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1章_0001話_異世界、転生 1

東京都内、摩天楼を形成する高層ビルのとある階。


床から天井までガラス張りの窓から見える100万ドルの夜景と言われる贅沢な景観は、このビルの「売り」だ。

だが、オフィスビルなので、はっきり言って夜景が綺麗でも意味はない。

誰だって夜まで仕事なんてしたくないだろ。


「――様、米国の支社から今回の買収について重要な報告があると連絡がありました。また敵対勢力に対する情報も、着々と集まりつつあります」


一瞬、反応が遅れたが振り返るとロマンスグレーの髪をきっちりなでつけた秘書が顔を伏せて立っている。社員からは「執事」と呼ばれている、俺の秘書だ。


「……アメリカは今、朝か」


突然、ドッと疲労感が押し寄せて、貰い物でたいして気に入ってもいないオーデマ・ピゲの腕時計の文字盤がかすむ。


「ロシアのほうはどうだ」

「そちらも上層部の人間と接触できました。昔から日本に興味があるようで、良い情報源になりそうです。しかし、フランスが今回のアメリカでの動きに警戒しているようです」


「さすがに警戒心が強いな」

「元・軍諜報部ですからね」


各国に在籍する情報提供者の関係性を思い出すと鈍い頭痛がする。

情報は何よりも価値のある宝だが、ヒト1人が処理できる能力には限りがある。

一刻も早く情報部に解析と合理化を指示して、次の動きに備えなければ……。

頭痛を和らげるように眉間を揉むと、秘書がクリスタルのグラスに水を注いで俺に差し出した。


「お疲れのようですね。この後の会食は調整しましょうか? 幸い、相手は子会社の重役たちですのでいくらでも都合はつけられます」

「いや、大丈夫だ」


立場的には下の相手とはいえ、蔑ろにして学生気分の抜けない青二才社長、などと内心で侮られては今後の仕事がやりにくくなる。彼らには日本での俺の耳目になってもらわないといけないのだから。


「……だが、そうだな、確かに疲れた。体調管理もできない若輩と思われても腹立たしいからな、少し待たせてマッサージルームへ……」


再び眉間をもみほぐして視線を上げると、奇妙な光が目に入った。

目の前にいる秘書を明るく照らしているので俺の背後から放たれているということだ。


ゆっくり振り向くと、先程まで夜景が広がっていたガラス窓には大きなオレンジ色の光。


「―――!!!」


聞き取れない秘書の叫び声を最後に、俺の意識は途切れた。






暗い水底から空気を求めて浮かび上がるように、ハッと意識を取り戻した。


が、そこは闇のなかだ。

手足の感覚がない。


秘書の名を呼ぼうとしたけれど、名を思い出せない。

どこに居るのか、自分がいまどういう体勢なのかもわからず、じわじわと焦りと恐怖が滲んでくる。


その瞬間、ぼんやりした丸い光が現れた。

俺はその光に視線を奪われ、じっとそれを見つめる。


丸い光は、ゆっくりとその正体をハッキリとさせていき、やがて円形のディスプレイのようなものになった。平面で、表面はゆらゆらと波打っている。


そのディスプレイの向こうには大勢の人々が集まって何かの儀式をしている様子が映っている。広い空間に巨大な魔法陣のようなものをが描かれ、それを大勢の人々が囲んでいる。フードを被った人物たち……これはローブというべきなんだろうか、そういう服装の人々は手を掲げて何やら呪文めいたことを大声で唱えているようだ。


そのローブを来た人々の後ろでは騎士や中世ヨーロッパの貴族みたいなムダに豪華な服をきた人物が儀式を見守っている。……何かの映画?


何をしているのだろう、と不思議に思いながら見つめていたら、画面に映っている人々が一斉に「来たれ、勇者よ」と唱和しはじめた。


その言葉に合わせて、俺の視界がグン、とディスプレイに近づく。


「来たれ、勇者よ」


さらにグン、とディスプレイが俺に近づく。いや、俺が近づいてるのか?

