小豆坂
岡崎には信秀からの誘いが繰り返し行われていた。
世継を人質に取られているのである。ここで広忠が織田に靡くことも十分に考えられたが、義元の康光討伐が功を奏したか、広忠は頑なに織田の誘いを断り、徹底抗戦する構えを見せていた。
「これは難儀な」
古渡城で待つ信秀に届けられるのは広忠からのゼロ回答であり、信秀も認識を改めざるを得ない。
――見抜かれたか
信秀から見て広忠に存在価値は無い。今川が三河に手を伸ばそうとしている中、親今川の広忠は邪魔な存在であり、竹千代を擁立した方が良いのである。かと言って広忠を暗殺などすれば、今川に三河侵攻の口実を与えることになり、事態はマイナスに進んでしまう。
だが、信秀が心配しているのは広忠の扱い云々ではない。現在秘密裏に進めている美濃斎藤家との縁談であった。
――駿河は大したものだ
信秀はそう実感している。雪斎も義元も、仏ではなく鬼が還俗したのではと言うほど厄介であり、マムシと謳われる道三率いる斎藤家と同時に相手にするのは負担が大き過ぎた。
――どちらを選ぶか
3年前に北条と和睦した今川家は、西征する他道は無い。対して斎藤は織田のほかに敵を抱えている。となれば
――マムシと手を結ぶか
信秀は平手政秀を使者にし、道三の娘帰蝶と、信秀の嫡男信長との縁談を進めていたのである。
詰まる所、広忠への誘いは時間稼ぎであり、松平と今川に「東を攻める余裕が無い」と思わせる必要があったのである。少なくとも斎藤との縁談が成るまでは、北と東の二方面作戦を遂行しつつ、尾張にいる反乱分子の抑え込みに苦心している演技を ―事実であるが― 続けなければならない。
逆に言えば、斎藤との戦が止めば、尾張の反乱分子も勢いを失い、東の今川家を徹底的に叩けるのである。
――信長の婚儀が整えば
だが、そう願う信秀をあざ笑うかのように、鬼から還俗した男達は尾張を見つめていた。
天文17年3月、元信は太原雪斎、朝比奈泰能らと共に軍議の場にあった。
「信秀が古渡を発ったとの由」
そう言いながら雪斎は地図に筆を入れ、碁石を並べ始める。
「後顧の憂いを絶ったのであろう」
並べ終えるのを待たず、泰能が禅巾に向けて相槌を打つ。
「御屋形様も、憂いが無いようで」
「まこと、乱世の寵児よ」
既に発せられた義元の軍令は1万の徴兵であったが、これまでのところ寄親寄子の制に沿い、問題なく徴兵が進んでいると聞いている。河東の安定に伴い、今川家の国力が増大した証左であろう。
コツ、と、机に石を置く音が響く。泰能が元信らに手招きし、言わば高級将校達が机を囲んだ。
「ここで」
前置きも無く、雪斎は地図にある矢作川を指す。
「虎を川の向こうに押し留めたいところなれど」
雪斎は自軍に見立てた石を岡崎城の東南、上和田砦に近付けた。
「松平の力でそれは叶わぬ。なれば」
と、言いながら石を並べ、ゆっくりと矢作川に向けて動かして行く。
「我らが川に追い落とすしかあるまい」
無論、信秀も準備はしているであろうが、雪斎のような秀才――無論信秀もであるが――が計画立てて行う基本に忠実な進軍は、敵から見てこれほど厄介なことは無い。
そして泰能が添える。
「この辺りは小豆坂と言うだけあり、所々急な坂になっておる」
なだらかな坂と急な坂、変化の多さが小豆坂の由来であろうか、と、元信は興味を持った。
――おや
敵の進軍予測や松平家の対応、そして敵陣の位置、様々な状況をシミュレートする中で、元信は坂の一部から目が離せなくなっていく。
各将校が思い思いの想定を口にし、雪斎らはそれを楽しむかのように聞いている。現代であれば机上演習と呼ぶであろうその空間は、元信にとって非常に貴重な学びの場であり、そして彼らの意見を聞けば聞くほど、元信は坂の一部が気になってしまう。
「崇孚様」
と、元信は思わず口にしてしまった。
「儂にも一手引き受けさせて頂けると思うておりますが」
「無論」
事も無げに言う雪斎に向かい、元信は更に続ける。
