伊松
ここ数日思い出の中に生きているのかと思う程、昔のことばかり考えている。ゆったりとした走馬燈なのであろうかと、元信は誰に照れるでもなく笑い、笑ったかと思えば家康の陣立てを見、攻略の糸口を探そうとする。八方塞で何ら手が無く、ただ時間を持て余しているのである。
「尹松を呼んでくれるか」
戸を少しだけ開け、首をにゅっと出しながら護衛役に声を掛ける。以前に比べ徳川の兵が増えており、今後は増援要請も簡単にはできなくなるであろう。最後の日を前に、副将の横田尹松と戦の始末について話をしたくなったのである。
――どうせまた
敵陣の隙がどう、攻め時は何時、という話であろう。と、尹松は面倒そうに廊下を進む。
――負けじゃ、負け
大将の元信は徹底抗戦どころか、勝頼を招いての一大決戦を夢想している。代々武田家に仕える尹松からすれば、旧主家が滅んで自暴自棄になっている男が、今の主家を巻き添えに自殺しようとしているだけに見えるのである。
「尹松、これに」
「おお、入れ」
最近では目を合わせるのも億劫だが、武田家臣団名門の御曹司(余談ながら、彼の妻は山県昌景の娘である)として、元信に負けじとその眼を射貫くように睨みつけるのが通例のようになっていた。
「ささ、そこに」
茶飲み仲間がやってきたかのような気楽な態度もいつものことで、元信なりに古参に対する配慮をしているのである。相手がどう受けるかは別の話であったが。
「いやさ、今日はな」
――今日は、どこの陣の守りが緩いと申すか
そんな先読みをしていた尹松の耳に信じられない言葉が届く。
「尹松殿に甲府への使者を頼もうと思うてな」
「は?」
尹松は絶句した。
「されば、丹波様は全てご存知で」
元信の話を聞いているうちに、尹松は居心地の悪さを感じるようになっていた。高天神城の城代は岡部元信となっているが、以前は横田尹松が城代だったのである。勿論元信の手腕があったからこその配置であったが、名門の若手筆頭たる尹松には納得のいかない所が多々あった。縁故採用で入った役員の息子が、関係会社から中途採用された男の下に付けられた、と言えば分かりやすいだろうか。
ただ、息子は鼻っ柱が強いだけでなく、その立場を維持するために非常に努力をしていたし、同世代での槍働きとなれば一番であったろう。だからこそ平時とは言え支店長をも任されたのである。ところがライバル会社が強烈に攻勢を掛けてきたため、業界内でも名の通った、実績のある管理職経験者を支店長とし、息子は副支店長として学べるよう、その指揮下に置かれたのである。
話を戻す。尹松はそのコネもあり、独自に甲府へと使者を送っていた。戦地報告と言えば聞こえが良いが、その内容は「高天神城は落ちるから勝頼は来るな」というものである。
元信は尹松の動きを見ていたが、使者については黙認していた。城内に亀裂が入ってはならぬという思いもあったし、尹松の意見も尤もなものであったからである。
「分かってはいたがな、申す所正しく、止めることも無かろうと」
笑いながら元信は言う。甲府からすれば最前線の大将から増援要請を受け、副将から増援取り止めを進言されているのである。
「甲府の御屋形様が御判断なさること故」
高天神城は「武田」にとって特別な城である。天才と謳われた「信玄」が落とせなかった城を、息子「勝頼」が落とした城であり、武田の威光が衰えていないことを示すと共に、勝頼の強さの象徴でもあった。
「この城が落ちれば武田は滅びる、と、儂は考え、御屋形様の御出馬を願った」
続けて尹松の眼を抉る様に除き込み
「この城は落ちる故、兵を無駄にせぬようにと尹松殿は御出馬を断った」
と、言う。この期に及んでも尹松「殿」と付けるのも、古参に対する元信の敬意である。
「儂は御屋形様が来れば良し、来なければ落ちる前に尹松殿だけでも生かさんと思うてな、使者に」
「あり得ぬ!」
元信の声を遮り、尹松が声を張り上げた。
「この横田尹松、敵を前に逃げろと言われておめおめ引き下がるような男ではあり申さぬ!」
近くに控えていた者達が慌てて近付こうとしたが、元信は左手をヒラヒラさせて下がらせると
「ま、話は最後まで聞きなされ」
と、尹松を再び円座に座らせた。その態度にも
――俺を若造扱いするか
と、また怒りが沸いてくるが、元信の目は射殺さんと言わんばかりに尹松の眼を見据えており、気圧された尹松にその怒りを表に出すだけの余裕は無かった。
「年寄りの話を我慢して聞けるのは、良い将の証ぞ」
元信の言葉が空虚に響く。
「此度の戦は儂の力不足にて負ける」
「それは」
違う、と、尹松は声を出そうとするが、元信に遮られる。
「が、徳川と戦い、徳川の戦振りを知ることはできた」
さればこそ、と続け
「尹松殿には御屋形様や御家中のため、此度の戦を今後の戦に生かしてほしいのよ」
尹松は下に落としていた眼を上げ、元信の顔を見た。すると元信はニカッと笑い、
「不服はあろうがな、今の御家中には戦を知った尹松殿が必要なのじゃと心得てたもれ」
