2 百夜通いと百日詣で
「貴女に、100日間捧げ物を贈る願掛けをしてもよろしいでしょうか」
「…はい?」
真剣な顔で突拍子もない申し出をしたディルダートに、思わず淑女らしからぬ声を上げてしまったアトリーシャを責めるものは誰もいなかった。
「え…ええと、願掛けですか?」
「はい!」
「100日ですか?」
「はい!」
「捧げ物を?」
「はい!魔獣を!」
「魔獣っ!?」
もう訳が分からない状態になっていた。
アトリーシャは告げられた言葉の断片をどういう意味か分からず繰り返したのだが、ディルダートのハキハキとした即答に混迷を深めるだけだった。勿論、周辺でこのやり取りを聞いている貴族達もキョトンとしている。
「何やってんだ…お前…」
ただアレクサンダーだけが、その隣で絶望的な表情で頭を抱えていたのだった。
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これ以上どう繋げたらいいのか分からず、アトリーシャは混乱していた。相手のディルダートは、彼女の言葉を待っているかのようにキラキラした目でじっと見上げている。しかし、先程の会話をどう返したらいいか、さすがに王子妃教育でも習ったことはない。助けを求めようにも、周囲の誰一人として同じように困惑している。
「これは懐かしい誓いですね」
不意に、軽く拍手の音と共に穏やかな男性の声が入って来た。
アトリーシャが救いを求めて振り返ると、艶やかな黒髪を寸分も隙もない程きちんと撫で付けた細目の男性が近付いて来ていた。着ているものや身に付けている装飾のデザインからすると年の頃は壮年だろうが、全体的に彫りの浅いツルリとした顔をしているので年齢不詳に見えた。この国では珍しい異国風の顔立ちは、社交界で滅多に見ることのない顔でも貴族の間では有名人だった。
「これはアスクレティ大公閣下」
周囲の者が一斉に深い礼を示した。だが彼はすぐに穏やかな口調で顔を上げるように促す。
「そうかしこまらなくても大丈夫だよ。久々に懐かしい誓いを聞いて、つい声を掛けてしまったよ」
アスクレティ大公。建国王と共にこの国の礎を作った五英雄の一人を始祖とする家門で、貴族だけでなく平民もその名を知らないものはいないと言われる歴史ある名門中の名門。その地位は特殊で、大公位ではあるが実質国王と並び立つ権力を有している。建国王の御世から、たとえ王命であっても拒否する権限を与える、と盟約を交わしている程だ。だが、血筋なのか方針なのか、どこの派閥に属することも中央で政治的手腕を揮うことも望まず、一族の大半が何らかの研究に邁進する学者肌の風変わりな一門なのだ。それ故に、こうして夜会に顔を見せることも滅多にないことで有名な人物だった。確か現在の当主は薬草学に傾倒していて、王族用の薬草園の世話を一手に任されている筈である。
「クロヴァス辺境伯殿」
「は…お目にかかれて光栄でございます。大公閣下」
いくら貴族社会に疎いディルダートも、相手が雲の上の更に上とも言える身分だということは知っている。慌てて立ち上がると、胸に手を当てて最敬礼を取る。
「クロヴァス家は武門の家系だと聞いていたが、なかなかどうして。この国ではあまり知られていない風雅な伝承を知っているとは知見が広い」
「……恐れ入ります」
(多分、分かってないわ)
妙な間の後、明らかに視線を彷徨わせているディルダートをこっそり観察していたアトリーシャは、彼の内心が手に取るように分かってしまった。ディルダートの背後で、更に絶望を深めているアレクサンダーの表情も、その確信の後押しをする。
「それに、捧げるものを魔獣にしたところがクロヴァス家らしさがあって気が利いている。確かに当代一の白百合に花を贈るのは無粋だね。これは私でも思い付かなかったことだ」
「………ありがとう、ございます」
「父上」
まだ続きそうな大公の話に、少し困ったような笑みを浮かべた青年が止めに入った。青年は大公と同じ艶やかな黒髪で、派手ではないが端正な顔立ちをしていた。
「おおレンザか。陛下との話は済んだのか?」
「はい。それよりも『百夜の誓い』の途中で割り込んだのではありませんか?いけませんよ。それこそ無粋というものです」
「ああ、つい懐かしくて我を忘れてしまったな。これは悪いことをしたね」
レンザと呼ばれた青年は、この大公の嫡男である。彼は父親よりは顔を見る機会は多いが、それでも年数回だ。この親子が並んでいること自体が非常に珍しい。
レンザは、穏やかな声で父親を宥めるように言った。対して父親の大公は、芝居がかった張りのある声で、周囲に聞かせるようにはっきりとした口調で返す。
