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高天神城  作者: 麻呂
8/18

竹千代

 天文14年、広忠は再び安祥城を攻める。織田に屈さず今川との協調路線を選ぶ、という姿勢を内外に知らしめることとなったが、再び織田家の前に敗北を喫することとなってしまった。

――最早

 単独での三河再統一は不可能、と、広忠は観念した。今川家を頼る他無い、と。

 いや、再統一どころではない。3年前は敗戦の後、即座に信秀が反撃を仕掛けてきており、今回もまた安祥城周辺が騒がしい。

 年が明けてしばらくしても西は落ち着かない。牽制なのか広忠を誘っているのか、いずれにせよ信秀が待ち構えているのであろう。

「今川家に、後詰の使者を」

 広忠は一言ずつ確認するよう声を出す。後詰を、と言えば聞こえは良いが、要するに「また守って下さい」という泣きである。この時の弘忠は21歳であるが、既に家の存続を揺るがす手痛い敗北は二度目である。今川家に頼るのは苦しい決断であったが、目の前の戦も、揺れる家中をまとめるためにも、今川家の力を背景にするしか無い。



「来おった」

 何時になく上機嫌で、義元は己の師に文を投げる。

 投げられた文を落とすまいと慌てて手を出した雪斎であったが、文に踊らされた己のが恥ずかしかったのか、それとも師に文を投げて寄越した弟子に怒りを覚えたのか

「斯様なことをするものではありませぬ」

 と、強く義元に釘を刺した。

「御師よ、とにかく読んでみよ」

 顰め面を作りながらも、義元から投げ渡された書状を読むと、広忠からの援軍要請である。

「これは」

「そうよ、待ちに待っておった譲り状じゃ」

 義元は笑う。だが、どこにも国や城を譲るとは書かれていない。

「丁度な、広忠に男子がおってな」

 雪斎の目を見つめながら笑顔で言葉を続けるが、目だけは笑っていなかった。

「良いと思うが、御師、如何?」

 書状を読み返しながら弟子の声を聴き、3度目であろうか、読み終えた雪斎は顔を上げ

「見事」

 と、答えた。

「ソウカ」

 義元はそう返事をすると、使者を引見するため広間に向かった。

「御館様」

 その背に向かい、雪斎は声を掛けると

「目は口ほどにものを言うと申しますれば」

 お気を付け下され、と続けた。



「それはつまり」

 その先を発したくないのか、広忠は言葉を止め、やや間をおいて続ける。

「人質ということか」

 広忠の顔を見ぬよう、何度も擦れて若干白っぽくなった床に目を遣り、使者は「左様で」と答えた。

「竹千代を、な」

 酒井の家の者であったか、鳥居の家の者であったか、いずれにせよ有力家臣の身内である使者に対して労いの言葉を掛けるところであるが、広忠は呆然としている。

「殿 …殿」

 耐えかねた近習が声を掛けると、広忠は「ご苦労であった」と口を動かした。言われた使者も気まずいのであろう、最後まで広忠を見ないよう、音もたてずに場を離れて行く。

――竹千代を

 広忠には5歳になる息子がいた。長親から続く慣例に従い「竹千代」と名付けられたその子は、後の徳川家康である。

――このまま

 織田家に滅ぼされるか、家中の内紛を招いて滅ぼされるか、それこそ父のように斬られるか。

――松平の家は

 竹千代さえ生きていれば名は残る。

――已む無し

 自らがどの選択肢を選ぼうと、今川家に付かぬ限り竹千代の生きる道は無い。

――松平の名が残るのならば

 自問自答を終えると、広忠は急ぎ使者を立て駿府へと送った。



――小僧め、やりおる

 信秀は犬歯を下の歯に擦る様にずらすと、続く報告を忌々しそうに聞く。

 三河を抑えるまであと少しだと言うのに、駿府の義元が岡崎を守り、果ては広忠の子を人質にすると言う。

――斯様な妙手を打てるとは

 仏門にいた世間知らずと思っていたが、外交や戦のみならず、調略も心得ているようである。

 竹千代を人質に取られてしまっては、例え織田家が岡崎を落とし三河を制圧したとしても、今川家が竹千代の旧領奪還を大義名分に攻め込むことができる。

――大義

 今の信秀にも大義はある。3年ほど前に朝廷から「三河守」に叙任されており、帝の名代と言えなくもない。叙任にあたり、幕府を通さず山科やましな言継ときつぐに働きかけたあたり信秀らしい。

