2 鳩と鳩子と、沈まない月
膨大な本に囲まれた六畳の部屋に住む彼へ、愛と別れを込めて。
◆
色素の薄い月が空に浮かんでいた。作り物めいたその天体は、うすら寒い草原を撫でるように照らしている。風に揺れる生白い草は、はりぼての月の下、小さく囁き合っている。
草原の向こうには水平線が見えた。おそらく、先には崖があるのだろう。海面に映った月は、歪な無表情だった。水面は精巧なモザイクのように、反射した光がぽつぽつと蠢いている。
静謐な空間だった。何もかもが、奇妙なバランスで支え合っている。
私はというと、愛するものと向かい合い、そして時折言葉を交わし合った。
夢を見ているとしか思えない状況。しかし、これが私にとっての現実であることは感覚的に理解できた。
「心地良い風だろう? 遠い、遥か遠い場所にいる蝶々が起こした羽ばたきが、我々の体を撫でていくのだ」
朗々とした声だった。性別は不明であるが、その声質から目の前の生き物を男だと判断する。
彼は両腕を広げた。風を掻く音が鳴る。
「我々も、風を起こそうではないか」
言って、彼は両の翼を痛々しくはためかせた。私の横を、柔らかな風が過ぎていく。彼の小さな瞳は、ただただ私に向いていた。
私の愛する生物、平和の象徴、鳩は私の知っている言葉で語りかけてくる。
「私の腕では、風は起こせないわ」
空を掻いても、大気は指を抜けていく。
能面の月。贋物の海。しばし、沈黙が訪れる。
流れる風を肌で感じ、蝶の羽ばたきを空想した。背景に、私の知っている街の夕焼けを添えて。燃えるようなオレンジに、蝶の姿は溶けていく。
「ここはどこなの? 鳩さん」
鳩の瞳が、笑うように歪んだ。「思い出してごらん」
私はこの場所を知らない。まったく記憶にない。陽が昇れば景色も変わって、もしかすると私の知っている場所であることに気づくのかもしれない。しかし、いくら記憶を辿ってみても、ここに私がいる理由は見つからなかった。私の記憶は、鬱男くんと別れたところで終わっている。
鬱男くんとは、私と交際している男のことである。気分が落ちるとすぐに「鬱だ」と口にする。しかしながら、良い出来事、たとえば気にいっている小説家の新刊が出たという報せを耳にすると、さきほどまでの鬱はすっかり、影すらなくなってしまう。鬱ってものは、そんな刹那的な病ではない。
きっと彼は『鬱だ』と口にすることで、どうしようもない精神状態を肯定したいのだろう。鬱という暗示をかけて、自分で自分を認めようとするのだ。加えて言えば、私にも認めてもらいたいのかもしれない。元気出して、君は全然駄目な人間じゃないよ、と声をかけてもらいたいのかもしれない。そんな彼をちょっぴり皮肉って、私は内心で鬱男くんと呼んでいる。
「分からない。こんな場所は知らない」
「違う、そうではない。ここに来るまでのことを思い出せ」
ここに来るまで。目を閉じて、追憶に耽る。記憶を凝視する。
頭に靄がかかったかのような感覚だった。いや、実際に私の記憶は濃霧に遮られていて見通せないのかもしれない。
肌を舐める風、囁く草、蠢く海。私はこの場所を、知らない。
しばらくして、頭を左右に振った。
分からない。思い出すための糸口すら発見できない。
「順を追って思い出すんだ。君が覚えている最後の記憶は何だ」
最後の記憶。鬱男くんとの別れ。
確か、大学からの帰り道を彼と共に歩いていたのだ。その部分の記憶は明確に思い出すことができる。彼が「もしも」とか「だったら」ばかりの妄想話を得意気に語り、私は愛する鳩の話題へと会話をすり替える。いつもの光景。私と彼の、平凡な日常。
思えば、お互い随分と噛み合わない人間同士だ。どうして交際が成立しているのか分からない。あまりにも違う人間だからこそ、というものなのかもしれない。
彼はいつものごとく、私を家の近くまで送ると言った。私は当然、それを断る。これもいつものことだ。私の父は子煩悩な人で、愛する娘に恋人ができたことが知れれば大変な騒ぎになる。それも、相手が重度の妄想男となれば、ひょっとすると発狂するかもしれない。
