初陣
今川家には家督相続争い度々発生している。義元の父、氏親が相続する際も発生し、三浦や朝比奈といった有力家臣が叔父の範満を擁しており、家中はなかなか纏まらなかった。派閥争いの様相も見受けられ、外部勢力、幕府や関東管領が入り込む隙があったことも災いしたと言える。
新体制をスタートさせた義元が、家中の有力者の師弟を取り込み、強い主従関係を構築しようとしたのは自然な流れであった。
天文14年(1545年)、五郎兵衛は紺色の大紋に身を包み、目の前に立つ義元の所作の音を追っていた。
「これより後は、元綱、と」
岡部元綱。この後も、元信、真幸と名が変わるが、物語では元信で統一する予定である。
「御館様より頂戴致しましたこの名、末代までの誉れとなるよう励みまする」
戦国期において、大名がその家臣に名を与えることはままある。今川家では安部元真や天野元景、孕石元泰といった、家老中老クラスで無い家柄の武将らも諱を賜っている。義元は広く家臣を見ていたようであるが、朝比奈、三浦の両家に諱を賜ったと思われる者がいないのが興味深い。
――御館様が烏帽子親に
元信にとってこれ以上ない喜びであった。本来であれば親族の岡部久綱あたりが烏帽子親となるところであろう。
――あやかりたい
無論、武功の話である。兄を殺して家督を奪う、などと言う物騒な話ではない。だが、元綱の名は少々危険を孕む。
岡部家には長男の長秋がすでにおり、元綱の名は今川家が元信を後継者として認めたかのような響きを持つ。だが、未だ親綱が健在であり、これも御館様の覚え目出度いためであろうと岡部家でも歓迎された。
「シテ、元綱よ」
元服を祝う宴の中義元は元信に近付き、弟に声を掛けるかのように言う。
「初陣は甲斐だ」
「伊那に」
「左様」
今川家は花倉の乱以降、甲斐武田家と結んでいる。晴信がクーデターを起こして父を駿河に追放した後も、同盟関係は続いていた。
余談ながら、追放された父親の生活費を払うようにと、義元が晴信に送った使者が雪斎と岡部久綱である。
「義弟がな、兵が足りぬと申す故」
「大善大夫様が」
ニヤリと笑うと義元は元信の左肩をポンポンと軽く叩き、元信の盃に酒を注ぐ。
「この戦、我らの強さを甲斐の者に見せつける必要がある」
元信は盃を口に運ぶと、一気に飲み干した。
これまで幾度も飲んでいるが、元服の喜びか初陣の喜びか、普段より回りが早い気がする。
「某は」
「なに、心配はいらぬ」
学んだことを活かせば良い、と、言い
「雪斎も五郎兵衛ならばと言うておる」
「元綱、にございます」
「これはこれは」
失礼致した、と、義元は笑う。遠江の井伊や堀越らの反乱を抑え、家中で恐れられている義元の、それこそ言い間違いという小さな過ちに異を唱えるなど、胆が据わっているのか酔っているのか。どちらにせよ義元には心地良かった。
「それだけ勢いがあれば良い」
首は取らずとも甲斐者の胆を奪って参れ、と言うと、義元は笑いながら席に戻る。
――元綱は使えるか
義元の心配はただ一事である。元信が自身の右腕として動ける将となるかならぬのか。
――成れば良し
成らぬのならば、それなりに使うまでである。
5月、元信は岡部家の手勢50人を率い、物頭として甲斐に向かった。
援軍の総大将は重臣の朝比奈泰能であり、今川家の本気度を人選から示したと言える。
「のう、六助」
元信は初老、と言ってはお世辞になろうかという白髪に声を掛ける。
「父の初陣は如何であったか」
六助と呼ばれた男は少し驚いた顔をしながら
「昔のことゆえ朧気ながら、大分緊張されたご様子でございました」
されど敵兵を前にされては腰を低くし右足に力を入れ、エイヤと見事な槍を突き出しておられました、と、続ける。
「エイヤと」
「左様、エイヤと」
真面目に話す二人が可笑しかったのか、他の家来が口を挟む。
「若、初陣は誰もが怖ぇもんで」
「六助爺の話は真に受けねぇ方が良いですぜ」
