死なない
最近、会社帰りに奇妙な光景を見る。
場所は、とある堤防。そこで何やら呟きながら、幾度も地面を踏みつけている人間がいるのだ。
不気味なのは、見るたびに人が違うこと。
だというのに、踏みつける場所は必ず同じであることである。
それが、かれこれ一週間ぐらい続いているだろうか。最初は気にも留めなかったが、流石に三日目辺りから段々と怖くなってくる。
一度は警察に通報しようかと思った。けれど、毎日違う人間であれば不審者として適用されるかどうかも分からない。
なので、試しに近づいて話しかけてみようと思ったのだ。
「あのー、すいません」
一心不乱に何かを踏みつける男に、おずおずと話しかける。だが男は全くこちらを見ようとしない。
しかし、近づいたことで彼の呟きは鮮明となった。彼は、ずっと同じ言葉を繰り返していたのである。
「死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない……!」
――殺意に満ちた声ではなかった。男の顔は焦りと苦しみに歪み、今にも泣き出さんばかりだったのである。
ゾッとした。そうまでして彼が殺したいものとは、一体何なのだろう。
好奇心には勝てず、首を伸ばして男の足元を覗く。そして、驚愕した。
男が踏みつけているのは、ただのカエルの礫死体だったのである。
「ちょ、ちょっと」
あまりの馬鹿馬鹿しさに私は男の肩に手を乗せる。それでもやめなかったので、肩を掴んで強引にその場所から移動させた。
「何をしているんです。このカエルはもうとっくに死んでいますよ」
「……死なない……死なない……」
「死んでいるじゃないですか。こんなに潰れてしまっては、二度と生き返ることはありません」
「死なない……死なない……」
憔悴した様子でなおも首を横に振る男に、私は呆れて息を吐いた。せっかく上等なスーツに身を包んでいるというのに、何かしらの精神疾患を患っているのだろうか。
後で病院まで連れ添ってやろうと思いながらも、私はカエルの元まで行く。
そして、彼を安心させてやろうと、潰れたカエルの上に右足を振り下ろした。
何の音もしない。当然だ。もうこのカエルは潰れ切っているのだ。
「ほら、カエルは死にましたよ。私が殺しました。もう大丈夫です」
「死なない……死なない……」
「だから死んだんですって。ほら……」
そう言って、足を持ち上げようとする。だが、そこで驚くべきものを目にした。
――カエルが。
地面と一体化するほど潰れていたはずのカエルが。
私の靴の裏で確かに膨らみ、動いたのである。
「……!」
咄嗟にカエルを踏みつける。爪先でグリグリと潰す。ぐちゃぐちゃと鳴る嫌な音に、さっきはこんな音などしなかったと悲鳴を上げそうになった。
――死んだはずだ。これで死んだはずだ。こんなことをされて、生きていられるはずがないのだ。
「……死んで……」
声が震える。見たくないのに、見なければ安心できない。嫌だ。怖い。嫌な予感が胸を締め付ける。
足を持ち上げる。下を覗き込む。
カエルが、膨らんでいた。
「あ、……ああっ!」
足を下ろす。何度も踏みつける。念入りに。周到に。間違いなく殺せるように。
足を上げる。カエルは膨らんでいる。ギョロリとした目がこちらを見ている。何度も殺す私の顔を覚えるように。焼き付けるかのように。
「死なない……!」
踏みつける。踏みつける。踏みつける。踏みつける。
そのたびに、カエルは膨れ上がる。
「死なない、死なない、死なない、死なない……!!」
怖い。怖い。生き返るな。こっちを見るな。私じゃない。私がお前を殺したんじゃない。こいつだ。こっちにいるこいつがお前を殺したんだ。
私はさっきまでここにいた男に声をかけようとした。だけど、カエルから目を逸らせない。
目を逸らしている間に、膨れ切ってしまったら。目を逸らしている間に、跡形もなく消えてしまったら。
そうしたら、私はカエルに取り憑かれてしまうのではないか。家に帰ろうともどこに行こうとも、膨れ上がるカエルがそこかしこに見えるようになるのではないか。
――ああ、違う、妄想だ。タチの悪いただの妄想だ。けれど、そうならない保証なんてどこにも無いではないか。
現に、潰したカエルが膨れ上がっている今。
「死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない……!」
ああ、ああ、なんで私は声をかけてしまったんだ。なんで見てしまったんだ。なんで踏みつけてしまったんだ。
「死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない……!」
助けてくれ。声をかけてくれ。誰か私の代わりに踏み潰してくれ。
「死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない……!」
カエルを殺してくれ。
死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない、死なない……。




