♯_Ⅲ
――いつの間にか、眠ってしまっていたみたいだ。
半覚醒のぼくの頭を、手が、優しく撫でていく。一回、二回、三回と、何度も、そぉっと撫でていく。
飛び起きたいのと同時に、なんだかとても怖くなって、ぼくはゆっくり、ゆっくり首を巡らせた。
「――…かあ、さま…」
ほとんど唇の動きだけの、声になり損なった声は、けれど、確かに、母様に届いた。
ゆっくりと琥珀色の目を瞬いた母様は、とろりと甘い微笑みを零してくれた。
「ある…アル、フォンス。わたしの、たからもの」
「…っ、か、母様っ」
夢だろうが幻だろうが、消えてしまわない内にと、今度こそ飛び起きようとして、体を起こしたところで「しぃ」と口元に人差し指を立てる母様に宥められる。
「眠って、いらっしゃるから…」
母様は柔らかい眼差しで、ぼくとは反対側の隣を見る。釣られて見れば、クソ親父が椅子に座ったまま目を閉じていた。
眠ってなんかいない。眠る必要さえ、きっともうない。それでも、母様がそう言うのだし、折角の二人っきりの時間をわざわざ壊す必要もないので。ぼくは静かに頷いた。
「大きく、なったのね」
そうひそめた声で言う母様が、そぉっとぼくの頬に触れてきた。軍人で魔導師でもあった母様の手のひらは、肉刺なんかで所々硬かったけれど、あたたかかった。ぼくはそのぬくもりに縋るように、母様の手に自分の手を重ねる。母様はもう一度「大きくなったのね」と呟いた。嬉しそうな、さみしそうな声だった。
「…はい。大きく、なりましたよ。あぁでも、昔は…小さい頃は、小さかったです。同年代の中では、小柄でした」
「そう…ふふ、私と一緒ね」
「母様も?」
「そうよ。私も、小さい頃は小柄でね。早く身長が伸びてほしくてたまらなかった。…でも、伸びたら伸びたでね。成長痛も痛かったなぁ」
「ぼくも。ぼくもです。あれ、すっごく痛かったですよね」
意外な、でもある意味親子としては当然かもしれない共通点に、ぼくと母様はそろって笑う。勿論、目を閉じて眠っているクソ親父を起こさないよう、小さな声で。
しばらく笑った後、母様がそっと微笑んだ。
「あぁ…嗚呼。きれいね、その…青い目」
「……でも、ぼくは…あんまり、好きじゃ、ない…」
「そう…」
ぼくの目は、普通――一般大勢とは異なる。ぼくの目は、母様と同じ琥珀色だ。だけれど、夜の終わりから明け方にかけて――丁度今の時間帯は透き通った青色に変わる。魔導師にたまに現れる『バイカラー』の一種として分類はされているけれど、現在も調査研究は進行中。そもそも、毎日変わる訳でもなかったりする。義大叔父上は「もしかしたら、近くに来ている時に反応しているのかもね」なんて言っていた。明言はしなかったけれど、何と反応しているかなんて、ぼくやぼくの近しい人間は分かってしまう。
ついつい、目を閉じてしまう。そんなぼくの瞼に、母様がそっとキスをくれた。
「母様?」
「嫌わないでくれたら、それでいいの」
「……うん」
頷けば、もう一度キスをしてくれた。姿勢を戻している母様を見つめながら目元に触れれば、いつもよりほんのりあたたかい気がして。自然と笑ってしまった。
「アルフォンス」
「うん」
「お願いがあるの。きいてくれる?」
「うん。なぁに、母様」
ぼくから手を放した母様は、小箱を二つ取り出して見せた。
「これを、埋めてほしいの。
…プレゼントじゃなくて、ごめんね…」
微苦笑する母様に、ぼくも笑って首を振る。
「気にしてないよ。…会えたことが、もうプレゼントだし…なんて」
「なんて出来た子なんでしょう。ううん、やっぱり、何度考えても私からこんなにも素敵な子が生まれただなんて…嬉しいけれど、信じられない気持ちも強いわ…」
「あはは、もう、そんなさみしいこと、言わないでよ。母様」
「そうね。ごめんね」
「ううん、いいよ」