「こちらのご令嬢は少々お疲れのようです。割り込んだお詫びに、続きは我が家の控えの間をお使いいただくのはどうでしょう?」
「確かにそうだな!ああ、クロヴァス殿。不躾の詫びに私が我が家の控えの間までご案内しても良いかな?」
「は…はあ…」
全く分からないまま話が進んでしまっている。だが、分からなさ過ぎてディルダートは大公の提案に頷くしかなかった。
こうして周囲の人間がポカンとしている間に、アスクレティ大公と大公子息レンザの二人は、ディルダートとアトリーシャ、その父親のデュライ伯爵、更にレンザは「彼のお目付役だろう?」といい笑顔で及び腰だったアレクサンダーと妻のヴィーラを有無を言わせずその場から連れ去ったのだった。
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彼らが連れて行かれたのは、王城の奥、離れになっているような一角だった。
控えの間と呼んではいたが、もはや規模が屋敷である。そこに行くまでは警備の為の、騎士団の中でも特に腕の立つ人員が配置されていたし、何なら騎士団長までいた。おそらく王城付きの魔法士による防御魔法も施されているだろう。もはや王族専用の移動ルート並の厳重さだ。
ゾロゾロと移動する彼らの一番後ろを歩く青い顔の副団長アレクサンダーを見て、団員達は怪訝な顔で見送っていたが、アレクサンダーの助けを求めるような視線を受けると申し合わせたように見事に逸らされた。それがあまりにも統制が取れていたことにムカついたので、アレクサンダーは内心、これが終わったら特別訓練メニューを受けさせてやる、と恨みがましく彼らの顔を覚えながら歩みを進めたのだった。
「改めて自己紹介をしよう。アスクレティ家当主、ムクロジだ」
「長男のレンザです。この度は父が失礼致しました」
「お前だって強引だったじゃないか」
「父上よりはマシです」
通された通称控えの間は、まるで小規模な夜会会場かと見紛うばかりの豪奢な部屋で、パーティー用の軽食や、飲み物、そして給仕をするメイド達も揃っていた。この人数だけで使用していいのかと、大公親子以外の5名はすっかり気後れしていた。いや、全く夜会に慣れていないどころか初参加なディルダートだけは正しい控えの間の規模を知らなかったので、さすが王城の控えの間だな、と感心していた。
メイドから飲み物を用意され、それぞれが多少の落ち着きをみせたところでムクロジが口を開いた。
「強引に招き入れてしまって申し訳なかったね。今宵の夜会でデュライ伯爵令嬢の周辺で騒ぎが起きぬよう、少し気を配って欲しいと乞われてね」
「わたくし、ですか?」
「表立っては何も出来ないが、長らく縛り付けて申し訳なかった、と。命令ではなく頼みだと言われてしまったら断れないだろう?私のことをよく分かった古い友人達だよ」
「古い…ご友人…」
ムクロジの言葉を聞いて、思わずアトリーシャの声が震えた。
以前、王子妃教育の合間に王妃と共にしたお茶の時間で、学園生活中に起こった友人達との愉快な思い出を教えてもらったことがある。その話題の中に頻繁にアスクレティ大公が登場していたのだ。国王と王妃は同級生でもあったので、ムクロジの指す「古い友人達」が誰のことを示しているのかすぐに察しがついた。
「……彼らでも色々とままならないこともある」
「それは、存じておりましたから」
「そうか」
アトリーシャは目の奥がじんわりと熱くなって、視界がほんの少しだけ歪むのを感じた。それを察したのか、隣に座っていた父親がそっと彼女の背中を撫でた。
確かに表向きはアトリーシャのこれまでに費やされて来た全てが無に帰してしまったが、ムクロジの言葉を聞いて、それでも全てが無駄ではなかったのだ、と心に微かな暖かさが灯るような気がした。
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長らく結んで来た第二王子との婚約が解消、なかったことにされるということは、この夜会のずっと前に王家から内密に告げられていた。
最初からなかったことにされるので、アトリーシャの名誉は表向き傷は付かないだろうということ。しかし長く王家の為に尽力して来た事実は変わらないので、相場の二倍以上の額の慰謝料を王家の私財から秘密裏に支払うこと。そして王子妃教育で知り得た知識の流出は許されないため、反王家の派閥、国外の者との婚姻は認められないこと。
様々な条件の提示と誓約が交わされ、全て終わった状態でアトリーシャは本日の夜会に臨んだのだ。
