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高天神城  作者: 麻呂
11/18

広忠

 小豆坂ではの戦いは元信の伏兵が功を奏し、今川軍の圧倒的優勢になった。

 雪斎が放った今川軍の将来を担うであろう青年将校らは、少しでも良い首をと戦場に求めるが、混乱極まった織田軍の中にあっては、鎧が金目かどうかで首の価値を計るしかない。

――三河守の首を

 元信は信秀がいた本陣に在って矢作川を見る。幸か不幸か信秀と思われる一団がまだ視界にあり、その首が取れるかもしれぬという誘惑が元信に絡みついた。

「馬を」

 言うが早いか、供回りと共に馬を探す。信秀らが置いていった馬達は一か所に集められており、すぐに十数騎の騎馬隊が形成された。だが

「殿、本陣には何と」

 元信の容易ならざる気配を察した六助が、老体に鞭打ち問う。ここで雪斎に「将自ら数騎で三河守の首を取りに駆ける」とでも言うのか。

――若殿は危うい

 既に信秀は視界の遠くにおり、ここから川を渡り追いかけたとて届く訳がない。

――若殿

 六助自身は生き延びることで精一杯であったが、なまじ力のある者が功に逸って倒れる姿を何度も見てきた。何を責めるでもなく、六助は我が子を見つめるかのように元信を見る。

「ふむ」

 老臣の視線が熱を冷ましたか、元信は輪乗りをしながら「三河守の首を欲しておったが」と、恥ずかしそうに笑った。

「六助、よう申してくれた」

 元信は一軍を任されている以上、身勝手はならぬと自らに言い聞かせるよう呟き、雪斎の許へ追撃の可否を仰ごうとしたその時、元信の許へ朝比奈泰能からの伝令が来た。

「急ぎ松井勢に合力し、矢作川を渡るよう」

 伝令はそれだけ伝えると二呼吸程息を整える。受けた元信は伝令が立ち上がったのを見計らったかのように

「備中守様には、ご期待あれと」

 そう言って馬の腹を蹴った。周囲を二回りすることで手勢への伝達を終えると、伝令が驚くほどの速さで進軍を開始する。

――なるほど

 馬上、元信はこの命令の意味を反芻していた。

 岡崎はその西側を南北に流れる矢作川を天然の外堀とし、城の南側を流れる乙川を内堀としている。今日の岡崎駅付近を中心に陣を敷く筈だった織田軍は、敢えて岡崎城を攻め難い位置で今川軍と対峙していたのである。これは広忠に討って出るだけの余力が無いことを見抜いた上での選択であり、信秀らしい博打めいた布陣であった。

 だが、今川軍が想定よりも早く陣を構えたこと、矢作川の東に置いた自陣が壊滅したことから、その選択は裏目に出た。残された織田軍は退路を確保することが喫緊の課題であり、元信らがそこを突く可能性が高まるとすれば、どうか。

「急げ、儂らが早ければそれだけ勝ち目が増える」

 元信は振り向きざまに叫ぶ。道とは名ばかりの狭い路であるが、兵達は慣れたもので、上手く足場を確保して走っている。

――それにしても

 我らは幾度走れば良いのやら、と、一人可笑しくなってしまう。初陣もそうであったように、目標への移動が多いのではないか、と。

 無論、戦において当然のことである。地の利のみならず、兵の運用において速度が重要ということは元信も理解していよう。ただ、若い彼には、走る己の姿が滑稽に映っただけのことである。



「三河ではそれほどの」

 後に小豆坂の戦いと呼ばれた今回の戦は今川軍の勝利に終わり、その実力が全国に広がると共に、馬上軍配を振るった黒衣の軍師、雪斎の名も改めて知らしめることとなった。

「今川には恐ろしい軍師がいるようで」

「帝釈天の法力を使うそうな」

 民にとって他国の勝ち負けなど日々の暮らしに関係するとは思えないが、話題としてこれほど面白いものはない。更に僧が采配をしたという異色の内容が興味を引いたのであろう。各地の「識者」たる僧達も、まるで自分のことかのように法力の功徳を伝えていた。

