9章_0137話_2度めの学院祭 2
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ほとほと参っている。
敬愛するお祖父様は、一時期聖殿を牛耳るのではないかと思われるほど勢力を伸ばしたと聞いていたのに、急にその勢いは衰えたようだ。
私を褒めそやして機嫌を取るような言葉は手紙から消え去り、実りのある報告がないとか手際が悪いとか、ことさら詰るような言葉が増えた。
ラウプフォーゲル公爵令息に近づけという命令を受けて魔導学院に入ったが、お目当ての末息子ケイトリヒは必要以上に堅牢な護衛たちに守られているし、その兄たちにも取り付く島もない。加えて宰相の息子であるダニエル・ウォークリーからは罪人でも見るような目でずっと監視されていて、身動きが取れない。
攻めあぐねているうちに、いつの間にかラウプフォーゲルは王国と接近し、王国の王子アーサー・セイラーをその懐に囲い込んだ。
王国の併合などという噂まで飛び交い、もう王国と帝国の蜜月は隠されもしない事実として話題になっている。
これまで全てを優秀に卒なくこなし才子と謳われ将来は明るいと信じ切っていたのに。
魔導学院に入学してからというもの、すべてが上手くいかない。
(あのアーサー・セイラーの立ち位置には、私がいるべきであったはずなのに……)
武術大会の会場では、野蛮な武器がぶつかり合う音がうるさすぎてイライラする。
魔導学院から一番遠い施設であるここ演武場では、武術の卒科試験を兼ねた武術大会が開かれていた。円形の演武場には試験を受ける生徒と見学の生徒がちらほら見えるだけ。
帝国は平民にも武術訓練をほどこすので、この学院では武術を学ぶ生徒はその機会がなかった平民か、その才がないと言われて教育を避けていた貴族、どちらかだ。
要は、レベルが低い。
(この私が野蛮な武術の授業などを受けるだけでも耐え難いのに、帝国では初歩的と言われる訓練にさえついてこれないと嗤われるなんて、聖殿ではありえない。私は聖典を手に説法をするために生まれた助祭で、いずれ教主になる者だぞ!)
走り込んでは息が上がり、剣を振ればどこか痛める自分を、嘲笑う愚か者たちのささやき声が頭から離れない。
お祖父様も、同じ学科の生徒たちも、同室の寮友でさえ。
「私は努力しているのに……誰も、認めてくれない」
「え、ファリエル、何か言った?」
「……なんでもない。ファリエル様と呼べと……もういい」
「あ。また爪噛んでるのか? 親指、ボロボロじゃないか」
「うるさい、黙ってろ」
俺が言うと、ツリ目の少年は小さなため息をついた。
この異世界人のトモヤも、最近とくに気に入らない。最初はヘラヘラした頭の弱そうな子どもだったはずなのに、いつからか……あのルキアとかいう黒髪の少年と付き合いだしてから妙に賢いことを言うようになった。
ルキアが公爵令息の側近になったと聞いて紹介を頼んでも「そういう申し出はすべて断ってるらしいから無理」といってこちらも取り付く島もない。
どいつもこいつも、徹底して私の邪魔をしてくる奴ばかり。
参ってるどころでは表現不足だ。うんざりしている。
演武場では、ひときわ大柄な生徒が大剣を軽々と振りながら入場してきた。
「火の門はインペリウム特別寮、クラレンツ・クラウス・ファッシュ。対する水の門はグラトンソイルデ寮……」
緊張感のない審判の名乗り上げもイライラする。
公爵令息ケイトリヒの兄、クラレンツ・ファッシュであれば護衛が薄いと見て近づいたがこちらもまた早々に対策を取られてしまった。今日は絶好の接触のタイミングだというのに妙に掴みどころのない笑顔の金髪の護衛に防がれている。
「……ケガでもしてくれないだろうか」
「おい、よせよ」
普段は聞き逃すくせに、トモヤがしっかり批難してきた。
「冗談だよ。それくらい口にしたって構わないだろう。どうせ私の精霊にそんな力はないんだ。ケイトリヒ殿下の精霊とは大違いだからね」
「……」
生徒たちが手にしているのは刃を潰してある武器ではあるが、それなりにケガは起こる。
ただそのよくあるケガが、今この場で、クラレンツ・ファッシュに起こればいいのにと思っただけなのに。ただそれだけで批難される俺が、どうにも惨めで仕方ない。
「それに、理由は別だ。少しケガしてくれたら、私の『精霊癒術』で近づけるだろ」
「……それ、痛みが消えるだけで治るわけじゃないんだろ」
トモヤの言葉は相変わらず反抗的で批判じみている。
いちいちうるさいやつだ。ギロリと睨むと、トモヤは少し怖気づいたように顔をしかめたかと思うと、立ち上がって背を向けて去っていった。
あんな小物にまで見限られるなんて、本当になにもかも嫌になる。
賤民どもがするように舌打ちしたい気分になった瞬間、会場がワッとどよめいた。
演武場ではクラレンツ・ファッシュがうずくまり、相手の生徒は剣を落としてオロオロと立ちすくんでいる。一瞬目を離したただけなのに、なにがあった!?