まて、勇者って俺のこと? んなわけないでしょ。


映像の中の人々は顔を見合わせて、なぜ「誰も来ないのか」を不思議がっているように見えた。


「来たれ、勇者よ!!」


今度は大きくディスプレイが近づき、視界全体がディスプレイの光景に覆われそうになった。え? なにこのアトラクション? 手のこんだドッキリ的なもの? というか、俺はそういうの全然求めてないんですけど?


「来たれ、勇者よ!!」


「いや、無理」


俺が明確に拒否反応を示した瞬間、光っていたディスプレイは急に電源が落とされてしまったかのようにブツン、と消えた。


再び、暗闇しかない世界に取り残される。

長い静寂と暗闇が続くと、もしかして今のは何かのチャンスを得られる体験だったのかもしれない……? と不安になりはじめた頃。何も見えないまま、声だけが聞こえてきた。


「いやー、悪いね、無理やり来てもらっちゃってさ。で、ほんと申し訳ないんだけど、この世界には必要なことだったんだよね。許してほしいとは言わないけど、まあ、諦めてほしいんだ」


軽い口調の声が聞こえる。

この暗闇に、人がいる?


「誰だ」と言おうとしたけど、声がでない。

さっきは確かに言葉が出たのに、目の前の誰かに「声」を使って話しかけようとしても出ない。喉が変だ、と思ったが、妙だ。

口を動かすとか、耳を澄まそうとしても()()()()()()()()だ。


「あー、大丈夫、大丈夫。体がなくても心配しないで、君の思考や意志は改変するつもりはないよ。でも、今はただの精神体だからねえ、あまり混乱しないでほしいんだけど」


体が、ない? セイシンタイ?


さっき、諦めてほしい……とか、混乱しないでほしい……とか言われた気がするけど、もしかして、これは。


もしかしなくても、俺は……死んだのか?


「おー、さすが! 察しがいいなー! やっぱりこの時代の人類って宗教的な概念が固定されていなくても、精神的に豊かだよねえ。まあそういうことだから、ね? そのー、要は諦めて? んで、これからの変化を受け入れてほしいってこと! いい?」


いや、いいわけねーだろ!


思わず勢いよくツッコミを入れそうになった瞬間、存在しないと思っていた「体」の感覚が戻ってきた。

金縛りにあったように何も動かないけれど、確かに手や足、口や耳の感覚がある。


「ほら、キミってさあ、地球でいうところの『成功者』じゃん? キミくらいの若い年齢で、膨大な因果律を背負ってるなんてほんとすごいよね。あんまり年齢が高いと、やっぱり存在や概念が固定化しちゃって、呼ぶのが大変っていうか、崩壊しちゃうっていうか……まあそういうわけでキミしかいなかったんだ! ああ、でも誤解しないで、これが理由で死んだわけじゃない。キミは地球で死ぬべくして死んだんだ」


待て待て。

因果律とか死ぬべくして死んだとか、今はどうでもいい。


俺は今、一体どんな状況に置かれているんだ? これが死後の世界ってやつ?

特に信仰は持ってなかったけど、これって地獄と天国を分ける前段階?


動かそうとするとギシギシと軋む関節。

喉や目が焼けるように痛い。胸には鉛でも入っているかのように重く苦しいし、先程まで何も聞こえなかったはずの耳からはキーンという耳鳴り。呼吸もままならず、鼻は塞がれて口で呼吸するしかない。

痛む喉は腫れているのか、頑張って吸ってもか細い空気しか胸にもたらされない。


いやまさか、棺桶の中!? 今から火葬場に……!?


「まあまあ、落ち着いて。キミの身には危険はないよ。ああ、でも接続はもうすぐ切れるから、その前にキミを地球から呼んだ理由を言っておこう。この世界の神になってもらいたいから。いい? というわけで、今回は以上だよ! じゃあ、()()!」


だ・か・ら!!


いいわけねーだろ!!!


説明不足なんだよ!

何かを成してほしいって依頼だか願いだかがあるなら、まずは情報をよこせ!

