第2部_1章_0139話_そのころ 1
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灰色の雲が渦巻く空の下、一面の青い海の上を滑るようにゆく巨大なブリッグ船。
穏やかな風を受けて素晴らしい速度を見せるその船の前方から、不審船が近づいている。
「船長、 8刻方向(東南東)からこちらに接近する船を確認しました」
「またアイツらか」
「おそらく。振り切るのは簡単ですが、どうしましょう」
「バカヤロー。俺らが何のためにいけすかねえ海兵を乗せたと思ってんだ」
「あ、そうでした。やるんですかね?」
「俺に聞くなバカヤロー。聞いてこい」
「は、はい」
船員が船長室を出てすぐ、目当ての人物はいた。
「船長に話がある」
「あ、海兵さん! いま呼びに行こうかと……」
「海兵ではないと言ってるだろう。失礼する」
ボロを着た船員たちとは明らかに違う、真っ白な軍服を着たその人物は2人の部下を連れ立って、ドアを殴るようにノックすると船長室へ入る。
「おいコラ俺の船を壊す気かバカヤロー! もっとお優しくノックしやがれ」
「お目当ての奴らが来たようだな」
「俺らの目当てじゃねえかんな!」
「協力することが条件だっただろう」
軍服の人物がジロリと睨むと、船長は煽っていた酒瓶を置いて面倒そうに部下を呼びつける。
「チッ。おい、海兵様が砲撃手をお呼びだぁ〜。連れてこい」
「不要だ。船長許可さえいただければ、我々が彼らのもとへ行く。キミ、案内してくれ」
「え、はい」
船員に案内されて軍人たちが出ていくと、船長は不愉快そうに舌打ちした。
「なぁにが『キミ』だ。キミってツラかってんだよ、クソが。はあぁ〜、ヘマやったばかりによ。見逃して貰う代わりとはいえ、ムカつくぜ。なあオリガちゃん? 海兵はみんなムカつくよな〜? ん〜?」
船長室の隅のベッドの上で、しどけなく寝転ぶ赤毛の美女……の犬が頭をもたげてチラリと船長を見て、「フン」と鼻を鳴らし再び寝転んだ。
「んもぉ〜ッ! オリガちぁん、ちめたいんだからぁ〜! でもそんなトコもしゅきしゅきしゅきぃ〜!!」
船長の謎の雄叫びを聞いた白服の兵士が、不安げに船長室を振り返る。
「なにか、奇声が……あの船長、本当に信頼できるんですか」
「気分屋だが腕は確かだよ」
「何の腕ですか?」
「まあ、皆まで聞くな」
白服の兵士が甲板に出ると、忙しなく動き回る船員に見向きもせず船首の左側を見つめる若い青年が2人。
その2人の青年に、白服の兵士がビシッと敬礼して恭しく報告する。
「船長から砲撃の許可が出ました」
「ん」
「ああ、ありがとう。では始めてくれ」
黒髪の青年は不遜に頷いただけだが、緑髪の青年は優しげに微笑む。
「試作機の準備を」
「はっ!」
白服の兵士たちが甲板にあるおおきな被せ布を手際よくはぎとると、そこに現れたのは陶器でできたように滑らかな表面の攻城巨弓。だが、矢が乗るはずの部分は筒になっていて、弦が通るようスリットが入っている。
「砲撃手はキミか」
「は、はい」
船員につれてこられた男は、体格はいいがやや気弱なようで、白服の兵士たちと目を合わせようとしない。
「……試射は3発。4発目は必ず当てろ」
「1発あれば十分です」
気弱な割に、腕前には自信があるらしい。
「へえ、陸の攻城巨弓はあんなにキレイなもんなのかね」
「バカヤロウ、あんなおキレイな武器があるもんか。例の商団が作った金持ち用だろ」
船員たちのヒソヒソにもなっていない雑談の声を聞きつけた緑髪の青年が、そちらに目を向けた。
「いいえ、こちらは海風から金属を守る特殊塗装です。将来的には小さな船団でも扱えるほどに改良して低価格で販売する予定ですので、どうぞ覚えておいてくださいませ」
