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高天神城  作者: 麻呂
18/18

高天神城

「よくぞ帰ってくれた」

 躑躅ヶ崎館の奥に勝頼の声が響く。

「我らの力及ばず、申し訳ありませぬ」

 勝頼の前には深く頭を垂れる横田尹松の姿があった。最後に会った時に比べ、顔は窶れて黒くなり、急ぎ整えたであろうその髪も乱れている。目通りの為に肩衣を纏っているものの、そうと知らねば乞食が盗品を着たかのような姿であったが、眼だけは爛々と輝き、顔の黒さと相まって、眼が声を出しているかのようであった。

「いや、よくぞここまで耐えてくれた」

「全て丹波様の御采配にて」

「これは異な。尹松が慎ましいことよ」

 勝頼が笑う。尹松の生還が余程嬉しかったのであろう。

「我が我がと猪の如く激しい気性であったが、丹波が慎ましさも教えてくれたか」

「戦にしか生きられぬ武士の姿をまざまざと」

――ほう

 戦にしか生きられぬ、と尹松は言った。

 元信の兄、正綱は未だ健在である。武田が今川館を攻めた折、最後まで徹底抗戦の構えを見せていたため、信玄が「万卒は得易く一将は得難し」と、臨済寺を通じて氏真の助命等条件を出して登用し、今は駿河先方衆に任じられていた筈である。

――されば、あの兄もそういう性質たちであるのか

 勝頼は岡部兄弟の心情にまで心を寄せていなかった。だが、父が正綱を登用した経緯は覚えていたため、尹松の言葉で若干の興味が湧いのである。とは言え勝頼にとって重要なのは譜代の臣であり、信濃、駿河といった外様を重用することはない。今回も興味であって、父が重視した岡部や真田といった外様の者達の扱いは変わらない。

「尹松よ、此度の戦はその方が逞しく、大きうなったことが第一の実ぞ」

 実とは何か、恐らく戦果ということであろう。尹松は主君の言葉に深く感激したが、続く言葉には得心出来なかった。

「この太刀を褒美に遣わす」

 勝頼は譜代の若頭の生還が嬉しく、純粋な気持ちで生還を喜び、誉めていたのであるが

「御断り致します」

 尹松は即、断ってしまったのである。

――何故

 と、勝頼や近習が言う前に

「某の家は代々武田家に仕えておりますが、父祖の代より負けて褒美を頂いたことはございませぬ」

 そこまで言うと一呼吸し、

「原美濃然り、横田備中然り、父も然りにて、某が負け戦で褒美を貰うなど有り得ませぬ」

 と、睨みつけるように言葉を続けた。

「流石は尹松」

 良い心掛けじゃと勝頼は笑い、譜代の心掛けを頼もしく思ったのである。そして

「ところで丹波は」

 と、尋ねるが、尹松は即座に答えず、やや間を置いてから

「丹波様は御屋形様に申し訳ないと。そして、()()()の名に恥じぬ、最後まで鬼神の如き戦振りにて」

 改めて勝頼の眼を見、

「見事討ち取られてございます」

 と、答えたのである。





 尹松が甲斐に戻る少し前、天正9年(1581年)3月22日。家康は未だ囲むしかできぬ高天神城に苛立ちを覚えていた。後世気が長いと言われたのは、勝ち目が無く我慢しなければならない状況が多かっただけであり、彼自身は短気な部類である。

「殿」

 と、本多正信が声を掛ける。

「爪を」

 と続けられた言葉に自らを見れば、いつの間にか爪を噛んでいた。苛立てばすぐに噛んでしまい、先頃帰参した正信には年中注意されている。

「左様、な」

 苦笑いしながら手を戻すと、次いで扇を腿に打ち付ける。陣幕の外に出れば大将として悠々と振舞うが、他人の目が無い(正信はいるが)場面では、苛立ちを隠せずにいた。

――負けぬ

 あの岡部丹波が降伏を申し出ているのである。それはつまり武田に勝ち目が薄く、徳川の勝利が固いことを示している。

――だが、攻められぬ

 今日まで耐えて、耐えて、耐え抜いている。それは家康がそうであるように、元信も耐えているのである。

 総掛かりを行えば勝てるであろう。だが、兵を減らしてはその後の戦に支障が出てしまう上、落城に時間が掛かれば掛かるほど、甲斐からの援軍が来ないとも限らないのである。

――岡部丹波

 若い頃より正攻法をこなしつつ、奇襲作戦のリスクを取ることも恐れず、確実な戦果を挙げ続けてその名を高め、共に戦った桶狭間では僅かな手勢で敵中深い鳴海城を守り切り、更に城を一つ落とした。今川滅亡時も劣勢の中良く戦い、先頃までは圧倒的な兵力差にも関わらず、家康の遠江侵攻を遅らせている。

