13 100日間の結実
「お嬢様、ノマリス子爵様がいらしておりますがこちらにお通ししてもよろしいでしょうか」
「まあ、副団長様が?是非!……わたくし、この姿でおかしくないかしら」
「お嬢様はいつでもお美しいですよ。ただいまご案内いたします」
アレクサンダーの来訪を報せに来たマリアが、アトリーシャの様子に微笑みながら部屋を出て行った。
あの魔獣騒動が収束して10日が過ぎていた。瀕死の重傷を負ったディルダートは、昨日2回目の聖女の回復魔法を受けて生命の危機は脱していた。ほぼ炭化して原形を留めていなかった背面も概ね復活していて、今は仰向けに寝かされている。
まだ彼の意識は戻ってはいなかったが、そのまま大公家別邸で治療を継続してもらっている。アトリーシャも実家の伯爵家には戻らず、ディルダートの傍らで治癒魔法士と相談しながら彼の看病を請け負っていた。
そして日中はずっとディルダートのベッドの側に椅子とテーブルを置いて、その様子を眺めながら過ごすことが彼女の日課となっていた。意識はないとは言え未婚の令嬢と二人きりにする訳にはいかないということで、部屋の隅には常に護衛とメイドが一人ずつ控えている。
「失礼いたします」
「ノマリス副団長様。お忙しいところありがとうございます」
王城に戻ってきちんと治療もしてもらい、すっかり元に戻ったアレクサンダーがマリアに案内されて入室して来た。見慣れた騎士服を着ている姿が、わずか10日程前のことなのにアトリーシャにはひどく懐かしく見えた。
「アトリーシャ嬢もお元気そうで何よりです。こちらは妻が作った果物の砂糖漬けです。よろしければお召し上がりください」
「まあ、ありがとうごさいます。早速いただいてもよろしいかしら。マリア、紅茶と一緒に用意してくれる?」
「かしこまりました」
アレクサンダーが手にした紙袋をマリアに渡すと、彼女はすぐに準備の為に部屋を後にした。
その間に素早く護衛がアトリーシャの正面に椅子を設置してアレクサンダーの席を準備する。
「……どう見ても赤熊ですね」
「あらひどいですわ。こんなにもモフモフして可愛らしいお姿ですのに」
「かわ……」
ベッドに横たわるディルダートの様子を見ようと覗き込んだアレクサンダーの思わず漏らした言葉を、アトリーシャがにこやかに言い返す。うっかりアレクサンダーは自分の目がどうかしたのかと思って、つい後ろの方で控えている護衛とメイドを振り向いてしまった。彼らは完全に無の顔をしてアレクサンダーからサッと目を逸らした。
ディルダートは大変毛深い体質であり、かつて領で厄介な魔獣を追って1週間山に籠ってやっと仕留めたので、近くの集落で休ませてもらおうと下山した途端にベテラン猟師に赤熊と間違われて止めを刺されそうになったという逸話がある。数日で獣人、1週間で赤熊と呼ばれる発毛力を誇るのだ。その彼が10日も寝込んでいるのだ。それはもう見事な毛むくじゃらが横たわっていた。
「まあ、個人の感想だしな…」
アレクサンダーは聞こえないようにこっそりと呟いたのだった。
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「まだ意識は一度も?」
「はい。聖女様の見立てでは脳への損傷は殆どなかったそうですので、おそらく血が不足しているだけだろうと…それならば後遺症もなく目覚めることが出来るでしょうから、今は待つように、と」
「それは良かった。あの、ところでアトリーシャ嬢はご実家に戻られなくても大丈夫なのでしょうか」
「父は心配して戻るように言っていますわ。…でも、わたくしは……ディル様に一番にお礼を申し上げたいのです」
幾度となく、あの時自分が魔力切れを起こしていなければ彼は攻撃を避けることが出来たのではないか、そもそも彼の「百日詣で」を受けなければこんなことに巻き込まれずに済んだのではないか…とアトリーシャは思い悩んだ。しかし、もう起こってしまった事実は覆らない。それにああして協力したことで、今後もっと大きな災厄になったであろう事態を止めることも出来たのだ。そのような後悔をすることは命懸けで守ってくれたディルダートに対して失礼であると言い聞かせ、せめて彼が目覚めた時にすぐに礼を言えるようにしたいと父親を説き伏せていた。
