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北条戦記  作者: ゆいぐ
初陣編
41/43

41 小沢合戦 初陣

●適当用語解説


垣楯(かいだて)

地面に置いて使う木の盾。火縄銃には通用しなかった模様。

持楯(もちだて)

一応大河ドラマ『真田丸』で出てきたので登場させてみました。

持って使う小楯です。


炎天下の野道(のみち)を氏康率いる二百強の兵は進んだ。無論この隊列に治郎もいる。馬上にある他の家来衆と異なり、その従者と見紛う程に粗末な装備で馬にも乗っていなかったが確かにいた。ましてや(矢野口村での)彼の言動が今回の戦場を決定付けたなどとは氏康を除いて誰も知らない。


ともあれ、部隊が無人と化した小沢の郷村を通り抜け、三沢川を渡り、また村を通る間に伝令が二度押立(おしたて)の情勢を伝えてきた。向こうでは既に難波田(なんばだ)広行・広宗兄弟が率いる兵五百が渡河を始めたらしく、南岸では荒木・山角の弓兵(きゅうへい)が配置を済ませたという。


やがて氏康の部隊も多摩川布田(ふだ)の南岸に到着し、四町向こうの対岸で浅瀬伝いに渡河を始めつつある扇谷勢と紺の幟旗(のぼりばた)を認めた。

氏康含め騎乗者はすぐに馬を降り、金石斎指揮の下で弓を使う足軽・農兵の六十名が川縁(かわべり)に散開。弓の張りや予備の矢籠(しこ)を確認する射手達の前には三十程の垣楯(かいだて)が急いで設置されていった。


「配置は等間隔にだ。

……佐倉、楯の足が不安定だ。石でもっと固めろ」

「はっ」


熱していく腹当と額当に難渋しながら作業に当たっていた治郎は見回る金石斎から注意されて石ころをかき分ける。そこに大粒の汗がぽたぽたと落ちた。


「四町とて弓を選べば矢は届く。終えたらさっさと戻れ」

「はっ。

こちらからはまだ射かけないのですか?」

「狙って射るのが可能な距離は精々三十間(54m)といったとこだ。矢弾(やだま)とて限りがあるしな」

「なるほど」


去り掛けた金石斎を治郎は呼び止める。


「あの、そういえば一兄(いちにい)……栗原はここ数日は何か御役目を仰せつかっているのでしょうか。とんと見掛けなかったので」

「ああ、奴か。儂も案じているのだが結局戻ってこなかったな」

「は?」

「まああの手の男は殺してもくたばらんからどうにかやってるだろう。今は他人より己の身の心配をしておけ」

「え、いや……それは一体……」


戸惑う治郎を残して金石斎は行ってしまう。

突如湧いた不安と目前に迫る戦への緊張を抱えたまま治郎は作業を終え、氏康達が身を潜める(あし)の茂みへ走って戻った。


その後は同輩と共に持ち楯を構えるのみで、氏康・吉政と戦術の確認をする金石斎に声を掛ける機会は訪れない。どころか治郎の隣にしゃがむ同輩が『あっ』と叫んだのと同時に、斜め前方の川面(かわも)飛沫(しぶき)が上がった。


「若っ。敵が矢を放ってきましたぞッ」


金石斎が先に答える。


「無駄弾を撃たせようという誘いだ。万が一こちらに飛んでくる矢に備えて楯だけ構えておけ」

「しょ、承知っ」


腰程の深さもある川中では弓を引き絞りようがない。敵は騎馬の者が射撃をしているのか、その後も散発的に矢が飛来してくる。終いには治郎達がいる茂みの手前まで届き始めた。先程の同輩がまた悲鳴を上げる。


「だ、大藤(だいとう)様っ」

「騒ぐな。ここを狙って撃っているわけではない。それにあの不安定な足場で本格的な矢戦(やいくさ)を挑んではくるまい」

「そ、そうですか」

「……にしても清水殿、やはり扇谷の侍は甲冑が華美だな。徒歩の者でも農兵と容易に見分けが付く」

「誠に。気風なのでしょう」


吉政も常と変わらぬ平静である。


そんな彼等は敵勢が川縁まで四十間という距離にまで迫った時ようやく動いた。

金石斎が氏康に声を掛け、背後の法螺貝役(かいやく)・太鼓役に頷いたのである。


やがて河原一帯に鳴り響いた法螺貝(ほらがい)と太鼓を合図として、遂に北条側からの射撃が始まった。殺傷力の高い直線的な弾道の矢が扇谷の兵馬にとめどなく襲い掛かる。敵は隊列が乱れて悲鳴と飛沫が上がる中で倒れる者、溺れる者が相次いだ。


だがそれでも前進は止まらない。仲間の屍を押しのけて前に出てきた後続の兵が北条の弓兵との距離を徐々に詰めていった。中には持ち盾を掲げる者、水中に体を沈めて的を小さくしようとする者もいる。

金石斎は『頃合いか』と呟いて吉政に声を掛けた。


「清水殿。出番だ」

「承知した。若のことを宜しく頼みます」

「任されよ」

「若。お先に」


吉政は氏康に一礼するや立ち上がり、持ち槍を掲げて一帯に呼ばわった。


「清水の者共はこの右京亮(うきょうのすけ)に続けッ!