 その岡部丹波が守る城を、どうやって攻めろと言うのか。ましてや桶狭間の時と同じ、いや、それ以上に生きる見込みのない死兵の集団である。

 武田に高天神城を奪われた際、織田も徳川も援軍を送らずに見捨ててしまった。その結果東海地方において織田徳川は頼り無しと見られ、遠江制圧が遅れてしまったのである。今回は勝頼の名声を落とす目的もあって降伏を許さず兵糧攻めをしているのであるが、岡部丹波がそこに居るという事実が、優勢の中でも家康に恐怖を与えていた。

「正信よ」

 声を掛けられた正信は無言で家康を見る。

「勝てるよな」

「無論」

 分かってはいるが不安であった。誰かに大丈夫だと言って欲しかっただけである。

「万一の場合とて、前右府さきのうふ様が参られましょう」

「それは困るな」

 家康の口元がようやく崩れた。



 元信は何時もの様に城内を回り、兵の顔を見て回った。以前は大将自ら動くのを咎める者もいたが、気力が尽きたか口を挟む者もいなくなり、日に日に静かな巡回となっていった。

――おや

 先日まで見慣れぬ兵が数名いたが、気付けば城内から消えてる。

――密偵にも見放されたか

 と、可笑しくなってしまった。

 家康が送り込んだ忍であろう。城内全員の顔を覚えている訳ではないが、毎日回っていれば違和感を覚えることもある。

 既に餓死者も多く発生しており、あまり長いこといては気付かれるとでも思ったのだろうか。

――どこから入るやら

 搦め手門と二の丸の間辺りであろうか。崖とは言わないまでも急峻であり、通常出入りするような場所では無いが、身体能力に自信があれば、挑戦できないこともない。

 ふと城から外を見渡せば、若い緑色が輝きだしている。すでに春も終わろうとしていた。

――花も散り時は心得ていよう

 花が散れば、若い芽が息吹く。それは自然の摂理であり、生きる者に訴えかける力を持つ。

――穂垂ほたれる前に参らねばな

 元信は静かに足を本丸に向けた。

 餓死者が増えている今、夏を越すことは現実的で無い。衛生面(疫病)も体力も限界であろう。

「おお、信盛」

 ふと、元信の前に身なりの良い兵が現れた。信濃の出であったが武田に下った江馬家の三男であったか。

「丁度良い」

 突然のことに戸惑う信盛であったが、城主直々の声掛けとあって緊張した面持ちで耳を傾けた。

「宴をな、今宵行いたいのだ」

「某は如何すれば」

「動ける者も減った。最後じゃ、名を問うても仕方なし。そちが誰でも使い、差配せい」

 同じ武田の外様であり、年齢も同じくらいであろうか。だからこそ元信は目に入った信盛を使おうと思ったのである。

 感じ取ったのであろう、信盛は「はっ」と返事をすると、そのまま手近な者に声を掛け、兵糧庫に向かった。

「…今宵で終わる」

 静かに言うと、元信は再び本丸に向けて歩き出した。



 何時もの様に篝火が焚かれ、何時もの様に夜の帳が下りてくる。静かな、荘厳とも言える張り詰めた空気の中、薪の爆ぜる音だけが鳴り響いていた。

「尹松殿」

 沈黙を破るには緊張感のない、呆れた声で元信が声を掛けた。

「その鎧を纏うて甲斐まで行く気か」

 見れば尹松が決戦に備え、具足を繕っている。

「あ!」

 と、こちらも緊張感の無い、間抜けた声でそれに応えた。

「御使者が鎧を着ていては、農民に身を隠すも難しく」

「川で力尽きますな」

 ふふっ、と、互いに笑みを零す。過日の緊張感はどこへ行ったのか、二人の間には穏やかな空気が流れていた。

「ただ、槍だけは」

「あぁ、好きになされませ」

 尹松には宴席前に策を伝えてあり、将兵にも宴席の場で申し伝えてある。

「丹波殿」

「何かな」

「此度の策は、桶狭間の折の織田と同じでございましょう」

 尹松は誰にでも無く、気楽な様子で続ける。

「武運良ければ敵将に届き、武運拙くば敗れるまで」

「いや」

 元信は少し表情を硬くし、

「桶狭間の折、我らは十分に織田の大将を探しておった。戦の前からな」

 尹松は少し驚いた顔で聞く。

「だが、それは向こうも同じこと。あの日我らは鳴海から三河まで広く戦をしており、互いに互いを探り合っていた。」