マリアが、アレクサンダーが持参して来た砂糖漬けを小皿に添えて紅茶をテーブルの上に並べる。一口大に切られてたっぷりと砂糖にまぶされたそれは、アレクサンダーの幼い頃からの好物で、それを知っている妻のヴィーラはどんな時でも食卓に欠かしたことがない。
アレクサンダーはいつもしているように一切れを紅茶のカップに落とし込んだ。それを見て、アトリーシャも同じようにカップに入れる。紅茶の熱で、フワリとフルーツの香りが周囲に満ちる。
「本日はこちらを預かって参りました。現段階では非公式ではありますが、今後国王陛下主催で開催される夜会にて正式に公表されるとのことです」
アレクサンダーが懐から一通の封筒を差し出す。その封蝋は、アトリーシャには見慣れたものだった。かつて代理で押したこともある王家の紋が刻まれた封蝋。その色の僅かな違いで内容を推測することはかつて教えられている。その封蝋の色は、確かに非公式の通達に使われるものであった。
メイドに手渡されたペーパーナイフで封蝋を切って中身を取り出す。
中の手紙は、見慣れた筆跡で綴られていた。この手蹟は王妃の代筆を請け負っていた侍女頭のものだろう。彼女の美しい手蹟に、何度か特別に教えを請うたこともあった。そんな些細なことすらはるか遠い過去のことのように思えた。
手紙の中身は、今回の国家転覆にも匹敵する犯罪を未然に防いだ功労者として、望みの褒賞を与えるという旨のことが書かれていた。褒賞は「どのような」ものとは書かれていたが、そこは暗黙の了解である程度の制限があるのは分かっている。
「あまり騒がれたくはないのですけれど、お受けしない訳にはまいりませんわね」
「そうでしょうね。あの騒動は関わった者が多いですからアトリーシャ嬢のご活躍は見ておりますし」
「……いっそのことどこか遠くの静かな修道院にでも逃げてしまおうかしら…」
「え…」
そもそもディルダートの「百日詣で」を受けることになったのも、この大公家別邸に来ることになったのも、第二王子との婚約解消の騒ぎから遠ざかる為にお膳立てしてもらったことが始まりだ。結果的に、更なる注目を集める事態に巻き込まれてしまった訳だが。
アトリーシャはこれから自分の周囲で巻き起こるであろう喧騒を思うと、つい本音が漏れてしまっていた。そんなことは許されないとは分かってはいたが。
「あの…何故そのようなことを…?」
「あ、申し訳ありません。つい…出来れば今のことはご内密にしていただけると…」
「いえ、それはいいんですが…その、ええと…」
見ると、ものすごく困惑した表情のアレクサンダーと目が合った。確かに王家の申し出をそのように反応してしまったことは良くなかっただろうが、それにしては彼の反応が少しばかりおかしいような気がした。
「…無自覚、ですかね」
「はい?」
何故かアレクサンダーは部屋の隅に控えているマリアと護衛とメイドにチラリと視線をやった。奇妙に思ってアトリーシャがそちらを見ると、3人はどういう訳かコクコクと頷いている。
「ええと、ご令嬢にはあまり馴染みのない話だと思いますが、幻覚魔法の性質をご存知ですか?」
「幻覚魔法、ですか?あの、先日ディル様に見えていた首謀者の男性が使っていたという」
「アトリーシャ嬢にはディルの姿に見えていたということですよね?」
「はい。あ、ですが他の方にはそうは見えていなかったのですよね?ですからわたくしが探すという話に…」
話の着地点が見えていないアトリーシャは、小首を傾げてキョトンとした表情をする。アレクサンダーは軽く咳払いをして、一旦言葉を切って姿勢を正してから改めて口を開く。
「幻覚魔法はその人物に取って『最愛の人物』に見えるという性質があるのですよ」
アレクサンダーの、それこそ満を持して落とされた爆弾に、アトリーシャの思考が追いつかずに固まった。
「さいあい…?」