営業じみたトークにやや後ずさりする船員たちを尻目に、気の弱い砲撃手が攻城巨弓をいじる。土台はアンカーを打ったわけでもないのに、甲板の上でも鋼鉄でできているかのごとくガッシリと動かない。
高さを変える車輪のハンドルは滑らかでほとんど力を必要としないし、上下左右の角度を変えるための操作も、女性でも扱えそうなほどに軽い。
「これは……すごい」
「不審船、接近中です! このままでは左船側に接触します!」
見張り塔からの声に、甲板にいた全員が同じ方向を向いた。
「試射、いきます」
おどおどしていた砲撃手の青年の顔つきが変わり、ピタリと狙いを定めて迷いもなく射出レバーを引いた。
パシュッ、と軽い音があがり射出されたものは、槍のような矢ではない。
それに気づいた船員たちが「何が発射されたんだ?」とどよめいたが、その「何か」は放物線を描く様子もなくまっすぐ飛び、不審船を飛び越えた遠く向こうまで飛んでいってしまった。
「ずいぶん飛びますね。それに、減速しない」
「3発必要では?」
「いえ、次は当てます」
側面のハンドルを回すと、カリカリと音を立てて巨弓の弦が引きしぼられる。このハンドルもまた、異様に力を必要としないので砲撃手の青年は驚いた。さらに、兵士たちは誰もその機体に何かを装填する様子がない。
「……2射目を打っても?」
「ああ! 構いませんよ、自動装填されますので、そのままどうぞ」
「当ててもいいのですか」
「ええ、もちろん」
訝しげな砲撃手は考えるのをやめ、再び狙いを定めて打った。
射出された「なにか」は吸い込まれるように不審船の甲板中央にあるメインマストの根本に当たった。
「いい腕だ」
その瞬間、着弾した部分からぶわっと白い糸のようなものが広がり、その船首からピンと伸びた太いロープが攻城巨弓の射出口とつながった。
「なんだありゃ!?」
「糸……いや、投網か? おい、船を……覆うようにくっついてるぞ!?」
広がった糸は不審船にラップをかけるようにみっちりと絡みつき、メインマストのてっぺんを残して凹んだドーム状になって船を覆う。
「さて。ここまでは想定通りなんだが……」
「あんな状態じゃ航行できねえよな?」
「うん、まあそのために曳航可能な大型船を選んだわけ」
「その糸で?」
攻城巨弓の射出口とくっついているロープは、ロープのようにねじれてはいるがとても船を引けるほどの太さは無いように見える。
「クモミ嬢の最高強度の糸を使っているんだ、問題ないよ」
「ふーん」
「おいおいおいおいおい!」
甲板に出てきた船長が真っ白な糸で包まれた不審船を見るなり、喜色をうかべて手を叩いている。
「なんだよありゃあ! まるで繭じゃねえか、あれ魔法か!? ふはっ!!! ザマーミロだぜアイスラーのクソ海賊ども! そのまま海の上で干からびろボケー!」
「ええ魔法です。白き鳥商団が研究中の、魔法の投網砲台とでも呼びましょうか。まだ試作段階ですがね。あ、ちなみにあれは曳航してヴァイスヒルシュの港町に待機しているラウプフォーゲル軍に引き渡してもらいますよ」
「はあっ!? 本気かよ! アイスラーの蛮族を、生かして連れ帰るのか!? しかも俺のかわいいアドレシアフローラ嬢に曳航させるだとぉ!?」
「あれってさ、中から砲撃しようとするとどうなるんだろうな?」
船を嬢とつけて呼ぶのか……と呆れるまもなく、黒髪の青年の一言に甲板の船員たちも白服の兵士も全員ハッとなって視線を向ける。
まさにそのタイミングで白い繭と化した船の船側が爆発した。
一瞬炎があがったが、糸に燃え移るようなことはないようだ。
「あー……っと、火への対策はしたし、大砲の砲口にも糸は絡みついてるはず。無理に点火すればそりゃ……暴発するよね」
「おい、船……燃えてねえか?」
「やばい、全員死んじゃうかも。ジュン、たのむ」
「へいへい。……トリュー召喚!」
ジュンが取り出したスクロールが緑色の炎に包まれると、甲板からせりあがるように現れたトリューに軽やかに足をかけて一瞬で飛び立つ。