 ガシャリ、と、元信の具足が音を立てた。突然立ち上がったため大きい音が出たが、元信はそのまま言葉を紡ぐ。

「武運、いや、武運か」

 座ったままの尹松を見、もう一度口を開く。

「確かに、武運やもしれぬ、な。されど今宵の策は策と申せようか」

 堅かった顔を緩ませ、尹松の眼を覗き込んだ。

「十度やれば十度負けましょう。されど、どこまで出来るかは武運次第にて」

 悪戯をする子供のように尹松は笑う。

「御武運を」

「…済まぬ」

 元信は影の様に本丸を出、尹松は少し置いてから後に続いた。



 門の前には兵が詰めかけている。このまま餓死するか、それとも後から城に入る徳川勢に殺されるかという状況の中、少しでも動ける者は戦による死を求めて集まっていた。

「皆、御苦労」

 元信が辿り着いても声は上がらない。そう指示されているからでもあるし、口を開くのも億劫なほど、城兵は疲れ切っていたのである。だが、沈黙とは裏腹に、これまで続いた籠城戦から解放される喜びか、それとも浄土信仰か、兵達の眼は生気を帯びていた。

 一歩一歩馬を進めながら、元信は兵達の間を進む。彼が前に出ると兵は足元に置いていた槍を縦に持ち替え、空に対する槍衾が出来上がっていく。

――良い月よ

 見事な満月である。夜襲には不向きであるが、すぐ横には雲が出ており、すぐ闇夜に戻るであろう。

――晴れては曇り

「これより我らは徳川の陣を攻める」

――曇っては晴れ

「御屋形様に最後の御奉公を致す時ぞ」

 槍を高く掲げる元信を、満月の最後の光が細く照らした。その顔は頬のこけた修羅の様であったが、死を前にした恍惚とも言える狂った精神の中、兵は天から光を受ける元信の姿に神聖な威を感じ、一気に士気が高まったのである。

 面頬を付け、兜を引いた元信が槍を前に向けると、門番が閂を外して門を開く。

「我に続けぇ!!!」

 全ての沈黙を打ち破り元信は駆け出す。兵達のどこにそんな力が残っていたのか、元信の背後からは「応!」という叫びが何度も沸き上がった。


 理想と現実の差は埋め難い。

 できることならば闇夜に紛れ、静かに進み、音も立てずに急襲したい。だが、この餓死寸前の兵達に、気配を殺し足元に気を配り、互いの距離を僅かな月明かりの中で確認し合えなどとは求めようが無かった。

――ならば

 最後の力を振り絞り、駆け下りる勢いのまま打ち破る他あるまい。と、元信は考えた。順に殺されるよりも、せめてかたきを――と。

 元信にとっての敵とは、この場に居ない信長であろう。そして、信長にとっても元信は桶狭間の大勝利に水を差した敵であり、ここで元信が格下であった家康に負けることで、多少は溜飲が下がるのである。

 兵糧も援軍も無い元信に、既に策と言えるようなものは無い。

 ただ、その類稀な戦術眼で敵陣の緩みを見抜き、弱いと見ればそこを叩き、可能であればそのまま奥へ、家康の本陣目掛けて突入するだけのことである。そして、元信が暴れるほど、紛れて脱出する尹松の生存確率が高まるのだが、互いに互いを確認できるような状況にないことは先刻承知であった。

――やはりあの陣こそ

 ここ数日蛇の目の旗を掲げる陣に隙があり、罠と思いその様子をつぶさに見ていたが、どうやら罠では無く、戦慣れしていないのであろうか、元信にとって僅かな期待を掛けるに相応しい陣があった。

「敵襲っ!!」

 元信に狙われた石川康通の陣より手間、交代で前線を警備していた兵達にざわめきが起きる。一年近い沈黙を破り、騎馬武者を筆頭に数百の兵が押し寄せてきたのである。

 だが、城内の声は前線に聞こえており、驚いても混乱する兵は無く、それぞれが与えられた持ち場を指示された通りに守るのみ。

――やり辛い

 まともな兵の数があれば、元信に都合の良い「鴨」であったかもしれない。硬軟織り交ぜ緩急付ける戦い方は元信の得意とするところであり、機械のように与えられたことのみを行う敵は、翻弄されて道を開けることしかできなかったであろう。

 だが、今回は違う。彼の意の様に動かすには兵の体力が無く、ただ勢いに乗せるしか無い。それでも驚くことに高天神城の兵は元信に続き良く駆け、彼の死への道を威厳あるものにするかの様に力強く付き従った。

