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北条戦記  作者: ゆいぐ
初陣編
42/43

42 小沢合戦 覚醒

●適当用語解説


北条鱗(ほうじょううろこ)

鎌倉北条氏の家紋が三つ鱗(正三角形三つを積み上げた模様)であるのに対し小田原北条氏は二等辺三角形を三つ積み上げた模様。


上杉笹(うえすぎざさ)

笹の葉とそれと向き合って羽を広げた雀を取り合わせた家紋。

山内上杉もこの家紋である模様。


指物(さしもの)

鎧の背の受筒(うけづつ)に差したりして用いる小旗等。


・弓兵:

弓の他に太刀を所持している。


赤糸威腹巻鎧あかいとおどしはらまきよろい

(おどし)

()通し」の意で、(さね)の穴へ緒を通し上下に連ねて甲冑を形成すること。縅とも書く。

「……ぅッ! ……ろうッ!」


聞き覚えのある声だった。


「――治郎ッ!」

「は、はいっ」


振り返ると胴丸鎧に兜の氏康が血刀(けっとう)を握り締めている。


「気をしかと()てッ! 敵は待ってくれんぞッ!」


言い終わるや次の相手へ猛然と斬りかかっていった。

治郎もまた握っていた槍を敵の(むくろ)から引き抜く。よくよく周りを見渡せば白地に北条鱗(ほうじょううろこ)と紺地に上杉笹(うえすぎざさ)指物(さしもの)が相入り乱れ、刀槍(とうそう)に甲冑の兵達が喚声を上げながら激しくぶつかり合っていた。


無論 治郎とていつまでも呆けていることは許されない。目の前の武者が振り下ろしてきた太刀を紙一重で躱すと、もう後は考える余裕も無く反撃に転じていった。

敵を叩いて突き刺し、あるいは川の深みへ突き落とし、本来の力をようやく発揮し始めた。


ただやはり、それでもキリ無く扇谷勢は寄せてくる。いつしか後方からの援護射撃も止んでしまい、それでもどうにか凌ぎ続けていた味方は時が経つにつれ徐々に押され始めた。


だが後方の吉政―氏康達第二陣に代わって後方に下がり押立の決着がつき次第退却の貝を吹く手筈となっていた―は依然動かない。

限界を悟った金石斎は傍らで戦う氏康を呼ぶ。


「若君様ッ! 最早これ以上は厳しいかとッ!」

「分かっている……くッ! ここが正念場だッ!」


両者の状況認識はずれている。


「このままでは若君が危惧した如く兵に取返しの付かない損害が出ますぞッ!」

(きわ)だと言っているッ!! 儂が指示するまで敵を斬り続けよッ!!」


返り血を浴び鬼気迫る形相である。今迄接してきた氏康とまるで違う一面に金石斎は息を呑んだ。

こうなればこちらが退却する間に押立側の戦況が決する可能性に賭け、独断で号令をかける他ない。上手く運ばない時はそのまま城に退くのみである。


「御免ッ。

皆の者ッ! 退()き――」


法螺貝と太鼓の音が鳴り渡ってきたのはその時である。退却の合図だった。

氏康が金石斎に頷き、大声で周りに呼び掛ける。


「最早ここまでだッ! (みな)退()けッ! 城へ退けぇェーーーッ!!」


戦術の内ではあるが半ば本心で北条の兵は退却を始めた。


ようやく背中を見せた相手を扇谷勢はここぞとばかり追い始める。かに思われたその刹那、両勢の間に生まれた僅かな(すき)を縫い、北条側の弓兵は最後の矢弾を撃ち込んだ。扇谷の兵が倒れ、ひるむ内に弓兵達も楯と弓を打ち捨てて逃げ出す。


清水勢を最後尾として、氏康・金石斎等は多摩川沿いの街道を西へ遁走(とんそう)した。一方、押立の敵勢を撃退した荒木・山角勢も打ち合わせ通りに川沿いを東へ向かう。


やがて布田側の扇谷本隊にも押立での自軍敗走が知らされたものの、多摩川南岸へ渡り終えた朝興は家宰難波田憲重と談じて北条勢の追撃続行を決めた。報告内容から現在の両軍の総兵力が七百対四百と見積もったからであり、ついでに言えば布田での苦戦が朝興の自尊心を幾らか傷付けたという事情もある。


はやる扇谷勢はやがて矢野口の手前で北条に追いつき後軍(こうぐん)の清水勢と金石斎の指示で残った足軽衆に攻めかかった。しかしここに押立から戻った荒木・山角勢が加勢。両軍は雌雄を決すべく開けた草地で激突した。


他方、遁走の先頭を騎馬で()っていた氏康・金石斎以下二十数名は城の北に位置する小高い丘に退()いていた。間もなく治郎達徒歩の家来、従者も遅れて到着する。


挿絵(By みてみん)


