6 祭の夜に届ける願い
「ディル様、こちらもお召し上がりになりませんか?」
「リ、リーシャ嬢!?」
ニコニコとアトリーシャに皿を差し出されて、ディルダートはギシリと音がしそうな程固まった。
一応お忍びで出掛けるということで、互いに名前を省略した形で呼び合うようにしていた。辺境から9年ぶりに王都に来たディルダートはそのままでもさして問題はないのだが、王子妃間近だったアトリーシャは式典で第二王子と共に参加することもあった為、平民にも顔と名は知られている。彼女の方は念入りに変装する必要があった。
変装の魔道具によって、アトリーシャの髪色は栗色、目は淡い樺色という平民によくある色合いに変化していた。そして貴族特有の抜けるような肌の色の白さも、健康的な色味になっている。顔の造作は変わらないので見惚れるような美しさではあるが、色味が目立たない為に上手く紛れているようだった。
着ている物は、マリア渾身の「幼い頃の護衛が出世して戻って来て再会したばかりで祭に誘われた男爵家令嬢(無自覚)」という複雑な設定のもと仕上げられている。言われてみればそんな気がしなくもない絶妙な「下位貴族だが箱入り世間知らずのご令嬢」感はある。
ディルダートはそのままでもいいと主張したのだが、マリアに「出世した護衛がご令嬢に意識してもらおうと祭に誘った(下心のある小心者)」という微妙な役割を厳命されて、変装の魔道具で焦げ茶色の髪と目に変えられていた。しかし、体格はそのままなので赤熊から普通の熊になっただけのようにも見える。
マリアの謎の拘りである。
「…い、いただき、ます」
「あの、お行儀が悪いとは思うのですが、ディル様のお皿の方を味見してみたいので、一ついただいでもよろしいでしょうか?」
「どどどどどど、どう、ぞ」
アトリーシャは、彼の手にした皿から自分の木製のフォークを使って一つ取ると、パクリと躊躇いなく頬張った。
お互い手に持った皿に乗っているのは、先程屋台で購入した、小麦粉を溶いた生地の中に色々な具材を入れて丸く焼き上げた一口大の焼き菓子だった。アトリーシャの皿には中にジャムが入って上にクリームを乗せた甘い物。ディルダートの皿にはハムとチーズと入れて少し辛いソースを塗った物が乗っている。
「まあ、同じ物でも随分味が変わるのですね!だからあれだけ種類がたくさんあるのですねえ。色々試してみたいですが、全種類食べるには何年も掛かってしまいますわ」
アトリーシャの食べる量では、おそらく手にした一皿で満腹になってしまうだろう。少し残念そうな顔をしながら、彼女は自分の皿の甘い方をもう一つ口に入れる。やはり甘い方が好みらしく「美味しいですねえ」とニコニコしながら咀嚼している。
祭の高揚感と普段よりも庶民的な見た目になっているせいか、行動も感情もいつもより素直に外に出せているようだ。言動だけ見ていれば、彼女を淑女の鏡、社交界の白百合と名高い伯爵令嬢と同一人物とすぐに気付く者はなかなかいないだろう。
ディルダートはどうしたものかと共に来ている数人の護衛達と少し離れたところにいるアレクサンダーを見たが、彼はニヤニヤと笑いながら口だけで「残り全部食ってやれ」と言っていた。
ディルダートは、器用に一気に自分の皿の上に乗っていた方をフォークで回収すると、一口で口の中に放り込んだ。それを見て、アトリーシャが目を丸くする。
「ア…リーシャ嬢、少々腹が空いてしまってな。そちらもいただいてもよろしいだろうか」
「え?で、ですが食べかけですので、新しいのをお買いになった方が…」
「焼き上がるまでに時間がかかるので…待つ間に空腹に耐えられそうにない。新しいものを買ってお返ししますので、よろしいですか?」
「は、はい。どうぞ、少し冷めておりますが」
ディルダートは礼を言って、自分の皿と同じように一気に回収してバクリと食べてしまう。
「次の皿もリーシャ嬢の食べたい物を注文しましょう。何種類かお好きな物を選んでください」
その後もその焼き菓子の屋台だけではなく、アレクサンダーおすすめの屋台や店を渡り歩いてはそれを分け合い、結果的に祭に来る前に彼がディルダートに提案した通りのことになったのだった。
----------------------------------------------------------------------------------
