品な空間だった。差し色は温かみのある深い緑色で統一されている。
音楽のラング先生は内装が興味深かったのかガラス張りの戸棚を興味深く眺めているところに俺たちが現れたようで、少し慌てていた。
ギンコの姿を見ても驚いた様子はなく、観察するようにジロジロと見つめる。
……もしかして犬好きかな?
「ケイトリヒ王子殿下、ごきげんよう。この度は離宮にお招きいただき嬉しく存じます」
ラング先生はマントを開いて足を交差し、深々とお辞儀する。
音楽家や画家などがする敬礼らしい。
「ラングせんせい、ごそくろーいただきありがとうございます」
そう答えてペコリと軽く頭を下げると、ラング先生は「大変お行儀がよろしゅうございますね」とニコニコしながら指導係の教育の賜物だと褒めてくれた。
ラング先生は長い髪を後ろにまとめた、神経質そうな中年男性だ。いつも片手にはハンカチを持っていて、しゃべる時に口元にあて、楽器を演奏したあとに手や口元を拭くのに使っている。なんか……中学生のときの同級生の女の子にそういう子いた。
いや、別に、いいんだけど。
「礼節の授業は、エグモント卿がなさっているのですか?」
「いいえ、お針子長のディアナ女史と、ペシュティーノ殿がご担当にございます」
「ほう、あの鉄のお針子長が! 王子殿下、ディアナ女史は怖くありませんか?」
「ディアナは、やさしいですよ。僕がうまくできないときも、こんきよくできるまでおしえてくれます。ぼくはディアナだいすきです!」
まあディアナは頑なに無表情だから人によっては確かに何度もやり直しさせられると心が折れるかもしれないけど。俺は平気。
だってディアナ、俺のことめちゃくちゃ好きだもん。
「密かに御館様も恐れると言われるディアナ女史を……なるほど、大物ですね」
「はい、間違いなく大物です。ですから私は……」
「さあ王子殿下、今日はラウプフォーゲル領を代表する作曲家、グリューネヴァルトの全曲集をお持ちしました。早速簡単なものから弾いてみましょう!」
エグモントが何か言いかけたけど、ラング先生は基本的に音楽以外のおしゃべりがあまり好きじゃない。興味ないことは聞く気もないし続かない。父上なんかはラング先生よりも先生の助手の少年を介して意思疎通をすることが多いってペシュティーノが言ってた。多分ちょっと、いやなかなかのコミュ障なんだろうな。
エグモントは話を遮られたことに少しムッとしていたが、授業が始まったので仕方ないと大人しくドアのそばで待機。それからは作曲家グリューネヴァルトの生涯を聞いたり、先生とラウテのセッションをしたりと通常の授業が何事もなく終わった。
ギンコは終始おとなしくしていて、吠えたりもしなかった。えらい。
ちなみに始まっちゃうとちょっと面倒な先生の悪いクセ、詩の朗読は今日はなりを潜めていたのでギンコを唸らせずに済んだ。
ラウテはギターの原型みたいな楽器で、ギターが6弦に対してラウテは12弦と多い。
小さな手ではなかなか難しいけど子供用サイズのラウテだし、前の世界の高校時代、軽音部幽霊部員の実績がここで生きている。本当は楽器やるよりカラオケのほうが好きだけどね。おかげで幽霊部員でも文化祭のときにはボーカルをやるハメになった。
そして楽譜は読めるけど、ギターの技巧は……子供にしては上手いかな、くらいだ。
「……王子殿下はラウテの天才になるかもしれませんね。楽譜の理解も早く、音を追うだけならもう一人前です。次からは少し難易度を上げてまいりましょう」
「えっ。きょうのグリューネヴァルトの曲、けっこうむずかしかったですよね!?」
「グリューネヴァルトの曲はラウテ奏者では中級者向けと言われているはずですが」
エグモントが口を挟んでくる。
「いつまでも中級で留まっていては王子殿下の類稀なる才能に失礼でしょう」
「あ、あのラングせんせい! ラウテをきわめるのもいいんですけど、僕はほかの楽器やおうたもならいたいです!」
「ほう、歌ですか! よろしいですね!! ああ、このボーイソプラノの奏でる歌となれば美しいに違いありません……ええ、ええ! 王子殿下御自ら学びたいと仰るならば、喜んで我が知識をお伝えしましょう! しかし残念ながら声楽は専門外ですので、私の伝手で補助教師を探してみます」
ラング先生はご機嫌で去っていった。