 と、そこへ大久保忠世や須賀康高の軍勢が駆け付けた。石川康通の付近に構えており、城の声に呼応するかのように兵を動かしていたのである。

 先頭に立つ元信に当たったのは、忠世の弟、忠教ただのりであった。彼もまた馬に乗り、先頭を走る元信目掛け刀を振るうが、元信は槍で流すとそのまま奥に突き進む。

主水もんど、任せた」

 忠教は先頭の武者が深く入り込む様を見ると、家臣の本多主水にその扱いを任せ、自身は己に相応しい敵大将の首を求めて元信軍の奥へと向かって行った。後に

――丹波と名乗りたらば

 と、悔やむこととなるが、まさか総大将が最前線を掛けるとは思っていなかったのである。

 一方、任された主水は槍を振るいながら大声を出し、元信の気を引くとそのまま槍を突き入れた。元信は咄嗟に槍で弾こうとするが、僅かに左腹を掠め、鎧と共に体を大きく捩じってしまう。だが、主水も勢いがあり過ぎたのか、弾かれた勢いで槍を落としてしまった。

「良い突きぞ」

 面頬でその表情は見えないが、元信は笑っていた。

――これぞ戦よ

 左腹が熱い。痛みはあまり感じないが、火を近くに置いているかのような熱さを感じる。目の前の兵は腕に覚えがあるようで、元信が下馬することを見越して刀を抜いていた。元信に付き従う餓鬼の群れも、ここが死に場と理解したのか手近な大久保兵に斬りかかる。それは同時に家康までの道を塞ぎ、元信さえも死へと追い遣る行為であったが。

 元信は馬を走らせることを諦め、刀を抜いて主水に向き直った。

「大久保忠教が臣、本多主水」

 それだけ言うと、主水は元信に駆け寄り袈裟懸けに刀を振るうが、元信は左に躱しつつ横薙ぎに刀を振るう。互いに届かずと分かると、主水は腹を目掛けて蹴りを入れ、元信は距離を作ろうと後ろに跳ねた。

「うっ」

 と、元信の口から驚きの声が上がる。跳ねた先の足場が悪く、足を捩じるような形で転んでしまったのである。

――届かなんだか

 刀を落とし、瞬時に負けを思ったが、主水が馬乗りに来た瞬間、元信に覇気が沸いて出てきた。

「簡単に取らせぬわ」

 闇夜が幸いし、主水の左腕が元信の肩を押さえ損ねたのである。その隙を突いて刀を奪おうと元信が腕を伸ばし、主水は右腕を引いた。すると元信は主水の右肘を掴み、危険を顧みず自らに引いたのである。

――まずい

 慌てた主水であるが、引かれた勢いで刺すことは諦め、せめて刀を手放さぬようにと力を入れた。元信の狙いが刀である以上、放さなければ勝利は主水に訪れる。

――まて

 先程突いた折、相手は腹に傷を負ったではないか、と主水は気付いた。正直に力比べをするよりも、ここで腹をしめる足に力を入れれば、と。案の定、面頬の敵はみるみる力を失っていく。浅いと見たが演技であったか、苦しそうな唸り声を上げ、その左手が離れたのである。

 主水はそのまま腕を上げると刀を持ち直し、足の力を入れたまま、刀を面頬と鎧の隙間に突き入れた。




「丹波を討ったか」

 計らずも敵総大将を討った主水は、主忠教の恨み節を何度も聞くこととなったが、報告を受けた家康は小躍りしそうな程喜んでいた。

――これで

 解放されるのか、それとも自由になるのか、家康には言葉が続かなかない。だが、彼の肩からは何か大きなものが消えた様で、この後の家康は強気な姿勢を崩さず、武田と戦い秀吉と戦い、関が原へと突き進んでいくのである。


 数日後、信長の許に元信の首が届けられた。穂垂ることもなく信長の眼前に現れたその首は、何か言いたそうにも見え、穏やかな様にも見える。

――義元の首は鳴海(城)となったが

 開かない目を見つめながら思う。因果なものである。義元の首を求めて戦った男が、こうして首となって目の前に居るのである。

――岡部丹波、か

 織田家を苦しめ続けた男は最後まで手を焼かせ、既に忘れかけた過去さえも呼び戻す。

――良い将であった

 信長は立ち上がり、障子の先の空に目を遣った。雲一つ無い、清々しい青空が広がっていた。

最後まで拙稿お付き合い下さいました方々、ありがとうございました。


説も色々あり、どの説を採用しようか悩むうちに時間が過ぎ、また、間を置くことで話を忘れるなど何度も行き詰まりましたが、最後は考察を捨て、趣味で進めさせて頂きました。

今川家にも岡部元信にも興味が無かったけれど、たまたま読んでしまったという方がいらっしゃいましたら、これを機に戦国時代を畏怖させた今川家に心を寄せて頂ければと思います。


ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 楽しませていただきました、ありがとうございます。 また次作に期待してます。
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