トリューに立ったまま乗るのは、ジュンの得意技だ。他の側近のトリューと違い、ジュンのモデルは特別に機動力と体重移動での操作性を上げている。
「あれが噂のトリューか! すげえな!!」
「ああ、オマエ海兵たちが来たときいなかったんだっけ」
「海兵じゃねえって。あれはラウプフォーゲルの魔導騎士隊だよ」
繭からはもうもうと煙があがっているが、ジュンの乗ったトリューがその周囲を2、3周回るとやがて煙は収まった。
「……どうやったんだ? 魔法か?」
「魔法で火を消すとなると水をぶっかけるのかと思ったが」
「へえ……魔導騎士隊の魔法はすげえな!」
「バカヤロー。ちげーよ、あの若いお2人はラウプフォーゲルの希望の星と謳われる、ケイトリヒ王子殿下の側近だぞ」
「ああ、あの『ナマハイシン』とかで歌った可愛らしいチビっこ王子か!」
「バカヤロー! 不敬で斬り捨てられるぞ!」
船員たちの噂話をとくに咎めることもなく、白服の魔導騎士隊たちは側近の2人の命令をジッと待っている。
やがてジュンが戻ってきて、上空のトリューからひらりと飛び降りて甲板に音もなく着地した。乗り手を失ったトリューは緑色の炎に包まれて消え、ひらりとスクロールになってジュンの手元に吸い込まれるように収まる。
「おかえり。曳航には耐えられそうかな」
「吹っ飛んだのは船の上半分だ。海が荒れなきゃ大丈夫だろ」
「じゃあ、試作機の試射はとりあえず成功だね!」
「まあ砲撃への対策はちっと考えねえとな。おいガント、あとは頼んでいいか?」
「はい、お任せください。ヴァイスヒルシュの港町まで乗船したままアイスラーの海賊どもを見張ります」
「助かるよ。僕たちは一足先に殿下に結果を報告する。航行中、何かあったらすぐに連絡を。いつでも本隊を出せるようにしておく。ああ、糸の解除方法については確認してくれたかな」
「はい、問題ありません」
「じゃ、頼んだぜ」
若い2人の側近騎士はトリューに乗るとさっさと船から飛び立っていった。
「……トリューかあ。あれが一般化したら、俺たちは廃業かな」
「バカヤロー、あんな1人用の乗り物に積荷が載せられるかってんだ」
「いいや、あれができたんだ。巨大化の研究だって進んでるぜきっと」
「おいオマエらぁ! アドレシアフローラ嬢のプリティなお尻にそのロープを移動させろ! アイスラーの海賊にゃ業腹だが、思いっきり引きずり回すくらいで我慢してやろうじゃねえか!」
「アイアイサー!」
船員たちがそれぞれ持ち場に戻ると、魔導騎士隊のガントと2人の隊員は顔を見合わせた。
「はぁ〜、長い航海になりそうですね」
「バカヤロー、ここは近海だ。せいぜい2日で港につくさ」
「ガントさん、船員たちの口癖がうつってますよ……」
「意外と気の良いやつらだろ?」
「まあ……そうですね」
「トリューに慣れると2日は長いですってぇ〜」
魔導騎士隊の3人は船旅の任務を覚悟して受けたが、軽口の止まらない2日間となったのは言うまでもない。
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シュヴェーレン領の主城、シュトゥンプ城。
古い城のバルコニーは石造りの重厚な手すりに囲まれている。
その下で、若いメイドたちが自分たちしかいないと思い込んでお喋りに興じ、その声はバルコニーの奥の部屋まで届いていた。
「見て、この爪紅! まるで花びらみたいな爪じゃない?」
「私はオレンジにしたの。ジェニファー様からいただいたのよ!」
「さすがパーラーメイドはしゃれた色も許されるのね。それにしても、私もジェニファー様付きがよかったわ……」
「そうよね……。ほんと、これまでのことが嘘みたいに変わってしまったわ」
明るく話していたメイドたちの声がトーンダウンする。
