1 今日も今日とて朝日は昇る
鳩が絶滅したらしい。
大枚をはたいて買った超薄型液晶テレビは、早朝から酷く衝撃的なニュースを伝えていた。
鳩の絶滅。原因は不明。
かつて平和の象徴と呼ばれてきた鳥は、この世界から姿を消したらしい。以前から鳩の生態系が崩壊しつつあることはテレビを通して知っていた。しかしまあ、科学の発達した現代で絶滅することは無いだろうと暢気に過ごしていた矢先、その気楽な予想が打ち砕かれたのである。
しかし私は、いつもと変わりなく茶碗に盛られた米を口に運んでいた。種の絶滅が伝えられた今も、その動作は変わらずに続いている。
私の頭には少しばかりの寂しさが巡っていた。ちなみにそれは、たった今絶滅が伝えられた生物に対してではない。
彼女は鳩が好きだ。
街中でその姿を見つけると、人目もはばからず追いかけ回し、スマホに搭載されているカメラの連写機能でその愛らしさを収めようとする。そのせいでスマホの容量は彼女の愛する鳩画像でいっぱいであるし、鳩に夢中な姿を見た人々は一様に、彼女のことを「鳩女」だとか「鳩子さん」だとか言う。スマホのメモリーが、彼氏である私の写真ではなく鳩の画像で埋まっているのはまだ許容できるが、彼女のことを揶揄する連中には非常に腹が立つ。
しかし彼女は頬を緩ませて鳩を追い続ける。街の人々の目線など一切気にとめず、シャッター音を響かせるのだ。
そんな彼女に、私はすっかり呆れていた。けれども口元と頬を存分に緩ませて、ひょこひょこと鳩を追う彼女の姿が心底好きだ。
好きだけれども、きっと、もう見ることはできないだろう。
愛すべき小鳥の消滅を、彼女も知っただろうか。いや、おそらくまだ知らないはずだ。日曜の早朝七時に彼女が朝のニュースを観ているはずはない。夢のなかで、大好きな鳩の体を撫でまわしているに違いない。
私はスマホを手にとった。幸せな夢を中断させてでも、報せなければならないことがある。彼女の番号に電話をかけると、五度目のコールで繋がった。
「もしもし」
随分と枯れた声だった。風邪でも引いたのだろうか。
私はわざと、動揺をしている素振りで言葉を返した。彼女の悲劇は、私の悲劇でもある。そうでありたい。
「落ち着いて聞いてくれ。お前の愛する鳩たちが、みんなみんな死んじまったらしい」
長い沈黙。
彼女は私の言葉に耳を疑い、絶句しているのだろう。地面の底まで落ちていくような悲劇に包まれているに違いない。そう思っていた。そのはずだった。
「どなたでしょうか?」
掠れた声が耳を突く。私はどうやら、大きな勘違いをしていたらしい。電話口の相手は、鳩を愛する例の彼女ではない。では、誰だろうか。
日曜の早朝に、彼女の代理で電話に出る相手なんて決まってる。
「え? え、えっと、わたくしは、彼女とお付き合いさせていただいているものですう」
自分の声の気色悪さに、思わず顔をしかめてしまった。ずっと前から妄想していた『彼女の両親への挨拶の文句』が思わず飛び出してしまったのである。
しばしの沈黙が訪れ、私は自分の発した言葉が非常に危険なものであったことに思い至った。
彼女と私との関係は両親には内緒の、いわば秘密の交際であった。彼女いわく両親――特に父親は男性関係について非常に敏感な人であるらしく、私の存在を気付かれると厄介なことになるらしい。そのため、私は彼女の自宅へ訪問することはおろか、その近辺に足を向けることさえ禁止されていた。
両親の目を避けるために、彼女の家から半径一キロ以内のデパート、スーパー、飲食店、その他両親およびその知人の目にとまりそうな場所でデートすることはなかった。それほど彼女は警戒していたのである。
