甲斐
――分からぬ
泰能は報告を聞き悩んでいた。
――運が良いだけか
岡部の子倅が50の手勢で小山田兵らを守り抜いたと言う。
戦において追手というのは士気が高く、猟犬の如く襲い掛かる厄介な相手であり、だからこそ殿は危険かつ重要な役割なのである。
僅かな手勢を率いて山中で迎撃しようなど、追手の数も分からぬ高リスクを考えれば採れる手では無い。
「のう、五郎兵衛」
はっ、と短く、それでいて若者らしい力の漲る声で元信は答える。
「何故その手勢で殿の真似をしたのだ」
敵兵の数も分からぬ中、危険極まりないと言い、多少の怒気も孕んだ声である。
当然であろう。次男とは言え岡部の子をこの戦で失っては、ましてや殿のような真似をさせて失ったとあっては、朝比奈家にいらぬ誤解が集まるかもしれないのである。
「そのことなれば」
顔を上げ、真っ直ぐ泰能の顔を見る。悪びれた様子も誇らしい様子も無く、ただ堂々として泰能の眼を射抜くように見つめる。
「備中守様が斬り捨てをお命じになられ、皆様が敵将へと向かわれました」
周囲の将に少し目を遣り、続ける。
「某が邪魔になってはならぬと思い、されど初陣の働きをしたく、サテと悩んだ際に御館様の」
意識した訳では無いが、元信はここで唾を飲んだ。
「御館様の、何だ」
妙なところで話が止まり、泰能は続きを促す。
「御館様のお言葉を思い出し、甲斐者の胆を奪って参ろうと」
「胆、とな」
「はい。胆にございます」
泰能は笑った。元信の言い回しが義元を彷彿とさせたのである。
「シテ、その胆を取るために山に入ったと申すのか」
「はっ。皆様が正面から出れば、敵は潮と見て引きましょう。されど小山田様の陣を深追いした者は、皆様に気付かず山にまで追うであろうと」
元信がそこまで言うと、泰能は口元にのみ笑みを残し、元信の様子を伺った。
――あの御館が可愛がる訳だ
見目の話では無い。無論、まだ若く初々しい元信は、少年の匂い立つような爽やかさを帯びている。だが、それ以上に義元が愛したのはその頭の冴えであろう。
「良い、五郎兵衛、御苦労であった」
山を選んだ理由を丁寧に述べていた元信を遮る形になったが、泰能は気にせず続けた。
「そちは、そうな、父御よりも戦が上手くなるやもしれぬ」
そして再び胆の話の時のように笑い、
「儂の倅も上手になってほしいものよ」
と、言った。
6月に入り、武田軍は福与城と竜ヶ崎城の連携が取れていないと判断し、板垣信方を中心に竜ヶ崎城攻めを行うこととした。
城外の砦は各将が銘々に攻撃を加え、砦間の連携を取らさぬよう一斉に攻め立てる。これまでは竜ヶ崎からの援軍を恐れて思い切った手を打てなかったが、竜ヶ崎城だけが独自の動きをしていたことから、信方は賭けに出たのである。
事実、竜ヶ崎からの援軍は後手に回っていた。長時にとって武田が一斉攻撃を仕掛けてくるとは予想だにしておらず、いや、予想はしていたものの、劣勢にあった信方が思い切った手をうつことは無い、と甘く見ていたせいであろう。
今川軍は後詰として後方から城攻めを見る状況が続いていたが、元信としては何とももどかしい時間でもあった。
――右の守りが薄い
――門の前の兵を何故増やさぬのか
傍目八目の通り、次々と不満が出てくる。
この戦を決定付けたのは、長時の傲慢とも言える油断であった。
砦を失い裸城となっても、長時は地形を生かした城の長所を上手く利用し、板垣ら武田軍を翻弄する。だが、数の少ない福与城からの援軍は無く、やがて長時は城を棄て逃げ出した。
竜ヶ崎城の存在を当てにしていた藤沢頼親は敗北を悟ると、小山田信有らに和睦の意思を伝え、高遠合戦は一気に終焉を迎えることとなる。
元信は狐に抓まれた様子であったが、戦は彼の心情など気にせずに終わりを告げた。
――思えば
御館様の薫陶を受け続けた生涯であった。
月明かりの下、高天神城から徳川勢を見下ろす元信は、これまでの生涯を振り返っていた。生を諦めたのではない。時間が有り余っているだけである。
――戦とは不思議なものよ
あの呆気なく終わった初陣から何年経つであろうか。
敵の動揺を見、出任せであったにせよ味方が多いと誤信させ、敵を追いかえしたのは紛れもない功績である。
小さな、枝葉末節の戦いではあったが、義元には大層喜ばれたと記憶している。
「某が甲斐に?」
人質、であろう。甲斐との同盟が結ばれたとは言え、既に信虎から晴信の代へと移っている。人質でい続ける者もあれば、交代することもあった。両国の関係が安定している今、人質と言うよりも交換留学生という位置付けが近いであろうか。