「インペリウム特別寮、クラレンツ・クラウス・ファッシュは負傷のため棄権を宣言しました。第7試合は勝敗なしです。続いて、アクエウォーテルネ寮……」
淡々と結果を告げる声。
ファリエルはバネ仕掛けのように立ち上がり、観覧席を早足で駆け抜けて演武場の控室へ伸びる廊下へ向かう。道中、ファリエルとすれ違う生徒はその鬼気迫る様子に思わず飛び退くように道を開けた。
まさに今、演武場から引き上げて控室に向かうであろうクラレンツ・ファッシュが巨体を縮こませて、肩をかばっている姿が護衛の合間に見える。
「クラレンツ殿下!! お怪我をされたのでしたら私の『精霊癒術』でー」
言葉の途中でヒュン、という風を切る音と思いがけない状況に、身体が硬直した。
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大柄なクラレンツよりもわずかに身体の大きい、大人のような生徒が振り下ろした剣に、奇妙なもやが見えて、「あれ?」と思った瞬間にクラレンツが弾かれたように吹っ飛んだ。
一瞬何が起こったかわからず、どさりと倒れたクラレンツが自らの肩を掴んで「ぐっ」と声を上げてようやく状況を理解した。
「あにうえ!!!」
ぶわ、と何かが俺の身体から湧き上がったような気がしてゾクゾクしたが、すぐにペシュティーノから抱き上げられて「ケイトリヒ様、落ち着いてください。魔力が漏れて周囲を害してしまいますよ」と言われて抱きしめられた。
「あにうえが」
「ええ、すぐに参りましょう。ただ、御心を落ち着けてからです」
ペシュティーノが俺の目を真っ直ぐ覗き込んできた。
ライムグリーンの瞳をジッと見つめると、ドキドキが落ち着いて頭が働き出した。
「はふ……もうだいじょうぶ、だとおもう」
「よろしい。すぐに落ち着けて、えらいですね」
ペシュティーノがわしゃわしゃと髪をもみほぐすように撫でてくれた。どんどん心が落ち着く。ペシュティーノは俺を抱いたまま、貴賓向け観覧席を早足で抜け、どこかへ向かっている。
たぶん、クラレンツのところへ連れて行ってくれるんだろう。
魔導騎士隊をゾロゾロと連れてほぼ駆け足で演武場の廊下を駆け抜けると、準備する出場者がちらほら見える。きっと控室が近い。
ペシュティーノの鎖骨にほっぺをギュッと押し付ける。
すぐにクラレンツに会えるはずだ。
「……何をしている?」
「あっ、ペシュティーノ様」
背中から聞こえた声はパトリックだ。
振り向こうとすると、それを阻むようにギュッと抱きしめられた。
「いやあ、なんかすごい勢いで近づいてきたからちょっと警告しただけのつもりだったんですが……」
「なに、なに?」
「……」
応えてくれないので身体をぐねぐねしてペシュティーノの抱っこ拘束に抵抗して振り向くと、こちらに背中を向けたパトリックが刺突剣を誰かに突きつけている。
その誰かは、へたりこんだファリエル少年だった。涙目で歯の根が合わなくなるほどにガクガクと顎を震わせ、俺がポカンと見ている間に、ズボンの色がなんか変わって……。
「ど、ど、どういうじょうきょう?」
「ちょっと驚かせてしまっただけですよ。クラレンツ様、大丈夫ですか?」
パトリックは明るく応えるけど、この状況おかしいからね!?