カラカラと悪態無く笑う家来に、元信も連られて笑った。
「実を申せば恐ろしい」
正直に言う元信の様子を、家来達はさもありなんと見守る。彼らもまた、初陣の洗礼を受けてきたのであり、元信の恐怖は痛いほど分かっていた。
「だが、この日を心待ちにしておった」
若さ故の冒険心であろうか。だが、家来達には元信の喜びに満ちた表情が親綱と重なったのか、一瞬背筋を伸ばしてしまう者もいた。
紺絲縅の具足を纏うその姿は、若武者ながら貫禄のある姿に映り、六助に至っては目に涙を浮かべるほどである。
――若のためならば
この身など、いくらでも捨ててくれよう、と、勢い込む。
岡部家という家柄にある元信の初陣であるから、この戦は比較的安全なものであろう。だが、それでも万が一ということはある。ましてや他国での戦であればなおの事である。
六助は武士ではない。岡部に住む百姓であり、戦の経験が多い割に怪我をすることも無く、また、見た目が翁のようであることから、親綱が縁起を担いで元信に付けた、体裁良く言えば軍監である。無論、戦の経験と忠義以外に取り得は無く、更に言えばまだ還暦前であった。
「若、おめでとうございます」
真っ直ぐに自身を見つめる眼差しが恥ずかしかったのか、元信は目を前に向け
「祝うのは勝って岡部に戻ってからだ」
と、返した。
高遠城は北から西にかけて藤沢川、そして西から南にかけて三峰川に囲まれた小高い丘にある。後に武田晴信の命を受けた山本勘助により大規模改修がなされ、織田の甲斐侵攻の折には仁科盛信の最後の場所となった城であるが、既に天然の要害と呼べる城であった。
晴信は伊奈地方を制圧するにあたり、この高遠を速やかに攻略する必要があると考え、他国勢力である今川家に援軍を求めた。義元が花倉城を攻めた時のように、他家の旗も含めた包囲陣を敷くことで、敵の士気は大いに削ぐ狙いもあった。
だが、晴信は4月に天候悪化を利用し奇襲を掛け、4月18日には自ら高遠城に入った。このため、今川軍の目標は宮所郷の竜ヶ崎城と箕輪の福与城となる。
泰能率いる今川軍は、甲府を経て諏訪で晴信代理、飯富虎昌と合流した。
「いや、義元殿はこれほど頼もしき援軍を下されたか」
世辞だけでは無い。朝比奈泰能は今川家の宿老であり姻戚でもある。本来であれば西の要として活躍する将であり、甲斐へ援軍の将として出てくる者ではない。だが、この頃の義元は河東での問題を抱えており、同盟関係にある武田家に対して一定の配慮をする必要があった。
「御館様が義弟様のためにと」
戦慣れした我らに行けと仰せで、と、泰能は笑う。
「備中守殿がお越しとあらば、それだけで高遠の者は恐れましょう」
泰能の「戦慣れ」とは遠江での内紛が多かったことを自嘲しているのか、それとも素直な意味で尾張三河と小競り合いを繰り返している、という意味なのか。虎昌は悩みながらも当たり障りない返事を返して、道案内をする形で諏訪大社に向かった。
――これが諏訪の社か
元信にとって初の諏訪である。諏訪大社と言えば古代より軍神として崇められ、武門の崇敬篤い神社として知られているが、実際にその地を踏むことで何やらこの初陣が祝福されているような気がしてくる。
――だが
何故我らまで呼ばれているのか、とも思う。少ない手勢、はっきり言ってしまえば信方と泰能、他側近だけが参拝すれば良いのである。元信や他の足軽達まで行軍する必要があるのか。
そして元信は気付いた。これは諏訪に対する威嚇であると。
諏訪は4年前に大祝である諏訪頼重が晴信の手により自害させられ、晴信は頼重の子、千代宮丸を諏訪の後継者として据えた。晴信の姉が頼重に嫁いでいたことから、晴信からすれば一門と言え、諏訪の者達からしても正当な後継者として受け入れられる。
だが、晴信は昨年諏訪御料人と呼ばれる頼重の娘を側室に迎え入れた。
武田家臣の春日家が書き残した甲陽軍艦によれば、娘はこの時14歳で「かくれなきびじん」とされている。なお、頼重と後に華蔵院と呼ばれる側室の間に生まれた姫であり、武田の血は無い。