そういうわけで、私はなるべく父の生活圏内と、父の知人の目に触れる可能性のあるエリアには、決して彼を近寄らせまいとしていた。これがなかなかどうして面倒なもので、父の知人の目からも逃れるとなると、おちおち街中でデートなんてできない。
そんな理由で、彼と二人でいられる時間はほとんどなかった。それについて、私はさほど困りはしないのだが、彼のほうはそうではないようである。
彼は、妄想、鬱、などの特徴を持っているものの、それで結構強引なところがあったりする。私を家まで送ろうとするのもその一つだ。そこで私は前もって、彼に対して進入禁止の範囲を決め、半ば無理やり納得をさせたのである。
それでも彼は決まって、家へ送ると言う。私の許可さえ取れば大丈夫、と思っているに違いない。私はそのたび断って、一人家路を辿るのだ。
その日も例外ではなかった。寂しそうな顔をする彼に別れを告げ、私は帰路を歩んだはず。
「その先のことを、よく思い出すといい。道筋を辿っていけば、必ず現在まで繋がっていることが分かる」
鳩は知ったような口で先を促す。これが愛しい鳩の言葉でなかったら、決して素直に従ってはいない。あくまで鳩だから、だ。現実の鳩が言葉を発するなんて、鬱男くんの妄想よろしく非現実もいいところだが、それを補ってあまりある愛くるしさを鳩は持っているのだ。
彼と別れた後のことに思考を傾ける。いったい、なにがあったのか。平凡に帰路を辿り、平凡に家に着き、平凡に就寝したのではないだろうか。それで今、私は奇妙な夢を見ている。五感を刺激する生々しい夢を。それが最も、整然とした道筋だろう。
「夢よ、これは。ぜんぶ夢の中。愛しい鳩さんも、ぜんぶ存在しない。楽しい夢をありがとう、鳩さん」
鳩は相変わらず私を見つめている。あるいは、睨んでいるのかもしれない。
「放棄するなよ」考えることを、思い出すことを。
鋭い声だった。体の内側が小さく跳ねる。私は気圧されて、たじろいだ。
瞬間、脳裏にいくつかの光景が翻る。鬱男くんの顔、煉瓦の歩道、道路の鳩、折れた翼、閃光、耳をつんざく轟音。
鳩はなにも語らず、ただただその瞳を私に突き付けている。
私は嘆息した。いつしか風は凪ぎ、能面の月は草原に金の雫をこぼしている。
なにもかも思い出して、はじめに考えを巡らしたのは鬱男くんのことだった。彼は今、なにをしているだろう。なにを思っているだろう。直視を避けていた現実から痛烈な一打を受けて、なおも両の足で立っているだろうか。
「まずは、礼を言わねばなるまい。感謝している」
鳩は、小さく頭を下げた。いや、実際は深々と前かがみになったのだが、鳩の体の大きさのため、随分と小ぢんまりとした仕草に見えた。
私は素早くかぶりを振る。
「別にいいの、性分だから」
物心ついたときから、鳩が好きだった。それについてどうこう言われても、性分ですから、としか言えない。私があんまり鳩を気にするものだから、それを心配した人々にも、性分と言い続けてきた。
唐突に、鳥のはためきが聞こえた。胸の奥が、小さく波打つ。絶景だ。
能面の月、ざわめく草原、それらに挟まれた上空に、大量の鳩が羽ばたいていた。彼らは舞うように、次々と草原に降り立っていく。目が眩むほどの数だ。
私の耳には、彼らのはばたきしか聞こえてこなかった。
永遠を思わせる鳩の舞いは、始まりと同様、唐突に終わりを告げた。私と、例の喋る鳩から少し距離を置いて、鳩の大群は同心円状に整列していた。訓練された群衆、小国の軍隊。そんな言葉が浮かんだが、私の愛する鳩に軍隊などという重苦しい肩書は似合わない。もっと、幸福そうな言葉はないだろうか。
あらためて見渡してみると、さながらこの場所が鳩の国であるように思えた。鳩の、鳩による、鳩のための国。なら私は、鳩に認められた唯一の人間なのだろうか。分からない。けれども、ここが自分の居場所なのだろうな、という気がした。
もしも彼――鬱男くんに会えたならなんと言おうか。
まず、彼はこう言うだろう。
『どこに行っていたんだ』
責めるような口調で、しかし泣き出しそうな弱々しい顔で。それに対して、私はこう答える。