判断はそれからだ!!


と、叫んだつもりが、喉が詰まって弱々しい咳にしかならなかった。


「えほっ」


その瞬間、耳鳴りの向こうから数人の人の声が聞こえてくる。


「――――様!」

「おお、――様! 感謝しーーー! 誰か、―――!!」

「――、水をーー!」


ひどい耳鳴りでほとんど聞き取れないが、男性や女性の入り交じる声、慌ただしい足音。

柔らかいものが頭とこめかみに触れて、優しく撫でてくる。


「ケイトリヒ様……!!」


男性の声だったが、聞き覚えがある。

その声を聞いただけで、なぜか落ち着いた。

父親だろうかと一瞬考えたが、どういうわけか確信的に「そうではない」と思い浮かぶ。


俺は地球で死んだんだ。そして今、誰かに生まれ変わった。

状況はわからないが、それだけは確実に理解した。


知らないはずなのに知っている。

奇妙な感覚を覚えたが……それよりも優先すべきことがある。

どうやら推測するに、俺の体は病か怪我か何かで死にかけている。


まだ目は見えないが周囲には常にヒトがいて、定期的に水や重湯らしきものを口元に差し出してくる。額には冷たい濡れ布巾らしきものが置かれていて、それも甲斐甲斐しく常に交換されている。


様々な声で「ケイトリヒサマ」と呼ばれるので、それが俺の名前なんだろう。


……どこの国の名前だろう?


日本語で様づけで呼ばれるということは、それなりに大事にされているか、重要な……外国人の人物ということか。

よくわからないが、とにかく体はまったく俺の思い通りにならないし、五感も鈍い。


この体が弱っているというなら、よく食べてよく寝ないと。

よくわからない今は優先順位を切り替えよう。情報収集はいったん諦め、努めて体力を消費せずに状況の改善を待つ。

世話をしてくれる人間はいるようだから、俺はただ眠ればいい。


そう考えて意識を手放すと、聞き覚えのある声の夢を見た。


「情報をよこせ、かぁ。キミ、この世界で一番最初に望むものは、()()なんだね?」


どうやらついさっき「また」と言って別れた謎の人物が現れたようだ。

時間の感覚があやふやなので、ほんとうについさっきだったのかは怪しいけど。


「興味深いね、やっぱり今まで会った地球人とは少し違う。そうだね、神になる予定なんだからそれくらいの力があってもいいよね。っていうかキミって納得しないと神になってくれなさそーだしなあ。いや本当はそれ以上の力があるんだけど、それはほら、神にならないと開放されないから、これはギフトだと思って。はいどーぞ」


男だか女だかも判別できないその声は、一方的にペラペラと喋ってまた消えた。

どうぞ、と言われたけれど何かを得た感覚はない。


……言葉の流れからすれば、何かしら情報を得る力を得たってことだよな?


ふと目覚めても、何か情報を得たくても相変わらず耳鳴りはひどいし、声を出そうとしても喉も口も息をするだけで精一杯。生まれ変わったんじゃなくて地獄に落ちたのではないかと思えるほどの苦痛と息苦しさだ。一体なにをくれたんだか。


しかし、寝ることしかできない俺は努めて寝て、食べられる限り食べて、そして体感にして数日もすると、次第に慣れてきた。

時間の感覚はわからないがひどく長い間眠っていたと思う。何度も食事が運ばれたし、夢うつつの中で着替えをさせられた感覚がある。


もしかしたら慣れたのではなく、症状だか病状だかが落ち着いたのかもしれない。


鼻で呼吸ができるようになり、耳鳴りが落ち着いた。

目は開かず、声は相変わらず出せないが周囲の会話が聞こえるようになると、地獄の苦痛とはまた別のものが俺を(さいな)んだ。


「お可哀想に、こんなに痩せて……もう少し重湯を召し上がってくださればいいのですけれど」

「癒術士の見立てでは5歳の誕生日までは生きられないかもしれないと……」

「あの✕✕✕女、狂ってるわ。こんな小さな子どもにひどい真似を」


え、待って? ごさい? 後妻? 五菜?? いや5歳ってこと?