「…ごめんね、アル。ごめんなさい、アルフォンス。私の、私の…一番の、宝物…、っ……ごめんね、…許して…」
「うん…許すよ。許すから…。…さみしかったけれど、許すよ…。怒ってなんか、いないから。だから…だからこれからは、もっと、夢に、せめて夢でもいいから、でてきてよ。母様」
「、…うん。えぇ、そう、するわね」
ぼくは受け取った小箱一旦脇に置いて、母様を抱き締めた。ほんのりとあたたかく、柔らかくていい匂いのする体は、未だ瑞々しい。若い盛りでいってしまったのだから、当然と言えば当然か。はっきりとした歳は聞いたことがないけれど、きっと今のぼくとそう変わらないのかもしれない。
場所も歳月も何もかもをこえての再会。それが、長くは続かないことは世の道理だろう。列車の速度が、徐々に落ちている。
「…朝が、もう近い…」
「……はい」
「……アルフォンス」
「はい」
「大好きよ、アルフォンス」
「はい。ぼくも、ぼくだって…大好きです、母様」
母様ともう一度抱き締め合って、額、目元、頬とキスを贈り合って。ぼくは小箱を抱えて立ち上がる。そして、踵を返しかけて、深呼吸。
「あんたのことは大っ嫌いです、クソ親父」
とびっきりの笑顔で吐き捨ててやる。今度こそ踵を返すぼくの視界の端に、右目だけを開けて此方を一瞥するクソ親父が映った。驚いて目を瞬き、そして大きく肩を竦めた母様には悪い気はしたけれど、こればっかりはどうしようもない。今後があるなら、ほんの一つまみだけ期待したい、かもしれない。
部屋を出れば、衛兵の代わりにヒューと少将が立っていた。そんな気はしていたので、驚くことでもない。ただ二人は違ったようで、ぼくが抱える小箱を見てか、ほんの少しだけ眼を見開いていた。それも一瞬だったけれど。
「お会いできて良かったです、アルフォンス様」
「ぼくもです…と言えるほど、貴官の事は存じておりませんのが残念です。少将。今後、夢あたりでお会いできましたら幸いです」
「至極光栄です」
行きと同じように、少将の先導で列車を降り、ホームから駅舎を経ててこの世へと戻ってくる。朝の手前の空を一度見上げて、軍人たちの黒い列を抜けきって、ぼくはようやく振り返る。
古びた駅舎を背に、白む空から正面を隠す少将たちの顔は最早すべて曖昧だ。『バイカラー』の『薄明』の目をもってすれば鮮明になるのだけれど、そうする必要もない。
「では。どうか御達者で」
「そちらこそ。まぁ、クソ親父が最優先でしょうが、どうか母様のこともお願い致します」
「勿論ですとも。ご両名ともに、小官をはじめとする総員の命に代えても、お守り申し上げます」
「では、もう怖いものなどありませんね」
笑って、ぼくは一礼した。少将たちも敬礼を返してくれた。
「おさらばです」
そうして、少将たちが戻っていった列車は汽笛を鳴らし、この世から走り出していく。
過ぎ去っていく最後尾、そのテラスに。連れ添う母様とクソ親父がいた、気がした。
「………一緒にいかなくて、よかったのかい?」
「えぇ。良かったのです」
「そっか…。…君がいいなら、それでいい。ぼくも、まだ君と直におしゃべりしたいしね。良かったよ」
「ありがとうございます。光栄です」
菫青の三白眼気味の目を細めて微笑むヒューに、ぼくも笑う。そうして、託された小箱を抱え直した。
「…それは」
「あぁ、うん。母様からね。埋めてほしいって、お願いされたよ」
「そう、ですか…」
ヒューはそう言って、しばらく目を閉じて動かなかった。まるで黙とうをするような彼は、きっとこれが何か知っているんだろう。ぼくがお願いされたことの意味を、感じ取っているんだろう。これから報告をする義大叔父上だって、そうだろう。
「………おかえりなさい、母様。クソ親父」
だから、ぼくも。こみ上げるまま、そう囁いた。すると。胸に抱いた小箱が震えた気がしたんだ。とくん、と。
(21/10/31)