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高天神城  作者: 麻呂
16/18

始末

「まさかっ」

 本陣壊滅に真っ先に気付いたのは、本陣のやや西側、丘陵の上に陣を置いていた松井宗信であった。激しい雨の後、後方から剣戟の音が聞こえたかと思えば、鬨の声が上がったのである。

 宗信は即座に兵を纏め、本陣が置かれていた場所へと駆けた。既に雨は弱まり視界が開け、泥にまみれた赤鳥の旗が宗信の不安を確信へと変えていく。

「まさか…」

 今川の兵は既におらず、意気揚々と引き上げんとする織田兵の姿だけが彼の目に映る。

「御屋形様…が」

 松井家は今川家中において高い家柄とまでは言えない。だが、義元は宗信を評価し、引き立ててきたのである。宗信にとって大切なのは主家ではなく義元その人であった。

「…皆、心して聞け」

 我が身は御屋形様により引き立てられ、御屋形様のために働くことが喜びであった。と、宗信は背後に控える子飼いの兵に語り出す。

「御屋形様亡き今」

 ため息とも深呼吸ともつかない大きな息を吐き、宗信は手綱を握る手に力を入れる。

「この世に残る意味など無い」

 ただ織田家の兵を道連れに、一つでも多くの首を御屋形様の許にお届けしたいのだと言う。

――狂っている

 とは誰も思わない。この場に居る彼の子飼いは二百程度であったが、皆棟梁たる宗信を信頼し、宗信の下知の下戦うことを良しとしてきた兵である。義元への恩に報いるため、ここで死のうとする彼に対し、賛成こそすれ否定する者は一人もいなかった。

「織田兵の首、御屋形様にお届けせよっ」

「応」

 織田の残党は三千ほどであろうか、そこに僅か二百の松井勢が一斉に雪崩れ込んだ。

 松井勢に隠れる場所などなく、織田軍に即座に発見されたものの、既に戦勝気分で浮足立っている織田兵は「命あっての物種」とばかりに逃げ出す者が多かった。だが、それでも信長の馬廻衆や一部の兵は隊列を整え、松井勢を正面から受け止めようとする。

 残る雨が松井勢から恐怖を取り除き、狂気を増しているのか。槍の長さに頼る戦いではなく、勢いのまま突き殺さんとする者もおり、上手く刺せた者はそのまま織田兵に体当たりをし、崩れたところで刀を振り回した。だが、多くは囲まれるように槍を突き出され、その数を減らしていったのである。