「願わくば、チト離れたところに」
と。
織田軍は岡崎の抵抗など歯牙にも掛けず、悠然と兵を進めていた。信秀の長子、信広を将に据えた先陣は既に渡河を終えており、岡崎城の支城、上和田砦付近にまで兵を進めている。
この先陣の将を務める信広であるが、信秀の長子であり、今日の感覚からすると信長との関係が少々紛らわしい。簡単に言ってしまえば信長は「嫡男」であり、正室の子。つまり家督を正当に継承する立場にあり、信広は信長より先に生まれた「兄」であるが、側室の子であるが故に家督相続権が無いのである。
「いつ今川が来るとも知れぬ」
信広は今川軍に備えて陣地を構築し始めた。遠からず信秀も渡河する以上、無謀な突撃よりも本隊の到着を待つのが良い。
ところが信秀の下に信秀からの軍令が届く。急ぎ小豆坂の上を抑えよ、と。
「親父殿の申されること、尤も」
小豆坂の上から上和田まで抑えれば、今川に対して長城のような防御陣地を作ることができる。こちらが数に劣っていても、今川家はそう易々と手が出せなくなるであろう。
だが、信広が陣地構築を止め、改めて進軍の指示を出そうとしたその時、街道に配していた斥候より急報が届いた。
「今川方の先方、小豆坂の上に集まりつつ」
「何と」
知らせを最後まで聞かず、信広は陣幕を飛び出し坂の上を望む。そこには確かに二つ引きの旗印が動いていた。
「…いや、待て」
知らせの通り、今川は集まり始めた段階であり、まだその数は多くない。
信広の決断は早かった。
「急ぎ兵を進めよ。今川を坂の向こうへと追い遣ってくれる」
その言葉に信広軍は奮い立った。
信広の不運は今川の先陣が泰能であったことであろうか。それともその素直過ぎる性格であろうか。
人の話をよく聞き、敵の急な動きにも無難に対応し、およそ大きなミスをすることが無い、現代で言うのならば理想の公務員であろうか。
だが、信秀が手を焼く今川家に対して、無難な対応は危険極まりないことであった。
「なるほどのぅ」
泰能は坂を上ってくる信広軍を見ると、そう呟いた。
勢いがある上、整然と隊伍を組み、なかなか手強そうに見える。
「弓隊、前へ」
まだ全軍揃っていないが、時間稼ぎをするに十分な兵力はある。ここで陣地予定地を放棄する手は無い。
泰能の号令を受けるや、弓隊は一斉に矢を放つ。坂の上と下である。信広軍はもう少し近付かなければ応戦できない。
「道の中央を開けよ」
一方の信広軍は、一手の将であろうか、気の利いた者が道端の木や建物を利用するよう促す。
一見すると負傷者は減り、状況が良くなったように感じられるが、進軍速度が遅くなる上、一度安全地帯に入った者は、そこから出にくくなってしまう。
「これはこれは」
泰能は嬉しそうに声を上げた。何しろ時間が経つほど今川家の兵は増えるのである。また半刻も経っていないが、後続は続々と集いつつあった。
「凡将か」
そう言うと泰能は長槍隊を並べさせ、
「敵は弱き松平と戦い過ぎたようで、戦を甘く見ているようだ」
見よ、と、信広軍を指し
「一刻を争う時と申すに、矢を恐れて足が竦んでおる」
と、笑う。
「この坂の勢いに乗り、一気に矢作川まで追い詰めてくれよう」
泰能の鼓舞を受け、あちらこちらで「応、応」と、声が上がった。
「殿、殿」
元信の耳元で囁く者がいた。
「敵が駆け上っていると申しますに、何故仕掛けぬのです」
林の中は静まり返っている。
「まだ、早い」
そう小声で返すと、元信は再び息を潜めた。
元信らは坂の上に着くや、弓隊を目隠しにするように南へと向かった。信広軍の進軍が遅いのを好機と見、林の中を下って行ったのである。
――崇孚様の墨付きなれば
底知れぬ御屋形様が最も頼みとする、黒衣の大将が伏兵に賛成してくれたのである。元信は己の眼を信じ、その時を待っていた。
元信に奇襲を進言した部下は残念そうにしながらも、主の自信ありげな表情に安心したのか、再び声を掛けることなく木々の一部と消えていく。