その誓約の際に、さすがに気の毒に思われたのか、第二王子との婚約をなかったことにしなければならない理由も教えられていた。勿論、他言無用という条件付きで。
アトリーシャとの婚約をなかったことにして新たに結ばれた皇女クリスティア姫との婚約。これだけ急な婚約から婚姻を調えたのは、友好条約を締結する際の使者としてオルティナ皇国を訪れたベスロティと、賓客をもてなす担当だったクリスティアがお互い一目惚れをしたために…というのが建前。
同行していた外交官の報告によると、ベスロティが寄って来た美しい令嬢を国内にいるのと同じ感覚で休憩室に連れ込んだところ、その令嬢が実は皇女だった為に騒ぎが大きくなってしまったということだった。おまけに朝、部屋を確認しに来た侍女達に同衾している姿を目撃され、どうにも揉み消すことが出来なかったそうだ。もっとも、皇女側も相手が第二王子と分かっていて自ら積極的に休憩室に連れ込まれたという目撃情報もあって、どちらに責があるかは不問ということに落ち着きかけた。
だが、その騒ぎの落としどころを両国で話し合っている間に、皇女が身籠っているという噂が流れ、皇女自身もそれを否定しなかった。そこで更なる話し合いの結果、お互いが強く望んで婚約から間を置かずに婚姻、その後すぐに懐妊した…という方向で両国の合意となったのだった。
アトリーシャは、その話を聞いてショックではあったが、心のどこかで納得もしていた。アトリーシャが目を背けても、悪意なのか親切なのか彼の動向を事細かに告げて来る者はどこにでもいた。あちこちで浮名を流しているベスロティは、いつかこうなるだろうと何となく思っていた。だが、まさか他国の皇女にまで手を出すとは予想していなかったが。
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「さて、クロヴァス殿」
「はっ、はい」
話を振られて、ディルダートが姿勢を正した。急に体に力を入れたせいか、座っていたソファがグッと更に沈み込む。同じソファに座っていたアレクサンダーは、吊られて体が斜めになりそうだったのを腹筋と背筋を駆使してどうにか体を真っ直ぐに保つという地味な努力を強いられた。
「先程途中になってしまった『百夜の誓い』の続きをお願い出来るかな。今度は割り込むような無粋な真似はしないと誓うよ」
「ももよのちかい…」
ディルダートの片言に近い呟きを耳にして、ここにいたムクロジ以外の人間全員が「あ、これは分かってないな」と察した。いや、ムクロジも分かっていてわざとこう言ったのかもしれないが、そんな裏側を感じさせない程楽し気にニコニコと笑っている。
「あの…恐れながら大公閣下」
控え目な様子で、アトリーシャの父、デュライ伯爵が口を開いた。
「大変お恥ずかしいのですが、浅学なものですから…その『百夜の誓い』とはどのような誓いなのか存じ上げないのです。もしよろしければご教示いただけませんでしょうか…?」
この瞬間、おそらく大公親子以外の人間の「よく言ってくれた!」という無言の感謝が伯爵の元に集まったのは間違いないだろう。
ムクロジはチラリとディルダートを見やったが、そのままこちらに説明を求められたらどうしようという分かりやすい顔をして固まっている厳つい青年に、ふ…、と柔らかな笑みと視線を向けた。
「そうだな。確かに私が一番詳しいでしょうな」
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「アスクレティ家の始祖が極東ミズホ国の生まれだったことから、我が家とミズホ国とは縁が深いのだよ」
細目ですぐに分かりにくいが、ムクロジはミズホ国に多く見られるという黒い瞳をしていた。真っ直ぐで艶やかな黒髪も、ミズホ国の国民に強く出る特性と言われている。
「私の母はミズホ国から嫁いで来た姫だった。その母が気に入って持ち込んだ物語の中に、あの国に古くから伝わる実話を元にした恋物語があってね」
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かつて、かの国には天上の女神もかくやと言われる美しい姫君がいた。
彼女の元には毎日山のような求婚者が現れた。その中で身分の低い貴族の青年が、彼女に「これより100日、毎夜貴女に花を捧げます。それが叶ったあかつきには、求婚を受けていただきたい」と言い出した。彼は姫君に贈るような宝石や反物などを用意することは出来なかったが、美しい姫君に美しいものを捧げたかったのだ。しかし彼の住まいは遠く貧しい土地で、春でも花の咲かない根雪の地と呼ばれていた。誰も成功する筈がないと嘲笑った。