誕生日来てないってことは今4歳?


俺、子供?

生まれ変わりって、同年齢の人物とか生まれたばかりとか、そういうチョイスじゃなくて子供なんだ、へぇー、ふーん。まあ生まれ変わりに常識も何もあったもんじゃないだろうから、別にいいけどさ。


ゆじゅつしってナニ? 何か謎宗教の医療者みたいな立場?

ここ日本だよね? できればお医者さんに診てもらいたいんだけどな!!


得体の知れない謎の声が言っていた「この世界の神になってもらいたい」って、もしかしてそういうこと? 神っつーか教祖? それなりに大事にされてるって、もしかして変な宗教団体の跡取りみたいな立場? うわっ、やだな。ハードモードすぎない?


というか誰か女性のせいで俺はこんな目に? 4歳の子供が? 一体なぜ?


(全部あの魔女のせいだわ、忌々しい。か弱いフリをして実の息子にこんなひどいことができるなんて、どうかしてる)

(あのお付きの男はなんて献身的なのかしら。あれだけ見目が良くて魔力が高いなら、ラウプフォーゲルの役に立つから御館様の覚えもめでたいでしょうけれど)

(御館様は何をお考えなのかしら……こんな事があってもあの魔女を第三夫人から除籍しないなんて……)


「音」とは違う、脳内に直接響くような不思議な声色で、女性たちの声が響く。


え? 実の息子? 俺がこうなったのはこの体の持ち主の母親のせい?

マリョクって何? ラウプフォーゲルって何? オヤカタサマ? 時代劇で聞いたことあるけどこんな言葉、現代の日本で使う?

第三夫人? 一夫多妻制の国? いや日本語使ってるから日本だよね?

まさか法治国家日本から隔離された独自の閉鎖空間の中の宗教団体……?


そう、俺を苛んだのは情報。ようやく得た情報らしき言葉、そして不思議な脳内言語は全く理解できないばかりか、さらに謎を呼ぶばかりの代物だ。


「失礼、お喋りは部屋の外でお願いします。ケイトリヒ様は着実に回復しています。お耳に入りますよ。夕餉(ゆうげ)の重湯を準備していただけますか。替えのシーツもそろそろお願いします」


男の声がたしなめると、3つの女性の声は曖昧に答えて部屋を出ていった。

短い息を吐いた男が俺の髪を撫でる。

熱がわだかまる髪に、梳き入れられた冷たい指が気持ちいい。


「んう」


初めて発した言葉は言葉にならなかったが、異様に声が高い。……マジで子供?


「ケイトリヒ様?」


真っ暗な視界に、突然光がさす。

目を覆っていたものが取り除かれたようだ。

ぱちり、と目を瞬かせると、目の前にぼんやりとしか見えない金髪緑眼の男性がそれを見て息を呑んだ。


「ケイトリヒ様ッ!! わ、私が見えるのですか? 御目が見えているのですか!!」


「ん゛っ」


「うん」と言おうとしたのだが、うまく発声できず変な声になった。

何度かまばたきをしてぼんやりした男に焦点を合わせると、男は目に涙をいっぱいに浮かべた……たぶん、20代後半から30代くらいの男性だ。明らかに生来のものと思しき金髪と、彫りの深い目元に高い鼻、そして異様なまでに彩度の高いライムグリーンの瞳。

外見の特徴は白人のようだけど、瞳の色の鮮やかさはフィクションっぽいし、随分流暢に日本語を話す男だ。


ふと周囲を見回すと、天蓋付きのベッドから垂れ下がる豪奢な刺繍が施された幕。その向こうに見える壁も窓枠も異様にデコラティブで、目眩がするほど豪華なヴェルサイユ宮殿の中みたいだ。


「ここ、どこ」


ようやく紡いだ言葉を聞いて、目の前の金髪の男は感極まったように涙をこぼして俺を抱きしめた。くるちい。……いやまて。


この男、ものすごくでかいぞ!?