キョトンとした顔のまま、アトリーシャが何度か瞬きを繰り返す。そしてようやくその意味を理解したのか、一気に顔が真っ赤に染まった。その様子を見て、アレクサンダーは口の中で「やっぱり無自覚か」と呟いた。
「俺は特異体質らしくて、妻っぽい緑の髪ってだけの似ても似つかない女にしか見えないんですが、他の者はちゃんとそのものに見えるようですよ?」
「そのもの…」
真っ赤な顔のまま、アトリーシャは眠ったままのディルダートにチラリと視線を送った。
「ああ、以前アラクネという幻覚魔法を使う魔獣に遭遇したんですが、ディルもしっかりアトリーシャ嬢に見えたそうですよ」
「ヒャッ…!」
もう混乱のあまり、アトリーシャから奇妙な音が出ている。その様子に、アレクサンダーをはじめ、控えている3人も何とも微笑ましいものを見るような眼差しになっていた。
アレクサンダーはカップの底に残っていた果物と一緒に紅茶を飲み干すと、まだ復活していないアトリーシャに辞する旨を告げる。
「見送りは結構ですよ。貴女にとっても……あいつにとっても最善の選択をされますよう、願ってます」
アトリーシャの代わりに、ちょうど交代となる護衛とメイドがアレクサンダーを玄関まで送る。部屋に残されたアトリーシャは、マリアが紅茶のカップを片付けているのをぼんやりと見守っていた。
「お嬢様、紅茶のおかわりはいかがですか」
「……え、ええ。いただくわ。この砂糖漬けもお願い」
魔道具のポットでお湯を沸かしている間に、マリアは先に砂糖漬けの入った瓶から小皿に取り分けてアトリーシャの前に置く。
何種類か混ざっている砂糖漬けは、真っ赤なベリーが取り分けられた中に混じって皿に乗っていた。その赤い色が思わずディルダートを連想させてしまい、再びアトリーシャの頬が熱を帯びる。
「わたくし、ディル様を…?」
アトリーシャは本当に小さな声で呟いたのだが、その声はしっかりとマリアの耳に届いている。マリアは彼女に背を向けて紅茶の茶葉をポットに移しながら、密かににっこりと微笑んだのだった。
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最初に意識の端に引っかかったのは、可愛らしい声だった。
何の声だろうと耳を澄ませていると、その声は歌声だと分かった。柔らかく優しく、高い可愛らしい歌声。その歌を聞いていると、胸の奥が熱を帯びて来るように強く脈打って来る。その自分の鼓動が耳にも伝わり、その歌声が掻き消えてしまう。もっとその歌声が聞きたい。そう思ってもっと耳を澄ませる。
やがて目を開けると、白く柔らかな光が目に入った。
「ディル様?」
歌声が止み、その優しい声が話しかけて来る。その白く柔らかい光だと思ったのは、美しい女性の美しい白い髪の色だったと気付いた。
「ディル様!」
「ああ…女神がいる…」
彼女の夜空のような紺色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。その瞳が大きく見開かれたかと思うと、途端に水の膜が表面を覆い、そこから次々と水が溢れ出す。
「ディル様!ディル様が目を…!」
ディルダートは、12日ぶりに意識を取り戻した。
すぐに医師と治癒魔法士が呼ばれ、彼の診察を始める。まだ目が覚めたばかりで体がひどく重かったが、目立った不具合はないように感じた。
それから次々と湯で絞ったタオルや、水やスープなどが運ばれ、ようやく落ち着いた頃、やっと目を真っ赤に泣きはらしたアトリーシャが部屋の隅に控えていたことに気付いた。
「…リーシャ嬢」
「ディル様…その、お側に寄っても構いませんか?」
「はい…あの、リーシャ嬢は、お怪我は」
「全くありません。ディル様が、身を呈して守ってくださいましたから」
「それは、良かった…」
「……はい」
そろそろとベッドの側に置かれた椅子に歩み寄って、アトリーシャはそっとそこに腰を下ろした。その際ずっと俯いていて顔を上げなかったので、ディルダートは彼女の体調が良くないのかと思った。
何か声を掛けようと口を開きかけたが、何か光るものが彼女の膝の上に止めどなく落ちていることに気が付く。
「リーシャ嬢…」