「主の、お歌にございますか。是非とも拝聴いたしたく存じます。次回の授業も是非、お供として侍らせて頂きたく」
鞍をつけたギンコにまたがると、ギンコが少し声色を弾ませて話しかけてくる。
「ケイトリヒ様は多才でいらっしゃいますね。古代言語学も地政学も最優秀、さらに大人でも難しい魔法陣学も習得中となると、もう次は帝王学も学び始めたほうがよろしいのでは?」
西の離宮の廊下を歩きながら、エグモントがそう話しかけてくる。
「ていおうがくかぁ。僕はラウプフォーゲル領主になるつもりはあんまりないんだけど」
「ケイトリヒ様の才能は、ラウプフォーゲルに留まるには難しいかもしれません。年齢のことを考えても、皇帝を目指すのもひとつの案かと」
「こうていへいかのようしには、ならないよ」
「養子にならずとも、帝位は目指せますよ?」
「え?」
「……おや、ペシュティーノ殿からお聞きになっていないのですか。あるいはデリウス先生に習っていませんか? 我らがギフトゥエールデ帝国の皇帝は、血統で継承されるのではなく皇位継承順位という順位制度で継承されるのですよ」
「あ……そういえばれきしのじゅぎょうでちょっとだけきいたような」
「帝位継承者はもちろん養子皇子も含まれますが、養子になるだけで必ず帝位を継げるわけでもないのですよ。まずは帝位継承順位のトップにならなければなりませんから。そしてその帝位継承者は、選考委員会の基準を満たせば平民でも資格を得られます。……まあさすがに平民が選考会入りするのは稀で、選出されるのはもっと稀ですけど」
「そういえばれきだいこうていに、へいみんしゅっしんのこうていがいた!」
「つまり、ケイトリヒ様も目指そうと思えば目指るというわけです。ケイトリヒ様ならば公爵令息と身分も血統も正当性は十二分ですし、さらに魔力が高く魔導も容易く扱うと聞けばケイトリヒ様に帝位を求める民意も出てくることでしょう」
「みんい」
「ええ、民意です。このところ中央は貴族、平民問わず、広く民意を政治に反映させることについて心を砕いているようです」
民主主義でもないのに民意を気にするとは、出来た皇帝だ……と、知らなければ思ったかもしれない。
だがペシュティーノの補講授業で聞いた話では、北は共和国、海上ではアイスラー公国とあまりにも小競り合いが多すぎて帝都近辺の景気がなかなか上向かず、民衆による小規模な反乱が相次いでいるという。反乱といっても穏便なデモみたいなもののようだ。
大抵は物価上昇に対する抗議や賃上げなどが主な要求のため、都度公金投入などで火消しして今は事なきを得ているようだが、これは対処療法なのでいつか限界が来る。
対して、旧ラウプフォーゲルは傭兵業が盛んなので小競り合いはあればあるほど潤うというわけだ。帝都の人々がその差に不満に思うのはなかなか仕方ないことかもしれない。
帝都のデモの鎮圧には民衆を傷つけない術を心得たラウプフォーゲル傭兵が投入されるが、共和国やアイスラー公国との小競り合いには帝国軍が出るらしい。逆じゃない?
ラウプフォーゲルは軍事に長けた「帝国の剣」と言われているのに、なぜ他国との小競り合いに正式に出兵しないのかとペシュティーノに聞いた。
答えは「戦争になるから」だった。他国との小競り合いは戦争じゃないの?
今は敵国と言われている共和国もアイスラー公国も、ラウプフォーゲルが怖いので小競り合いくらいしか出来ないというのが実情らしい。
げんに、アイスラー公国などは帝国の南側に位置する島国だ。そこから一番近い帝国領土は旧ラウプフォーゲル領であるにも関わらず、そこをわざわざ迂回して帝都周辺の海上で小競り合いをしている。
なんていうか、アイスラー公国って小物感ハンパない国だ。
「ラウプフォーゲル領主子息であるケイトリヒ様が皇帝の座につけば、中央とラウプフォーゲルは蜜月関係となるのは目に見えてます。今は中央を挑発している共和国もアイスラー公国も、大人しくなるでしょうね。そうしたら帝国はきっと全体的に発展しますよ。子供のうちは、ラウプフォーゲル領に留まるのが良いでしょうが……成長したときのことをお考えください」
エグモント、めっちゃ皇帝になるの推すやん。
ちらりと彼を見ると、胸元に白いモヤモヤが見える。もー、これなんなんだろ?