当然家臣達は反対した。敵将の姫であることや、諏訪の旧臣がどう思うか。言い出せばきりが無いが、晴信はそれら意見を正面から聞かず、家臣の養女にしてから側室に迎え入れ、御料人は子を孕む。
そして、晴信は千代宮丸を廃し、諏訪の当主の座を空席とする。御料人との子が諏訪氏の「頼」を頂いた「勝頼」と名乗ることから、御料人の子を諏訪の後継者に据えるつもりであったのであろう。しかし、高遠攻めのこの時、勝頼はまだこの世にいない。
諏訪からすれば当主を殺され、その姫が武田の慰み者にされ、更に新たな当主を廃され、晴信は畜生にも劣る人非人と映ったであろう。それら負の感情を抑えるためにはどうするか。
「力、か」
自らの初陣が晴信の女問題の尻拭いの一部をさせられていると感じたのか、元信はため息を交えながら一人言つ。
諏訪の残存勢力に対し、力、それも信虎でさえ勝てぬ圧倒的な力である今川家をも見せつけ、不安定な立場にある晴信の威信付けに利用する。義元も分かっていたからこそ、泰能のような重鎮を派遣したのであろう。
元信からすれば不満である。自らの初陣が穢されたと感じるのも仕方ない。だが、若い元信にすれば、この鬱屈した気持ちを戦にぶつけ、手柄を上げるという目標に昇華させるなど容易いことであった。
――大将首を
自身の初陣を華々しく飾るには、大将首しかない。元信は諏訪の社を仰ぎ見て、
――我が初陣、御照覧あれ
と、武神に誓った。
戦勝祈願を終えると、一行は今日の中央自動車道をなぞるかのように、諏訪湖を越えて南下する。
「暑い」
何人かの兵が愚痴をこぼした。山と盆地で形成される甲斐や信濃は、その地形から独特の気候を生み出し、夏暑く冬寒い。
「なに、それは敵も同じよ」
元信はカカと笑い、熱い暑いと申しては、甲斐の連中が火を得物にするやもしれぬぞ、と、からかった。
「この戦は、我らの威容を示すが肝要」
灼熱地獄となろうとも、我らの旗、絶えず上に掲げておれ、と指示をする。
福与城と竜ヶ崎城に挟まれた盆地には板垣信方が陣を敷いており、伊那の小笠原勢による挟撃の恐れがあった。今川軍到着の報せは、竜ヶ崎城への牽制となるであろう。
高遠を落とした晴信は兵を西に向け、今日の箕輪町の南部にあった、福与城を囲んだ。三方を急峻な斜面に囲まれた山城で、藤沢頼親以下、上伊那の地侍達が籠る小さな城であったが良く戦い、4月20日から既に1月以上籠城を続けていた。
と言うのも小笠原長時が後詰として福与城を助け、武田も鎌田長門守が討死するなど、激しい戦いが続いていたためである。長時は今日の辰野町にあった竜ヶ崎城を拠点とし、福与城を攻める武田軍を絶えず牽制していた。竜ヶ崎城は東を南北に流れる北川川、西を小横川川に挟まれた小高い丘にあり、高遠同様信濃の地形を生かした堅城である。小笠原長時が一万五千の兵を置き、福与城の後詰としての機能を果たしていたが、小山田勢が攻撃を開始し、次いで今川の援軍が到着したことからその機能が失われ、5月下旬、本格的な城攻めが始まった。
小笠原長時は不思議な男であった。晴信と同じ頃に家督を継いでいるものの、守護職にありながら己の武勇に頼る所が強く、代々家老として使える家臣達を軟弱として見下していた節がある。
小笠原流と呼ばれる武家故実を守り続け、武士として、守護としての在り方を求めていた、保守的な、ややもすると形式のみを重んじるタイプであったのだろうか。
「武田か」
鎌倉の頃、木曽義仲と覇権を争った武田信義のことを思ったか、長時は床几に座ったまま目を閉じた。
南の盆地で戦う音が湿った風に乗って届くが、何ら気にした様子も無く、首を左右に曲げて伸びをする。
「征矢野、桐原らの砦はどうか」
時折近習に尋ねるが、どこの砦も激しい戦いを繰り広げており、報告者を出すような状況に無い。更に、戦果の無い報告を長時が嫌がるため、砦に籠る将達は砦同士のやりとりを密にし、長時への報告は後回しになりつつあった。