私はというと、両親うんぬんの問題なんて気にするほどのことでもないだろう、と気楽にかまえていた。その気になれば彼女の父親に気に入られることだって造作ない、と思ってはいたものの、軽率な行動をして彼女との関係にヒビを入れたくはない。
というわけで、私は妄想のなかで彼女の両親を上手く説き伏せ、よろしくやっていく様子を思い描いていたのである。先ほどうっかり口に出してしまった台詞も、前々から頭のなかで練っていた言葉だ。口調のせいか、随分と気色悪くなってしまったが。
こんなタイミングで言う予定ではなかったと思っても、もはや手遅れである。口から出たものは取り消せない。ああ、彼女になんて謝ろうか。
「お付き合い?」
冷ややかな声がスマホから流れる。直接見ないでも、相手の表情が分かる気がした。寄った眉に、冷たい瞳。ああ、お母様! そんな顔をしないでくださいませ! ……なんて言えるはずもない。
「あ……いえ、その、お付き合いというのは、つまり……お友達ということでして、つまり、その、そういうことでございます」
すっかり狼狽してしまって、口が上手く回らなかった。そもそも私は、口が達者なほうではない。頭の中でごちゃごちゃと考えているほうが得意なのだ。
「……そうですか」
諦めのような、暗い納得のような、小さな声だった。
見抜かれたな、と思った。さすが、今まで彼女を育ててきた母親である。おそらくは、娘に男がいることを勘付いていたのだろう。それが、私の言葉とその後の狼狽によって確かなものとなったのだ。女というのは、まことに鋭い生き物である。それとも、私が間抜けなだけなのだろうか。
ふと、朝食中であることを思い出し、茶碗に目を向けた。米はすっかり冷めてしまったようで、艶がなくなっている。おかずの納豆も、なんだか粘りが落ち着いてしまっているように見えた。
「ええ、ええ、そうです、そうです。彼女に鳩の件を伝えたくてお電話したんですが、えっと、ご本人はどちらに?」
私は箸で納豆をつまみ、白米の上に少量だけ乗せた。幸いなことに、納豆はまだしっかりと粘り気を持っている。
物を食いながら電話をするのはいささかマナー違反かと思われるので、私はそこで箸を止めた。米と豆を見つめながら、返事を待つ。が、一向に相手の声は聞こえてこなかった。
どうしたのだろう。もしや、彼女を呼びに――否、彼女を起こしに行っているのかもしれない。二十一にもなって母親に起こされる娘。声には出さず、口元だけで笑ってしまった。
死んだように安らかな眠りを貪る彼女と、それを必死に起こそうとする母親を想像し、たまらなく可笑しくなった。ほら、愛しの彼から電話よ。そんなふうにからかわれたら、彼女はどう思うだろうか。覚醒しきっていない意識のなか、私を優しく叱りつけるだろうか。ああ、妄想がやまない。可笑しくてしかたがない。
さて、そろそろ起きてもいいはずである。いったい何分経っただろうか。これだけの時間をかければ、死人でも起きるに違いない。きっと、そうだ。
「死にました」
持っていた箸を落としそうになってしまった。そうして、少しばかり声が漏れた。まるで私の頭を覗いたかのような、アクロバティックな冗談だ。この母にして、この子あり、という感じ。鳩を追いかけまわす娘の親は、行き過ぎた冗談が得意のようだ。
ユニークな切り返しをしてやろうと台詞を考えていた矢先、厳かな声が再び、今度は念を押すように漏れ出した。
「娘は、死にました。……今朝、死にました」
冗談は、そう何度も繰り返すものではない。まったく、娘と徒党を組んで私をからかっているのだろうか、この母親は。それとも、無断で彼女と付き合っていたことに対しての怒りから意地悪をしているのだろうか。
どちらにせよ、あまり美しい行為とは言えない。呆れてしまう。
「……葬式には来られますか?」