戦は泰能の思い描いた通り、恐る恐る上る信広軍を今川軍が蹴落とすかのように攻め下り、元信の眼には見知った将らの旗がひしめき、最早今川軍の勝利は目前かに見えた。
――見誤ったか
先ほどの自身はどこへやら、元信は槍働きの場を無くしたかと不安になりながらも、勝ち鬨が鳴り響かないことを頼みとし、静かに、静かにその時を待っている。
――見誤ったのならば、それで良い
伏兵の出番が無くとも、今川家が勝てれば良いのである。だが、元信や今川の将が勝利を確信しつつあったその時、突如として坂下から激しい声が聞こえてきた。
信広軍は確かに坂の下まで追い遣られた。だが、そこで渡河し終えた信秀の本体と合流すると、指揮権を一切合切信秀に預け、受け取った信秀は即座に各部隊に細かい指示を出すと共に、全軍を鼓舞したのである。消えかけていた織田家勝利の芽は、信秀の登場で確実に勢いを取り戻した。
「流石」
器用の御仁よ、と、信秀の姿に戦場には相応しくない墨染を纏う男が呟いた。
「だが、遅すぎた」
憐れむでもなく、驕るでもなく、坂の上に築いた仮の陣から坂下を見つめる。
「戦は一度しか立ち直れぬ故、な」
雪斎は懐から数珠を取出し右手で拝んだ。
良い首が取れるやもしれぬと俗なことを考えながら。
元信の戦いは正攻法である。ただ、彼にとっての正攻法とは戦に勝つための最善手を選択することであり、余人の言う正攻法とは異なる。
今川義元や織田信長らが時代の申し子であるのならば、元信や雪斎は戦の申し子と言って良いだろう。
「怯むな、前へ」
信秀の登場により勢い付いた織田軍は、それこそ末端の兵に至るまで目つきが変わり、槍を持つ手にも力が入っているようだった。
槍を上に向け坂を上る者と、下に向け坂を下る者。当然下る者が有利であるが、上る者に勢いがあれば、前提条件はあっさりと崩れる。
「織田の大将が来たそうじゃ」
と、今川軍のどこからか声がする。
尾張の虎とも恐れられる信秀の襲来は、今川の将兵にとっても恐ろしいものであり、今川軍の前線が混乱するのも已む無いことである。一部の兵は坂の上に引くことができず、左右の林に逃げ込もうとするが、勢い良く繰り出される槍に隙を見せるだけに終わり、その撤退は捗々しくなかった。
味方が劣勢になった今、援軍、しかも横槍を入れられる伏兵がいることは今川軍にとって僥倖であろう。だが、元信は動かなかった。
――まだだ
元信は織田の兵をその眼で射貫くかのように、全神経を目に集中させている。
――まだ、少ない
前線の味方からすれば酷い話である。もし足軽達が彼の伏兵の存在を知っていたら、今すぐ来いと叫んでいただろう。
――御味方は、耐えられる
既に雪斎の本陣も坂の上に来たようである。兵の質、数から見ても落ちることは無い。
元信は木々の間からその眼だけを爛々と輝かせ、織田の勢いが増すのを待つかのように息を殺していた。
不思議なもので、雑兵達の足音さえも元信の耳には届かない。ただひたすら織田家を見続け、四半刻もすると周囲は織田木瓜一色になっていた。
――来た
元信は槍の柄で背後の家臣を軽く突く。するとその家臣が同じように槍の柄で背後の仲間に合図を出す。その間に元信は兜の緒と首の間に指を入れ、軽く下に引いて視界が悪くならないか確認した。
――よし
元信は一呼吸入れると、これから踏み込む足場を睥睨する。
「うおおおお!!」
恐怖を振り払うための雄叫びか、若武者は戦場に轟けとばかりに声を上げた。
「おおおお!」
「うわああ!」
「ああああ!」
続く兵達も口々に叫びながら、ただ一点、主の目指す所に向けて駆け出した。
当初予定していた地点よりも、更に下を目指しながら。
織田兵からすれば恐怖である。突如林から叫び声が上がり、武者達が一目散に自分達の元へ駆けてくるのである。
「裏切りか!」
「敵だ!敵だ!」