 半刻もせず、松井勢は一人残らず討死した。



 義元の死を聞き、鳴海城でも同じ選択をしようとする者がいた。

「真か!?」

 元信は伝令に二度確認し、それでも現実を理解できず、再度物見を出しながら、再び伝令に確認する。

「はっ、御屋形様が桶狭間山にて休まれていたところ、先程の激しい雨の中織田軍が突如として現れ、敵味方入り混じり激しく斬り合う中、御屋形様、敵の手に…」

「左様か。真なのだな」

 伝令は少し小さくなった声で「はっ」と返事をし、首を垂れる。彼の泥と血に汚れた姿を見れば、嘘でないことは分かる。だが、

――御屋形様

 呆然と宙を見上げる元信の眼から涙が垂れる。彼もまた義元に認められ、引き立てられた将である。義元への忠義は計り知れないものがあった。

「我は腹を切る」

 突如として宣言すると、元信は立ち上がって鎧を脱ぎだした。

 あまりの展開に近習達が慌ててその腕を掴み、まだ戦が終わっていないことを口々に告げると、元信は落ち着いたのか少し大人しくなる。

「腹は後で召されませ。今は御屋形様への御恩をお返しする時でございます」

 誰が言ったか、元信の目を覚まさせる言葉が響いた。

――確かに

 腹などいつでも切れるわ、と、可笑しくなってきた。頭が乱れているのであろう、分からぬことが可笑しくも感じられ、当たり前のことが分からなくなっている。

「我は何をすべきか」

 聴き様によってはとんでもない言葉であるが、元信の家臣達はそんな彼の性格を良く理解し、彼を信頼していた。

「こちらも織田の大将首を取るべきかと」

「いや、今はこの城に残り、織田を威嚇すべきであろう。されば駿河から援軍も来よう」

「このまま清州に攻め上がるのも楽しゅうございましょう」

 口々に好き勝手を言う彼らの様子を見るうちに、少しづつ平静を取り戻したのか、元信は話が途切れるのを待って口を挟んだ。

「我はな、御屋形様に今一度御会いしたい」

 家臣達の目線を一身に浴びながら、言葉を続ける。

「織田に取られたのなれば、それを取り戻したいのよ」

 元信は気付いていないのか、彼の目からは先程から涙が止め処なく溢れている。

「今日までの此の世の御厚情にな、御礼申し上げずして後を追っては『使えぬ男よ』と怒られようし、これだけの戦で大働きしておかねば、やはり『使えぬ男よ』と御屋形様に笑われてしまうでな」

 それを聞いてもらい泣きしていた家臣が失笑してしまう。鼻水が零れるが泣き笑いで胡麻化し、元信の話の続きを促す。

「我らはこの鳴海城で御屋形様に笑われぬ戦をする。既に我が身はこの世に無いと思っておる故、遠慮のう戦えるわ」

 右足で強く床を蹴りつける。今この場でこの気持ちのやり場は、ただ足元の床しかない。

 家臣達も各々鎧を叩いたり、大声を上げたりと、それぞれの行き場のない想いを放出する。心弱い者にとっては敵中深く取り残された恐怖があり、心強かな者にとってはこのまま大将が腹を切っては犬死するしか無いところだったのである。

 鳴海城の小さな広間には、不思議な熱気が満ち溢れていた。




――チッ

 と、勝者の信長は舌打ちした。桶狭間の勝利は彼の名声を一気に高めたが、足元の鳴海城には今だ岡部元信が構えており、油断ならない状況が続いていたのである。

「誰ぞ何とかできぬものか」

 既に幾度か兵を向けているが、悉く押し返されている。かと言って再び大軍を用いるだけの余力は無いし、これ以上の兵の損失は看過し難い。

 ただの城攻めなれば良かっただろうか。今回は奇跡とも言える大勝の後であり、皆目の前の恩賞に期待している時である。家臣からすれば何故このタイミングで鳴海城へ、しかも織田家にとって「鬼」の岡部元信が守る城を攻めねばならぬのか。

 末端の足軽でさえ意見が言えるのならば拒否する話である。敵陣真っただ中で堂々と残る兵にマトモな者は居ない。皆死兵となって戦うことは目に見えており、間違っても近付きたくはない。

「既に周りに被害が出ているそうじゃな」

 信長の許に届く報告には、鳴海に向けた兵が逃げ帰った後、元信が近隣に討って出、散々攪乱した後で悠々と引き上げているという、頭の痛い話ばかりがあった。

 戦後処理もあり、時間も兵も掛けていられない。信長は已む無く使者を送ることにした。


 死を覚悟していた使者は、鳴海城における自身の待遇に戸惑いを隠せなかった。

「シテ、尾張の殿は何と」

 目の前に座る鬼は威嚇をするでもなく、平時の使者を扱うかの如く笑顔で接してきた。鳴海を守り死ぬ気であろう鬼のことであるから、それこそ問答無用で斬られる覚悟をしていたが、こうも素直に話を聞かれると、張り詰めた心も自然と和らいでしまう。

「この城を明け渡して頂きたく、某を使わせた次第にて」

 元信も予想していたのであろう。眉を顰めるでもなく淡々と聞き、

「左様か。されど某は御屋形様よりここの在番を命じておられてな」

 え?という顔をする使者を尻目に元信は続ける。

「御屋形様より御命じ頂かなくては、そうそう引き上げられぬ」

 使者は戸惑いながらも

「されど駿河守様は…」

 と、僅かな抵抗を試みる。この敵中にあって言葉を返す胆力は大したものであろう。

「無論、承知しておる。さればこそ我は御屋形様の御首を預かり、御屋形様と共に帰らねばならぬのよ」

――首を寄越せと。

 このような場を任せられる使者だけあり、頭の回転は速い。ここでは元信の飛躍し過ぎる論理に対する問答は無用であって、相手の要求を信長に正しく伝えることが自らの仕事であると理解していた。