電話口から、ぶつり、と不快な音がした。私の親指は電源ボタンの付近を這っていた。
切れたスマホをベッドに投げると、再び、鳩のニュースが流れてきた。平和の象徴の、消滅。昨日までなんの変哲もなかった世界の、若干の変化。鳩が死んで、それで――。
私は米を口に運んだ。納豆の粘り気が喉を犯す。ああ、やっぱり冷めている。
◆
どうやら彼女は、死んだらしい。冷静になってもう一度母親に確認を取り、葬式の日時、斎場を聞いたところでなんとなく、彼女は確かに死んだのだと悟った。しかし、その現実感のなさに、私はただただ呆然とするばかりであった。
彼女は鳩よりも私の近くに居たはずなのに、鳩の消滅よりも実感が得られない。もしかすると近くに居たからこそ、その現実味が薄れてしまっているのかもしれない。
おかしな話だ。そもそも、彼女の死体を確認したわけでもないのに、どうして死んだと信じられるのだろう。
いや、きっと私は、彼女の死体を見ても納得しない。そんな気がした。意固地なわけではない。現実を直視していないわけでもない。ただ、私のなかでなにかが違っているのだ。それはきっと分からないものだし、今は分かりたくもなかった。
鳩。
そうだ、鳩。彼女は鳩のニュースを知ったのだろうか。知って、絶望して、死んでしまったのだろうか。
そこまで考えて、私は自分自身の妄想に吐き気を催した。
くだらない。無意味で、くだらない。無意味だからくだらないのか。
鳩のことを考えよう。彼女の愛していた鳩のことを。はたして、鳩は死んだのだろうか。それとも、どこかへ消えてしまっただけなのか。絶滅の定義を知らない私は、どうしても死のほかに可能性を見つけたいのかもしれない。
たとえば――急に観測されなくなったから絶滅と断定されたが、どこか、人の目の届かない場所を安住の地としたのではないか、とか。
幸せで、ファンタジックな妄想。そこに彼女はいるのだろうか。そこに行ってしまったのだろうか。
鳩さえいれば、彼女はどこへだって行くに違いない。鳩と一緒に空を駆ける彼女を想像して、心臓の近くが激しく痛んだ。私は、そこに行っては駄目なのか。
彼女が遺した鳩関係の本をリュックサックに詰めて、家を出た。外はすっかり暗くなっている。丸一日、家のなかで腐ったように妄想してしまっていたらしい。悲劇の妄想青年。いや、悲しくなんてないさ。
私は終バスで、丘にある公園へと向かった。彼女と二人っきりで会うときは、たいていその場所だった。なぜなら、鳩がいるから。
ネオンの光がまばらになって、いよいよ道を照らすのが街灯の明かりだけになる頃、私はバスを降りた。
少し歩いて公園の入口に着くと、薄暗闇に誰かがいるような気がした。もしかして、と思って目を凝らすと、そこにはベンチと遊具があるばかりで、誰もいない。ネオンの光に犯された目が、束の間の錯覚を起こしたのだろう。
街を見下ろせるベンチに座ると、ため息が出た。
私は、いったいなにをしているのだろう。彼女の想い出をリュックに詰めて、彼女と行った公園に来て、いったいなにを期待していたんだろう。
鳩はいなかった。もちろん、彼女も。
街灯の明かりだけが頼りの薄暗闇のなか、鳩の本を膝に広げた。鳩の生態に関する学術書から、鳩の絵本まで、そのジャンルは幅広い。彼女は心から鳩を愛していたのだろう。
鳩の絵本を読みながら、夜風にあたっていた。張りつめた空気が心地よい。でも、酷く寂しい空間だった。
もしもここに鳩が現れたら、彼女も姿を現すに違いない。そして、私は問いかけるのだ。
『どこに行っていたんだ』
すると彼女は子供のような笑顔を浮かべてこう答える。
『ちょっと、鳩の国まで小旅行に』
『なんだよ、僕も行きたかったな』
『君は駄目だよ』
『なんで』