姫君だけはそれを笑うことなく「お待ちしています」と、この誓いを受けた。
青年はそれから毎夜、姫君の元に花を捧げ続けた。雪を掻き分け、ようやく見つけた花を散らさぬよう、日の出前に彼女の元に届け続けた。
そしてとうとう100日目の夜。青年の気持ちにすっかり心打たれた姫君は、青年が今宵訪ねて来たら求婚の申し出を受けようと丁寧に身支度をして待ち続けた。
だが、不運にもその日は酷い嵐だった。姫君は待ったが、とうとう青年が来ないまま夜が明けてしまった。
失望した姫君が外を見ると、あと少しで屋敷に辿り着くという場所で、青年が倒れているのを見つけた。
青年は、大事そうに美しい花を抱きかかえたまま事切れていたのだった。
姫君は嘆き悲しみ、その青年が最後に持って来た花を屋敷の庭中に植えて育てた。そして誰とも婚姻せずに生涯青年を想い、花に祈りを捧げて過ごしたと伝えられた。
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「この伝説を『百夜の誓い』と。悲恋ではあったが美しい永遠の愛情ということで、これになぞらえて100日間意中の女性の元に通って花を贈り求婚するという風習があったそうだよ。それを耳にした私の父が母を娶った後にも関わらずわざわざ実行したのだとさんざん惚気られてね」
昔、まだ交通も物流も発達していなかった時代の話であり、今は街を繋ぐ道も整備され少し大きな都市に行けば季節に関係なくあらゆる花も手に入るようになった。100日かけて本気の求婚を示す労力がそれほど掛からなくなった頃から廃れて、今では殆ど消えてしまった風習だそうだが、とムクロジは苦笑混じりに締めくくった。
「そのように美しい伝説があるとは。いや、大変勉強になりました」
感心したように言うデュライ伯爵の隣で話を聞いていたアトリーシャは、少し俯き加減に動きを止めていた。そしてゆっくりと顔を上げると、斜め前のソファで姿勢を正して座っているディルダートに視線を向けた。
「求婚…ですか」
「あ!いやっ、その!」
アトリーシャは淑女の笑みを浮かべてはいるが、その顔色はあからさまに悪かった。当事者以外には知らされていなかった第二王子との婚約の解消。それを知ったばかりで、しかも初対面で求婚をして来たのかと、明らかにディルダートに警戒を向けている。あのように衆人観衆の中で身分の高い者からの求婚では、受けても断っても致命的な悪評になりかねない。強引に話を通す為に、貴族社会に不慣れな様子だったのは見せかけだったのではないかという疑念が、最初は貴族らしからぬ純朴そうな印象で好感度が高かったディルダートの株を急落させていた。
さすがにディルダートもそれに気付いたのだろう。アワアワとして口をパクパクさせ始めた。しかし、どうにも頭が追いついてないのか、意味のない言葉を紡ぐだけだった。
「父上。こちらは『百夜の誓い』ではなく、『百日詣で』だったのではありませんか」
「ん?そうなのかい?」
空気が冷えかけた中、この場にはそぐわないレンザの笑いを含んだような声が割って入った。
「おそらくそうでしょう。そちらの…クロヴァス辺境伯殿とノマリス子爵殿は学園では騎士科だったのでは?」
「は、はい!仰る通りです!」
すっかり焦ったディルダートが何か迂闊なことを口走る前に、アレクサンダーがすかさずそれに答えた。
「ああ、やっぱり。僕は科は違いましたが、あなた方とは大体同じ世代でしょう。当時の騎士科の伝統なら聞き及んでいますよ」
貴族が通う学園では、基礎的な学習の他に専門の科が幾つもある。騎士を目指す者や武門の家系の者は騎士科、魔法の才能がある者や魔動具の研究者は魔法科、政治や領地経営などに関わる者は文官科、そして主にどこかに嫁ぐ令嬢に必要な作法や内向きを采配する家政などを学ぶ淑女科…など多岐にわたる学科が存在していた。
学園は広大な敷地を誇り、その中に立派な神殿があった。
そこは神官を目指す者が学ぶ場でもあるが、神学の教師と兼任している神官も在籍していた。この国は特に強く信仰を推奨している訳ではないが、神による世界の成り立ちなどの歴史を学ぶ一般教養として必須とされている。にもかかわらず、毎年騎士科の生徒の落第率が妙に高い。
武門の家系は、基本的に神の奇跡を待つより自力で何とかした方が早いという家風の者が大半を占める。そして騎士科も全般的にそういった空気で、神に祈るのは傷んだ物を食べて個室に篭っている時くらいだ。
故に、なかなか神学を真面目に学ばない者が多く、毎年教師の頭痛の種であった。