後頭部にあてがわれた手は俺の頭をまるまる包み込むくらいでかい。抱きしめ攻撃に応えるか拒否するか手を迷わせていると、俺の手を限界まで広げても男の脇腹にも届かない。


マジで俺、4歳……?


「ここは、西の離宮にあるケイトリヒ様の寝室ですよ。お気に入りの木馬も、ロランが直してくれました。お体が良くなったら、またお外で遊びましょうね」


俺を見つめて、男は涙をこらえながら言う。

「お外で遊びましょう」という言葉に、俺はなぜか強い喜びを覚えた。

これは、この体の記憶なのかもしれない。


「また、おそとであそべる?」


「ええ、もちろんです! たくさん食べて、たくさん寝ればまたお外で遊べますよ。そのときはお父様にお願いして、ポニーに乗りましょうね」


男は俺の頭を撫で回し、優しい声色で声をかけてくる。

撫で回される気持ちよさにウトウトすると、再び脳内に声が響く。


(ああ、精霊よ、命の本流よ、この世を構築するすべての偉大なるものよ。この幼子の命を奪わないでくれてありがとうございます。これからは私が、私の全てをかけてこの子をあらゆる厄災から守ります)


先程の発言からも、この男は父親ではないようだけども。

想いだけは親と変わりないほどの強い愛情を持っているようだ。


ようやく体を離されると、俺は自分の手を見つめる。

短い指と小さな爪、赤ん坊のような手だ。でも腕も足も俺が見慣れた赤ん坊と比べるとがりがりに痩せ細っていて、皮膚が黒ずんでいる。まじまじと自分の手を見つめる俺を不思議に思ったのか、金髪の男は俺の手にそっと大きな手を添えてくる。とんでもなくでかい手だ。指は蜘蛛の足のように長い。


マジで子供なのか……4歳……にしては、ちょっと小さすぎるような。

いや、正直子供の発育具合なんてあまりよくわからないが、4歳といえば幼稚園の年中さん? 年少さん? その頃の自分を思い出そうとしても、あまり覚えてない。


「まあっ、ペシュティーノ様! 王子殿下がお目覚めに!?」

「いけませんわ、まだお起きになっては体に障ります!」

「大変、重湯をもう少し用意しないと!」


部屋を開けて入ってきた女性たちは、頭を帽子で覆い、ドレスにエプロンをした……ヨーロッパの中世のメイドのような服装をしている。

ドレスの色は様々だがきれいに染色されていて、襟首のデザインや帽子には上等なレースもあしらわれた無駄に豪華で清潔そうな身なりだ。


コスプレ? かと思ったが、ふと改めて男の服装を見てみるとスーツのように見えていた服装は、スーツと呼ぶにはちょっとデコラティブ過ぎる。まるで中世ヨーロッパの貴族みたいな……いや、どちらかというとゲームや映画で見るファンタジー世界のような。

ボーッと見ていると、メイドたちは食事の準備を始め男は新しい着替えを用意して俺が横たわるベッドの端に腰掛ける。


「ケイトリヒ様、食べられそうですか? 少し無理をしてでも、可能な限り召し上がっていただきたいのですが……まずはお体を清めましょうか」


男はそう言うと、ポカンとしている俺に手をかざして「洗浄(ヴァッシュン)」と呟いた。

温かいお湯が俺の頭からジャバ、とこぼれて体にかかる。びっくりして顔を上げると、その間にお湯は意志あるもののように着ているものをビシャビシャにしながら俺の体をするするとなぞって足先までたどりつくと、きれいな弧を描いてベッド脇のバケツに吸い込まれていった。着ているものはもう少しも濡れていないのに、体はお風呂上がりのようにスッキリしている。


