表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北条戦記  作者: ゆいぐ
初陣編
39/43

39 大藤栄永金石斎 策を打つ

●修正報告とお詫び

36~38話にプロットミスがあった為に2022.8.4~8.10頃に修正を行いました。以下はその概略になります。申し訳ありませんがご了承下さい。


●36~38話の概略

氏康が城主を務める武蔵国橘樹郡小沢城に入った治郎は城の改築作業に従事しつつ、氏康が行う周辺の村落慰撫(年貢改定・施し等)にも稀に同行し、約六年に渡る北条・扇谷上杉との戦によって疲弊した村の現状を理解した。

小沢城周辺の七郷は扇谷が見捨てる程に荒れ果てた村が多く、中でも四郷は人も士気も相当に厳しい状況である。

だがそれでも氏康は農民達と信頼関係を築こうとある日酒宴を催す。しかし酒が苦手だった氏康は招いた土豪達とも今一つ打ち解けられず、締めの挨拶でも酔い潰れて一言も発せぬまま寝入るという醜態を演じてしまう。

治郎はそれでもひとまず宴は盛り上がったと山角四郎左衛門定吉と喜ぶのだがその夜、荒木兵衛尉長広と話をし、年初めの合戦で小沢城主だった長広が扇谷に敗れたのは百姓が普段協力的な上辺を見せてたにも関わらず合戦で碌に戦おうとしなかったからであり今回もまたそうなるのではないかという懸念を聞かされる。

一方氏康も百姓達に歩み寄る姿勢を見せても改修作業に加わる百姓が中々増えず他村へ欠落していた者達も戻ってこない事から焦りを感じ、長広に反対されながらも作業終わりに二十数名の土豪達を集め、扇谷と戦う理由と百姓達と力を合わせて国を築きたいという思いを伝える。だがそうして土豪達がその思いに賛同するかと思われたその時、土豪の一人である高田の隠居が横槍を入れ、氏康を言い負かしてしまう。

氏康は他人が苦しい思いをしていれば己も苦しいから民の為の政をしたいのだという気持ちを伝えて一矢報いるのがやっとで、ぐだぐだに演説は終わってしまったのだった。

しかも間が悪い事にその夜、扇谷による夜襲を受け小沢城の北にある矢野口の数ヶ村が焼き討ちされてしまい、北条が望む民との信頼関係構築は暗礁に乗り上げてしまった。

果たして氏康はいかにして扇谷上杉朝興に対抗していくのであろうか。


●本分中の地図に関して

HP『お城を知って、巡って、つながるサイト 城びと』様の解説を参考にさせて頂いています。

不明な部分は作者想像で補っているので、詳細は上記サイトをご確認下さい。


矢野口の村が焼き討ちを受けた翌日、治郎は同輩と共に氏康と吉政に従って被害の確認に来ていた。


眼前には惨憺たる光景が広がっている。田畑は刈られ、焼かれ、踏み荒らされていた。散在する家々も板葺き屋根が焼け落ち、中には土壁が打ち壊されているものまである。まだ煙がくすぶり血の臭いも残る痛ましい状況の中、早朝から招集をかけられている他村の者や足軽達が黙々と復旧作業に当たっていた。