まず生徒に向けて抜剣してることが! あ、いや、ファリエルがもしかして、クラレンツに何かしようとしたのかな? だったらちょっと許さないかも。
とりあえずパトリックが阻止したみたいだし、そこは任せておくとして!
「あっ! そうだ、あにうえ!」
ペシュティーノの抱っこから抜け出そうとしたがガッチリ拘束された。
あ、ファリエルがいるからかな。でもあっちもあっちで魔導騎士隊が剣を抜いて首元にあてがってるからどうにもなんなくない?
ガクガク震えて可哀想だけどそこはスルーで。
「く……」
クラレンツは肩を押さえて脂汗を浮かせている。
今ではがっちり筋肉が育っているクラレンツをここまで傷つけるような試合ではなかったはずなのに、この痛がり方はおかしい。
「あにうえ、みせて」
「ケイトリヒ様、場所を変えましょう。お命を脅かすほどの傷ではありません」
「あにうえのひかえしつは!?」
「は! そちらの2号室です」
魔導騎士隊がちゃきちゃき動いてクラレンツを控室に押し込んで、俺を抱っこしたペシュティーノとスタンリー、そして隊長|(仮)のマルクスと数人だけが同じ部屋に。あとは人数の関係で外で待機。おそらく控室としてはそれなりに広いんだろうけど、さすがに20人も入れるほどじゃない。
ぴょんとペシュティーノの腕から飛び降りてクラレンツに近づく。
「あにうえ、いたいところみせて」
「見せてどうなる、癒術士でもないくせに……うぐ」
「いいから! 魔導騎士隊、ひんむいておしまい!」
悪役っぽく命令すると、隊員たちは従順に、でも傷に響かないように優しく運動服の肩口をナイフで切り裂いてひん剥いた。
「これは……!?」
クラレンツの左肩から肘まで、赤黒いアザのようなものが広がっている。
明らかにぶつけてできるようなアザではなく、黒と赤と紫の色が渦巻くようにうねって動いているようにみえた。
「なにこれー!!」
気持ち悪いし不気味だし邪悪なフレーバーがプンプンとしていたけど、そんなことよりそんなものを肩にくっつけているクラレンツのほうが心配で手を伸ばした。すると俺の手の周りで、赤黒いアザがクラレンツの肌からふわりと浮かび上がりモヤになって消える。
(あ、やっぱり)
なんとなくそうなるような予感がしていた。
肌に触れず、ゆっくりとかざした手を移動させると、それに合わせて赤黒いアザはどんどん煙のように消えていく。
すっかり赤黒いモヤが消えてなくなると、むっちり筋肉のついたクラレンツの血色の良い肩と腕をぺたぺた触る。汗が冷えたのかちょっと冷たくてねっちょりしてる。
まあ、大丈夫そうだ。
「ん! これでよし!」
「け、ケイトリヒ……おまえ、一体なにした!?」
「あにうえ、痛みは?」
「あ……ああ、さっぱり無くなった。ねじ切られるかと思うほど痛かったのに」
えー。そんな痛みにギャン泣きせずに耐えるなんてえらい。
まあギャン泣きするのは俺の専売特許だけどさ。
「ケイトリヒ様……今のは」
「わかんないけど、あの赤黒いものはたぶん……いや、ごめんちょっと調べる」
「赤黒い? ……おい、赤黒かったか? 俺から見えた部分は打ち身のときによく見る青アザのような色だったんだが」
「わ、私にもそう見えました」
「……私から見てもそう見えましたね」
不思議そうに聞いてくるクラレンツに、魔導騎士隊のひとりとペシュティーノが答える。え?
「え! ……あれ、赤黒くて、ときどき紫っぽい渦巻きみたいなモノは……」
もしかしなくても、俺だけにしか見えてなかった?
いや、アザは見えてたのか。色が違っただけ?
「あー、主が考えてるとおり、今のは弱い『呪い』の一種だねえ〜。主、解呪の術式知らないくせに自家製で解呪しちゃったのウケる〜!!」
いつの間にかすぐそばにいた騎士服を着たジオールが、ユルく言うとその場の全員が凍りついた。
「の……呪い……そのような、おとぎ話が、本当に……?」
魔導騎士隊が顔を見合わせて言う。
あれ、呪いってこの世界ではファンタジーなの?