「あなた方の時は、テラ神官が神学担当ではありませんでしたか?あの厳しいと有名な」
「はい!そうです、そうです!何度酷い目に遭わされたこと…あ、その…何と言いますか…」
「僕も教えを受けましたよ。直接お叱りは受けませんでしたが、友人がよく呼び出されていましたからね」
思わぬところで懐かしい名前を聞いて、学生時代を思い出してアレクサンダーはつい勢い良く答えてしまった。それを嗜めるように、隣に寄り添っていた妻のヴィーラが見えない位置の尻をそっと抓って来て我に返る。
テラ神官は、国内で五本の指に入ると言われる治癒、回復魔法の使い手の高位神官でもあり、怪我の絶えない騎士科では世話にならなかった者はいなかった。訓練や実習でやむなく怪我をした者には分け隔てなく治癒を惜しまなかったが、ふざけて負傷した者にはニコニコと笑いながら過剰回復を施し、指を左右逆に復元されたり、怪我の箇所をリアルな人面柄にされていた。通常の状態に戻すには、長い反省文と共に再び切り落として治癒してもらわねばならないので、一部の学生の間ではテラ神官の笑顔は誰よりも恐れられていたのだった。
そのテラ神官の授業は難易度が高く、定期試験も難しいと評判であった。あまりにも落第者が多いので学園側から救済策を講じるように要請されて、仕方なく落第者には「100日間の神殿清掃」か「100枚の神学レポート提出」をこなせば落第を免れる最低限の点数を保証することとなった。
だが残念なことに、その救済策をもってしても落第する者がいた。それが騎士科の学生達だった。100枚のレポート提出を選ぶ者は皆無で、清掃を選んだらあちこち破壊して他の神官が根を上げてしまったという噂もあるが、更なる恩情により「騎士科に限り100匹の魔獣退治で手を打つ」という特別救済措置が生まれたのだ。
最初は退治した魔獣から採取される魔石のみ持参だったが、街で購入した魔石を持参する者が出た為に退治した魔獣の屍骸を持ち込むように変更されたりもしたが、テラ神官が教師を務めた長い期間のうちにそれは騎士科の伝統として定着して行った。
そして、いつしかその救済措置を「百日詣で」と呼ぶ文化まで出来た。
清掃でも魔獣持参でも、100回神殿に詣でて落第を取り消してもらうことから、学生の間では願掛けめいた行為として認識されていたのだった。
「騎士科出身の方が魔獣100匹と言うことは、きっとデュライ伯爵令嬢に何かお願いしたいことがあったのではないでしょうか」
レンザの言葉を聞いて、やっと復活して来たディルダートがコクコクと頷いている。が、その願いが求婚である可能性も捨て切れないアトリーシャの目はまだ疑わしいままだった。
「俺…その、わ、私は、初対面のめが…ご令嬢に、求婚など大それた、申し出をするつもりは、ありませんでした。しかしその…誤解をさせて、大変申し訳ない」
「いえ、お顔をお上げください、クロヴァス閣下。その…少々驚いてしまいましたので、わたくしの方こそ失礼な振る舞いをして申し訳ありませんでした」
ディルダートが、これ以上ないほど縮こまって頭を下げる。その様子に嘘がないことを感じ取ったのだろう。少し困ったような笑顔でアトリーシャがすぐに答えたが、彼はなかなか顔を上げる様子がない。おそらく当人は色々と反省やら羞恥やらで合わせる顔がないという気持ちなのだろうが、目上の者にそれをされている彼女は困惑している。
そして彼のすぐ隣に座っているアレクサンダーは、背を丸めた体勢で無理な負荷が掛かっている彼の上着の背中の縫い目が微かにミシミシいっていることが気になって別の意味で困惑していた。
「クロヴァス殿、そろそろ本題の願掛けをお知らせしては?このままではデュライ伯爵もご令嬢もずっとここに留めておかねばなりませんよ」
「は、はい…」
更にレンザに助け舟を出されて、ディルダートはそろそろと顔を上げた。そして真っ直ぐにアトリーシャを見据えた。その赤茶色の目は、思わず逸らしてしまいそうになるのを堪えているのが丸分かりだった。
(そんなに怒っているように見えるのかしら?)
自分よりも余程相手の方が魔獣も逃げ出しそうな形相をしているのだけど、などと思いながら、アトリーシャはかつての王子妃教育で叩き込まれた曖昧且つ美しさを保った微笑みの表情を取る。
「ご令嬢」
「はい」
「もし、貴女に100日間魔獣を捧げることが出来たあかつきには、わ、私に、ダンスを申込む権利を与えてはいただけないでしょうか…!」
「百夜通い」は小野小町と深草少将の伝説をモデルにしています。
「百日詣で」は俗にいう「お百度参り」のイメージです。




