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北条戦記  作者: ゆいぐ
北条家登用試験編
8/43

8 登用試験 実技・他

小早船:小型の軍船

小抜手:上半身はクロール、下半身は平泳ぎ。戦国時代にはこの名前は付いてない模様

一同は小田原港(おだわらみなと)から少し離れた浜辺へ来ていた。(さる)上刻(じょうこく)(午後三時過ぎ)であり、潮風が少し冷たい。

受験者は二十名にまで減っていた。筆記、面接のみで諦めて帰った者に加え、武術試験でも負傷者が出た為だ。その代わりというわけではないが、見物の町衆が少し離れた所に集まり出していた。


試験は遠泳である。沖に浮かぶ二艘の小早船(こはやぶね)、その間に張られた縄に結われた朱の麻紐を取って戻ってくるというものだ。泳法は自由だが早い者程高い評価が付く。なお妨害行為は禁じられている為互いの間隔は広く取られている。


かくして『始めッ』という合図の下、褌一丁の受験者達は一斉に海へ入り泳ぎ出していった。


浜に据え付けられた陣幕の内では栄が興奮気味に話している。


「兄上、治郎兵衛が一番に戻ってきたら評価は『秀』となりましょう? 二つも『秀』を取れば筆記の失敗をすっかり取り戻せるのではないですか?」

「獲らぬ狸のなんとやらというではないか。あまり入れ込むな。

それに必死でやってるのは他の者も同じだ」


氏康はむしろ自分に言い聞かせている。

先程の試合であれだけの強さを見せてくれた治郎兵衛だ。期待を抱くなという方が無理な話だ。


そしてその思いに応えようと今、治郎兵衛は小抜手(こぬきて)でがむしゃらに泳ぎ続けていた。息継ぎはほぼしてない。最後の試験だから後のことも考えていなかった。驚異の速さだったと言える。


遂には先頭で朱紐を取ると脇目も振らず浜へ向けて泳ぎ出した。


そうしてようやく残り半分を切り、その必死の顔が氏康と栄にもしっかり確認できる辺りまで戻ってきた時――


治郎兵衛は突如溺れ出した。何と両脚の(きん)()ってしまったのだ。

原因は水温、酸素不足、体の酷使と色々あったが、ともかくあっという間に海の中へ沈んでいった。


 * * *


幸い小早船の乗り手達がすぐに助け出した為、大事には至らなかった。

しかし浜に引き揚げられた治郎兵衛が目を覚ました時、試験はもう終わってしまっていた。


焚き火で体を乾かす受験者達の輪に加わる治郎兵衛。

その背中を眺める氏康の脇で床几に腰掛ける栄は頬を膨らませていた。


「折角あそこまで一着で来てたのに……」

「……。中々思い通りにいかぬものだな。あやつ、気を落としてなければいいが……」

「栄が元気付けて参りましょうか」

「あやつはそちの顔など知らんではないか。大人しくしておれ。

大体言ったであろう。一人に思い入れするなと」


つい数刻前に自分が言われたことを栄に言い聞かせ、氏康は自身の両頬をぱんと叩いた。


間もなく、呼び集められて膝を突いた受験者達の前に立った氏康は(ねぎら)いの言葉を掛けた。

次いで吉政が試験終了の挨拶と共に合格発表の日時場所を告げ、最後に付け足す。


「言い忘れておったが(みな)の衣服と刀は向こうの小屋に大事にしまってある故、体が乾いた者から取りに行き、後はもう帰ってよいぞ。本日は長丁場の試験、誠に御苦労であった」


では、と砂浜伝いに受験者達が小屋へ向かう。手違いがないよう氏康の傍に控えていた小姓二人が同行した。後から吉政も続く。

町衆も漁師の家や漁具(ぎょぐ)用の東屋が並ぶ通りを帰っていく。

だがいくらも進まぬうちに彼等は立ち止まった。


道の向こうに騎馬武者の一団が現れたのだ。

しかも先頭の鎧武者がとんでもないことを叫び出した。


「その浜に見ゆるは憎き氏綱が嫡男、新九郎氏康かァッ!!

我等は上杉修理大夫朝興(うえすぎしゅりだいぶともおき)が臣、難波田(なんばた)家の郎党(ろうとう)なり! 民になりすまして小田原の町に潜み、この時を狙っておったッ!

その()っ首、直ちに刎ねてくれようぞッ!!」


言い終えると同時に、自身を先頭として二十騎余りで突撃してきた。

驚き慌てた町衆がわっと散って道が()く。


突然起こったこの騒ぎに対し、北条側ではまず家貞が動いた。茫然としていた受験者達に呼び掛ける。


「その方らッ、北条に身を捧げる覚悟あれば若君と栄様をお守りせよッ!!」


――まさに急転。

にしても彼我の武力差は一目瞭然だ。かたや鎧兜に手槍、騎馬の完全武装。対してこちらは素手の褌一丁。刀がある小屋は遠い。おまけに試験の疲れは殆ど癒えてない。そして守るべき氏康と栄の傍には家貞、糸乃(しの)がいるだけだ。


こんな絶望的状況で一体何が出来る。そう恐怖した数名は後ずさり、あるいは尻もちを突いた。

一方で機転を利かして手頃な石を探す者、近くに置かれた小舟の櫂を取りに行く者、愚直に小屋へ走り出した者、及び腰の小姓から刀を取り上げようとする者もいた。


その中で唯一人、最も単純な方法を選んだ者がいた。治郎兵衛である。

そもそも氏康や栄に心配されていた筈の彼は、実のところ水練の失敗を微塵も引きずっていなかった。それどころか溺れてしまうまで全力を尽くせたことに満足し、そのきっかけをくれた氏康に対して改めて感謝の念を抱いていたところだった。要は本来の前向き気質に戻っていたのだ。

だから今もただ、自分を気遣ってくれたあの人を守る、何がどうだろうと守る、それだけを思って一直線に走り出していた。


敵はもう三つ鱗の陣幕を踏み倒し、氏康達に迫る。


先頭を駆けるあの厳めしい武者が氏康の左胸目掛けて持槍を構えたその時、ばっと躍り出た治郎兵衛が大の字で立ちはだかった。


「邪魔立てするなッ!」


猛然と突き出された穂先が僅かに逸れて左脇を掠める。その伸びきったところを治郎兵衛は両手で捕まえた。

敵将が槍を引こうとするも片手なのでどうにもならない。


「離せ! 離さぬかッ!!」


思わず左手も手綱を離して()を掴む。そこを勝負処(しょうぶどころ)と踏んだ治郎兵衛は腕に一気に力を込めた。


「やあァッッ!!」


まるで暴風に遭ったかの様にして、敵将は槍ごと宙に放られた。

為す術無く、派手に砂を巻き上げて地面に激突する。


一時(いっとき)、その場にいた誰もが我が目を疑い手足を止めた。

だがやがて、逃げ惑っていた町衆の方から上がった歓声を機に受験者達は活気付き、少ない人数ながらも勇敢に反撃に打って出たのだった。


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