「楽しんでおられますか?」
「はい!とても!ディル様はいかがですか?わたくしだけが楽しんでしまっているようなのですが」
「俺も楽しい。こんなに楽しい祭は初めてですよ」
「それなら良かったです!」
さすがに色々食べ過ぎてしまったので、少し休憩しようと人の少ない場所に来ていた。
川沿いの店舗と民家の境目の辺りにある小さな公園で、屋台や食事処は少し先の方から途切れている。そのせいかここまで足を運ぶ人は少なくなるため、休憩するには丁度良い場所だった。
川の側のベンチに座ると、そろそろ宵闇が迫りつつある街中に明かりが点り始めたところだった。点灯の時間は決まってないらしく、光が川面に反射する部分と暗く沈む部分が出来て、深い森の中のような奥行きを思わせた。ちょうど目の前の建物の白い壁に、川から反射した光が映って、薄布を幾重にも重ねたような大きな花の模様が壁一杯に広がった。
「綺麗だわ…あれはどうやって作られるのかしら」
「半分偶然ですよ」
他の護衛達にこの場を任せ、ディルダート達の飲み物を調達して来たアレクサンダーが、程よく冷えたカップを手渡しながらそう答えた。普段果物を売っている店だが、祭の日だけは特別に良く熟れた果物を絞ってジュースにして売っているので、味の良さは折り紙付きだった。
「あの川に反射した光が、あの建物の壁に映るのまでは考えられてます。でも、その光がどこからどのタイミングで光るのかは決まってませんから、この川周辺に住んでいる人々の胸先一つ、ですね」
「では、今、共にいる方とだけしか同じ景色を見られないのですね」
「そうなります」
反射光が、アトリーシャの顔を照らす。その光が瞳にも映って、彼女の大きな目が星でも散らしたかのように煌めいている。
「あら?」
「リーシャ嬢、どうしましたか?」
しばらく無言で光の移り変わりを楽しんでいたが、不意にアトリーシャが声を上げた。一瞬ではあるがポカンとした表情で目を瞬かせていたが、ディルダートに声を掛けられて我に返った。
「あ、いえ…川向こうの街道に、その、ディル様がいらしたように見えて」
「?俺はここにいますが」
「そ、そうですよね!それに、赤い髪でしたし…ただ、あまりにも似ていらしたからビックリしてしまって」
「本物の赤熊が歩いていたわけではないですよね?」
アレクサンダーが遠慮のないことを言った。その言葉にアトリーシャが思わずクスリと笑った。
「そんなことになったら大騒ぎですわ。きっと赤い髪の大柄な方だったから勘違いしてしまったのです。ほら、ディル様は赤い髪の方がお似合いですし…」
「あ、ありがとうございます」
ディルダートは不意に褒められたのでブワリと赤面した。ちょうど壁に赤い光が映し出されて顔と同じ色になった為に、アトリーシャは気付かなかったようだ。最近ではアトリーシャとのやり取りにも馴れていたディルダートだったが、不意打ちだとやはり赤面してしまうようだ。
「アレク?何か気になることでもあったか」
「…いや…まあ気になると言えばなるんだが、さすがに今日は怪しいヤツが多過ぎてな」
「…ああ、確かにな」
彼女がディルダートに似た者を見かけたと言った方向をじっと見つめていたアレクサンダーに、ディルダートが小声で聞く。どうやらそちらの方向の気配を読んでいたようだったが、祭でいつも以上に人が多いので特に怪しい者は判別出来なかったようだ。試しにディルダートも軽く索敵魔法を掛けてみたが、小さな悪意が点在しすぎていて混沌としているだけだった。
人が多くても夜会であれば、妙なところに潜んでいる悪意や暗殺者の明確な殺意などを見分けるのは容易いが、街中では雑音が多すぎる。
「一応騎士団も自警団もいつもより多く配備されているしな。俺達はリーシャ嬢に気を付けていればいい」
「そうだな」
----------------------------------------------------------------------------------
そろそろ周囲が暗くなって来たので、アレクサンダーに先導されて途中でランタンを購入しつつ少し小高くなっている丘の広場に向かった。
夕刻を過ぎると、凝った意匠のランタンの店は長蛇の列をなしていた。必ずしもランタンは空に放たなくてもいいので、土産として持ち帰る者も多いのだ。
