康光
雨が近いのか、庭のどこからか蛙の声が聞こえている。
館の主が手にした扇子をパチリと鳴らすと、蛙の声が一つ止んだ。が、それも束の間のことで、再び蛙は合唱に戻る。
「斯様な鬼手があったとは」
国主として相応しくない態度である。柱を背もたれにし、片膝を立て、手持ち無沙汰に扇で遊んでいるようにも見える。
「三河は」
と、そこで初めて気付いたかのように、蛙の声に耳を傾けた。
「騒がしいことよ」
そう言って濡れ縁に足を運ぶと、警護役が慌てて平伏する。
主は彼らを気にすることなく、月明かりのない曇天を仰ぎ、扇子を繰り返し左手に当てていた。
――流石は器用の仁
広忠の身内、妻の実家までをも取り込んでいたとは。
――我が甘かった
義元は愉快そうに笑った。必勝の形を崩されたのである。だが、思い返してみれば昨年戸田康光の一族を打ち滅ぼしている。竹千代の重要性から松平家には諸々配慮をしていたが、それも裏目に出たのかもしれない。
自身の駒が相手駒であったことに気付かなかった己が、恥ずかしくも可笑しく思えていた。
――負けた
だが、手放せぬ。
三河と竹千代。いや、義元からすればどちらも同義であり、そこに区別は無いのであろう。
義元は部屋に戻ると、再び柱に背を預けた。月明かりの無いこの夜が、何とも心地良く感じられてくる。
――こうなれば
力戦となろう。それは信秀も理解しているだろうし、義元も今日まで準備を進めてきたのである。
「広忠には励んで貰わねばな」
と、義元は誰に聞かせるでもなく声を出した。
義元は康光の裏切りに対し、即座に兵を出した。
西方総司令官とも言える朝比奈泰能を大将に、元信ら若い将校を副将に据え、康光が逃げる隙を与えず田原城を囲んだのである。
「千貫で」
既に行軍中から話題になっていた。康光は千貫で竹千代を織田に売ったのだと言う。
現代の価値に例えるにしても、何をもって換算するかで大きな差がでてしまうが、天正19(1591)年3月の米価が1石あたり833文であったことから、1石を約150kgとして、一般的なスーパーで売られている精米10kgが4,000円前後であることから、1石あたり4,000×15で60,000円、これを833で割ると1文が約72円となる。1貫1,000文として72,000円、1,000貫では7,200万円。
米の価格も状況次第で大きく変わることから、どうであろう、当時の感覚では今で言う一億円での買収劇のような感覚で受け止められたのではなかろうか。
貨幣が万人に浸透していなかったこともあるが、康光の裏切りは酷く奇異なものに見え、また、貨幣への侮蔑的な感覚を覚える者も少なくなかった。
元信もまた、貨幣を理解しつつも肌で感じられない一人である。
「銭か」
そう一人言ちながら、元信は岡部の地を思う。そこは今日の我々が抱く農村そのものであり、郷の中で経済が完了してしまう。貨幣が無くても生活が成り立つ以上、貨幣が何故そこまで人の心を惑わすのか分からない。
しかし、彼が学んだ駿府は東海道の要衝として商業が大いに発達し、貨幣経済が浸透している。それは元信にとって不思議なものでもなく、そういうものだと理解をしていた。
「要は、戸田の主が商人だったのであろう」
そう結論付け、彼は再び城に目を向ける。岡部にあるような砦ではなく、かと言って今川館のような戦闘向けの館でもなく、それこそ商人の家を大きくし、城と名乗るために堀や櫓を置いたかのように感じる。
「これでは」
戦えまい、と、敵ながら哀れに思う。
戦国時代、裏切ってでも家を守り、生き残るのが武士のあるべき姿である。藤堂高虎が良い例であろう。逆に言えば、圧倒的な力を持ち続け、裏切らせないよう動くのが戦国大名である。
義元は康光の裏切りに対し、必要以上の兵を投入した。それは裏切り者の末路を見せしめるためであり、今川家の力を三河にPRする、言わばパフォーマンスである。
――康光殿はどのような戦をされるのか
相手に勝ち目は無いと思いながらも、元信は追い詰められた康光の戦振りが気になってしまう。