神|(仮)にもわからないらしいし。でも俺の価値観に基づいて常識的なものしか見えないって言ってたな……ということは? 胸のもやもや? 胸にモヤモヤといえば?
胸焼け? いや体調見えてどうする。見えてもいいけどさ。
胸がモヤモヤ……もしかして、「わだかまり」みたいなものだろうか。あるいは葛藤とかジレンマみたいなもの?
そう思い至った瞬間「パリン」となにかが割れたような感覚がして、頭の中にドッとたくさんの声が聞こえてくる。
―ケイトリヒ様には、中央に行ってもらうのが一番だ。ラウプフォーゲルの後継者跡目相続の争いから身を引いてもらい、中央を牽制する駒とすればー
―魔術が使えるなどラウプフォーゲルには何の得にもならんだろうー
―アロイジウス殿下がラウプフォーゲル領主になった暁には、我ら×××家がー
―まさかここでアロイジウス殿下の強力な対抗馬が出てくるとは。潰しておかねばー
―御館様の寵愛が確固たるものとなる前に、手を打たねばー
―エグモント。ケイトリヒ王子の情報はすべて渡せ。さもなくばー
「ケイトリヒ様!?」
肩に衝撃を感じてハッと意識を戻すと、エグモントが心配そうに顔を覗き込んでいた。
「ケイトリヒ様……よかった、お気づきになったのですね。瞳に不思議な模様が現れて、声をかけても何も反応しなくなったので心配しました」
心配? 心にもないことを言う。
「……ケイトリヒ様? 大丈夫ですか? 何か、ご気分を害されましたか? ……帝位の話については、さがない雑談とお忘れください」
胸のもやもやが消えている。見えなくなっただけなのだろうか。色は何を示しているんだろう。最初の頃と、エグモントの父親は赤だった。どういう違いがあるのかわからないけど、今はどうでもいい。
エグモントは……。
「……ケイトリヒ様、どうしてそのようなお顔をされるのですか……」
エグモントが悲しげに俺を見つめる。
悲しいのはこっちだ。
「なんでも……ない。ギンコ、おひるねするからいそいで」
「御意」
俺が声をかけると、ギンコはエグモントを残して階段を風のように駆け上がり、一瞬で自室に着いた。俺はのそのそとギンコから降りて寝台に寝転んで、脇をぽんぽんと叩く。
「ギンコ、ここにきて」
「お待ち下さい。鞍を外さねばなりません」
冷たい上掛けに包まると、じわ、と涙が湧き上がってくる。
エグモントのことは確かにジュンやガノほど気に入ってなかったとはいえ、俺が初めて選んだ側近騎士だ。最初はすこし横柄で他の側近への態度は悪かったが、俺には最初から優しかった。
「……ケイトリヒ様?」
追いついたエグモントが寝室のドアを開けて恐る恐る声をかけてくる。
「おひるねするからでてって」
「……承知しました。ギンコ殿、鞍を外しましょう」
ギンコの爪がチャッチャッチャッ、と床を鳴らす音。皮のベルトを外す金具の音。
エグモントとギンコが何事かボソボソと話す声。
やがてギンコが寝台にゆっくりと上ってきて俺の側にピッタリとくっつく。温かい。前足の間に顔をぐりぐりとおしつけて、柔らかい胸毛に埋もれると少し落ち着いた。
エグモントの葛藤であるモヤモヤから聞こえてきた、悪意のある言葉たちが頭の中で反響するように響く。でも、あれはエグモントの声ではなかった。おじさんっぽい声や、ときどき女性の声も混じっていた。あれはエグモントが言われた言葉なのだろうか。
エグモントは、あれを聞いてどう思ったのだろう。何を考えたのだろう。
以前は本人の心の声みたいな感じで聞こえてきた不思議な声は、今回は他人の声だった。
