岡崎
話はやや戻るが、天文、という元号は今川家にとって激動の時代である。天文6年には第一次河東の乱が起こり、天文14年の第二次河東の乱終結に至るまで、駿河東部の河東地域は北条との争いの場であった。
また、西に目を向ければ、天文4年に三河の松平清康が家臣に討たれ、三河における織田信秀の影響力が一挙に高まり、2年後の天文6年に義元の支援を受けた広忠が岡崎に戻ることで、今川と織田の関係悪化が決定的となったのである。
今川義元にとって、天文6年は東西に敵が生まれた最悪の年と言って良い。
天文9年(1540年)春、松平広忠は過去の怨念を晴らすが如く、突如として尾張に侵攻する。だが、数年前まで半ば織田領となっていた三河には、織田の諜報網が相当数残っており、広忠の動きは尾張の信秀に読まれていた。
信秀は広忠の出兵を待っていたかのように兵を展開し、広忠を撃退するや否や、返す刀で三河の安祥城を囲む。
安祥城主松平長家は広忠から見て祖父の弟であり、重要な支援者であった。更に岡崎の西を守る安祥城を奪われることは、家臣達に強い不安を抱かせることになり、広忠に三河を守る力が無いと判断されかねない。
当然、広忠は安祥城に援軍を送った。
だが、尾張の虎と恐れられた信秀には想定内の援軍であり、信秀は援軍を嘲笑うかのように城の一部囲いを解き、呆気に取られる松平軍に対して兵を突き入れ、鎧袖一触、松平軍を撃退する。
三河兵は強い、と後世言われたが、神君を支えた譜代大名たちへのリップサービスであろう。少なくともこの時期の三河兵は弱く、負け戦続きであった。
「御師よ」
今川館の奥、政務の傍ら世間話をするような気楽さで義元が声を掛ける。
「松平は、チト、頼りないか」
「御館様には頼る気がございましたか」
義元が幼少の頃より師と仰いできた雪斎は、間髪を入れず皮肉で返す。
「時間稼ぎになろうかと思うていたが」
「これは御優しいことを」
義元の前には三河、遠江から届いた書状が積まれていた。いずれも安祥城の落城を受け、報告や救援を求めるものである。
「御館様が広忠殿をそれほど買われていたとは」
雪斎がこれほど皮肉を言うのは珍しいことである。が、雪斎自身が広忠の不甲斐なさに苛立ちを覚えているからであろう。義元もそれは心得たもので、何ら気にせず言葉を続けた。
「間の悪いことよ」
この頃には河東も小康状態になり、目立った戦闘は行われていない。だが、これは北条の支配が河東一円に広がったためであり、今川家にとってのマイナスが固定化されただけである。
遠江の井伊家や堀越家など、北条に誘われ今川家に反旗を翻した者の処分など、義元の抱える問題は山積していた。
「遠からず」
雪斎の声が外から吹き込んできた風に乗る。
「松平が助けを請うて参りましょう」
吹き込んできた先を見れば、沈みゆく太陽が最後の力を振り絞るかのように空を赤く染めていた。
義元は師の左手に伸びる影に目を遣りながら「左様さ、な」と、返事をし「請わけねば」と続けた。
天文11年8月、信秀は安祥城を拠点に三河侵攻の準備を進め、いよいよ岡崎を落とさんと兵を進めてきた。
――ここで
義元は即座に派兵を決め、朝比奈泰能を総大将に任じた。
「我らの力、三河に知らしめてくれ」
織田に勝つことは手段であり、目的は三河を取り込むことにある。松平家を今川家の完全なる庇護下に入れるためには、今川家の強さを松平家に知らしめる必要がある。
「御意に」
泰能は無表情のまま返し、馬上の人となり西へと向かった。
――河東も数年のうちには
取り戻さねばならぬ、と、己に言い聞かせると、義元は戦後処理のために三河有力者に根回しの為筆を取る。
――そう言えば
水野の娘が広忠の子を身籠ったと言うが
――男であれば
男であれば、どうか。後継者が生まれることにより、広忠に万が一のことがあっても家は残る。
――男であれば、な
義元は喉を鳴らすように低く笑うと、一人「面白い」と呟いた。