彼女は隠しごとをする子供のように無邪気な喜びを浮かべて、でもほんの少し俯いて、言うのだ。
『なんでも』
私は立ち上がって、本の束を重ねて置いた。結構な高さである。私の膝上くらいだろうか。充分すぎる。
そこでようやく、私は忘れ物に気がついた。まったく、うっかりしている。彼女のことしか頭にない。けれども、それでいいのかもしれない。
急いで近くのコンビニまで走り、丈夫そうな縄を買った。
◆
円形に括られた縄を見ると、酷く切ない気分になった。街を見下ろせる丘の上の公園。そこに生えている大きな木は、まさに、おあつらえ向きなほど美しかった。
積んだ鳩の本を踏み台にして、ロープに手をかけた。どうやら、しっかりと固定されているようだ。それに首を通しながら、彼女のことを考える。いったい、彼女は私にとってなんだったのか。ただの恋人とは言い難いなにかがあると思ったが、彼女との日々を追憶する限り、ただの恋人であった。それ以上でも、以下でもない。
いや――案外そうでもないかもしれない。鳩の羽が、頭で翻る。
鳩。
そう、鳩だったのだ。
彼女のなかでの鳩の位置付けが、私のなかでの彼女の位置付けと同程度なのだろう。いなくては世界が成立しない。自分のなかの世界が。
ならば彼女にとって私の位置付けは、どの程度だろうか。
瞬間、足元が大きく揺れた。本がバランスを失って崩れたのだろう。これでなにもかも終わり――と思った直後、背中に強い衝撃を感じた。それが鈍痛となって、皮膚を焼くように広がっていく。
後ろ向きに倒れた結果、首から縄が抜けたようだ。
立ち上がるのが億劫だったので、そのまま空を見上げていた。
涙が、少し出た。痛みのためだろう。きっと、そうだ。
彼女の世界は、鳩を中心に構成されていたのだと思う。鳩が鳴けば活力が湧き、鳩を見つければ喜びに包まれる。さらにその姿を写真に収められれば、一日中ご機嫌。私だって、それは同じだ。ただし、彼女にとっての鳩は、私にとっての彼女と置き換えられるが。
もし、それが消えたなら。世界の中心が消えてしまったら。
彼女は、いなくなった。世界の中心である鳩とともに消えてしまった。
私は、どうする。世界の中心が消えた。私も彼女と同様に姿を消すのだろうか。それはきっと、私次第だ。だからこそ、分からなくなってくる。
今までずっと妄想を繰り広げてきたのは、こうした現実に直面した際、スムーズに答えを導き出すためではなかったのだろうか。
考えて、酷くあっけない真実が見えてしまった。
私は現実に直面することを避けるあまり、空想の世界に閉じこもっていただけなのだ。本気で自分自身のことなど、考えたこともなかった。いつだって虚構の湖に沈んでいくだけだったのだ。それを私は――。
◆
いつの間にか眠っていた。夢は見なかったと思う。
目を開けると、空が赤く輝いていた。立ち上がると、橙に染まる街が一望できた。
なぜか分からないけれど、私は涙を一筋流して、ほんの少しがっかりしていた。間違いなく絶景なのだが、どうにも心に響かない。その理由ははっきりとしている。
鳩がいなくなって、彼女がいなくなって。こんなにも色々なことが――私の世界の根幹を揺るがす大きな出来事が起こったのに、太陽は平然と昇っている。
悲しみとも、悔しさとも違う感情が私を満たしていた。
朝日に背を向けて、散乱した本と不自然なロープをその場に残し、公園を出ようとした。が、その前に言っておかなければならないことがあるような気がして振り返る。赤の光が瞳を刺激した。
鳩が一羽、飛んではいないだろうかと思ったが、私の世界にはもう、鳩は存在しないのだ。それを追いかける彼女も。
「鳩によろしく」
小さく呟くと、胸を張って誇らしげに頷く彼女の姿が、見えた気がした。




