1 夜会に降臨した女神
よろしくお願いします。
その日の夜会は、噂が事実であったと確定され、一瞬静まり返った。
アトリーシャ・デュライ。デュライ伯爵家の長女で、その美貌、教養、気品、どれを取っても現在未婚の年若い令嬢の中で彼女の右に出るものはいない、社交界の白百合の君と呼ばれる才媛だ。ほんの少し青みがかった白い髪に、夜空を思わせる濃紺の瞳。少し小柄な部類に入る体つきは華奢ではあるが、露出の少ない上品なドレスに身を包んでいても大人の女性が持つ美しい曲線が隠し切れない色香を纏わせている。
アトリーシャは、この国の第二王子ベスロティの婚約者であった。本来なら婚約者がエスコートして夜会に参加するのが慣例であるが、この日のエスコートは父親のデュライ伯爵であったのだ。
少し前から、このベスロティとアトリーシャの婚約が解消されたという噂が社交界で囁かれていた。王家から正式な通達はなかったが、これまでの二人の様子から、おそらく今度の夜会で正式に発表されるのではないかというのが大方の予想だった。
そしてその噂を肯定するかのように、アトリーシャは父親のエスコートで現れたのだ。
やがて招待された貴族の入場が終わると、王族の入場になる。
集まった人々は、固唾を飲んで彼ら、特に第二王子の入場を見守った。
ベスロティが連れていたのは、これまでに誰も見た覚えのない令嬢だった。
黄金色の髪と、同じ色をした金色の瞳。豊かに波打つ髪を背中に流している姿は、そこに光が当たったかのような明るさで人々の目を惹き付けた。大きく意思の強そうな瞳に、少し厚めだがそれが却って蠱惑的に艶めく唇。まるで大輪の花が咲いたような印象の美しい女性。
その華やかな容貌に大きく胸元の開いたデザインのドレスと大振りの宝石がよく似合っていたが、贅におもねらず品位と慎ましさを尊ぶことが建国以来の王家の方針であり、それに合わせた王妃や第一王子妃よりもはるかに派手な装いに彼女の傲慢さが透けて見えた。主役然として視線を集めることが当然であるという態度と、高圧的な気配を敏感に察知した年配の貴族の中には眉を顰める者もいたが、大半の貴族は思わず見蕩れて溜息を漏らした。
「皆の者、今宵はよく集まってくれた」
国王の挨拶は、先日の隣国との友好条約の締結や、各地での魔獣の被害が今年は最少であったという報告から始まり、やがて一番の関心事になった。
「この度、オルティア皇国との友好の証として、ベスロティ第二王子と、オルティア皇国第三皇女クリスティア姫との婚約が調うこととなった。婚儀は来年の年明けの儀が終わり次第行うこととする」
国王の言葉に、大きなどよめきが上がった。
もう今年はあとひと月、年明けの儀が終わる頃と言えばそこまで二ヶ月足らずしかない。通常、王家に限らず貴族の婚姻は、1年から2年程度の期間を設けて準備をする。高位貴族になればなるほど、それでも準備期間は短すぎると言われることもあるのだ。にもかかわらず、王家がこの短期間で婚約から婚儀まで済ませるというのは異常事態でしかなかった。
そのどよめきを皇女クリスティアは全く気にした様子もなく、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべてさりげなく自分の腹部に手を添えた。それだけの仕草で、この婚約から婚儀までの期間の短さの意味を察した貴族の大半が押し黙った。
「さあ、今宵の夜会を、皆楽しんで行くが良い」
国王の言葉を合図に、楽団が華やかな音楽を奏で出し、国王夫妻がファーストダンスを踊り出す。そして次に王族が続き、他の貴族達も参加をすると、その場は溢れんばかりの光と喧騒に包まれる。
しかしその華やかさの中で、この日の夜会はどこか上滑りしているかのような空気がいつまでも漂っていたのだった。
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「女神は実在したのか…」
隣で、水なのかと錯覚しそうな程カパカパとワインの入ったグラスを空にしている友人がやっと口を開いたかと思ったら、そんな夢見がちな台詞だったことにアレクサンダーは目眩を覚えた。