三人は、比較的空いている店を選んでランタンを購入した。小ぶりでアトリーシャの両手にちょうど収まる程度の品で、花の形は単純なものであったが使用している紙の色が豊富だった。
ディルダートは薄い水色、アトリーシャは赤い色を選んでいた。そしてアレクサンダーは妻の髪色に近い緑のランタンをじっくり吟味していて、結局選び切れずに僅かずつ違う色味の緑のランタンを5つも買い込んでいた。
「さすが愛妻家で名高い副団長様ですね」
「やはりこちらでもそうでしたか。辺境領でも婚姻前から有名でしたが未だに変わらぬようですね」
その様子を見て、アトリーシャは感心したように言う。
辺境領に研修で来ていた僅か半年でも、アレクサンダーの婚約者への溺愛っぷりはそれこそ領民に万遍なく知れ渡っていた。
「ですから令嬢達の間では人気がありますのよ」
「えっ?そうなのですか…」
「貴族女性は、特に家格が高い家になれば大半が政略、家の為の縁談ですから。副団長様も奥様とはもともと家同士の婚姻だったと伺いました。それでもあれだけ奥様に愛情を注いでいらっしゃるのが…皆、憧れる、と」
「そう、ですか」
手元に抱えたランタンを見つめるアトリーシャの目に、僅かに寂し気な色が浮かぶ。その視線の先に誰が浮かんでいるのか、ディルダートは何となく察してしまって掛ける言葉が見つからなかった。
----------------------------------------------------------------------------------
少し小高い丘になっている広場は、ランタンを空に放つ為の人々で溢れていた。それでも敢えてアレクサンダーがここに連れて来たのは、やはりここから見るランタンの舞う景色が最も美しく見えるからだった。
ただ、あまりにも混み合う中心街を一望出来る場所は避け、少し外れたところを選んだ。少しばかり木々に隠れてはいるが、ランタンが空高く上がってしまえばそれほど視界を妨げることにはならない筈だ。どちらかというと通好みの場所の選択だ。
ランタンを空に放つ時間を知らせる為に、王城の中にある大神殿が鐘を鳴らす。通常ならば中心街全域は聞こえないのだが、今日は風魔法を使う魔法士達が音を行き渡らせる。こうして各所でほぼ同時に火の点いたランタンを飛ばさせた後、王都上空の風を操って火事などを起こさせないようにしているのだ。勿論、万一に備えて水の魔法士も多数待機していた。
「もうすぐですよ」
アレクサンダーに声を掛けられて周囲を見ると、多くの人達が手元のランタンに火を点していた。大神殿の鐘が鳴ると同時に空へ放つ為だ。アレクサンダーの持っている5つのランタンにはもう火が点いていた。熱によってフワリと浮かびかけているのを、ランタンに付いた細い紐で手元に留まっている。
「俺が点けましょう」
赤いランタンを胸に抱えるようにしていたアトリーシャにディルダートが声を掛けた。火魔法が得意な彼は、指先に小さな炎を出現させる。
「リーシャ嬢?」
彼の声は聞こえている筈なのだが、アトリーシャは胸に抱えたままの姿勢でじっとしていた。
「…持ち帰りましょうか」
「あ…その…いいえ。点けていただけますか、ディル様」
少しだけ声を低く呟くように言ったディルダートに、ハッとしたように胸から離して両手でランタンを差し出すようにする。
ディルダートが無言でそっとランタンの中に指を差入れて、小さな燃料の入った容れ物から伸びている芯に火を点す。簡易的な防火加工を施している紙製のランタンは、フワリと柔らかな光を放ちながら浮かび上がる。その光に照らされてアトリーシャの顔がほんのりと赤い色に染まった。
続けてディルダートも自分の持つランタンに火を点けた。同じように熱を持った光の筈なのにランタンの青白い紙の色を透かしているので、彼女の持つ物よりも温度が低いように感じられた。
----------------------------------------------------------------------------------
遠くから、小さくはあったがハッキリと鐘の音が聞こえた。
周囲の人間が、手にしていたランタンを一斉に空に放った。
色とりどりの花を模した光るランタンが一斉に空を舞う。この広場よりも低い街のあちこちからも、まるでこちらに向かって流星群が登って来るように無数の光が解き放たれて行く。いち早く空高く舞い上がった光は、星と混じり合うように輝いて頭上で風の流れに乗って渦を巻く。