「……カタリナ様のご帰還に続いて、ヒルデベルト様まで謹慎だもの。アイリス宮には近づきたくないわ」
「やめてよ、明日は私アイリス宮のレディーメイドの代行なんだから」
「カタリナ様にお世話すること、あるの?」
「外出もできないのに……実の御子にも会えないうえに幽閉なんて、可哀想過ぎるわ」
「カタリナ様ならまだマシよ。ヒルデベルト様付きになろうものなら、八つ当たりでアザや傷だけじゃ済まないかもしれないのよ。昨日も、入ったばかりのメイドが襲われかけたんですって!」
「なんてこと」
「ひどすぎるわ」
メイドたちは声を潜めて顔を見合わせる。
帝都でもその近辺の都市でも、花形職業と言われ人気職であるはずのシュティーリ家のメイドだが、実際には「触れてはならないもの」が多すぎる。
多すぎるその一つが、領主の長男であるヒルデベルトと、次女カタリナ。
カタリナの悪行についてはあまりシュヴェーレン領では広まっていないので幾許かの同情の声が寄せられるが、ヒルデベルトについては皆無。
それほどまでに、ヒルデベルトの悪行は内外ともに有名であったということでもある。
「そうそう、爪紅も、ヒルデベルト様の前ではなるべく目立たないようにしたほうがいいわ。売出し元の白き鳥商団のせいで事業が散々みたいで、気が立っているから何に八つ当たりされるかわからないもの」
「白き鳥商団の頭目はファッシュの末息子だというけれど、カタリナ様の御子なのでしょう? ヒルデベルト様にとっては甥になるはずなのに」
「それが、ラウプフォーゲル領主から徹底的に嫌われたらしいのよ」
「まあ……」
「それは……」
「そうなのね……だから白き鳥商団とのつながりは、ジャレッド殿下だけのものに」
メイドにも噂されるほど、ヒルデベルトのあらゆる事業が白き鳥商団によって潰されていた。だが、それと同時にこの半年で帝都の失業率が改善し、治安が良くなったという噂もまことしやかに流れている。
これまで暴利を貪り賄賂が横行していた商会がのきなみ追いやられ、白き鳥商団と公正な取引を行う商会が増えた。その流れはまっとうな雇用を生み出し、働く気のある有能な失業者を雇い入れる母体となっている。
「ファッシュの末息子とジャレッド殿下は魔導学院で友好を深めているそうよ」
「時代は変わったわねえ、あんなにいがみあっていた両家が……」
「だってそのファッシュの末息子はカタリナ様の御子なのでしょう? そりゃあシュティーリ家にもそれなりに気持ちがあるでしょうよ」
「そんなものがあったら、カタリナ様とヒルデベルト様が外されるわけないじゃない」
「そうよ。でも、そのファッシュの末息子の影響力のおかげで、今はジャレッド殿下がシュティーリ家の有望株ナンバーワンよ。母君のジェニファー様はカタリナ様や前の奥様と違ってお優しいし、ジャレッド殿下も下々の者にまで気を配ってくれるもの。ファッシュ様々だわ」
「ほんとほんと」
ガシャーン。
皆が同意して笑ったその時、彼女たちの直ぐ側で何かが割れて、破片と水が飛び散った。
「キャァ!!」
「なに!?」
「これは……水差し?」
全員が上を向くと、そこには踵を返して豪奢な金の巻き毛をひるがえらせた後ろ姿が一瞬だけ見えた。
「え……ひ、ヒルデベルト様?」
「うそ、どうして本城に! 謹慎中じゃなかったの!?」
「ど、ど、どうしよう……呼び出されて、処罰を受けるかも」
「どうしたの?」
恐慌状態だったメイドたちは、軽やかな少年の声で我に返った。
「ジャレッドさ……失礼しました、殿下。お散歩中でございましたか」
「あっ、殿下! 危のうございます、ガラスが割れておりますので、お近づきにならないようお願い申し上げますわ!」
ジャレッドのくすんだ金髪は日差しの下では上品な色味で輝いていた。
メイドたちのあまりに慌てた様子に、不審を覚えたのか少し首を傾げて彼女たちを見る。