「すごいな…俺、女神なんて初めて見たぞ」
「安心しろ、俺も見たことはない」
呆然とした様子で呟いているのは、ディルダート・クロヴァス辺境伯。
国境の森に出現する魔獣から国を守っている国防最前線の領地を治める領主だ。9年前に先代が魔獣討伐の際に亡くなり、当時成人前の17歳になったばかりで跡を継いだ。幼い頃から日々魔獣だけでなくあらゆる害獣も相手にしていたせいか体格に恵まれ、今では国内最強と名高い。強力な火魔法を身に纏わせ素手で巨大な魔獣を殴り倒している姿は、その真っ赤な髪と毛深い体質から「辺境の赤熊」とも呼ばれている。
その隣で呆れた顔をしているのは、アレクサンダー・ノマリス子爵。
現在、主に王城の警護を担当する第一騎士団の副団長を務めている。柔らかな質の薄い茶色の髪を緩やかに纏めているせいか、髪と同系だが少し金属を思わせるような金茶色の目は少し垂れ気味なせいか、纏っている雰囲気は優し気だ。実はこれで下の者には鬼の副団長と呼ばれているようには見えないだろう。この二人は同い年で、貴族ならば必ず通わねばならない学園の寮で同室だった。お互い脳筋気味だったせいかすぐに意気投合し、今も交流が続いている気の置けない間柄だった。
男二人で会場の隅でひたすら酒を飲んでいるのは、辺境伯を継承してから9年ぶりの王都、成人してから初めての夜会に出て来たディルダートの世話係としてアレクサンダーが付いているからである。
本当はアレクサンダーとしては、このむくつけき赤熊の傍よりも愛しの妻ヴィーラと夜会を楽しみたいのだが「数年ぶりの親友とのお話を楽しんでくださいな」と言われてしまって渋々付き添っている。因みに妻は、この二人の傍に居ると仲の良い女友達が恐れて近寄って来ないのでさっさと離脱していた。
「やっぱり拝むべきか」
「やめとけ。お前が拝んでも気持ち悪いだけだ」
ディルダートの視線のずっと先には、アトリーシャがいた。父親と知り合いの挨拶回りをしているのか、年配の夫妻に囲まれている。
「じゃ、じゃあもう三歩くらい近付いてもいいか?」
「その考え自体が気持ち悪い!」
ディルダートは、男女問わず優美で知的なタイプがもてはやされる風潮の貴族社会の中、完全に真逆なタイプだった。
幼い頃に母親を亡くしていて、先代の父親に男手一つで育てられた。父親だけでは手が回らない部分は使用人や領民達が厳しく、そして深く温かく愛情を込めて世話をした。毎日、どころか日に幾度も襲い来る魔獣に対応するため、領民も逞しく前向きな脳筋だった。そんな環境であったので、ディルダートも実に正しく脳筋に育ち、社交界からも物理的に距離もあったことから貴族社会に全くと言っていい程に無頓着な熊男に仕上がってしまった。
権謀術数な中央の政治に関わるのは致命的に向いてないが、幸いなことに強いことが正義に直結している辺境の地の領主である。適材適所だ。
こんな貴族らしからぬ彼にも、貴族の義務は発生する。家門の存続問題だ。妻を娶り、後継を得てクロヴァス家を存続させる。大変分かりやすい義務であるが、彼にとっては魔獣退治をするよりも大変な難問だった。
何せ「辺境の赤熊」と言われれば、初対面でもほぼ全員が彼を指差すことが出来るほど純度の高い熊男なのだ。それはもう絶望的に女性とのご縁がなかった。
成人前から辺境伯位を継ぎ、色々な事情により9年も領地を離れられない状況にあったので、縁談どころではなかったというのもある。
今回こうして9年ぶりに王都に出て来たのも、ようやく問題も落ち着いて来たので、今度は家の存続問題をどうにかしろと家令を始めとする使用人、部下、領民一同に尻を叩かれて辺境領を追い出されたのだ。しかしこうして精神的にも物理的にも尻を叩かれて出て来たものの、魔獣を狩るのとは訳が違う。まず初の夜会に出席するのにあちこち手を回してもパートナーが見つからずに一人で入場した辺り、推して知るべしである。
「あんなに美しい女神だ。俺などが近付いては迷惑だな…」
