第一話 叱責
僕はいま、中学校の教室――その中でも、黒板の前に存在する段差の上――そう、教壇の上に立っている。
そして僕の前には……僕が憎くて憎くてたまらない、『カチヤ』がいる。
「黙っているのは卑怯だぞ甲村。何も言わないでいれば、この場をやり過ごせると思っているのか?」
「……」
『カチヤ』は、僕が黙っているのをいいことに、ネチネチと僕の心を責め立ててくる。卑怯なのはどっちだ。僕が何か言う勇気がないのをわかっているのに、意地悪をしているんだ。自分の方が立場が上だからって、僕に何をしてもいいと思っているんだ。
「私はこう言った。『次の授業までに予習をしてこい。わからない箇所があれば、遠慮せずに、放課後でもいいから質問をしに来なさい』確かにそう言った。そして質問をしてこなかったお前は、ちゃんと理解した上で今回の授業に臨んでいる。私はそう受け止めた。なのになぜ、私の質問に答えられない?」
何が、『質問をしに来なさい』だ。僕に限らず、『カチヤ』は皆に嫌われている。皆も『カチヤ』を憎んでいる。こいつもそれをわかっているはずなのに、僕たちに意地悪をするつもりで、わざと『質問をしに来い』なんてことを言っているんだ。自分が皆に恐れられていることを知っているのに、そうやって僕らを追い詰めて、楽しんでいるんだ。なんて卑怯で、腐った人間なんだ。
僕は教室の皆を見る。皆も顔を俯かせたまま、僕や『カチヤ』と目を合わせないようにしている。『カチヤ』はこの教室の皆に恐れられている。だから『カチヤ』に意見する人は誰もいない。
「もう一度聞くぞ甲村。なぜ、わからないのなら、私に質問をしに来なかった?」
「……ごめんなさい」
「私は謝罪ではなく、理由を聞きたい」
「……」
「さっきも言ったな? 黙っているのは卑怯だと。黙っていれば許してもらえるのは小学校までだ。中学校はそんな甘い場所ではない」
「あの……」
「なんだ?」
「……」
卑怯だ。『カチヤ』は卑怯だ。自分で質問しづらい雰囲気を作っておいて、質問を強制する状況を作るなんて卑怯だ。どうせ言葉通り質問しても、『そんなこともわからないのか?』と言って、僕を追い詰めて、楽しむつもりだったに違いない。
だけど僕にそう反論する勇気はない。それが僕の怒りと憎しみをさらに増幅させる。どうしてだ。『カチヤ』さえいなければ、僕は楽しく中学に通えるのに、なんでよりによって、こいつが担任の先生なんだ。
「甲村、お前には罰が必要だな。放課後に残って、今日の復習と明日の予習をしろ。終わったのを私が確認するまで、帰ることは許さない」
「え!?」
「何を驚いている? お前は授業の内容を充分にまだ理解していない。ならば他の生徒たちに遅れをとらないように、努力するのは当然だ。お前は学校の授業を侮っている。そうやって何もしなくてもどうにかなると思って、努力を怠っていると、後悔するのはお前自身だ」
「……」
僕は何も言い返せない。だけど心の中では、怒りに満ちていた。
どうしてこんなことをしなければならないんだ。そうやって、僕を追い詰めて、僕が苦しんでいるのを見てそんなに楽しいのか。いや、楽しいに決まっている。それが『カチヤ』という人間の本性なんだ。どんなに正しい風なことを言っていても、こいつの本性は他人を苛めることを喜ぶ極悪人なんだ。
そして僕は……甲村 滋は、今日も自分のクラスの担任教師である、勝谷 憲助に屈した。
『カチヤ』のせいで学校に居残りする羽目になった僕は、午後六時前になって、ようやく家に帰ることができた。
「シゲちゃん、遅かったじゃない。今日は学校どうだった?」
「……別に、普通だったよ」
玄関まで出迎えてきた母さんが、心配そうな顔で僕を見てくるけど、その心配そうな顔が逆にうっとうしかった僕は、適当に返事をしてすぐに自分の部屋に入った。
「……くそっ!」
乱暴に鞄を床に叩きつけてみたけど、それでも僕の気は晴れない。こうなったのも、全て『カチヤ』のせいだ。あいつさえいなければ、僕はこんなにいらつくことはないんだ。
……中学校に入るまでは、周りがなんでもやってくれた。僕が宿題を忘れても、周りの友達が答えを写させてくれたし、父さんや母さんだって、僕が家で勉強をしていなくても、特に怒ってくることはなかった。
だけど中学校に入ってから、僕の生活は一変した。そう、『カチヤ』が僕を待ち受けていたんだ。