周囲に危険を知らせることが出来た者は良い動きである。多くは取る物も取り敢えず指揮官の周囲を囲むよう動くが、元信から見れば目標の所在が分かりやすくなり、望むところであった。
何しろここは信秀の本陣である。敵襲が謀反なのか今川の正規軍なのか、そして敵兵の多寡は、何よりここを守り通せるのか、それとも引くべきなのか。本陣詰めの将校らは信秀に正しい情報を提供するため、少しでも前に出て状況把握に努めようとするが、混乱する陣においては困難な作業であった。
「逆茂木を」
真っ先に斬り入った元信が言うと、数名が近くの木を引き倒す。本来ならば逆茂木は尖らせて防御に利用するが、今回は敵の進路を少しだけ妨害するためでしかない。だが、街道にいた織田兵にとっては、本陣が襲撃を受けた声と、退路を妨害されたことの心理的な効果は大きかった。
しかし、本陣に居る信秀だけは「またか」といった様子で落ち着いている。
「大殿!大殿!」
陣幕に飛び込み報告をしようする兵らに見向きもせず、信秀は
「やかましいわ」
と、吐き捨てるように言うと、近習に「逃げるで馬まわしとけ」と続けた。陣幕の外からは今川軍と思われる叫び声と、槍を打ち合う乾いた音が耳に飛び込んでくる。
「安祥に戻るぞ」
淡々と告げながら大袖と籠手を外し、自由になったた手で佩楯や脛当を外しに掛かる。慣れているのであろう、手際が良く、馬が用意される前には「おちゃかあいたか」と自省をしていた。
尾張の方言というのも一種独特である。手抜きや怠けることを横着と言うが、これを「おうちゃく」ではなく「おちゃか」と発音しているのか、母音の「う」を排除しているかのような言葉がある。
いずれにせよ、信広を育てようとした親心のためか、信秀は作戦の一部を委ねることで、今川軍に付け入れられる隙を作ってしまったのである。
信秀は馬上の人になり小豆坂を一瞥すると、鼻で笑いながら
――仏門などとは片腹痛いわ
と、敵の大将を評していた。
信秀が陣を抜け、矢作川に着いた頃であろうか、再び
「うおおおお!!」
「おおおお!」
という雄叫びが本陣から上がった。信秀は思わず振り返るが、本陣は焼かれていない。恐らく敵の増援であろう。黄色地に黒く染め抜いた織田木瓜が翻っているものの、川に向けて後退している。
舌打ちをする信秀の存在を知ってかしらずか、信秀のいた織田本陣では、今川の兵らが必要以上に声を上げていた。
元信が敢えて残した伏兵第二波。彼ら上げた雄叫びに、先に出た奇襲部隊も呼応して声を上げたのである。前線が把握できぬ織田軍にとって、岡部隊の数は300にも500にも思えた。
「これよ」
雪斎は嬉しそうに立ち上がり、眼下の元信隊に向けてパンと手を叩いた。自然合掌しているが、それは仏心からのものではなく、俗と仏門を合わせた習性のようなものであろう。
――五郎兵衛め
人混みの中に旧知の者を探し出したかのような、安堵が多分に含まれた笑顔で雪斎は声を上げる。
「岡部五郎兵衛、見事な横槍よ」
そして周囲の将校に
「誰ぞ早う顔を見にいってやれ」
と、進軍を促した。
誰の眼にも織田家の勢いが止んだことは明らかである。
今川の若い将校達は手柄を競うように再び坂を駆け下り、逃げる織田兵に対して槍を突き入れた。
「五郎兵衛に負けられぬ」
義元の近習をしていた同僚らから見れば、仲間の出世は嬉しいと同時に妬ましいものである。無論、戦国時代らしく足の引っ張り合いではなく、手柄を競う陽気な間柄であるが。
雪斎の人選も正解であったろう。ここでベテラン将校を入れるよりも、元信にライバル心を持つ者を競わせた方が良い。
仏弟子の眼には、修羅の如く敵を屠る若武者がどう映っていたのであろうか。
大変遅くなってしまいました。お待ち下さった方々には申し訳ありません。
急ぎ書き上げたこともあり、推敲も不十分ではありますが、時間を置くよりも感覚を取り戻そうと投稿させて頂きました。
いや、普段からあまり推敲していませんし、変わらないかもしれません…