「情報を得たい」というのが起源の能力のようだけど、使い方がわからない。
ただひとつだけ確かに言えることはー
エグモントは、ラウプフォーゲル貴族派のスパイだ。
気が滅入る。近しい人を疑いたくはないし、嫌いになりたくもない。
俺がのほほんとしていて知らなかっただけで、父上やペシュティーノは承知していたのかもしれない。「貴族派」的な人物を護衛に入れたのはいい判断だと言われたし、これくらいスパイ行為じみたものは政治的な視点から見ると可愛いものかもしれない。
エグモントはともかく、周囲の貴族派には悪意がある感じがする。そこまでは父上たちもしらないかもしれない。
かもしれない、かもしれない。かもしれないばっかり。
もーかんがえたくないでーす。
その日は、夕飯の時間に起こされたが起きなかったらしい。
翌日には熱を出し、1週間寝込むハメになってしまった。知恵熱だな。
「ケイトリヒ様」
熱でガンガンする頭に響いた聞き覚えのある声。腫れぼったい目を開くと、そこには鮮やかなライムグリーンの瞳。
「……体調を崩されたとのことで、諸用を早めに切り上げてまいりました」
蜘蛛の足のような長い指が熱のこもった俺の髪を優しく撫でる。熱が逃げていくので気持ちいい。覚えのある匂いを求めて手に鼻先をこすりつけるけど、鼻が詰まっているようでなにも匂わない。名を呼ぼうとしたら咳になった。
「少し召し上がっていただきたいのですが、食べられそうですか?」
少し困ったように眉根を寄せる表情が、なんだかすごく懐かしく感じて涙が出てきた。
「ぺしゅ……」
ペシュティーノは何かを察したように上掛けで俺を包んで抱き上げ、背中や頭を撫で回してゆっくりと揺れる。
子供の1週間って、長い。俺はきっとペシュティーノが恋しくて、会いたかったんだ。
抱きしめられてようやくわかった。
尖った鎖骨にぐりぐりとおでこをこすりつけると、ペシュティーノは笑いながら「痛いのでおやめください」と頭を押さえつけてギュッと抱きしめる。
ようやくうっすらペシュティーノの匂いを感じて安心した。
その後はパンのミルク煮みたいなものをちょびっと食べされられて、すぐに寝た。
長引いていた熱も翌日には下がり、体調もバッチリ。
ご飯だって普通のメニューをもりもり食べた。
「主、大事なお話がございます。そちらの保護者たる随身と長い時間お離れになるのは、主の身体にとって毒となることが此度のことで解りました。よって随身には片時も離れることなきよう、ヒト的な立場を整えて頂きたく」
自室で昼食を食べていたときに、急にウィオラが現れて俺とペシュティーノに言う。
側にはガノもいて、突然のことにびっくりしたみたい。ちなみにジュンはペシュティーノのやり残した諸用のおつかいのため、まだ遠出から戻ってきてない。
エグモントも今日は非番だ。
「精霊様。身体に毒とは、どういうことにございましょう」
ペシュティーノが俺に食べさせていた匙を止めてウィオラを問いただす。
俺、お口あけて待ってるんですけど……。
「ねーペシュティーノ。主の属性はね、生命体ではありえない、【死】属性に偏ってるんだよ。多すぎる【死】属性に対して僅かな【命】属性でバランスを取る、っていうハナレワザをしているせいで魔力の制御も体の調整もうまくできないんだ」
ペシュティーノが青ざめる。力なく匙を器に戻し、取り落とさないようにするためかテーブルに置く。あの、俺はまだその具だくさんリゾット食べたいんですけど……。
いやちょっとまって、生命体ではありえないってなに?