しばらくして作業の指揮を執っている長広が高田主税助(ちからのすけ)持則を連れて氏康の所へやってくる。その口調は初めから刺々(とげとげ)しかった。


「男連中が殆ど討たれてしまったので村の再建はしばらく無理だ。目途が付くまで女子供は菅生(すがお)の方で世話をさせよう」


襲撃によって討死した土豪が持則の親類だったらしい。


「……分かった。そうしてくれ」

「作物についても収穫が終わって倉に運び入れてあった大麦含め、米、(あわ)(ひえ)全てやられた」

「そうか……」


悲痛な面持ちの氏康に対し長広は苦々しく言った。


主税(ちから)の祖父が申した通りだ。いくら崇高な目標を掲げて民に呼び掛けたとて実際に兵が足りなければ何も守れん。

それでは民から搾取し続けて戦に明け暮れる主と大差無い」


直言を見兼ねた吉政が間に入る。


「兵衛、いささか言葉が過ぎるぞ」

「ふんっ。若の背中を押してきた右京殿(あなた)や大藤殿も無責任過ぎたのだっ。

元々百姓達に期待してたわけでもないが、銭米を乱費した罪については小田原へきっちり言上しますからな」

「好きに報告するがよい……。ただ今は少し落ち着け」

「右京殿が落ち着き過ぎなのだっ。ともかく打てる手は全て打ち尽くしました。もうこれ以上余計な事をして引っ掻き回すのは止めて頂きたいっ」


長広はなおも険しい表情のまま『まだ二つ村を回らねばならんので失礼する』と言い、持則を連れ行ってしまった。


吉政は軽くため息をつき、氏康と顔を見合わせる。


「此度の焼き討ちは別としてもここの所 銭米の事で尻拭いばかりさせてしまっていますからな」

「大分無理を通してきた。挙句にこの状況では苛立ちもしよう」

「儂が少し話してきましょう。溜まった鬱憤は晴らさせた方がよい」

「すまん、頼む」


吉政が長広の後を追っていってしまい、残った氏康は眉間に深い皺を寄せて作業の様子を見つめた。

同輩達も遠慮して口をつぐみ、重苦しい沈黙が続く。


そんな中 治郎は少し迷ったものの、あの演説以来一人で考えてきた事を、氏康に伝えようと思ってきた事を口にした。


「本当に高田の御隠居様が言った事が全てでしょうか」

「……?」

「確かに目の前の扇谷をどうにかしないといけないのはその通りだと思います。

でも百姓は目の前の事だけ見て生きている者ばかりじゃないです。領主や大名がどういう思いを抱いて、どういう政をしようとしてるのか、じっと見極めようとしている者達が必ずいます」

「治郎……」

「面接の折に言ったではありませんか。亡くなった私の母が北条に対してそうであったと」

「……」

「ましてや自分が見限られたからといって、百姓達にここまでひどい仕打ちを出来る扇谷の朝興に新九郎様の信念が劣っていよう筈がありません」


言いながら治郎は一つの事を理解し、震え出そうとする両脚に力を入れた。

この光景を再び生み出させない為に次は自分も戦わねばならない。殺生をせねばならないのだ。


「私は……、新九郎様が(さき)の演説で言われた『人が苦しんでいる様を見れば己の心も苦しい』という言葉に自然と頷けたのです。それを要とする主の(もと)でなら、目指す場所に辿り着くまで戦い続けけられるかもしれないと思ったのです」


氏康だけでなく同輩達も注目する中、一番伝えたかった事を強く言い放った。


「だから私は、新九郎様が村の者達と信頼関係を築こうとするその思いを曲げてほしくありませんッ」


最も身近に共感し得る思い。それは目の前の扇谷との戦いだけではなく、ずっと先まで治郎を支えてくれる気がしていた。


ただ……それでも震えは止まらない。


治郎はぐっと両手を握り締める。

氏康はその拳を優しくすくい上げ手に包んだ。


「治郎。戦が恐ろしいか?」


治郎はその大柄な体に似合わず、弱々しく頷いた。


「そうだな。初陣ゆえ無理もない。幼い頃より修練を積んできた儂とて恐ろしい」

「新九郎様もですか」

「無論だ。小田原を発つ折 孫九郎に強がってみせ、ここへ来てからも己を必死に奮い立たせてきた。だが酒宴で醜態を晒し、演説をして言い負かされ、遂にはこの様に領内の村をみすみす襲撃の憂き目に遭わせてしまい最早心が折れ掛けていた」

「……」

「されどな。今其方の言葉を貰って再び活力が戻ってきた。

確かに状況ははかばかしからず、兵衛の言う通り手も打ち尽くしたが……されどそれでも、力が再び湧いてきた。次こそは何としても扇谷を打ち払い、形勢をひっくり返してくれようぞ」


治郎が返事をするより早く周りにいた同輩達が大声で応じた。それを見た氏康と治郎は目を合わせ深く頷いたのだった。


 * * *


最早打つ手は無い。一つたりとて無い。唯の一つも、無い。


本当に……本当にそうだろうか。その問いに対する答えは――


否である。


氏康と治郎達が矢野口で心意気を新たにしていた頃、金石斎からその手立てを託された者達が扇谷領である深大寺城周辺の村落へ忍び込んでいた。しかもこの中には与一郎まで加わっている。


前日の深夜、彼等は風魔の案内を得て桝形山城の北側から多摩川(川幅は四町)を浅瀬沿いに徒歩で渡り、武蔵野台地の南端に当たる布田崖線(ふだがいせん)(高さは一丈半弱)を登り、付近の森林に身を潜めると(まげ)を汚く結い直し小袖と体を土埃で汚した後、各自が担当する村の方へと散っていった。


ただ与一郎は担当する布田(ふだ)村がそこから近かった為、そのまま一人留まっている。


やがて正午頃まで体を休めた彼は立ち上がり、木々の間に小さく見える深大寺城を眺めた。舌状台地の先端を選んだその立地は悪くないが曲輪にさしたる工夫は無く施設も古い。兵さえいれば力攻めで落ちそうな城だなどと偉そうに値踏みした。


挿絵(By みてみん)