命乞いさえ許されぬ窮鼠が猫を噛むか、何か必死の策を隠し持っているのか。
元信は一軍を与えられ、城の北西に陣取った。これは三河湾を見張るためでもあり、康光の逃亡を防ぐためでもある。
――海か
城を守る上で、急峻な山や谷、そこを流れる川は、天然の堀や要害となり、病的なまでに戦を意識する元信にとって無くてはならない存在であった。今日こうして城を守る海を見ると
――良い
と、思う。
海上は身を隠す場所もなく、敵の動きが手に取る様に分かる。難を言うのなら、敵船が多い場合に容易に囲まれてしまうのではなかろうか。
――いや
敵船の入り口を狭め、そこに矢を集中して射掛けられるような城であれば…いや、それでは入り口を封鎖されてしまう。
一人海の運用を考える元信に、陣幕の中にいる将校達は「若かれど思慮深い」との印象を持った。無論、勘違いであるが。
すると、一人の小隊長が
「此度我らはどのように」
と、声を掛けた。総攻撃の命がいつ入るとも分からないのである。大将に思慮深さも必要であるが、ある程度の指示は欲しい。
「そうさな」
海を、と言いかけ、元信は慌てて小隊長を見る。
「船を徴発し、賊の道を塞ぐ用意をしておけ」
江尻の海賊衆も沖に来ているが、万が一にも康光を取り逃すことがあればどうなるか。
――考えるまでもない
ニヤリと笑い、元信は陣幕の外に出る。
既に大手門では戦が始まっており、兵にも緊張が広がっていた。
「こりゃあ随分と下手な守りよ」
城に届くかという勢いで元信は笑い出す。
突然背後から轟いた大音声に兵たちは肩を竦めたが、振り返れば堂々たる出で立ちの若侍が笑っていた。晴れ渡る空の下、若草色に見える桶側胴を揺らしながら、面頬を右手に持ちつつその手で櫓を指差している。
兵達には普通の戦に見えていたが、元信はさらに続けた。
「見よ、城の兵の腰が引けておるわ」
言われてみればそうかもしれないが、距離もあって良く分からない。
「此度の戦、城に千貫残っておれば、恩賞もたんと頂けよう」
カカと品の無い笑いをし、元信は陣の先頭に近付く。伝令将校らの様子を見るに、これが大将かと興味本位で見ようとする者もいたが、多くは姿勢を正して通り過ぎるのを待つことにした。
ところが
「良い面構えだ」
「こりゃ女子にもてそうな面だ」
「おお、働き者の顔だ」
と、元信は先々で兵の顔を覗き込み、時に声を掛ける。
中には「あまり御顔をお出しになるものでは」と言う小隊長もいたが、
「なんの、岡部の里で儂の顔を知らぬ者はおらぬ」
と、意に介さず、気の向くまま兵を見回り陣に戻った。
康光は逃亡を諦めていたのか、それとも泰能の包囲網が優れていたのか、徹底抗戦の構えを崩そうとしなかった。
泰能は各陣に総攻撃に移るよう指示を出し、元信もここぞとばかりに搦め手近くから攻略に掛かる。
「射掛けよ」
既に佳境に入っているというのに、元信は土居の先を目指し、高めに矢を射掛けさせた。
――どちらでもよい
誰に問われた訳でもなく、元信は返す。敵兵が土居の裏、武者走りに身を潜めていようがいまいが、矢を射ることで敵を威嚇するのが目的である。既に大手門が破られ、どこから死が訪れるか分からない敵兵が射掛けられ、どうして平静を保っていられようか。
――将の器よ
康光が一角の将であれば、兵は死地にあっても奮戦するであろう。だが、金に目が眩み甥を裏切り、義理とは言え孫を売った者に誰が命を預けられよう。
程無くして搦め手も開いた。
「遅れるな」
搦め手からやや離れているものの、元信勢は堀に並行するように走り出し、中には足を滑らせる者もいたが、無事、城内に駆け込むことができた。
門の内側は血塗れであったが、誰一人として構う者は無く、転がる敵兵もすでに障害物でしか無い。
「康光を探せ」
元信は声を張り上げるが、既に康光は大手門から雪崩れ込んだ兵に討たれており、風に流れる鬨の声が聴こえると、元信は恥ずかしそうに「遅れたか」と、呟いた。