「メイドたちの靴ではガラスを踏み抜いてしまいます。衛兵たちにお願いしましょう。オットー、頼めるかい」
「は」
ジャレッドの背後についていた側近が手早くヒトを集めて指示し、あっという間にガラスの破片が片付けられた。
「ケガがなくてよかった」
ニコリとそう言って去っていったジャレッドの小さな背中を見て、メイドたちは全員ため息をつく。
(やはり、シュティーリ家はジャレッド殿下に継いでもらいたい)
本城を堂々と歩きながら、庭師やメイド、執事や衛兵にも朗らかに声を掛けるジャレッドはあっという間にシュティーリ家の密かな人気者となっていた。
衛兵はビシッと敬礼をして見せ、使用人たちも深々とお辞儀してくる様を見て、側近は満足げにうなずく。
つい先日までは、ジャレッドを軽んじる使用人も少なくなかった。
だが皇帝陛下へ正式に報告を済ませたあとは、正式なシュティーリ家の嫡男。それ以降、使用人たちは態度を変えた。
そして「ナマハイシン」以降は時の人と言われるラウプフォーゲル公爵ファッシュ家の末息子ケイトリヒと学友として付き合いがあると聞けば商人たちが態度を変えた。
さらにその時の人ケイトリヒからジャレッド宛に話題のトリューを贈られたと聞けば、家門の貴族だけでなく周辺貴族までもがすり寄るようになった。
今や、ラウプフォーゲル公爵の勢いを削ぐことは不可能。
皇帝陛下さえもラウプフォーゲルの事業には一目を置いているどころか、一部を国家事業とする噂もある。風は完全にラウプフォーゲルへ向いている。
そうなれば、もはや過去の軋轢などにこだわることは愚策。
ラウプフォーゲルが勢いづく前、現当主であるアランベルトから、すでにラウプフォーゲルとの対話路線は始まっていた。ジャレッドはそれを更に推し進めるための人選。
中央貴族と結託してラウプフォーゲルを追い落とそうとしていたヒルデベルトは、時代遅れで不適切な人物に成り下がってしまった。
「……チッ」
ジャレッドが使用人たちの朗らかな目礼に応えながら本城へと去る背中を3階のバルコニーから見ていた豪奢な金の巻き毛の男は、思わず舌打ちした。
「ヒルデベルト様、どうかお部屋にお戻りください。御館様に無断で本城に入ったことが知れれば、またお叱りを受けてしまいます」
「うるさいな……本を取りに来ただけだ。それともなんだ。私はもうシュトゥンプ城に脚を踏み入れてはならないということなのか?」
「そのようなことは……」
「もういい。それで、ドッター商会のほうはどうだった」
「……は、申し上げにくいのですが……」
「ちゃんと頭目に話を通したのか? 枝葉のドルトン商会ではなく、親のドッター商会のほうだぞ!!」
「はい、ドッター商会のアンデン様からのお返事です。今は砂糖の事業で赤字が続き、商会の存続のために事業整理をしているとのことで、融資は難しいと」
「クソッ!!」
ヒルデベルトは机を蹴ろうと足を振り上げて、思いとどまった。
あまり大きな音を出すと衛兵が駆けつけてしまう。
「帝国魔導士隊のほうはどうだ」
「今週で22人も除隊願いが出ています。しかも実力者ばかり。残っているのは活動記録もない名前だけの隊員ばかりです。ヒルデベルト様、もう帝国魔導士隊は……」
「それ以上言うな。……聖殿は」
「そちらは、まだ返事はありません」
「クソが……無視しているのか? あれほど砂糖で儲けさせてやったのに……!」
「恐れながら、先日聖殿では緊急の『預言』を公開したとのことで慌ただしくなっておりますので、そのせいかと」
「ああっ! どいつもこいつも、肝心なときに役に立たん! かくなるうえはジャレッドをどうにか取り込んで、なんとしてもケイトリヒとつなぎをつけなければ……」
「おそれながら、それはお辞めになったほうが……」
「貴様の意見など聞いていない!!」
ヒルデベルトは手元のインク瓶を勢いよく側近に向けて投げつける。