――幕府など

 信秀は幕府の仕組みを正しく理解していたのであろう。将軍も所詮は天皇から征夷大将軍に任ぜられているだけである。つまり、日ノ本で最も権威ある、言うなれば「偉い」のは天皇ではないか。

――その天皇から

 三河の安堵を命ぜられているのである。三河は織田家が治めるに相応しかろう。

――だが、困る

 その大義名分も、国主の「血」には弱い。

 常人であれば既に投了であろう。今川家は三河における最強の駒を手に入れたのである。

――なれば

 と、信秀が目を開けると、既に報告者は席を立ち、そこには蝋燭の光を吸い込むような暗がりだけが広がっていた。

「今一度、良いか」

 信秀の声に反応するように、暗闇に再び坊主頭の男が現れる。

「津島から田原へ行き、暫し商いに励め」

 田原は渥美半島一帯を治める戸田家の居点である。現当主康光は、娘を広忠に嫁がせており、また、三河湾の海運も取り扱う三河の有力者である。

「はっ」

 そう聞こえたかと思うと、男の姿は消えている。

――気味が悪いが、使える

 津島の商人に紹介された草の者である。商いには種を集める者が必要だと。

――まず、間違いなかろう

 岡崎から駿府に行くのであれば、時間の掛からぬ船を使うであろう。そして三河で広忠から信頼され、船を取り扱う人物といえば、康光を置いて他にない。

――位置も良い

 渥美半島にある老津は、駿府に向かう上で絶好の船乗り場であろう。

――駒を

 数手掛けても駒を取り戻せば良い。

 信秀は暗がりに一度目を遣り、ゆっくりと瞼を閉じる。油が切れたのか程無く火は消え、部屋は闇に包まれた。知らぬ者が見れば、鬼の姿に見えたであろう。



 竹千代が6歳になるのを待ち、人質に送る準備が進められた。

 今川家から見ても価値ある人質であり、義元は松平家になるべく不満を抱かせないよう期日等の配慮をし、松平家も今川家の対応に感謝をすると共に、今後の竹千代の扱いが悪くないであろうことに安堵していたのである。

義祖父おじい様が」

 船を出して下さり駿府までお送り頂ける故、大人しゅうするのじゃぞ、と、広忠が父らしく我が子に伝えると、竹千代はその丸っこい顔を一度下にして、承諾の意を表した。

「駿府もな、シカと教えた通りに」

 まさか義元の前で無言で頷くような真似はしないであろうが、親子の甘えであろうか、竹千代は声を出さない。

 幼い子のことである。涙してもおかしいことはない。竹千代が口を開かぬのは、当主の子として涙を見せぬためであろうか。

 竹千代一行は父や家臣に見送られ、振り返ることなく徒歩で老津の浜を目指して歩き出した。既に老津には義母(田原御前)の父が用意した船があり、竹千代は案内されるままその船に乗り込むと、静かに出航の時を待つ。

 薄曇りの中彼を待っていた船は、乗船を確認するや否や、静かに西へ進み出した。渥美半島の先端まで来ると帆先をを南に向け、そのまま駿府の玄関口、江尻へと向かう手筈である。が、ここで妙なことが起こる。

「駿府は(三河湾の)外へ出ねばならぬのでは」

 と、不思議に思った竹千代の付き添いが言う。彼の記憶では渥美半島の先を南に向かう筈である。だが、

「いえ、このまま西でよろしゅうござる」

 船頭は淡々と答え、竹千代を見る。

「若は我らと尾張へ参ります」

 そう言うと周囲の船員に合図を送る。船員と言えど皆康光の家臣であり、刀も帯びている。

「御免」

 あまりの展開に刀を抜くこともできず、竹千代に付き添った数人はその場で斬られ、遺体は海へと投げ捨てられた。

「…泣かぬのか」

 船頭は竹千代の様子を伺うが、彼は一言も発さず大人しく座っている。

「その方が助かるが」

 いっそ泣いてくれた方が気が楽になる、と、船頭は思いながらも口には出さなかった。

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