その光景は、まるで眼下も頭上も星に囲まれているのではないかと錯覚する程美しかった。
ほんの少しだけ人より遅れて、アトリーシャはランタンを手放した。彼女のランタンは、くるくると回るようにして他のランタンの光と混じり、やがてすぐにどれか分からなくなった。
風の魔法士が操っているのだろう。高いとこまで到達した光が一つの帯のように連なると、フワリと渦を巻いてから弾けるように一瞬だけ強い輝きを放って霧散した。その光景に、空を見上げていた人々から、わあっと歓声が上がる。
「綺麗…ですね」
「ええ…」
少し残っていたランタンの光もすっかり燃え尽き、空に光るのは星だけになった。
これで今年の百花祭は終了となった。
まだ少し熱気の残る空気の中、人々が少しずつ帰り始める。明日は飾り付けた花を街中総出で外し、各所の神殿に集められて燃やすことになっている。これに参加するのはそれぞれの区画の顔役のみで、後の人々は日常に戻る。
「ディル様」
「何でしょう」
アトリーシャは祭が終わっても、しばらく空を見上げたまま動こうとしなかった。魔道具で変えている樺色の瞳が、物思い耽るように少し揺らいでいる。
ディルダートは急かすこともなく、髪色と同じ色に変化している栗色の長い睫毛のはっきり見える彼女の横顔を見つめていた。今まではこんな風に彼女の顔を長く見つめることなど出来なかったが、いつもと違う雰囲気のせいか、それとも彼女の横顔が消えてしまいそうな程寂し気に映ったからか、目が離せないでいた。
長い沈黙の後、アトリーシャは静かに目を閉じて呟く。
「わたくし、あのランタンに、皇女様とお子様がご無事であるように祈りました。でも…多分偽善なのだと思うのです」
「リーシャ嬢…」
「わたくしの…わたくしが満足するだけの偽善を、神様達はお赦しくださるでしょうか」
嫁いで来た皇女は、第二王子と婚約後、僅か2ヶ月ほどで婚姻していた。そしてその直後に懐妊のニュースが貴族の間に流れた。急な婚約発表からの流れに大半の貴族達は薄々察してはいたが、表向きは王家に祝いを述べていた。そしておそらくその子供は、数ヶ月の「早産」となって誕生するであろうことも。それを予測して、既に祝いの品を準備している者も多いという。
「リーシャ嬢。その…学園で世話になった教師が言っていたことの受け売りなのですが…」
ディルダートは言葉を模索しながら、慎重に口を開いた。アトリーシャは目を開いて、少し不思議そうに小首を傾げながら彼に目を向ける。その愛らしい仕草にディルダートの心臓は跳ね上がったが、今はそうではないと自分に言い聞かせて心を鎮める。
「寄付する為に差し出した金貨は、差し出した者の見栄や虚栄心から出されたものでも、寄付された者が正しく使えばいいのだ、と言っていました。重要なのは差し出した者の気持ちではなく、受け取った者の使い方だと」
周囲には人はいなくなって、少し離れたところに控えているアレクサンダーと別邸付きの護衛だけになっている。この会話は彼らの耳にも届いているかもしれないが、そこはきっと聞いていない態を取ってくれるだろうと思うことにする。
「リーシャ嬢の祈りは、たとえ偽善から出たものであっても、受け取った神が正しい祝福として使えばいいのです。赦されるとか、そういったものではないのです」
彼は一歩彼女の側に歩み寄ったが、自分の体格では威圧感を与えてしまうかと思いその場に膝をついた。ふと、初めて夜会でアトリーシャと向き合った時もこんな状態だったな、とそんな考えが頭をよぎった。
「俺は、貴女の祈りは尊いと思います。貴女が満足して、皇女様とお子様にも祝福が降り注ぐ。何一つ責められる謂れはありません」
「ディル様…貴方がそう言うと、そんな気がしますわ」
「事実です」
真顔でディルダートが答えると、アトリーシャはようやく笑顔を浮かべた。色味が違っていて雰囲気は随分違っていたが、彼の目には変わらず眩しい程の女神に見えたのだった。
----------------------------------------------------------------------------------
