3 過去とダンスと男と男
ディルダートの言葉に、アトリーシャは淑女の仮面をうっかり外して、完全にポカンとした顔になっていた。彼の言った言葉が、通じてはいるのだけれど理解出来なくて意味を悟るまでに不自然なまでに時間がかかってしまった。
「リーシャ」
さすがにこれ以上の沈黙はよろしくないと、隣のデュライ伯爵が小声で囁く。
「ダンスを…申込む権利…ですか?」
「はい」
「ダンスをする権利…じゃなくて?」
「そこは、貴女には断る権利がありますから」
「あの…それは仮に100日も魔獣を届けたにも関わらず、断られても構わない、ということですの?」
「それは当然ではありませんか?」
アトリーシャの戸惑いに、逆にディルダートがキョトンとした顔でさも当然、という風に返す。
アトリーシャの学園生活は婚約者に振り回されていたので、騎士科の伝統については全く知らなかった。彼らが、その「百日詣で」にどれだけの比重で願掛けをしているのかも掴めない。ただ、対価の魔獣100匹に対して願いがささやかすぎる気もした。
「お受けしたらいいのではないかね」
アトリーシャに真正面から真剣な眼差しを投げて来るディルダートの態度は、とても真摯で人柄も良い人物なのだろうということは察せられた。しかし、今後起こるであろう婚約解消の影響などを考えると、当分は誰かとダンスをする気も、夜会に出る気にもなれそうになかった。
いくら当代最強と名高い辺境伯でも、毎日1匹、100日100匹もの魔獣を仕留めるのは並大抵ではないだろう。どうせ受けるつもりがないのであれば、最初から断ってしまえば彼の危険も無くなるのではないか。
僅かな時間でもそんなことを考えていたアトリーシャだったが、まるでそれを勘付いたかのようなタイミングでムクロジが口を開いた。
「今日はまだ知り合ったばかりだし、ご令嬢もお疲れのようだ。100日かけて彼の人となりを見るなり、答えを考えるなりしても罰はあたらないだろう?」
「ですが…」
「それに、最強の呼び名高いクロヴァス殿が挑戦する『百日詣で』を見守りたい気分でね」
「父上、それではただの野次馬です」
「野次馬結構!このアスクレティの名に於いて、この挑戦に余計な横槍がはいらぬよう見守らせてもらおう」
誰よりも前のめりな様子で、ムクロジは喜々としてその場を仕切り始めた。
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その結果として、アトリーシャはアスクレティ大公家の別邸に、ディルダートも別邸の敷地内にある離れに一時的に暮らしてもらうことに決まった。別邸にはムクロジの大叔母が暮らしているので、表向きは行儀見習いとして預かるという形にした。
その場所は地図上では王都内ではあるが、自然がまだ豊かな静養地としても使われる所で、馬で三時間程走れば狩猟地もあり、更に奥に行けば魔獣も出没する。魔獣を仕留めて持ち帰るには、デュライ伯爵家の屋敷よりはるかに移動距離が短い上に、同じ敷地内に拠点があれば体をすぐに休めることも出来る。
「随分と有利な条件を整えていただいたようですが…よろしいのでしょうか」
王都の外れの魔獣の出没場所、デュライ伯爵家、クロヴァス辺境伯家のタウンハウス。それぞれ点在した場所にある為、それなりに移動に時間が掛かるだろう。そんな慌ただしい生活を想定していたディルダートは、ずっと楽な環境に整えてもらったことに困惑していた。
「私は場所だけ提供するだけさ。横槍が入らぬように見守るには手元においておくのが一番楽だからね。……それに、100日もあれば人の興味は余所に移るだろう」
おそらく明日以降、興味本位な招待状や縁談の打診が大量にデュライ伯爵家に殺到するだろう。特に上の身分の者からの強引な申し出は断りにくい。それを少なくとも100日間はアスクレティ大公の庇護下に置かれることでシャットアウト出来る。変わり者として有名な大公が、気まぐれにちょっかいを出して囲い込んだ。アスクレティ家は、そう世間を納得させるだけの力も評判も有しているのだ。
「お心遣い、感謝致します」
ムクロジの意図する所を察して、デュライ伯爵が深々と頭を下げた。
「こんなに面白そうなことに一枚噛みたいだけだよ。それに、クロヴァス殿の活躍を『友人達』に自慢出来るだろうしね」
ムクロジは心底楽しそうに笑いながら、「期待しているよ」とディルダートに向かって細目故に大変分かりにくいウインクをして見せた。
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手配があるからと大公親子と、デュライ伯爵は席を外し、ディルダートとアトリーシャ、そしてアレクサンダーと妻ヴィーラが残された。