いや前世でもファンタジーというかホラーだったけど、おとぎ話扱いなんだ。
「え、呪いっておとぎ話なの?」
逆にジオールが隊員に聞き返して、隊員たちが困ってる。
「その件についてはさておきです。今大事なのは『何故』『何者によって』呪われたかが問題でしょう。すぐに、対戦相手を調べなさい」
「え、それはかわいそう。たぶん、対戦相手はかんけいないよ」
「……ケイトリヒ様、何か見えたのですか?」
呪いの原因になりうる何かが見えたわけではないのだが、対戦相手には確実に何も見えなかったことだけは言える。
「えと……んん、なにも。でも、たぶん高いかくりつで、原因じゃないとおもう」
「直感ですか」
「ちょっかんです」
「……ケイトリヒ様の直感は無視できませんね。なにせ……いえ、どちらにしても事情を聞く必要はあります。容疑者としてではなく参考人と称して調査を」
「はっ!」
室内にいたマリウスが、ドアの外に待機している隊員に言付けると何人かがバタバタと駆けていった。魔導騎士隊から押しかけられたら、怖いだろうなー!
お手柔らかにお願いしたい……。
「それと、外で漏らしている少年にも聴取を」
「は!」
やっぱ漏らしてたんだ……。
クラレンツはそのあとは元気ピンピンだったので、同じ相手と再戦した。
なかなかいい戦いを見せてくれたけど、相手のほうが年上だったこともあって上手だったみたいだ。クラレンツは判定負けだったけど、卒科試験は合格。
勝ち負けは卒業資格と関係ないらしい。そりゃそうか。
対戦相手は気丈な生徒だったようで魔導騎士隊の聴取にも快く応じてくれた。聞けば魔導騎士隊に入隊希望している生徒だったらしい……そりゃ物怖じしてられないよね。
「それで、例の少年は何故あのような状況になっていたのですが」
学院祭が終わって兄上の卒科試験修了のお祝いの夕食会も終わり、執務室に集まった側近たちと魔導騎士隊の隊員たちと報告会。
「クラレンツ殿下がお怪我されたので得意の『精霊癒術』で癒やしたいと思って駆けつけたところをパトリック様に制止され、驚いたそうです」
マリウス、制止ってくらいの状況じゃなかったよ。
俺には完全に「撃退」されて見えたんだけど。
ともかく、走って近づいてきたので止めた、というのがパトリックの主張。それは護衛としてとても正しいんだけどさ。
「せいれいゆじゅつ?」
「癒術にはいくつか系統があるのです。一般的なものは単に『治癒術』や『癒術』と呼ばれていて、人体の構造と術式を学べば誰にでもある程度使える魔法です」
重篤なものは治せない、頼りない「癒術」ではあるけれどこの世界では立派な医学。
その「癒術」をあつかう「癒術士」と呼ばれるひとびとは、魔力が高いヒトのなかからさらに「傷を癒やしたい」という積極的なマインドがあり、かつ「人体そのものに学術的な興味を持つ」ことで上達するんだそうだ。
「回復!」と唱えれば勝手に傷が塞がっていくというものではない。
その「学術的に」という部分がこの世界ではネックのようだ。この世界では死体を放置しているとアンデッドになるので解剖学も発達できないし。なんというか……人体に学術的に興味がある人物というのは、得てして……少し、変わり者なんだろう。
高名な癒術士が実はやべえ殺人鬼だった、っていうネタはこの世界では鉄板。実際史実にもたくさんそんな記録がある。そういう理由で癒術士はあまり人気がないのだ。
もちろん純粋に学術的に研究したい人物もいただろうけど、解剖ができない以上、想像とパッと見た状況だけで対処方法を考えなければならない。
癒術が頼りないのは仕方ないことなんだ。
「その精霊癒術ってのは? 冒険者のあいだでも聞いたことねえぞ」
「聖職者の一部が使える術で、精霊の力を借りて施すのだそうです。そのファリエル少年が『得意だ』と言い張るので、その場で傷を作って実際に術を見せてもらいましたが、なかなかのものでした」
魔導騎士隊の隊員が、手袋を外して腕まくりすると、うっすら傷跡が残っている。まだ赤みが残っているけど、そのうち目立たなくなりそう。
かさぶたが自然に剥がれた直後、くらいの感じ。
「ほう、意外な特技があるものですね」
「どれくらいの傷だったんだ?」
「切り口から血があふれるくらいには深く切りました。血を見て悲鳴を上げた以外は、特に呪文などを唱えた様子はありません」
一般的な癒術よりもずっと治りがいいそうだ。
「ん……」
なんか、傷跡に……妙なモヤが見える。
椅子からぴょんと飛び降りて腕まくりした隊員にぽてぽて歩み寄り、腕に鼻先がつくくらい近くでじーーっと見つめる。
「ケイトリヒ様」
俺が治療術をかけるとおもったのかペシュティーノがそっと引き剥がしてくる。
「んん?」
妙だな。
「傷にうっすら赤っぽいモヤが見えるの。でもこのモヤ、クラレンツあにうえにへばりついてたものに似てる。傷を治す術と、痛みを与える術がおなじ? これ、呪い?」
ジオールは「呪い」と断じたけど、呪いが傷を治すこともあるの?