「そこまで卑屈になる必要もないと思うが、お前は目立つからな…いや、近付いた方がいいかな。うん、ヴィーラと一緒に行けば何とかなるか。多分俺の顔も覚えてるだろうし」
「ええっ!?」
可愛げの欠片もないディルダートが巨体でモジモジしている姿を人前に晒したくはなかったが、アレクサンダーは視線の先の彼女の周辺で不穏な空気を察して、敢えて防壁になった方がいいのではないかと判断した。夜会に出る為に休暇を取ってはいるが、王城を守る騎士であることは変わりがない。起こりそうなトラブルは未然に防ぐに限る。
規格外なディルダートと並んでいるとアレクサンダーも大きく見えないが、若くして副団長になるだけの実力を持つ。体格だって普通の貴族よりは二回りは大きく厚みがある。その二人の肉壁に掛かれば、近寄って来る不埒な輩はある程度防げるだろう。
「あのご令嬢、デュライ伯爵令嬢な、今はまだいいが、伯爵から離れたら多分危険だ」
「女神の周辺に魔獣や暗殺者の気配は感じないが…どちらかと言うとあちらの3本目の柱の影と、向こうの窓のカーテンの影に殺気があるぞ」
「早く言えよ!」
アレクサンダーが慌てて近くの警備担当に指示を出した。担当はすぐさま指摘された場所へと密やかに向かって行った。
「デュライ伯爵令嬢はな、第二王子殿下の婚約者だったお方だ」
「でもさっき…」
「多分、なかったことにされたんだろ。隣国との政略上の都合とかでな」
「そんな…」
ギリリ…と鈍い音が聞こえたので目をやると、怒りの形相のディルダートの握りしめた拳にくっきりと血管が浮いていた。
アレクサンダーは王城の警備の際に、既に王子妃同様の公務を任されていた彼女と何度も遭遇していた。王子の婚約者であったので立場上あまり近寄ることはなかったが、挨拶程度のやり取りでもその人柄の良さと気品は随所に滲み出ていた。現に両陛下の覚えもめでたく、身の回りの世話をする女官や担当文官達の評判も上々だった。
王城に務める大多数は、彼女が王子妃として正式な王族の一員に加わることを心待ちにしていたのだ。
だが、先程の国王の紹介では彼女との婚約について一切触れられなかった。おそらくアトリーシャとの婚約は解消ではなく、最初からなかったことにされたのだろう。他国の皇女が既に結ばれていた婚約に割り込む形になっては外聞が悪いからだろうとアレクサンダーには予想がついたが、同時に貴族の令嬢にとっては随分と酷なことだとも思った。
このまま王家としては婚約自体なかったことにしておけば、表向きは彼女に何ら瑕疵は付かないとしているのだろう。しかし、それはあくまでも表向きだけだ。政略であろうとやむを得ない事情であろうと、今後は彼女が婚約を解消された傷物として扱われるであろうことは予測がつく。
ディルダートのように怒りを直に表す程ではないが、アレクサンダーも内心腹に据えかねるものはあった。
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アトリーシャは、これまで培って来た王子妃教育が役に立っていることに感謝しながら、笑顔を貼り付けていた。
おそらく気を遣ってくれているのだろう。寄親にあたる侯爵夫妻が話題を提供してくれていて、いつの間にか年配の高位貴族に囲まれていた。そうやって、興味津々な顔を隠しもしない若い令嬢や、チラチラとこちらを伺って来る不躾な視線の令息達が近付くのを防いでくれているのだ。こういった気配の察知は長年の王子妃教育の賜物だった。
アトリーシャがベスロティ第二王子と婚約を結んだのは8歳の頃だった。ベスロティは2つ年上の10歳で、お互い婚約というものがよく分かってはいなかったが、それでも仲は良好だった。二人で机を並べて勉強したり、お茶会をしたり、時にはピクニックに出掛けたりして、楽しい思い出の多い幼少時代を過ごした。
成長して行くに連れ子供の距離感は許されなくなってしまったが、それでもお互いに切磋琢磨して、第一王子が国王になった時の治世で支えになれるように協力して行こうと誓い合っていた。どちらかと言えば恋愛的な気持ちよりも、家族的な、長年信頼して来た戦友的な気持ちの方が強かったが、そこには確かに愛情は存在していた。