「先の戦でな、小山田出羽守(信有)殿から是非にとのことだ」
郡内を治める小山田氏は、河東の葛山氏同様半独立勢力と言って良い力を持っていた。信有は小山田勢の為に尽力した元信を高く評価し、晴信に対する発言権を利用して人質交代を申し入れてきたのである。
「そちは随分と大きな胆を取ってきたようだの」
義元は笑う。駿河で言えば、葛山氏が甲斐の高坂氏に肩入れするようなものである。国境で領地が接していれば、笑うに笑えない話であったが。
「安心せよ。躯になる前に呼び戻す」
元信の不安を取り除こうとしているような、少し脅すような物言いをしながらも義元は続けた。
「そちには我が許で働いて貰わねばならぬ故、な」
元信が頭を垂れると義元は満足そうに頷き、濡れ縁の先に目を遣る。石庭のような造りではあったが、幼き日の善徳寺を思い出し、そろそろ木々が赤らむ頃であろうかと思いだした。
「甲斐は冷える故、弓矢に気を付けよ」
と、元信の頭に向かって声を掛ける。弓矢の鍛錬を行う際に、指先が悴むことを心配しての言葉であったが、元信には冬に木々の間から矢を射掛けられぬようにと聞こえた。
「油断致しませぬ故、御安心下さいますよう」
元信は頭を上げるとそう答え、笑みを浮かべつつ颯爽と部屋に戻った。
人の会話とは得てして噛み合わないことが多いが、それでいて通じるところが面白い。
元信の甲斐入りを喜んだのは他でもない、小山田信有である。陣を立て直した際に報告を聞けば、今川の岡部某と言う若武者が、僅かな手勢で自軍を守ってくれたと言う。
「久しいの」
現在の都留市に谷村という場所がある。小山田氏の拠点は谷村館と呼ばれ、現在の大月から富士吉田を結ぶ、甲州街道を南下するための中間にあった。元信はこの谷村館に呼ばれ、信有と対面していた。
「出羽守様にお招き頂くとは、恐れ多いことにございます」
「何の何の」
信有は笑う。
「陣中ではろくに礼もできなかった故、せめて宴でも、とな。」
元信は一礼すると、信有が差し出す盃を受け取った。白く揺れる酒の先には信有の顔がある。
「有り難く」
一息に飲み干し、改めて信有を見る。鼻の下から両頬、顎にかけてびっしりと髭が生えており、そうと知らなければ山賊の頭に見えたであろう。
「酒が飲める者は強い」
信有が話す度に髭が動き、元信には髭が声を出しているかのように見えた。
「嗜む程度でにございます」
遠慮深いのぅと髭を揺らし、信有は更に酒を注ぐ。
「某からも」
と、二人の間に割り込んできた男が言う。館には二人の他、郡内の土豪達も多く顔を出しており、彼らにとっての竜ヶ崎の英雄の顔を見ようと、熱気に溢れていた。
「これは曽根の」
曽根、と呼ばれた男は元信を舐めるように見回すと、これが駿河の若武者か、と呟きながら感心したように頷き、酒を注ぐことも忘れて席に戻った。
「すまぬな」
信有は元信に小さく謝ると、皆、死地を救ってくれたそなたを一目見たくて堪らんのだ、と、続ける。
「ご案じ召されますな」
自分でも驚くほど自然と言葉が飛び出し、元信は若干動揺しながらも居住いを正した。今の自分が義元の名代である、とまで考えてはいなかったが、己の言動一つで今川と武田の間に楔を打ち込むことがあってはならぬと理解できている。
「目出度き宴の席でございます故」
某にご無礼あってもお許し下され、と、自ら盃に酒を注いだ。
元信が駿河に戻ったのはその2年と少し後のことである。実質的な後見人が信有であったことから、甲斐における彼の立場は安定したものであり、時には晴信の近習のような働きをすることもあった。
「義兄上が早く返せと申されてな」
晴信もまた、元信を気に入っていたようである。命懸けで自軍を守ってくれた彼に対し、他国者とは言え信頼を寄せていた。
「返すのは惜しいが、義兄上を怒らせると怖い故な」
「勿体無いお言葉にございます」
元信は静かに頭を下げ、躑躅ヶ崎館の床に目を遣る。
「甲斐の冬は、大層寒かったであろう」
口角を少し上げながら晴信は言った。
「もう慣れておりますればこの程度」
「そうか、足は治ったか」
怪我では無い。寒さに慣れなかったのか、元信が霜焼けになったと聞いたのである。
「そのことなれば出羽守様に膏を頂戴致しまして」
「ほう」
「その効き目か、春先には大分良くなっておりました」
晴信は何よりだと言うと、甲斐の土産が霜焼けでは困る故な、と笑った。