少し緊張が解けたのか、席を移動して女性同士が隣り合って、小ぶりなスイーツを楽しんでいた。これまで親しく話したことはないが、ヴィーラもアレクサンダーと共にアトリーシャには何度か夜会で挨拶をしたことはあった。そのせいか、打ち解けるのは早かったようだ。お互いメイドにサーブしてもらった華やかに彩られた可愛らしい菓子を口にして、思わず口元を綻ばせて微笑み合う。それだけでその空間が花が咲いたように明るくなった。
そことは正反対のソファで、大柄な男性二人が並んで果実水を啜っている姿は何とも珍妙な光景であった。アレクサンダーは、部屋の隅に並ぶ名前だけしか知らない超が付く程の高級酒に心惹かれていたが、この状態でディルダートに飲ませるわけにはいかないし、自分だけ飲むのも憚られた。その為、少々恨みがましい気持ちで果実水の入ったグラスを無言で傾けていた。
「あの…デュライ伯爵令嬢」
「は、はい」
「この度は、私の無茶な願いを聞き届けてもらい、感謝しています」
「いえ、そんな…わたくしこそ過分なお申し出、光栄でございます」
少し女性同士の会話が途切れたタイミングで、ディルダートが話しかける。またしても訳の分からないことを言い出すのではないかとアレクサンダーは一瞬緊張したが、割とまともなテンションだったので安心して見守ることにした。
昔から貴族らしからぬ開けっぴろげで裏表のない豪快な性格のディルダートだ。アレクサンダーをはじめ、騎士科の友人達と色々と馬鹿なことをしでかしてはテラ神官に雷(物理)を落とされたりもしたが、根は真面目で人がいい。しかし、気の利いたことも言えず、その外見から壊滅的に女性にモテなかった。なので、極めつけに女性に対する免疫も経験値もない。先程の夜会のように、自分から暴走する姿を見るのは初めてだったのだ。
「クロヴァス閣下、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「は…!何なりと」
「何故、わたくしに『百日詣で』の誓いを立ててまでダンスを…その、ダンスを申込む権利を願われたのでしょうか」
タイミングとしては正しくはなかったかもしれないが、夜会である以上、別にダンスを申込んでもおかしいことではない。
「その…貴女の姿を見た時、このご令嬢と一度でも踊れたら幸せだろうな、と思ってしまった」
「でしたら…」
その場で申込まれれば、ディルダートの方が身分が上ということもあり、アトリーシャがダンスを受けた可能性は高い。わざわざ断られることを想定して、100日間などと回りくどいことをしなくても願いは叶った筈だ。
しかし、ディルダートは顔を赤らめてふるふると首を振った。
「その…恥ずかしい話なのだが…私は女性とダンスを踊ったことがないもので」
「どなたとも…ですの?」
「ええ。実は今宵の夜会も挨拶回りだけで、誰とも踊るつもりがなかったもので…その、準備を怠って…」
アトリーシャはつい首を傾げた。確か学園では社交界デビューに備えてダンスレッスンは必須科目であったし、卒業式ではプレデビューの場として本格的な夜会を模した卒業パーティーが開催されていた。そして卒業後は王城で国王への成人の挨拶と共に社交界デビューすることが一般的だった。他の夜会はともかく、その夜会では新成人は必ず1曲はダンスに参加することが義務付けられる。たとえ配偶者や婚約者がいなくても、誰かしらパートナーがいた筈である。
「その…ダンスは…不得意というか…何と言うか…」
彼女の疑問を察したのだろう。ディルダートは更に顔を赤くしながらゴニョゴニョと口ごもった。
「デュライ伯爵令嬢、その、彼は学生時代、ダンスが壊滅的に駄目だったのです」
このままでは埒が開かないと判断して、その続きをアレクサンダーが受けた。
「学生の頃からこの体格でしたので、あまりの下手さに足を踏まれたら大怪我をすると恐れられて、パートナーになる女性がいなかったのです」
「あの時は迷惑を掛けた…」
「思い出させるな」
授業のパートナーはくじ引きで決められることが多かったが、ディルダートの相手に選ばれた女生徒は悉く辞退した。中にはわざとだった者もいたかもしれないが、大抵の女生徒は真っ青な顔でへたり込んでしまっていたのだ。さすがに気の毒に思ったのか、特別に騎士科の中で小柄な男子生徒が組むように教師が提案したが、彼らから不公平だと猛抗議が出た結果、身長体格に関係なく騎士科男子で持ち回りでディルダートのパートナーを務めさせられた。勿論、アレクサンダーも一生踊るとは思わなかった女性パートを踊らされたのは未だに黒歴史である。
因みに、男子生徒でも足を踏み抜かれて神官の元に担ぎ込まれた者は両手では足りなかったという話は、未だに語りぐさになっている。
「私は、在学中…成人前に爵位を継ぐ為に領地に戻ったので、卒業パーティーには出席していません。成人の挨拶も、陛下のご好意により書簡で済ませました」