ファリエルは呪いの使い手ってこと?
ジオールに視線を向けると、困ったような悩んでいるような、微妙な表情をしている。
「あ〜……それは、その……まあ、主の価値観による、かな……」
「かちかん???」
呪いが、俺の価値観と何の関係が?
「ジオール様、その話は」
「だめ、ジオール、話して」
ペシュティーノが止めようとするけど、なんかイヤな予感がする。
「……ペシュティーノ、僕らは主には逆らえないから悪く思わないでよ。主、僕は『弱い呪いの一種』といったけど、本来は呪いにはなり得ないチカラなんだ。ただ、主が『悪いもの』と決めつけるから、主にとってそう見えただけで」
「悪いものと、決めつけてる?」
俺、そんな決めつける質ではない……つもりだけど?
ペシュティーノは何かを察しているのか、俺の様子を心配そうに観察しているみたい。
え、なんだろう。悪いもの? 俺が、絶対的に悪いと考えてるもの……?
「主、ファリエルとかいったあの少年の『精霊癒術』はね、以前話した『精霊薬』を取り入れることで使えるようになるチカラなんだよ」
精霊薬。
精霊を強制的に具現化させ、切り刻み、溶かして作られるもの。
「ケイトリヒ様、落ち着いてください。……こちらへ、御手を」
バキン! と大きな音がしたのでびっくりしてそちらを見ると部屋の壁の一面に大きな亀裂が斜めに入り、カケラがパラパラと石畳の床に落ちた。
突然ペシュティーノに抱き上げられ、頭までギュッと抱きしめられる。
「あれ、僕がやったの?」
「ケイトリヒ様、今はお心安らかに。私の鼓動だけを聞いて下さい」
言われた通りにペシュティーノのゆったりした鼓動に耳を傾けると、どんどん気持ちが落ち着いた気がする。さっきだって別に怒りに任せて我を忘れた……つもりでは全然なかったんだけど。
「……っぶねえ、爆発するのかと思ったぜ」
「いまのは、桁違いでしたね」
ジュンとスタンリーの声。
「え? 僕、どうなってたの」
「髪が逆立って、ちょっと発光してたぜ」
「小さな雷光がいくつも……見えていらっしゃらなかったのですか」
発光?
……。
怒りで発光できるなら、遺跡に落ちて迷子になったとき便利だな。
なんて考えていたらウトウトして寝ちゃった。というか、たぶん気を失ったんだと思う。
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「あ、アヴリエル枢機卿、たいへんです!!」
「やかましいぞ! 午睡の時間に……まったく、今寝付こうとしていたところを……」
「今、たった今、精霊薬の貯蔵庫が大爆発を! 個人で所蔵していたものまで全て、全て瓶の内側から破壊され一滴も残らず霧散しました!」
体を起こして片眼鏡を探っていた手が、驚きのあまり机の上の本と飲み物が少しだけ残っていたカップをなぎ倒して下に落ちる。銀でできたカップが薄い敷物の上に落ちて涼やかな音が響いた。
「全て……? 全てとは、どういう」
アヴリエル老は自身で所蔵している精霊薬の棚に視線を向け、よろよろとそこに駆け寄った。魔力仕掛けの重厚な鍵を開けると、そこに3つあったはずの精霊薬の瓶が粉々になって、水薬だったはずの精霊薬は一滴も残っていない。
「ど、どういうことだ! 何故、こんな! これでは私の計画が……!!」
「計画?」
報告するために私室に駆け込んできた助祭の後ろにヌッと現れた陰が、ニタリと笑う。
「ぐ、グルシエル筆頭司教……」
「精霊薬を失ってこまる計画とは、なんですかアヴリエル枢機卿。もしかして、枢機卿の選出投票に関することでしょうかねぇ? 精霊薬を手配することを引き換えにして、票を集めていると噂になってますが、その計画では……あるはすがないですよねぇ〜?」