「やはり……大陸のどの研究機関でもまだ属性としての特性を見いだせていない不可知属性、【死】と【命】。精霊様の間では確かに属性として存在しているのですね」
あれ? たしかに【死】と【命】の属性についてはどの教本を見ても説明されておらず、存在するか定かでない属性、とだけ注釈されていた気がするけど……。
「ペシュ、【命】属性の話って確か父上との狩猟のときに話してませんでしたっけ?」
「いえ、私とはそういう話はしておりませんよ。もしや精霊様となさったのでは?」
アンデッド討伐で出た魔晶石は【命】属性のカタマリだって、たしかに精霊が言ってた。
「そういえばあのとき持ち帰った魔晶石ってどうしてます?」
「精霊様の指示通り、拳ほどの大きさに砕いてケイトリヒ様がおやすみになる前に寝台の下にばらまいておりましたが、ものの数日で消えてなくなりましたよ」
「ほぇ」
知らなかった。そんな事してたの。
「ちなみに砕いた魔晶石からは冒険者や騎士たちの遺品が多く出て参りました。そこから行方不明者が数十人特定され、冒険者組合の凍結依頼がいくつか解決したそうです。組合長から感謝の言葉を頂きましたよ」
ガノが補足してくれた。……よかったね、と言って良いのやら。
凍結依頼ってのは出された依頼が未達成のまま一定年数以上が過ぎたものを指すらしい。生死不明の行方不明者捜索依頼は結果の幅広さから凍結依頼になりやすいそうだ。
「ともかく、ケイトリヒ様は【命】属性が不足すると、このような状態になるということなのですね? 私がお側にいれば多少は緩和されるということでしょうか」
「そ。主を小さな頃から世話してるのはペシュティーノ、キミだよね。主もそう思ってるよね。これって血の繋がりは関係なく、精神的、魔力的には親子と言っていい。主はペシュティーノの【命】属性魔力を、わずかずつ受け取って生命を繋いでいるんだ。きっとあの世話人の女性たちからもほんのわずかずつ受け取ってるのかもしれないけど、基礎魔力の高いペシュティーノの比じゃない。主から見たら大口の【命】属性魔力の供給源を急に絶たれる形になる。そりゃあ体調も崩すよ。でも、今回こうやって実際に体調を崩すまで僕たちも想定してなかったんだ、ごめんね?」
「……では、ケイトリヒ様は……私から離れてしまえば」
「主の体内にアンデッド魔晶石の備蓄分がなければ、1ヶ月程度で肉体が死んでたはずだよ。そして今はもう、アンデッド魔晶石による備蓄分はない。これから先、ペシュティーノが主から離れてもいい期間はアンデッド魔晶石が十分な場合は約1週間が限度。ない場合は3、4日だろうね。これ以上過ぎると、主は体調を崩し始める。今回のようにね。それ以上断絶が続けば、1ヶ月で死に至るだろうね」
ジオールの言葉に、室内がシーンとなる。
窓の外、遠いところから兵士たちの訓練の声や音が僅かに聞こえてきた。
「……あっ! じゃあ、ペシュティーノがそいねしてくれたつぎの日がちょーしいいのはそういうことなの!?」
「左様。また、随身は主に与えるための【命】属性魔力を食物で補っているはずです」
「では、私がいつも2〜3人分の食事を食べてしまうのは」
「お待ち下さい、ペシュティーノ様もケイトリヒ様も。落ち着いて、そういう問題ではありません。ペシュティーノ様との断絶が死につながるなど、ケイトリヒ様のとんでもない弱点になるではありませんか!! これを防ぐ手立ては……アンデッド魔晶石ということですね? しかも、あれだけの量があってもごく僅かなつなぎにしかならなかったということは、相当な量の!」
ガノが俺たちの目を覚ましてくれた。そうだ、コントやってる場合じゃない。
先の養子皇子になるかもしれなかった件を考えても、俺とペシュティーノは正式な親子でない以上、社会的に引き離される可能性だってある。
そしてそれが俺にとって致命的、その名の通り命に関わることになる。
今は身体も小さく、2〜3歳くらいにしか見えないようだからペシュティーノとベッタリでも不自然はないけれど。
「身体が大きくなってもペシュティーノに抱っこされるのは不自然ですよね……」
「私は一向に構いませんが、たしかにそういうお姿は他の貴族たちからの評判をさげるやもしれません」
「主、身体が大きくなるってことは成長してるってことだから、【命】属性不足が解消されたってことだよ? そこは心配しなくて大丈夫だから〜」
ジオールの言葉にホッとした俺に、ガノが頭を抱える。
「ケイトリヒ様、ペシュティーノ様。ですから問題はそこではありません。アンデッド魔晶石をどうやって集めるかを考えましょう。今では特に利用価値のない魔晶石として売買の対象にさえならないアンデッド魔晶石ですが、冒険者組合に買取を依頼し、二束三文でも金になると周知されれば相当数の量が集まるはずです。まずはそこから手配しましょう。ペシュティーノ様も、それでいいですね?」
ガノはテキパキとその場を仕切って、やるべきことをいくつかリストアップして足早に部屋を飛び出していった。
ペシュティーノも俺も、とんでもない方向から俺の命に危険が及ぶと聞いて動揺したのかしばらくは顔を見合わせて呆けていた。
ガノ……頼れる……!!
あと、リゾット食べたいです!