「武田の攻勢激しいものの、よく耐えております」
近習も長時の性格は心得ており、また、家臣達の気持ちも良く理解していたため、それらしい回答で場を収める。事実、信濃は小豪族の集まりであり、横の連携をもって良く戦っていた。
「我が手を下すまでもないが」
小笠原はこの時公称一万五千を率いていた。城に入りきらぬ兵が多々おり、各地の砦で地の利を生かした手堅い戦い方をしていた。若い、と言っても晴信より一回りほど上であるが、長時からすると家臣達の堅実な戦い方は、愚鈍に見えていたかもしれない。
「夜のうちに兵を整えておけ」
そう言い残し、長時は奥へ入り横になる。近習は朝駆けをするのだと解釈し、仲間と共に場内を駆け回った。
夏の朝は早い。巽の頃には東の山の端が明るくなり、小さな盆地を赤紫に染め上げようとしている。
「行けぃ!」
その静寂を破るかのように、長時は大声を上げると馬の腹を蹴り、竜ヶ崎城から千の兵を率いて飛び出した。
突如現れた小笠原軍に武田軍は動揺するが、離れた板垣信方らの陣は上手く反応し、隊列を組んで小笠原に当たろうと前に出る。
長時は福与城と連携すべきであったが「我が意を酌め」という態度であり、この朝駆けに対して連絡は取り合っておらず、福与城から打って出てくることを期待するのみであった。無論、福与城は竜ヶ崎に頼って防衛しているのであり、何の打ち合わせも無い挟撃などできよう筈が無い。いや、日頃より長時が家臣に目を配っていれば違ったかもしれない。
長時には元々独自の美的感覚があった。例えば先月福与城を助けた際、逃げる武田の追撃をしていないのである。何故高遠まで追いやらぬのか。そこで境界ができれば、福与城の防衛や今後の対応も変わったのである。
もし誰かが問い質せば、
「大将たる者」
逃げる敵の背を追い、僅かな首級を求めるなど、と、笑い飛ばされたであろう。更に
「源氏の九郎義経は自らの武功ばかりを求め、家人達に頼られず、遂には謀反人となっておる」
と、持論を述べ、
「その点」
我は大将たる者のあるべき姿をよく理解しておる、とまで言われ、憐れむような目を向けられたであろうか。
長時は弓馬に優れた武将であったが、ワンマンであった。隣国の甲斐にも武田信虎というワンマンがいたが、二人には大きな隔たりがある。長時は理想を求めるロマンチストであり、信虎は徹底的なリアリストであった。戦国期において上に立つ人間がロマンチストであることは、その国の不幸と言って良いだろう。
だが、ロマンチストであろうが、長時の戦作りは上手い。
彼は信方が立て直したことに気付くや否や、まだ準備が整わぬ小山田勢の横腹を抉る様に兵を入れた。
「引けっ! 引けっ!」
と、陣中から声が掛かるが、その言葉を聞くまでもなく、蜘蛛の子を散らすように小山田兵は山へ入る。彼らは経験則から、山に入ることがこの場合の好手であると理解しているのである。
付近の山には今川の陣があった。一連の混乱を見ていた泰能らは元信ら物頭を集めると、
「各々、竜ヶ崎の者共を斬り捨てにせよ」
と、命じた。今は小山田陣を立て直すことが急務であり、首は不要であると言う。例外処置ではあるものの、武田家が戦後補償することも視野に入れた、回転の速い泰能らしい対応である。
幸いにも今川の陣は東後方にあり、朝日を背にして戦うことができる。足軽に槍衾を作らせるだけでも一定の効果はあろう。
――これが
己の初陣であると元信は己を鼓舞する。敵は多いものの、構えのできている今川にとって苦にはならない数である。
「我らは小山田殿の背を守る」
元信はそう言うと、逃げる小山田勢に逆走する形で山を下りる。
「流石に」
危険ではございませぬか、と、六助が口にするが、
「良い、信濃の山は木が多い」
と、六助に理解できない答えを返して走り続ける。