転機が訪れたのは、ベスロティが17歳の時だった。
優秀な彼女は、貴族が通う学園に入学する15歳にして王子妃教育の殆どを終えていた。なのでその頃には時間の余裕も出来ていたし、既に先に学園に在籍しているベスロティとは入学すれば顔を合わせる機会もある。これから婚約者らしい交流が増えるだろうと少女らしい期待をしていた矢先、彼が重い病に罹った。
原因不明の難病で、高い熱と全身を蝕むような鋭い痛みが昼もなく夜もなく継続する。眠ろうにも痛みが邪魔をして眠れず、あっという間に衰弱してしまった。その時のアトリーシャは、原因不明故に見舞いに行くことは許可が下りず、何も出来ない不甲斐無さから毎晩のように殆ど眠らずに神に祈りを捧げ、どちらが病人か分からないとまで言われてしまった。
治療は困難を極めたらしいが、やがて奇跡的に彼は回復した。
だが、間断のない痛みに晒され幾度となく死線から戻された影響なのか、ベスロティの性格がすっかり変わってしまっていた。
どこまでも真面目で努力を怠らなかった彼から、その熱が消えてしまった。集中力に欠け、授業中によく居眠りをするようになり、やがて殆どの授業に不参加になった。そして本来授業である時間に学園を抜け出し、下町の繁華街に入り浸っては明らかに怪し気な人物とつるむようになった。そのうち彼らに影響されたのか、場末の娼館に足しげく通っている姿が何度も目撃されるようになっていった。
それでも学園を卒業出来たのは、定期テストで辛うじて落第点を免れていたからと言われているが、そこに学園の王家への忖度があったというのが暗黙の了解であった。
幾らアトリーシャを始め側近候補達が忠告しても、彼の悪行は止まることはなかった。そのうちに、定期的に顔合わせをする機会すらすっぽかし、遠くから彼女の姿を目にするとあからさまに道を変える有様。明らかに婚約者を蔑ろにしていることはすぐに広まり、もしかしたらアトリーシャに替わって王子妃になれるのではないかという野心を持った家門の令嬢達が彼の傍らに集まるようになるのに時間はかからなかった。そして彼も満更でもない様子で、次から次へと沢山の令嬢を侍らせていた。
第二王子とは言っても、異母兄の第一王子とは1歳しか違わず、まだ第一王子も正式に立太子してはいない。その上第一王子の母は側妃、第二王子の母は正妃なことも影響していた。よほどのことがない限り長子相続が基本であるのだが、充分次期国王になれる血筋と能力を有し、現在いる3人の王子の中で最も美しい容貌と評判のベスロティ。病から回復して多少評判が落ちたものの、それでも御輿に担ぐには充分すぎる程の価値を持っていたのだ。
「婚約者というより、側近の政務官のような相手だよ」
ベスロティがそうアトリーシャを評価するのを、令嬢に囲まれながら隠す気もない大きな声で言うのを何度耳にしただろうか。
幸いなことにアトリーシャに寄り添い、時に憤慨して不敬をものともせずベスロティに突撃までしてくれるような友人達に恵まれていたので、辛い時も乗り越えることが出来た。
それでもやがてそういった渦中にいることに疲れたアトリーシャは、父親を通じて遠回しに婚約解消が出来ないものかと王家に打診してもらった。だが彼の両親である国王夫妻は、病気から回復して生きている実感を味わいたいだけだからしばらく様子見をして欲しい、と逆に懇願されてしまい、希望は聞き入れられることはなかった。
彼が学園を卒業して少しマシなようになったが、流れて来る噂は相変わらず醜聞だらけで、単にアトリーシャの前で隠すのが上手くなっただけなのかもしれない。この頃になると、過去の美しい思い出の貯金はすっかり使い果たし、彼女の心に残っているのはただの義務感と惰性だけで、それ以外の感情は殆ど擦り切れてしまっていた。
本来なら、アトリーシャは学園を卒業して成人と認められる18歳に婚礼を挙げる予定だったが、のらりくらりと延期されて約2年が経過していた。そして将来の展望が全く見えないまま、今回の唐突な婚約の解消に至った。