すっかり祭の人波も消えて屋台や店も片付けをしている中、彼らは屋敷に戻る為に手配した馬車を待っていた。アトリーシャは、護衛の女性騎士に同行してもらって化粧直しに行っている。
「すまん、すっかり店も閉まってしまったな。奥方への土産が買えなかったんじゃないか?」
「大丈夫だ。さっき飲み物を買うついでに家に届けてもらうように注文しておいた」
「抜かりないな!」
どんな時でも妻への気配りは忘れないアレクサンダーに、思わずディルダートは笑った。
少し離れたところから、最後まで見回りに余念のない騎士団の制服を着た二人組が出て来た。アレクサンダーを見ると、先輩らしき方が駆け寄って来る。アレクサンダーは懐から小さな何かを取り出して手渡す。その騎士はそれを受け取って一礼するとまた見回りに戻って行った。
「何かあったか?」
「あったと言うか、ちょっと気になってな。ちょっと部下に気に留めてもらってた」
「騎士団の任務のことならこれ以上は聞かんが」
「…あー、そういう訳でもなくて…さっき公園で休憩してた時、ご令嬢がお前に似た人を見たって言ってたろ?」
「ああ。髪の赤いヤツとか」
「でもな、お前、そいつ見たか?」
川を挟んだ向う側の街道で人が多かったと言っても、ディルダートくらいの体格ならば頭一つは抜きん出て見える。現に彼女は「赤い髪」と言っていた。
「見た、記憶はないな」
「お前程のでかいヤツなら、一瞬でも視界の端に入れば印象に残る。しかも赤い髪だ。あの時ご令嬢に見とれてたお前はともかく、俺は護衛で意識して周囲を注視してた。それなのに全く見た覚えがないのはおかしい」
「確かにそうだな」
辺境で魔獣相手に力で殲滅することに長けているディルダートより、王城警備担当のアレクサンダーの方が護衛の経験値は上だ。その彼が警戒していたにもかかわらず、全く視界に入っていないこと自体がおかしい。
「巡回時に、お前並にでかくて赤い髪のヤツがいたら通信の魔道具で教えてくれと部下に伝えておいた。だが、祭が終わるまで一度も報告が来なかった」
「では何故リーシャ嬢にだけ見えたんだ?」
「さあな。向こうが幻覚魔法か隠遁魔法を使ってたのかもな。どっちかと言うと隠遁魔法かな。デュライ伯爵家は水魔法に長けた家門だ。水属性の隠遁魔法が効いてなかった可能性が高い」
「何の為に」
「分からん。しかし、街中でそんな魔法使って姿を隠すヤツがマトモとは思えんがな」
これだけ人が集まる祭に、何か良からぬことを企む輩が紛れ込むことを完全防ぐことは不可能だ。どんなに警戒しても毎年大なり小なり何らかの事件は起こる。
「取り敢えず、まだ何も起こってないからな。後で団長に報告して、団長判断で第二騎士団に共有してもらうさ。あちらさんの方が専門だ」
アレクサンダーの第一騎士団は王城の警備で、第二騎士団は主に王都内の警備を担当していた。こちらは各区域の自警団と連携を密にしている。怪しい動きをしていた者の情報は些細なことでも報告することになっている。
「アレク、お前」
「何だよ」
「ちゃんと騎士、やってるんだなあ…」
「やめろよ!しみじみするなよ!」
「結構あの時はウチの領民達も心配してたからな」
「まあ…何とかなってるよ。一応副団長にまで出世させてもらったし」
新人時代、アレクサンダーは研修中に同期の仲間に怪我を負わせてしまったことがあった。盗賊団の捕縛作戦中に不意を突かれて挟み撃ちになり、混戦の中指揮系統も上手く機能していなかった。まだ互いに経験の浅い新人同士であったことなど不運が重なり、結果的に仲間に重傷を負わせた。その時の指導官の伝達ミスが判明したため、アレクサンダーが責を負うことはなかった。
だがその影響からか、もともと得意でなかった対人戦が一時は全く出来なくなっていたのだ。
「今も対人戦は得意じゃないけどな。幸い第一は警備担当だから、人を斬るよりは護る方が主な任務だ」
「それでも良かったよ」
アトリーシャが戻り、家の方向が違うアレクサンダーだけはここで護衛を終了し、馬車に乗らずにここで別れることになった。
さすがに疲れたのかアトリーシャは馬車の中でうたた寝を始めてしまい、揺れた弾みでコテリと隣のディルダートの腕に凭れ掛かっていた。緊張しつつも、固まってしまっては彼女の首を痛めてしまうかもしれないと思って体の力を抜こうと激しく葛藤しているディルダートの顔を見て、馬車に一緒に乗っていた女性騎士は笑いを堪えるのに大分苦労していたのだった。