信秀は利に聡い男である。商業都市津島を抱えているせいであろうか、商人の感覚で物事を見、経済圏を重視した戦を優先している節がある。自然、津島の商人達は彼の支持者となり、彼に対して多額の運上金を治め、また、戦に出資する。
「駿河の若造は」
商いが分かっておる、と、信秀は笑った。斥候が予想より早い今川の出兵を報告してきたのである。虎の異名を持つだけあり、太く、豪快な笑い方である。
「内裏の折も張り合ってきおったが」
此度もまた、儂に張り合うか、と。
織田と今川が共に勢力圏を伸ばそうと争う三河である。ここで今川が易々と見過ごすとは思っていなかったが、その出兵は信秀の予想以上に早い。
――小癪だが
目も良いと認めざるを得ない。信秀は余裕を持って岡崎攻めをしているように見せているが、その実、美濃の斉藤道三と戦を繰り返しており、岡崎は短期決戦をする必要があったのである。
「器用の仁(信秀のこと)は」
今川館の義元は言う。真に働き者よ、と。要領良く東西南北駆け回るその姿は、確かに「器用の仁」に相応しい動きである。
そう言う義元自身東奔西走しているが、他者の評価をする者には、己の姿が写らぬものらしい。
「一揉みに」
信秀は軍議の席でそう言うと、一呼吸置いてから「岡崎如き小城、一揉みに揉み潰せ」と声を上げた。
安祥城は信秀の嫡男、信広が城主となり三河一円に圧力を掛けており、三河国内から岡崎への援軍はまず無い。一揉みにできるであろうし、そうせねばならない。
「今川の援軍は来る」
広忠は岡崎場内を駆け回り、人を見る度にそう触れて回った。兵達も三河から援軍が来ないであろうことは気付いており、城内皆、今川家の援軍に期待するしか無かったのである。
既に駿府に向けて救援の使者を出しており、広忠は縋るような気持ちで今川の援軍を待ち望んでいた。
「来る」
呪文のように言い続ける広忠の姿に、城兵は確信があるのだと錯覚し、また、自らが奮戦する期間がある程度限定されたことで、その士気は相応に高まっていた。何より
「清康公の御無念を」
と、したり顔で言う老兵達が言うなれば愛国心を煽り、岡崎城そのものに対する忠誠心を高めていたのである。
使者が駿府に入るより早く、義元は兵の準備を進めていた。寄親寄子の制は緊急時の即応体制として、家臣の集住が少ないこの時代に在って、先進的な取り組みであったのである。広忠が考えていた以上に今川家の援軍は早く、城内の士気が落ちる前に届いた吉報に、岡崎は湧いた。
安部元真ら先陣にいた将らは即座に兵を展開する。河東の乱で北条に呼応した井伊や堀越らを中央に置き、南に安部、北には松井宗信らが配され、岡崎の東から矢作川に追い落とすような形で兵を進めたのである。
元信の父、親綱は井伊の後詰として出陣していた。後詰と言えば聞こえは良いが、井伊に不穏な動きがあれば始末するという任務も帯びている。
――どうやら
汚れ仕事が染みついてしまったようだ。と、親綱は一人思う。花倉の折より今川家の厚い信頼を覚えるが、同時にその懐刀として他家を密かに監視する立場にもなり、もし彼に強い欲があれば相応の出世もできたであろうが、親綱はただひたすらに忠節を貫き通した。
幸い井伊家は汚名を返上すべく必死に戦っており、多くの死傷者を出しながらもその仕事を果たしてくれた。
――これで
井伊家は当面の間、御館様に逆らえぬ。と、安堵する。同時に
――仕事も減るわ
と、笑った。
岡崎城への援軍は織田軍を破り、信秀らは撤退を余儀なくされた。だが、今川家には安祥城を奪還する意思は無く、松平家は首の皮が繋がった状態で再び織田家と向き合うこととなる。
投稿が大分遅くなりました。お待ちいただいた奇特な方がいらっしゃいましたら、申し訳ありません。
元信が活躍する小豆坂のため、その前後関係を説明する回が欲しいなと考えていましたら、当然三河のことを書かねばならなくなり、と言って今川家や織田家の思惑、立場を放置する訳にも行かず、あれこれ詰め込もうとした結果がこの様です。