『ちょっと、鳩の国まで小旅行に』
子どものような真っ直ぐな切なさを持って、彼は言う。
『なんだよ、僕も行きたかったな』
私は答えなければいけない。
『君は駄目だよ』
『なんで』
捨て犬のような、という比喩がぴったり当てはまる表情をした彼。私の言葉を平然と待っているようで、その動揺は顔に表れている。
私は少しだけ困って、こう言うのだ。
『なんでも』
◆
彼と別れてから、私は真っ直ぐに帰路を辿っていた。いつも通り、なんの不安も疑問もなく。考えていたのは、愛する鳩のことである。スマホのメモリーが鳩の画像でいっぱいになってしまったので、この際デジタルカメラを買おうか、いや、鳩の姿をより美しく撮るためにはやはり一眼レフだろうか。そんな平凡な逡巡を胸に歩いていた。
すると、その思いが通じたのか、ふと向けた視線の先に鳩がいた。しかし、それは決して喜ばしい出会いではなかった。
道路の真ん中より少しずれた場所に、鳩がいたのだ。ちょうどタイヤが通る位置である。そして、銀に輝くトラックがすぐそばまで迫っていることに気付いた。
きっと鳩は、トラックに気付いて飛んで逃げるだろう。そう思った矢先、とんでもないことに気が付いてしまった。鳩の片翼が、折れて妙な方向に曲がっていたのだ。
吐息と一緒に、「あ」と声が漏れて、考えるより早く、私は車道に飛び出していた。素早く鳩を抱え上げて反対車線へ走りだそうとした瞬間、閃光が目を潰した。轟音が耳を裂いた。それきり、なにも分からなくなった。
◆
あの鳩は、どうなっただろうか。
いや、分かってる。目の前の光景がすべてだ。私は先ほどまで多弁だった鳩の、痛々しく折れた翼を見つめ続ける。
結局、救うことはできなかった。ただ、私の愛は届いたのかもしれない。
鳩の体を撫でた。柔らかな羽の感触が心地良い。鳩の温かさを肌で感じて、こういうのも悪くないな、と思った。
そして考えてしまうのは、彼のことだ。私の恋人。鬱男くん。
何度か彼の住むアパートに行ったことがある。お世辞にも綺麗な部屋とは言えない六畳間。その空間も、大量の本で半分以上埋まってしまっていた。そんな部屋に、呆れも嫌悪も感じなかった。ただ一つだけ言ったのは、「私の本も、ここに置いていい?」という我ながらおかしな言葉だけである。これだけの本があれば、私の持つ鳩関係の本も違和感なく置けるのではないか、と思ったのだ。自分の部屋に収納するスペースがなくなってきたため、困っていたのも理由の一つだけど。
彼は不満を漏らしながらも、満面の笑みで快諾してくれた。翌日、彼はスーツケース二つにぎっしりと詰め込まれた本に愕然とすることになる。
やはり、考えてしまうのは彼のことばかりだった。
なんだか不思議だ。私にとっては、鳩のほうが大切なはずなのに。
鳩たちはすぐそばで元気にしているから、わざわざ考えを巡らす必要はないからなのかもしれない。あるいは、私はまだ、自分自身を理解しきれていないのかも。
彼は今、どうしてるだろう。嘆きに暮れて、自ら命を絶つかもしれない。それは、嫌だな。
彼には私のいない朝を、その昇る陽を噛みしめてほしい。そうして、なにも変わらない日常を送ればいい。どうか、日々健康に。
鬱男くんの姿を想像する。彼は一人で、あの公園にいる。鳩を探して、やたらきょろきょろしている。正確には、鳩を追う私を探して。そうして彼は、鳩の姿のない公園に背を向け、帰路に着くのだ。
彼は不意に、振り返る。名残惜しいような様子はあまりない。ただ、ほんの少しの寂しさを籠めた表情。その唇が揺らめく。
「鳩によろしく」
彼らしくないな、と思うと同時に、精一杯胸を張って頷いてみた。
鳩は、まかせなさい。
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冷たい能面の月が、相変わらずの無表情で浮かんでいる。その位置は寸分もずれていない。きっと、沈むことはないんだろうな。
肌寒い夜気の中、手を広げ、空を仰いだ。そして、自分の腕を翼に見立てて羽ばたく。
いつかこの風が、彼の背を押すことを祈って。