瓶は側近の左頬に当たって鈍い音をたて、ゆっくり落ちて彼の手に収まった。
「だれかこの部屋にいらっしゃるのですか?」
外からドアをノックする音。
メイドが大声を聞きつけ、来てしまった。側近の男は、ヒルデベルトに視線を向けることなくドアへ歩み寄ると少しだけ開いてメイドに顔を見せた。
「ああ、失礼。時間が空いたので少し……ウサを晴らしていたのです」
「まあ……ギード様でしたか。失礼しましたわ。よろしければ、ムーサ茶でもご用意しましょうか?」
「いえ、すぐに戻りますのでお気遣いなく。それと、何卒この件は……」
「ご心配なく。お気持ちは痛いほどわかりますもの」
ぱたん、とドアを閉めると、先ほどまで激昂していたヒルデベルトはすっかり落ち着いていた。
「……こんな。こんな、ことになるはずでは……なかったんだ」
「ヒルデベルト様、感情のままに行動するのはお控えください。それに、今はどう動くにしても時期が悪うございます。どうか今しばらくのご辛抱を」
ギードはヒルデベルトから距離を取ったまま、頭を下げてなおも忠言を続ける。
その態度に、すっかりヒルデベルトも毒気を抜かれてしまった。
「ギードよ、何故だ。オマエは出自を考えればジャレッドに鞍替えすることも簡単なはずだ。何故俺についた? 何故俺の元を去らないのだ?」
「もちろん、ヒルデベルト様こそがシュティーリ家の跡継ぎに相応しいと信じているからにございます。いえ、ともすれば皇帝の座も」
ヒルデベルトはシュティーリ家の後継者でありながら、皇位継承順位の1位である特例だった。それは表向きでは帝国魔導士隊というアンデッド討伐隊を結成した功績を称えての特例だったのだが、実際には違う。
今上皇帝があまりにもラウプフォーゲル寄りであることを理由に、議会が権力分散を訴えてムリヤリこじつけでその座についた象徴的な存在だ。
実際には今上皇帝の治世が安定していてさらに健康であり、ヒルデベルトの皇位継承順位が消滅するまで代替わりは無いと確信したからこそ就けられた座。
ヒルデベルトもまた、その役割を理解していたはずだった。
「フン。あと2年もすれば、俺の皇位継承順位も消滅……あの頑丈な皇帝がその間に死ぬとは思えんな」
「いいえ、まだ可能性はあります。皇帝陛下は生前退位を望んでいらっしゃると」
「それは俺の順位が消滅した後の話だろう。皇帝はファッシュの……いや、カタリナの産んだアレを! この俺の、甥を! あの赤ん坊みたいなガキを帝位につけたいらしい! ハッ、冗談じゃない! 魔力が高かろうがどんなに頭が良かろうが、ガキに頭を下げるなんてまっぴらだ」
「それは、私も同感でございます」
ヒルデベルトは自嘲気味に笑っていた顔をふと引き締め、ギードをしげしげと見つめる。
「……何か、策があるんだな?」
「生前退位の情報はすでに暗部を抱える家門ならば知るところとなっております。さすれば、その時期を……いささか、有利に動かしたいと思う同志は少なくありません」
「ふむ……フッ、同じ公爵の立場であれば目障りだが。俺が皇帝となれば、アレはなんとも頼もしい金脈になるな。クククッ。太らせて掠め取る、か。ああ、なるほどな。いや、だがアイツの絶望する顔をみるためには、ガキはどうにかして……いや、さすがに難しいな。狙いは絞ったほうがいい」
「そうです。何を切り落とし、何を残すべきか。それは明確にしておかねばなりません」
ギードは腫れ上がる頬を意にも介さずひざまづいて、力強くうなづいた。
その姿を見て、ヒルデベルトも満足そうに笑う。
「……勢いに乗ったラウプフォーゲルを相手にするのはヤメだ。中央を落とす」
「ご英断です」
開いたままになったバルコニーの窓から、淡い緑色の光の粒がふわりと飛び去ったことには誰も気づいていなかった。
あけましておめでとうございます。
2025年も『白石英の玉座』をよろしくお願いします!