元信に付き従う兵達は、万が一のことがあってはならぬと慌てて元信を追い、枝にぶつかる槍をどうにかしようと右手で柄を持ち、穂先を後ろに引きずるように走る。空いた左手を時に木の幹に当て、バランスを取る姿は山で遊ぶ子供のようである。
「ここだな」
逃げ遅れたか、矢傷を負った小山田兵が増えてきた。元信は周囲を見回し少し平坦になった場所を選ぶと兵を止める。
「若、これは」
と尋ねると、
「我が本陣よ」
と、笑う。
笑うしかないであろう。雑木林の中で陣幕も何も無い本陣などある訳が無い。だが、
「この先は坂が緩い」
故に、敵も弱った兵を追って、勢いに乗って来るであろうと。
「皆、良く聞け」
不安そうな兵を前に、初陣の小僧が更に言う。
「儂は義元公の御傍で兵法を学んでおる」
グルリと兵と木々とを見回す。
「この場は正に伏兵に良い地形だ。この木々が我らを守り、我らが槍を突き出すだけで、敵は見えぬ儂らを恐れて兵を引く」
そう言いながら改めて兵の顔を見る。皆、元信の目をみようと必死で追い、声に耳を傾けている。
「それでも駆け上がる者がいれば、むしろ有り難い。首を掻っ切るまでよ」
元信はハハハと陽気に笑った。初陣の若造が功目当てに暴走したのかと不安に思っていた者達も、死地を前に勝ち目を知れば、槍を持つ手に力も入る。
だが、必ず木に隠れるのだ、と続ける。
元信は兵を大きく3つに分け、2人一組として、坂の上の木を選んで各所に配置し、更に逃げる力の無い小山田兵がいれば、各自の後ろで保護し、兜を被せるよう命じた。
「良いか、必ず木の陰に隠れておれ」
元信の読み通り、ほどなくして竜ヶ崎城を出た兵の一部が小山田勢を追ってきた。
夏とは言え、まだ太陽は東にある。山中には薄暗い所もあり、敵の数もはっきりと見えないが100前後であろうか。
足場の悪い山道を追ってきた竜ヶ崎の兵達は、じわじわと体力を削られながらも、手負いのウサギを追う狼のように、自らの得物がそこにあると確信して駆けてくる。そして比較的緩やかな坂が終わろうかというところで、力尽きた武田兵の姿が目に入る。
遠目に見て足軽であればその首に価値は無い。だが、それが兜首であれば別である。
数名の兵が小山田兵に気付き、坂を上ろうと駆け出した。一人が駆け出せばそれに続く者が出るのは当然と言えば当然か。
だが、目聡い兵は真っ先に駆け出したことが裏目に出た。
「今だ!」
元信の声に、一斉に槍が突き出される。
先頭を走っていた兵は、突然辺りの木から伸びてきた槍に胸を突かれ、そのまま仰向けに倒れそうになる。だが、滑稽なことに上手く刺さった槍が支えとなり、倒れることができない。突き刺した岡部の兵も何とか槍を抜こうとするし、竜ヶ崎の兵も刺さった槍を抜こうと力無く槍に手を置く。
所々で先頭を切っていた兵の動きが止まり、それを迂回しようとした兵も朝日の中に光る穂先に気付くと慌てて下がろうとするが、後ろの兵にぶつかることで、余計な混乱を生み出していた。
「次、前へ!」
少し右に配置していた兵を前に走らせる。敵はようやく状況に気付くが、木々の間を練る様に近付く岡部側の数が分からず、十数人の兵を3、40人と過大評価してしまう。
敵の動揺を見た元信は、咄嗟に
「五の兵、前へ!」
と、大声で叫ぶ。何のことか分からぬ岡部の兵達も動揺するが、それ以上に竜ヶ崎兵が動揺する。
――殿ではない
物頭の一人は岡部軍の様子を見て気付く。何より遠目に見えた左三つ巴の紋は、武田では見ない。
――今川の先陣に入ってしまったか
命あっての物種である。物頭は即座に「引け!」と命じると、そのまま坂を下り本隊を目指した。
撤退命令を受けた兵達も踵を返し、元信本陣は再び静寂に戻る。
「皆、御苦労」
若殿らしい勢いのある勝鬨を上げるのかと思えば、元信は静かに「戻るぞ」と言い、手負いの小山田兵を所々で介抱しつつ、泰能の許へ向かった。
「なに、敵が仲間を呼んでくると面倒故な」
兵の問いに困ったような顔で言う元信であったが、あっけなく終わってしまった初陣に戸惑っているようでもあった。