僕たちが入学したその日、担任の先生として教室に『カチヤ』が入ってきた。初めの印象は、スーツ姿が似合うおじさんだという程度のものだった。後ろに流した髪型に、黒縁のメガネがそういう印象を与えていたのかもしれない。
だけど簡単な自己紹介をした直後、『カチヤ』はこう言い放った。
「私はお前たちを甘やかすことは一切ない。宿題を忘れたり、授業中に居眠りをした者には、例え皆の前であろうと、厳しく叱る。そのことに疑問がある者は、まずは自分がやるべきことをキチンとこなしてから、私に意見をぶつけてこい。言われたことも出来ないような生徒の意見を、私は聞くつもりはない」
その言葉に、教室中がざわついたのを覚えている。
「今、言ったばかりだろう。意見があるなら、やるべきことをこなしてからぶつけてこい。私に意見があるのなら、周りの生徒に言うのではなく、手を挙げて私に言え。それが出来ないのなら、ヒソヒソとお喋りをするな。今も授業中だ」
だけど僕はそれを聞いても、どうせ今までの先生たちみたいに、笑って謝れば許してくれるものだと思っていた。だけど違った。
ある日僕が『カチヤ』の授業で使う地図帳を忘れて、それを黙ったまま授業を受けていた時のことだった。
「甲村、なぜ地図帳を持ってこなかった?」
「すみません、忘れました」
僕は事実を言ったまでだった。しかし『カチヤ』は理不尽にもこう言った。
「ならばなぜ、私にそのことを事前に言わなかった!?」
大声で怒られた僕は、身体が震えた。父さんにもこんなに強く怒られたことはなかった。
「そもそもなぜ、前日に持ち物の確認をしなかった? そうすれば忘れ物を防げたはずだ。それに、仮に学校に来てから忘れ物に気づいたとしても、なぜ授業が始まる前に、私に言わなかった?」
「そ、それは……授業が始まってから忘れたのに気づいたから……」
「授業が始まるまで、その日の教材が揃っているか確認しなかったのか? それならばそれは、お前の怠慢だ。お前が学校の授業を軽く見ている証拠だ。私はそれを叱責している」
「そ、そんな……」
「お前には罰が必要だ。放課後に反省文を書いて、対策を考えろ。それをするまで、帰ることは許さない」
そしてその日、僕は反省文を書かされた。だけど僕の心の中は不満でいっぱいだった。
そもそも僕はちゃんと忘れたことを謝ったはずだ。なのにどうしてこんなに理不尽に怒られなければならないんだ。忘れ物をするのは、人間なんだから仕方ないじゃないか。『カチヤ』はそれをわかっていないんだ。
僕は再び、『カチヤ』の言葉を思い返す。
『お前はクズだ』
『カチヤ』は僕を理不尽に怒って、楽しんでいるんだ。どんなに正論めいたことを言っても、アイツの本性は他人を苦しめることを趣味としている腐った人間なんだ。
『お前は社会の底辺だ。お前みたいなヤツが、社会でやっていけるはずがない』
『カチヤ』の言葉が、僕を苦しめて、さらには僕の苛立ちを募らせる。僕はどうしても『カチヤ』を許せない。そう、絶対に。
イライラした気分を抱えたまま、僕は眠りについた。
翌日。
僕は今日は『カチヤ』の授業がないことに幸福感を覚えつつ、学校の廊下を歩いていた。
だけど僕の教室の前に『カチヤ』の姿があった。そのせいで不機嫌になったからすぐに目を逸らそうとしたけれど、『カチヤ』の前に立っている女の子を見て、僕は視線を戻した。
「錺、私は言ったな? 私に言いたいことがあるなら、直接言えと」
「……はい」
「お前の悪いところは、自分の意見をはっきり言えないことだ。口を開かなければ、相手に意志は伝わらない。私は超能力者ではない。お前の心の中までは読めないのだぞ?」
「……」
「このまま黙っているのなら、お前の意見を読み取ることは不可能だ。話を切り上げさせてもらう」
「あ、あの……」
「なんだ?」
そして女の子……僕のクラスメイトである、錺 洋子は、『カチヤ』に何かを言っていたが、僕にはよく聞こえなかった。
カザリさん――小柄で内気だけど、大きな目がかわいくて、僕の憧れの人……
だけどそんな錺さんが、『カチヤ』に怒られている。『カチヤ』は錺さんのことまで、苦しめようとしているんだ。それが『カチヤ』という人間の本質なんだ。
許せない。僕は『カチヤ』が憎い。『カチヤ』のことが嫌いで仕方がない。きっと皆もそうだ。皆が『カチヤ』を嫌っているんだ。きっと、カザリさんも。
『カザリ、お前みたいな小心者が、誰にも好かれるはずがない』
そして僕はその言葉を聞いてしまった。僕の憧れの人が、苛められるのを聞いてしまった。
だから……僕は『カチヤ』を叩きのめさないと気が済まなかった。