真っ青な長い髪をなびかせて、不自然なくらい大きな動きで首を傾げたグルシエル筆頭司教と呼ばれた長い耳の男は、とても楽しそうだ。
「は……ま、まさか。私はその件に関しては潔白だと結論が出ているはずですぞ」
「ええ、ええ、そうですよねェ〜。証言者が2人も行方不明になり、証拠が紛失された上で、ね。私はねェ、アヴリエル枢機卿。ヒトが決めた経典や慣習に、意味はないと思っているのですよォ〜」
グルシエル筆頭司教は、報告のために部屋に飛び込んだ助祭を下がらせて部屋のドアを閉める。いつもどおり、張り付いたような笑顔を浮かべる男がやけに恐ろしく見える。
アヴリエル枢機卿は、そう思った。
「私にとってはァ、精霊ではなく、神こそが至上の存在なのですよ〜。わかります?」
「かっ……そ、その言葉は禁忌であると!」
「すでに、禁忌の言葉などではない!」
優男という印象だったグルシエル筆頭司教の突然の豹変に、おもわずへたり込みそうになって長椅子に座り込む。
「今代の神は、精霊薬を『悪』とされた。それが神の意思である。今後、精霊薬を作ったものも求めたものも作り方を伝えたものも、全て神の名のもとに罰を与える。これが我々筆頭司教が出す、今代の『預言』です」
「なんだと!! そんな、横暴な! そ……」
喚く老人に向けてサッと手をかざすと、ピタリと声が消えた。
それに気づいた老人は喉を押さえ、次第に顔が真っ赤になる。
「あなたは、まず精霊薬を保持していたので一時的な『沈黙の刑』です。追って沙汰を下しますので、この部屋で謹慎を。ああ、食事は運んで差し上げますよォ、と〜っても健康的なやつをね……フフ」
男がパチンと指を鳴らすと、老人は喉が引きつるほど空気を吸った。抗議しようとしてもやはり声は出ない。
(グルシエル司教は【風】属性魔法の達人。今の術は見たことも聞いたこともないが、エルフ族の秘伝の術かなにかか? それどころではない、精霊薬がなければ、次回の枢機卿選出投票は……おのれ、いったいなにがあったというのだ!!?)
「ああ、たしか午睡のあとはおやつを召し上がるんでしたっけェ? まったく、見習いの助祭たちは塩をかけた堅いパンで我慢しているというのに、なにが清貧なんだか……はいこれ、枢機卿のおやつでしゅよォ〜! 置いときますね。じゃ!」
部屋のドア近くのチェストに置かれた粗末な皿の上には、助祭見習いが食べるという小さな堅いパンがひとつ。
バタン、と勢いよくドアが締まり、その表面にふわりと魔法陣が浮き上がった。
(あれは、拘禁の魔法陣!?)
アヴリエル枢機卿はドアを叩こうと立ち上がったが、膝が戦慄いて倒れ込んだだけに終わった。ふと後ろの採光窓を見ても、同じ魔法陣が浮かび上がっている。
(これは……これは、反乱だ! 神の意思など、あるはずがない! 精霊教の本部である聖殿が、エルフの邪教集団に乗っ取られてしまったのだ!)
忌々しい耳長がついに行動を起こしたのだと決めつけたアヴリエル枢機卿は、これからどう行動すべきかを必死に考えるが、まとまらない。
誰に助けを求めるべきか。最も痛手が少なくなる方法は。エルフどもを排除するには。
様々な思考が老獪な頭脳を駆け巡ったが、自らがかけた重厚な施錠魔法の中にあったはずの精霊薬が何故割れたのか。
その理由については、少しも意に介さなかった。
【おしらせ】
本作は終章_138話をもって第一部を終了し、139話より第二部に入ります。
その間、プライベートが立て込むため連載をお休みさせていただこうとおもいます。
私事都合で申し訳ありません! 連載再開後もぜひお越しください!
第二部の連載開始は2025年1月3日(金)からを予定しております。
これまでと同じく火曜日、金曜日の0時から、週2回の更新を継続します。
第二部もよろしくお願い申し上げます!