と、頭を下げた。
――丹波様が参られよ
そう言いたい気持ちもある。
悔しいことではあるが、今日まで高天神城が在るのは、岡部丹波が居たからこそである。自身が甲斐に戻るよりも、岡部丹波が戻った方が武田家のためではないか、とさえ思えるのである。
――されど、あの丹波様が頭を
横田尹松は実直な男であった。元信もその不器用さが気に入っていたのであろう。少なくともこの城に来てからは尹松を息子のように育て、教えられることは教えてきたつもりである。親の心子知らずとは言ったもので、尹松が元信の好意に気付くのはもう少し後のことであったが。
「聞いてくれるかよ」
葛藤する尹松に、元信が再び声を掛けた。
「二十年程前のことなれど、桶狭間の戦、聞いたことがあろう」
「はっ、織田の右大将と今川様の戦と」
今川の負け戦であることをどう暈して言うべきか、尹松は慣れない気を遣おうと言葉を必死に選ぼうとするが
「そう、儂ら今川の負け戦。それも御屋形様が討ち取られるという大負けの戦であった」
乾いた笑いを浮かべながら、元信から「負け戦」と言葉を出した。
「儂はの、あの日、あの時、鳴海城に居って、御屋形様をお守りすることが出来なんだ」
元信はそこで声を止めると、傍らにあった茶碗を口に運び、少し喉を湿らせた。気付けば尹松の近くにも茶碗があり、尹松もまた喉を湿らせる。
「されど丹波様、鳴海城にて織田を散々打ち負かせた上、主君の首を交換し、帰路敵の城一つ落としているではありませんか」
尹松が口煩い元信を嫌いになりきれない理由であった。元信の執念と武功は負け戦の中にも華々しく残り、更に今日においてもその采配に曇りが無いのである。武に生きる彼にとって、元信は生きる伝説の一つであった。
「儂は御屋形様に引き立てて頂き、御屋形様や禅師に多くを教えられて今日の立場を頂いておる。共に学んだ友は御屋形様と共に散ったが、儂は散り時を読み違うて生き長らえたまでのこと」
尹松は何も言えない。以前から桶狭間のことを聞いてみたいとは思っていたが、元信の中にこれ程の後悔があるとは思いもせず、ただ耳を傾けるしかできなかった。
「そんな老いぼれに、再び主家を失う様を見ろと申すか」
問題発言である。が、これまで元信は幾度も「御屋形様の御出馬無ければ武田家は滅びる」「高天神城を見捨てれば武田の家は滅びる」と言い続けてきている。今更尹松が驚く話ではない。
だが、勘の鈍い尹松にも分かることがあった。
――岡部丹波は
若くして戦上手と名を響かせ、今日においても織田、徳川連合軍に警戒されるこの男。この岡部丹波はただ
――死にたいのだ
そう気付けば諸々合点がいく。
――勝頼公ではなく、亡き駿河殿にいまだ仕えておる
義元の亡霊と言っても良いだろう。武田による駿河侵攻の際に激しく戦った元信であるが、小田原へ落ちた氏真の無事が分かると、信玄の要請を受けて武田に下り、その後も駿河平定に尽力している。何のことは無い、ただただ今川義元のために戦い、今川義元が築いたもののために戦っているのであろう。
――高天神で織田から駿府を守るつもりか
甲府を守るのではない。元信が見ているのは駿府である。結果としては同じであっても、岡部丹波には重要なのであろう。
――不器用な男よ
不器用な尹松が、更に不器用な元信を笑う。今は亡き主君の為に、ここまで独り戦う男がいるだろうか。
――それだけに
今川義元とはどのような大将であったのか。これほどの戦上手が生涯を掛けて忠義を示さんとする者とは、一体何者であったのか。
「丹波様」
尹松は呼ばれた時とは打って変わって、仲間を見るような目で元信に話しかけた。
「使者の儀、お受け致します」
「ほう、それは」
「が、一つお聞かせ願いたい」
先程の茶碗で、もう一度喉を湿らせる。井戸水を汲んだものであったが大分温くなっていた。
「今川の御屋形様は、どのような御方でございましたか」
突然の質問に虚を突かれ、元信は言葉に詰まった。彼の中には常に義元の存在があったが、それを指摘されたことはなく、彼の中で初めて考えることだったかもしれない。
「そうさな」
動揺しながらも言葉を紡ごうとするが、続かない。
尹松はただ沈黙だけが流れるかと思っていたが、妙なことに元信の閉じた両眼から涙が溢れ出したのである。
――女々しや
と、蔑む気は起らない。尹松は流れる涙を静かに見守っていた。
「御屋形様は」
元信の口が開く。だが、それ以上の言葉が出てこない。
「無礼なことを聞き申しました」
「いや」
静かに首を振り、元信は居住まいを正す。乾かない頬がその思いの深さを尹松に知らしめ、二人は穏やかに見つめ合うことができた。
「シテ、使者の口上は如何致しましょうや」
「そちが見たこの戦と、徳川の戦のクセを申せば良い」
「丹波様のことは如何様に」
「儂の力不足にて負けるのだ。御屋形様にはただ申し訳無いと。申し訳無い。それだけで良い」
尹松には元信の眼が少年のように見えた。