「清浄の水魔法ですよ。気持ちいいでしょう? さあ、ご飯にしましょう」


「まほう」


俺がポカンとして呟くと、男はニコリと微笑んだ。


「ペシュティーノ様、重湯とホットミルクをお持ちしましたわ。臭み抜きは、ご指示の通りにしてあります」

「ありがとう、ミーナ」


……この男の名はペシュティーノというのか。どこの国の名前だろ? 日本人じゃないよね間違いなく。キラキラネームにも程があるし、見た目も日本人離れしてる。


うねうねした飾り彫りのされた銀色のトレイを受け取ると、男は小さな椀から木匙で中身をすくい、ふう、と息を吹きかける。その息には謎のキラキラが含まれていて、木匙を覆ってふわりと消える。


「まほう?」


俺が言うと、男は……ペシュティーノと呼ばれた男はニコリと笑った。


「そうですよ、熱を奪う風魔法です。お口をあけて」


口元に差し出された木匙から、白く濁ったスープのようなものをちゅうと吸って飲む。

うん、ほぼ水みたいな、温かいお粥だ。米の研ぎ汁みたいな形状だが、風味からして米ではなく麦だ。固形はほぼない。椀の中身を食べほすと、次はミルク。小さなカップを差し出してきたので受け取ろうと手を伸ばすが、俺に持たせてくれず、口にあてがう。

人の手で飲まされるのなんて慣れないが、今はされるがままにしたほうがいいだろう。


ゴクゴクと飲み干して「ぷはあ」と言うと、掛布にぽたりと水が落ちた。

見ると、男が涙をこぼしている。


「ケイトリヒ様……よかった。よかった……!」


父親ではないはずの男……ペシュティーノは、俺の食事を見届けて再び俺をやんわり抱きしめてくる。背中を優しくさすられると「え゛ふ」と、ゲップが出ちゃう。


「ふふ、たくさん召し上がって、えらいですね」


ふと見ると3人のメイドたちもウンウンと頷きながら涙を浮かべている。


……死にかけていた子供が回復したら、これくらい喜ばれるものなのか。

他人事のように感心していると、急激な眠気を感じて意識を手放した。

夢うつつの中でも、布団に寝かされて髪や頬を優しく撫でられ、俺の回復を喜ぶような会話がメイドたちと男の間でぼんやり聞こえる。


ケイトリヒという子供は、王子と呼ばれていた。

新興宗教かなにかで歪められた社会に生きる地位ある子どもだと思ったが、明らかにトリックなどでは説明がつかない魔法という存在がある。


ここは……どうやら日本ではない。別のどこかの国でもない。

確かに、謎の声は俺のことを「地球人」と呼んでいた。


どうやら、ここは地球ではない別の世界のようだ。

そして疑いようもない事実……この世界には、「魔法」が存在する。

体験したのだから、もう疑いようもない。


あまり詳しくないが、アニメや映画、ゲームなどではお決まりの「魔法」。

物理法則を無視する不思議ななにか。


マジか。


マジか……。


なるほど、俺を「地球人」と呼ぶわけだ。地球の物理法則なんかが全く当てはまらないのなら、中身が大人というのもあまり意味がない。もちろん社会性においては大人の優位性というものがあるだろうけど、知識という点では微妙だ。


4歳。

中身大人。

魔法、知らない。

自分の立場、全然理解してない。


……。


神になるつもりは、正直ない。だが世界で普通に生きていくことを考えただけでも、あまりにも情報が不足している。

よし、まずはケイトリヒ4歳としてこの世界で普通に生きていくため、お勉強をしてこの世界の情報収集だ!


元の世界で死んだというのなら、あれこれ考えても無駄だろう。愛情深い家庭環境とはいえなかったがそれなりに家族は大事にしていたし、友人もたくさんいたし、成功者としての立場にも心残りはある。親から受け継いだ会社の社長を1年程度務め、やり残したことも多い。

あまり思い出せないが、どうやって死んだんだろうか……死因も状況もあまりはっきり思い出せないが、今はもう意味のないものになってしまった。


今の俺はケイトリヒ、4さい。王子、らしい。西の離宮に住んでいる。

母親は毒親の可能性あり。育児放棄(ネグレクト)か暴力かはわからないが、たぶん虐待されたんだろう。だがその状況は改善して、我が子のように可愛がってくれる謎の男ペシュティーノという人物がいて、メイドからも可愛がられている……ようだ。ラウプフォーゲルという固有名詞が何を示すかはまだ謎だが、多分地名か国名じゃないかな。


今はまず、この体の病気を全快させて、元気になるのが先だ!