金石斎は氏康の隣に馬を並べ、この男にしては珍しく迷っていた。やはり三倍差の兵力を覆すのは容易な事ではない。扇谷の農兵の士気が低いのは確かだが武士達が支えておりすぐに崩れる気配は無かった。このまま徒に消耗戦が続けば仮に勝利出来たとしても被害が甚大となるのは明らかであり、それは氏康が望む勝ちでなく、金石斎が描く戦略―期限無く小沢を守り通す―の上でも負けに等しい。


そして同時に思う。仮にここで退()いたとて、惨めな負け戦とて学びはある。氏康がいつか味わわねばならぬ挫折なら若いうちが良い。

加えて野戦に踏み切る彼の度胸を見れた事は今回の戦で大きな収穫だった。言葉を尽くしても教える事が出来ない資質、それを持つ若者であれば内外の評判を覆すのも難しくない。同時にそういう主ならば仕え甲斐がある。

実際に氏康は戦場(いくさば)でも何かに憑かれたかの様に勇敢で、むしろ勇敢に過ぎて肝を冷やした場面もあったがそれもどうにか無事済んだ。


故にである。金石斎がここですべきは氏康へ退却を諭すことであり、自身の立場・話術をもってすれば容易い筈だった。


――にも関わらず金石斎は切り出せずにいる。戦場での氏康の武者ぶりを見て以来何やら引っ掛かり、理性の働きを妨げていた。


「金石斎」

「は」

「これが最後の突撃となろう」

「いや、若君様……」


氏康は背後の治郎達家来衆へも声を掛ける。


「各々武器を改めよ。河原に捨ててきた者は他の者から借りるなり戦場で拾うなり致せ」

「はッ」


金石斎はようやく止めに入った。


「お待ちを。今回の戦は残念ながらこれまでです。ここで徒に粘る事は取返しのつかない被害を生み、(いくさ)評定で申した通り正に采配を誤ることとなりましょう。また現時点、両勢の犠牲を比べれば扇谷が圧倒的に多く我等が先に退いたとて実質的な勝敗は覆りませぬ。むしろ今の内に退くことこそが――」

「あの乱戦の中央、その右斜め後ろだ」

「は……?」


氏康が指す方を金石斎は見る。ただそこは白と紺の指物がひしめき乱戦となっているのみで他と何ら変わり無い。


「あれが一体何だと……」

「じきに兵衛の兵が敵勢を押し返し、細い道が開ける。そこから我等が敵の中核を衝いてこの戦は終わりだ」


氏康は言い切った。

金石斎は心に引っ掛かっていたものがある種の予感だったことを理解し、務めて平静に尋ねる。


「何か、御冗談ですか」

「そう思うならここで見ているがよい」

「……」

「敵の農兵の戦意が鈍っていなければ、儂も其方と同じ見立てをしていたとこだったがな」

「!」

「あるいは其方が毒でも仕込んだのではと、ふと思った」


観念して苦笑いする金石斎を見て氏康も笑う。


「ふっ、まあいい。時機を逃すわけにいかぬ。もう行くとしよう」


氏康は再び家来衆を振り返ると、打って変わって鋭く叫んだ。


「皆の者ッ! 今こそが朝興の首を取る絶好の折だッ。この一戦にて長年に渡る北条と扇谷の因縁に決着をつけてくれようぞッ!」

「おおぉォーーッ!!」


直臣、いや従者も含めて全員が氏康の言葉を信じ切っている。

その時金石斎は遂に会うことが叶わなかった先代当主早雲を思い、その血が目の前の若者に色濃く受け継がれていることを改めて理解した。


かくして氏康を先頭とする四十名弱の者達が戦場(せんじょう)に雪崩れ込む。彼等は右翼の荒木勢が敵の三戸勢を押し始めた直後、氏康の言った通りに生じた僅かな間隙(かんげき)を縫い朝興本軍の横っ腹へ一気に突っ込んだ。


予期していなかった側面からの攻撃に朝興勢が浮足立つ。


そして勿論、氏康を追ってきた治郎も遅れてその中へ入り槍を振り回した。今度は初めから周りが見えている。ただ混戦の中、体力も残り少ない治郎は襲ってくる敵にかかりきりとなり、やがては方向も失って戦い続けた。


まさか先頭を切った氏康達より、後方にいた自分がその標的に向かって突き進んでいたとは思いもしない。


不意に行く手を塞いだ立派な騎馬武者(赤糸威腹巻鎧)を敵と認め、遮二無二槍を繰り出した。だが相手の持ち槍に一合(いちごう)、二合と捌かれ、更に突き上げるがそれも弾かれる。


「身の程知らずめッ、百姓の分際でこの儂に挑むかァッ!!」


罵声を無視して治郎は四度目の突きを渾身の力で繰り出す。その穂先は()しくも敵の穂先と激しく()れて行き()った。


――真っ二つに割れて地べたに落ちたのは敵の兜であり、その左頬からはぼたぼたと血が垂れた。治郎の槍先が削ったのだ。対して敵の槍は治郎の左肩を掠めている。


「大将の朝興だッ、やれッ!!」


背後で誰かの掛け声が上がる。

治郎はがら空きとなったその眉間目掛け、これで最後と念じて槍を突き出した。


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