「殿にお伝え致します」

 使者がそう言って元信の前を去ろうとすると、元信は

「あぁ、返事は弓矢でも良いと伝えてくれるか」

 と、笑顔を崩さず申し添えた。



「首と城が引き換えなれば安いものよ」

 と、信長は悠々とした態度で周囲に零すが、内心は不愉快なことであろう。

 街道一の侍と言われた今川義元を討った。この事実は驚きと共に各地に広まっているが、この首の処遇を選択するのが勝者の権利であり、名の売りどころである。

 後に信長は浅井・朝倉を倒した際、その頭蓋骨に金を塗す等行っているが、この頃の織田家の力であれば「今川」の家格を考慮し、一大イベントとして相応の寺に埋葬するのが定石であろうか。僧のネットワークを利用して織田家の力を大きなものとして吹聴すると共に、義元を手厚く葬ることで今川残党の怒りを鎮めたい筈であった。

――首を返せば収まるか

 義元を討ったことで「織田」の名は十分に知れ渡った。そして首を返すことで元信を始めとする残党達の気が収まるのであれば、カネをかけて法事を行わなくて済む。敗残兵の要求を呑むことに不満はあるが、結果として得る物は十分にある。

「話を受けるか」

 信長はそう小さく呟くと、不安気な家臣達に「良い。返す」言って席を立ち

「首は丁重に扱え」

――この対応だけで法事も戦も減らせるわ

 と、命じたのである。




 首桶を前に元信は深く、頭を下げた。

「御屋形様」

 これまで幾度発したであろう言葉を改めて口に出し、そのままの姿勢で時間を過ごした。ふと床を濡らしていたこと気付くと、元信は籠手の先の鹿皮で床を拭い、反対の手で己の瞼を擦る様に抑えた。

「此度の戦、我はまだ御屋形様の目に入るような働きをしておりませなんだ」

 そう言いうと、背後に控える家臣達を振り返り、

「皆、御苦労。我らはこれより駿河に戻る」

 と宣言し

「だが、御屋形様の御前と申すに、我等にはこれと言った働きが無いでな」

 と、含みのある言葉を呟き、軍装のまま鳴海城を出た。多くの家臣は信長の追手を警戒してのことと考えていたが、元信の心は数日前と変わらず、己の働きが足りぬという只一点にあった。

 彼が約束したのは鳴海城の明け渡しであり、戦闘終了を約した訳では無い。信長としても喉元の鳴海城から撤退してくれれば当面の問題は解決するし、帰路、多少の乱取が起こっても已む無しと考えていたが、元信の行動は予想を超えていた。

 元信は鳴海を出ると街道に沿って南へ向かい、刈屋城を目指していたのである。

 刈谷はパーキングエリアが有名であるが、刈屋城はJR刈谷駅に近く、天守等も無いためPAから望むことはできない。


 元信は刈屋城に近付くと、城下、というには粗末な村であったが、一斉に火を放った。

 この時刈屋城には織田方に寝返った水野信近がおり、突然のことに慌てながらも、城内の兵を急ぎ火元へ急行させ、領内の維持という面からは正しい選択をした。が、今回はそれが裏目に出てしまう。

 既に元信達は城付近に隠れており、兵が出ていくのを確認すると、手薄になった城内に入り込み、あっという間に信近を討ち取ってしまったのである。

「裏切りおった水野めを成敗致しました」

 元信は義元の首が納められた棺に報告をすると、再び兵を東に進めた。

――頭が狂ったのか

 と、知らぬ人が見れば思うかもしれない。だが、元信は至って正気であったし、命懸けの自身の行為を当然のこととして捉えていたのである。

「この程度の働きで御勘弁頂けようか」

 元信は義元を振り返ると、そう独り言ちた。



 信長の勝利に驚く声に隠れながらも、岡部元信の名は街道中に知れ渡ることになったのである。

大分遅くなりました。

新型ウイルスの影響で時間が取れまして、こっそり投稿させて頂きました…

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