扇谷の兵を断じて岸に上げるなァッ!」

「おぉォーーッ!!」


先頭を駆け出した吉政に周囲の葦に身を潜めていた家来衆、農兵が続く。六十名程の一団が飛沫を上げて弓兵達の前に躍り出た。これに扇谷勢の先頭集団も応じ、膝程の深さの川中で激しい斬り合いが始まる。


ちなみにここまでの流れは金石斎立案の戦術である事は言うまでもない。扇谷勢が渡る浅瀬は川に架かる橋そのものであり、寡兵(かへい)をもって衆兵に当たるにはこの隘路(あいろ)の出口が最適な戦場(せんじょう)だったのだ。

加えて彼等には多摩川の流れに逆らい四町もの距離を渡ってきた疲労等もあり、上陸を目前にして扇状に広がりつつあったその敵を清水勢は見事に押し返した。これに合わせ背後の弓兵達も弾道を山なりに変えて敵の後続兵を狙い始める。降ってくる程度の矢でも長蛇の列をなす扇谷勢には装備の薄い農兵と馬に被害が出て一定の成果を生んだ。


乱戦の様子を凝視する氏康に金石斎が言う。


「家紋からして敵の先陣は家老の三戸(みと)義宜ですな」

「そうか……」

「何か気になる事でも?」

「いや、よい」

「評定で話した通り兵数の差を覆すのは容易ではありませぬ。今の優勢を見て敵を(あなど)らぬことです」

「分かっている」


それからしばらくして、押立方面の戦況を知らせる風魔の者が来た。


「申し上げます。

押立側は既に両軍が衝突し味方がやや押し気味ながら敵も粘り強く、趨勢(すうせい)は未だ定まりませぬ」


金石斎が少し考える風で答える。


「相分かった。こちらは予定通り第一陣を務める清水殿の手勢が敵に当たっている最中(さなか)だ。まだしばらくは持ち堪えられるであろうと荒木殿に伝えてくれ」

「は」


このまま戦況が想定通りに推移して荒木・山角勢が敵を退けたならば矢野口付近まで戻って待機。そこへ氏康勢が扇谷本隊を呼び込み全兵をもってこれを叩く。そこまでが北条の者達が共有する金石斎の目論見である。

風魔者(ふうまもの)が音も無く去るのを見届けた後、氏康が言う。


「……さて。そろそろ右京等もきつかろう」


その兜の下の引き締まった横顔を見て金石斎は満足気な笑みを漏らした。


()い潮かと。敵も朝興の中軍が加わったのか勢いを盛り返しつつあります」


氏康は頷く。そして治郎達家来衆を見た。


「押立の味方が勝負を決するまで何としてもここを守り抜くぞ。

己の手柄は味方のもの、味方の命は己のものと思い、一丸となって敵に当たれ。よいな」

「はッ!!」


氏康は立ち上がり、父氏綱から預かった銘刀日光一文字を引き抜くと斜め前方の戦場を真っ直ぐに指した。


「第二陣、いざ参るッ!! 扇谷の者共を打ち払えッ!」

「おおぉぉォォーーー!!」


清水勢より一回り多い人数(槍を持った農兵と足軽)が石を蹴って我先にと突撃する。再び鳴り響く法螺貝と太鼓の音の中、金石斎達も氏康に続いた。


もっとも。


肝心の治郎は視野狭窄とでも言うべき状態で槍を構えて駆けていた。先程から川の()で繰り広げられる死闘が治郎の恐怖を増長させたのだ。今し方も氏康の指示に大声で応じはしたが内容は耳を素通りしてしまっている。先程まで心配していた与一郎の事も、小田原の家貞や糸乃から掛けられた言葉も完全に頭から抜け落ちていた。


最早目の前にあるのは血と刃だけであり、それらは治郎に迫り狂い、迷う(いとま)すら与えず殺し合いの中へ彼を取り込んでいく。


治郎は人を殺める事に、殺められる事に怯えて無我夢中で槍を振るった。無我夢中で槍を振るってからようやく我に返った時――


その穂先はもう敵の左胸を貫いており、柄を伝い流れ落ちてくる真っ赤な血が己の手を濡らしていた。


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