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興味本位や、値踏みするような視線に晒されて、いつもならどうと言うことはない筈にも関わらず、アトリーシャは少しだけ足元がふらつくような感覚に陥った。
「リーシャ」
「お父様、申し訳ありません。少し奥で休ませていただきます」
「しかし…」
デュライ伯爵は彼女の異変にすぐさま気付いたが、まだ挨拶回りが残っている。ただでさえ耳目を集めている中、礼儀を欠くことは得策ではない。だがこの状況で娘を一人にしたら厄介事を招くのは目に見えていた。現にその言葉を口にした瞬間、周囲の空気が変わり、虎視眈々とこちらを伺う様子を見せている。使用人や警護の者に世話を任せることも出来るが、より高い身分の者がゴリ押しして来れば、退けることは難しいだろう。
そこに、その空気を読まずに声が掛かった。
「美しいめが…ご、ご令嬢。お顔の色がすぐれぬようですがどこかお体の具合でもお悪いのでしょうか」
アトリーシャが振り返ると、ちょうど目の高さに真っ赤な毛並み…ではなく、燃えるような赤い髪が目に入った。そして少し視線を下にずらすと、髪の色に負けず劣らず赤ら顔をした男性が跪いていた。
(酔ってらっしゃるのかしら?)
あまりにも赤い顔なので、アトリーシャは真っ先にそんなことを考えてしまった。
アトリーシャ自身が小柄ではあるとしても、跪いた状態で自分と大差ない程に規格外に大柄な男性。体も分厚く、側にいるだけで小山のような印象を与える。しかし着ている服は上質で品があったし、真っ直ぐに見つめて来る表情は真面目そうで、不思議と威圧感を覚えなかった。
(あら?思ったよりも目は可愛らしい方だわ)
記憶の中を幾ら探っても顔に見覚えがなく、確実に初対面の男性にどうして跪拝されているのか分からず、すっかり理解の許容量を越えていたアトリーシャは何故かそんなことを呑気に考えていたのだった。
「その髪色は…もしやクロヴァス辺境伯閣下ではございませんか?」
先に気付いたデュライ伯爵が確認する。
「申し遅れました。ディルダート・クロヴァスと申します」
「まあ!クロヴァス閣下、お気遣いありがとうございます。ですが、そのように下の者にお膝をお付きになられてはいけませんわ。どうぞお立ちになってください」
「いや…しかし、そのぅ…めが…」
「目が?」
爵位としては上の辺境伯。その為アトリーシャが慌てて立つように促したが、ディルダートはそのままの姿勢で更に顔を赤くして口の中でゴニョゴニョと何かを呟いている。
「ディル!ヴィーラと合流するまで大人しく待てと言って…」
「まあ、ノマリス副団長様」
それなりに大柄でありながら素早く人混みを抜けて、アレクサンダーが妻と共に現れた。普段の騎士服ではなかったが、アトリーシャはすぐに誰か分かったようだった。
「お久しぶりです、デュライ伯爵令嬢」
アレクサンダーが丁寧に頭を下げつつ、器用にも跪いているディルダートの襟を後ろから引っ張ってどうにか立たせようとする。だが、当人にその気がなければいくらアレクサンダーでも動かすことは無理だった。
「も、申し訳ありません。友人は先程少々ワインを飲み過ぎたようで…」
「あの程度で俺が酔うか」
「おい!」
何とかごまかそうとしたものの、それを即座に台無しにして行くスタイルの友人に、アレクサンダーはその無駄に広い背中を蹴り付けてやりたい衝動に駆られたが、さすがに理性でそれを押し止めた。
「デュライ伯爵令嬢」
「は、はい」
ディルダートが真っ直ぐにアトリーシャを見つめた。
ただでさえ注目を集めていた彼女に、王都の夜会初参加とも言える幻の辺境伯で当代最強と名高いディルダートの組み合わせ。先程王族との婚約が事実上解消となったばかりで所謂傷物となった令嬢に向かって、身分が上の貴族が跪いている姿は注目の的だった。彼らを中心に輪を描くように人垣が出来つつある。
「貴女に、100日間捧げ物を贈る願掛けをしてもよろしいでしょうか」
「…はい?」