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9年前、辺境領が面している国境の森から大量の魔獣が溢れた。
スタンピードと呼ばれるその現象は隣国側で起こったことだったが、その救援に国境を越えてディルダートの父であったクロヴァス家当主が騎士団を率いて駆け付けた。もともと国境の森を挟んだそれぞれの領地の当主は、互いに危機的状況の際は手続きはなくとも国境を越えて救援に向かうという同盟を交わしていた。
その戦いでクロヴァス家の騎士団は多いに活躍をしたのだが、残念なことにディルダートの父をはじめ、多くの騎士や領民が命を落とした。それほどの規模のスタンピードであったので、隣国の領地の被害は甚大であった。
しかし、その後問題が起こった。互いの危機には国境を越えて救援に兵を向けるという同盟が混乱の中いつの間にか破棄され、勝手にクロヴァス家が国境を侵犯して来たと隣国より訴えられたのだ。隣国が莫大な被害の賠償金を求めた為、両国の関係が一気に悪化した。その時は王家が辺境伯に代わって裏側から手を回し、どうにか互いになかったこととして手打ちになったが、それを切っ掛けに両国の関係は冷えきり、領地同士の同盟は破棄になったまま再締結はされてはいない。
そんな混乱の中で、まだ学生で未成年だったディルダートが辺境伯を継いだ。幸い優秀な父の部下も生き残っていたし、領民達も未熟な新領主を暖かく迎え、皆で領を上げて献身的に支えてくれた。しかし隣国との関係が悪化したことによる国境付近での緊張が続き、ディルダートはそれから9年も領地を離れることが出来なかったのだ。
その境遇を気の毒に思ったのか、王命により学園の卒業資格を取る為に教師を短期間クロヴァス領へ派遣し、国王に直接成人の挨拶をしなければならないところを特別に書簡で済ませることを認めたのだった。
「ご苦労なされたのですね」
「それとダンスの腕前とは関係ありませんがね」
「おい、アレク。あんまりじゃないのか…い、いや失礼した」
アレクサンダーの容赦のない言いように、ディルダートは思わず友人としての砕けた言い方になる。アトリーシャの前だと気付いてすぐに言い直したが、その気を楽にした様子が彼女の目には微笑ましく映った。
「閣下のお好きなようにお話されても気にしませんわ。そちらの方がわたくしもお話ししやすいです」
「あ、ありがとう」
アトリーシャに微笑まれて、ディルダートが見る間に赤くなる。彼の顔が赤さを増す度、まだ赤くなる余地があったのかとアトリーシャは既に感心の域に達している。赤みが増したのを自分でも分かったのか彼は思わず顔を伏せたが、短髪で隠し切れない真っ赤に染まった耳が雄弁に感情を物語っていた。
「その、わた…俺は、ダンスの機会がないままこの年になってしまった。だから、この先も生涯踊らないでいるのだと思っていたから、学生時代に習ったことも忘れてしまった」
父の代から仕えている家令には、今後妻を迎えたときの為にせめて3曲は踊れるようになって欲しいと隙あらば小言を食らっていた。夜会では婚約者と2曲、配偶者と3曲は踊ることが貴族の古くからの風習であるので、結婚パーティーで新郎新婦が3曲皆の前で披露することが必須となっていた。
しかし、生まれてこの方妙齢どころか全年齢層の女性と恋愛的に縁のなかった熊男であるので、妻より養子を捜した方が早そうだと密かに考えていた。
ディルダートは一つ息を付いて居住まいをただすと、アトリーシャをまた真っ直ぐに見つめた。まだ顔に赤みは残っていたが、真剣な様子の赤みがかった瞳が射抜くような力強さを帯びる。
「もし貴女にあの場で申込んだとしても、俺は全く踊れなかった。だから『百日詣で』にかこつけて、せめて練習をする時間を取りたくて…この先、貴女と出会える保証はないと思ったら、つい、卑怯にも約束を取り付けたいと思ってしまった。我ながら矮小な手段だったと反省、している」
「そのようにご自分を悪く仰らないでください。……お声をかけていただいたことで、わたくしはしばらくの間、喧騒から離れることが叶いました。むしろ、こちらからお礼を言わせていただきたいですわ」
「それは、大公閣下のお力で…」
「そのご縁を引き寄せてくださったのは、クロヴァス閣下の『百日詣で』のおかげです」
「そ、う言ってもらえると、ありがたい…」
ホッとしたようにディルダートは頭を掻いた。その様子を見てアトリーシャは「あら、手にも髪と同じ色の体毛が生えるのね」などと少々ズレた感想を抱いていた。男女問わず美しい外見に人気の集まる貴族は、大抵の者は手入れを怠らない。ディルダートは、彼女に取って珍しい観察対象の枠に無意識のうちに入れられていたようだった。