彼女が泣いていることに気が付いて、ディルダートはハンカチかなにかないかと探したが、ずっと寝込んでいて目が覚めたばかりの彼の手元にそんな気の利いたものはない。しばらくオロオロとしていたが、思い切って手を伸ばして彼女の顔に手の甲で軽く触れる。すっかり毛深くなっていた彼の手の甲は、彼女の涙を拭き取れるレベルにまでフサフサしている。
「ディル様!?」
「あ、いや済まない!そんなに痛くなかったと思ったんだが!!」
弾かれたように顔を上げてのけぞったアトリーシャに、ディルダートが慌てて手を引く。
昔、領内の孤児院を訪れた時にそこで一番小さな女の子がやたらとディルダートの手の甲に頬擦りしていたし、自分でも手の甲はそれなりに柔らかい毛質だと思っていたのだが、貴族のご令嬢には固めだったのかもしれない。
まず手の毛で拭こうとしたこと自体が大間違いなのだが、ディルダートにはその辺りのことは経験値がなさ過ぎて思い至っていない。そんなことを考えながら慌てているディルダートの様子に、アトリーシャは思わず泣き笑いの顔になる。
「いいえ、少し驚いただけですわ」
「そ、そうか。それなら良かった」
そう言いながら、アトリーシャは自分でハンカチを取り出して目元を拭った。
「…ディル様、助けてくださって、ありがとうございました」
「いや…リーシャ嬢に怪我がなくて良かった」
「ですが、もうあんなことはしないで下さい。あんなふうに…置いて行かれるのは、イヤです」
アトリーシャは、そっとディルダートの手の上に自分の手を重ねた。自分の涙でしっとりと湿ってしまった彼の手は、彼女の手を二つ合わせたよりも大きい。
「……努力しよう」
「しない、とは言ってくださいませんの?」
「嘘は吐きたくない」
「わたくしがイヤだと言っても?」
「きっと、同じ状況になったら俺は同じことをする。リーシャ嬢がどんなに嫌と言っても、しないと約束しても、俺は何度でも同じことをするだろう」
「貴方という方は…」
彼女の伏せられた目から、またポツリと涙が零れ落ちる。
「俺は、貴女を泣かせてばかりだ」
「本当ですよ…」
伏せたままの目を縁取る彼女の長い睫毛が濡れている。何度かこすってしまったのかうっすらと目の縁が赤くなっているのだが、ディルダートの目にはそれが何とも美しく見えた。
「ですが、もうそんなことはないでしょう」
「え?それはどういうことですか?」
「俺は、クロヴァスに戻ります。そして国王陛下から命じられない限りもう王都には来ないつもりです」
「どうして…ですの」
9年ぶりに王都に出て来て、ほんの僅かな間であったがやはり自分のような者は社交界には馴染めないのを痛感した。国境を守る最前線であるクロヴァス領で役目を果たしていると言えば、余程のことがない限り王都に呼び出されることもないだろう。
もう彼は「百日詣で」の終わりが見えた頃からずっと考えていた。これが成功しようとしまいと、終わればクロヴァス領に戻って、そこからなるべく出ずに生きて行こうと。
「リーシャ嬢、俺はここで過ごした日々がとても楽しかった。もう充分な程満足したのです。だから、あとは故郷の為に生きて行こうと思います」
後継については、自領の騎士団の中にも家庭を持っている者達がいるので、その中から自領を愛してくれる丈夫な子を養子に迎えれば済む話だ。
それにきっと、アトリーシャは多くの令息達が放っておかないだろう。中でもレンザは彼女を気に入っている。きっと彼女の力になってくれるだろう。彼女のような美しい白百合は、王都で咲いている方が良いのだとディルダートは思った。再び王都に来れば、彼女の隣に誰か似合いの令息が立っていることだろう。我ながら情けない理由だと自覚はあったが、ディルダートはその光景を見たくはなかったのだ。
「では、約束した『百日詣で』はどうなるのです?わたくしにダンスを申込む権利は放棄されるのですか?」
「いや…あれは99体で終わってしまいましたから、願掛けは成就していないかと…」
「いいえ、わたくしは100体捧げていただきましたわ」
「それは一体…」
「辺境に棲むという『赤熊』を確かに捧げていただいております」