起きている時間が増え、濁った液体だったお粥には徐々に固形が混じりはじめ、今では普通のお粥。味はお世辞にも美味いとはいえないが、時々グズグズに煮込まれた野菜や肉が入ったスープも一緒に出された。

美味くなくても体の成長にも病気の全快にも栄養が必要だ。もりもり食べる。

もりもり……食べているつもりだが、あまり食べ過ぎると吐く。

子供の体のままならぬ部分よ。


食事の世話はもちろん、風呂代わりの清拭も、おまる式のトイレも、どれもこれもメイドとペシュティーノ頼み。


人前で排泄するのは中身大人な俺にはかなり抵抗があったが、出るものは出るし、自力ではベッドを出ることもまだ難しい。

俺は4さい、俺は4さい、病弱な4さい……。

そう言い聞かせてありがたくご厚意に甘えるというか無我の境地というか諦めの境地というかそういうふうに割り切ることにした。


でもある日なんかはペシュティーノがおまるの中に鎮座する「出したもの」を見て「だんだん固形になってきましたね、回復している証拠です」なんてニコニコするもんだからほんとにやるせない。

俺は4さい、俺は4さい、ひとりじゃなにもできない4さい……!!


普通の4歳って、着替えとか食事とかそろそろひとりでできる頃じゃないのかな。

俺の子供の頃も幼稚園だか保育園だかに行ってたと思うし。

ここまで世話を焼かれる理由が病弱だからなのか、発育が悪いのかは謎。


ウトウトしたら寝て、起きたらご飯をたべて、暇になったら本を読んでもらって。


読んでもらう本は子供向けの童話集みたいなものだった。が。

内容が荒唐無稽すぎて、ついなんでも質問してしまう。ペシュティーノは丁寧にそれに答えてくれるが、ある日ふと思いついたように素晴らしい提案をしてくれた。


「ケイトリヒ様は知りたがりなのですね。とてもいいことです。少し早いですが、文字のお勉強を始めましょうか?」


そう言われた瞬間、俺は目玉がこぼれるほど目を見開いた。

そうだ、どうせベッドの上から動けないのなら知識を得たほうが効率的だ。


「するー!! おべんきょう、するー!」

「おや、そのように喜ばれるとは思いませんでした。では早速明日から始めましょう」


文字が読めれば本が読める。本が読めれば知識が手に入る。知識が手に入れば情報の集め方もわかる。

メイドたちもペシュティーノも、どういうわけか本を読み聞かせするときはベッドから少し離れたスツールで読み上げるので、本の中身は見せてくれないんだな。

話している言葉は日本語だが、文字も日本語だろうか?

明日にはわかることなので考えても詮無いことだろうが、どうも違う気がする。

遠目に見た本の背表紙が明らかに日本語じゃなかった気がするから。


だとしたら言葉はどうなっているんだろう?

俺としては前の世界と同様、日本語の発音をしているつもりだが、異世界転生ものの物語によくある「言語チート」と呼ばれるものかもしれない。

日本での俺はその手のアニメやラノベなんかにあまり明るくないので詳しくはわからないが、流行っていたアニメの話を漏れ聞いたときに疑問に思ったものだ。

突然全く違う世界に連れて行かれたとして、言語はどうなるのかと。


……あのペラペラ喋る謎の声に聞いておけばよかった。

あまり会話が通じるとは思えないが、いつまでも正体不明なのも勝手が悪い。


とりあえずあいつは「神|(仮)」とでも呼んでおこう。


今度、神|(仮)と話せるときが来たら聞いておこうリストを作らないとな。

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