 一方、民とは一線を画した世界で「情報」を集める者も居る。

「今川は思うた以上に」

 利発そうな少年がそう述べると

「左様、な」

 と、歪な頭の男が呟く。後頭部が大きく出ており、頭が重いのか顎を突き出すような姿勢である。

 間者や草を用いている家ほど、小豆坂の結果を大きく見ていた。今川家の進軍速度、戦振り、そして兵の質と率いる将。

「尾張殿は戦上手であったがな」

 少年は何か言いたそうな表情をしつつも、静かに男の様子を伺っている。

「雪斎がより上手であったのであろうよ」

 男の下した決断はそれだけだった。斎藤新九郎利政、つい先頃加納口の戦いで織田信秀を叩きのめした男である。

――あの人一倍動く虎が、な

 自身も人一倍動いているであろう利政は、己のことを棚に上げていることにも気付かず、信秀の凄まじいまでの行動力を思い出した。

――今川はそれほどか

 信秀の苛烈な攻めを幾度も撃退しておきながらも、あの執拗な戦振りには辟易している。素早く動く信秀の相手は骨が折れると思っていたのに、それを上回る動きで今川家が勝ったとは驚きであった。

「帰蝶は苦労するな」

 口元にいやらしい笑みを浮かべ、利政は席を立つ。少年も慌てて立ち上がり、その後ろに附いた。

「彦太郎よ」

「はっ」

「今川の将も先が楽しみなれど」

 そう言いながら彦太郎の眼を覗き込むように振り返り、お主の先の方が楽しみぞ、と、笑いかけた。



 各国が小豆坂の総括に勤しむ中、その中心地三河の状況は大きく変わろうとしていた。いや、三河の権益を失いつつある信秀の選択が先鋭化した、というのが正しいか。

――三河を失う

 これまで築き上げた三河の権益が、小豆坂の一線で大きく傾きかけている。伊勢湾交易を主軸とする経済圏を持つ信秀としては、三河、特に西三河は譲れない領域である。

――血は、ある

 三河統治の正当性をどこに求めるか。信秀の手には三河国主たる松平家の「血」がある。

 これまで織田家に靡かぬ広忠に手を焼きつつも、じわじわと松平の力を削いできた。だが、小豆坂で今川に大敗してしまった以上、正攻法に拘ってはいられない。

――広忠を、斬る

 松平の現当主を斬ってしまえば、信秀は三河の民の信を失うだけでなく、大義名分を失うことは明白である。だが、彼の手元にはその松平の正当な血がある。

 脇息に左肘を乗せ、空いた手で額を左右に撫でながら、ただ床の一点を見つめる信秀。彼がここまで大きくなれたのは津島を始めとする商人達の支えがあったからである。その支持層を離さぬためには、多少の無茶をしても三河権益を死守せねばならない。

「斬る」

 無音の部屋に信秀の声だけが響いた。

「斬る」

 戦に敗れたとは言え、三河の間者は多数おり、広忠の周囲にも信秀の意を受ける者もいる。

「斬る」

 自らの決断を促すかのように、三度言葉を吐いた。だが、僅かな間の後、顔を上げた信秀の眼元は暗い。決断したにも関わらず、どうにも頭がすっきりしない。

「歳か」

 既に40を過ぎた初老である。これまでのように、決断後の清々しさを感じられなくなっていた。

 信秀は自嘲気味に笑うと、静かに側室の寝所へと向かって行く。まるで日課とも言える夜の営みだけが気晴らしであるかのように。



 天文18年3月、広忠は小豆坂の勝利を利用し、負け戦続きで動揺していた領内の視察のため、鷹狩りに出る。やや曇り空であったものの、鳥も低う飛びます故にと言う家臣の勧めもあり、岡崎近郊を回っていた。

 ところが、渡利村に至った際に一揆が発生し、少ない供回りも災いして討ち取られてしまったのである。

 誰の目にも、三河に大きな火種が生まれたと見えた。

毎度毎度遅れてしまい、お待ち頂いた貴重な方々、申し訳ありません。

月2回程度を目標としていましたが、2月1回以下の状況です。

今後もペースは怪しいですが、懲りずお付き合い頂ければ幸いです。


なお、真面目な設定としまして、明智光秀の出生は天文9年説を採っています。

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