「……しかしその兵がいねえんだよな」


誰にともなく呟き、ゆっくりと深呼吸をする。


それからようやく覚悟を決め、辺りを伺いつつ森を出て村の南側へと向かった。広場で百姓達が槍の訓練に疲れて休憩しているのを遠目に確認しつつ、与し易そうな獲物を探しながら更に南へ。背丈程もあるカラムシが茂る畑を抜けて名も知らぬ川(多摩川の支流らしい)に出た。

石ころだらけの河原には百姓らしい二人が手拭いで体を拭いている。与一郎は何食わぬ顔で会釈して二人の隣にかがみ竹筒に水を汲みながら言った。


「こりゃ梅雨も明けたかな。本格的に暑くなってきたわ」


二人が応じたのを機に愛想良く話し掛け、どこの村から来たか、どの村が訓練に参加しているか、その訓練が厳しく扇谷の武士が乱暴だといった具合に話題を転じていった。我ながら舌が良く回るものだと感心しつつ、これなら以前に小沢の土豪達の様子を探りに行ったのと同じ具合にやればいいという安心感も湧いてきた。


「大体俺等だって田畑の草取りだの虫取りだのしなきゃいけねえってのに、戦なんて武士だけでやってろってんだ」

「だなぁ。儂なんておっ(かあ)の足腰が弱いからその世話もあって大変だよ」

「そりゃ難儀だ……。こんなんで合戦に連れてかれて怪我でもしたら堪まんねえよなぁ」

「ほんとだよ。上杉様は全然儂等の苦労なんて考えてねえんだ」

「ああ、あの殿様は薄情さ」

「そういやこの前だって隣村の妹の嫁ぎ先でよ――」


与一郎は適宜相槌を打ちつつ扇谷への不満を煽り、戦で真面目に働く事の馬鹿らしさを説き、更には川向こうの北条が行っている仁政の取り組みを伝聞として大袈裟に話し、最後にそれらの農村に対して朝興が断行した焼き討ちを激しく非難した。


――即ち、強大な敵と対する際は内患を作出し、あるいは増大させてそれに乗じる。今回の策は味方の戦力を増やすことに見切りをつけ敵の戦力を減らすことを謀った金石斎の奇手だった。兵法(へいほう)三十六計の混戦計にある混水摸魚(こんすいぼぎょ)、あるいは六韜(りくとう)の兵徴の(くだり)に同様の教えがあるものの、金石斎がそれらに倣ったかは定かでない。


ともかく六年に渡る戦の被害は扇谷側とて大きく、ましてや民の疲弊に関心が薄い朝興の(もと)でそれらの不満が強く渦巻いていたのは間違いない。加えて扇谷の兵種が農兵に大きく依存していた為に戦への迷いや嫌悪といった空気が伝染し易い環境も出来上がっており……つまりは時宜(じぎ)にかなって打たれた一手だったと言えよう。


二人の反応に少し自信を付けた与一郎はそのまま広場へ向かい、休憩中である他の百姓達にも喧伝活動を行った。実地で話術の経験を積み、功を立て、金石斎から一層の信頼を得る。出世の為なら多少の危ない橋も覚悟の上よと一心不乱に扇動した。


ただ惜しいかな、一心不乱も時と場合によるのだ。


与一郎は目の前の百姓達の顔色が変わったのに遅れて気付き、ふと後ろを振り返ると小具足の武士がにっと笑いながら自分を見下ろしていた。


「訓練の場所で主家に対する陰口とは随分根性が座ってるな」

「……それ程でもないですけど」


与一郎は薄ら笑いを浮かべつつ心の中で舌打ちをしたのだった。


 * * *


結局扇谷領から与一郎含め数名が帰らぬまま十日余りが過ぎたある日、またしても凶報が小沢城にもたらされた。

何と津久井の国衆内藤朝行が北条から離反して甲斐武田に従属する旨を小田原へ通告してきたというのである。津久井城は小沢城から西に五里強。北の深大寺城に加えて新たな敵を背負うこととなった氏康は少なからず動揺した。


そして六月十日。この動揺を衝く様に扇谷の朝興が遂に動き、深大寺城へ入る。

警戒を強める氏康の元へ深大寺城に続々と兵が集まりつつあるという報せがもたらされたのは十二日の朝だった。


●適当用語解説

一丈:約3.03メートル

一町:約109メートル


兵法三十六計:

中国の魏晋南北朝時代(184年-589年)の兵法書。混戦計は相手がかなり手ごわい場合に用いる戦術に関する記述。


六韜(りくとう)

兵法書。武経七書の一つ。戦国時代(紀元前五世紀-紀元前221年)には成立していた可能性が高いとされる。


●武蔵野台地と布田崖線(ふだがいせん)に関して

35話でおおよその範囲を示した武蔵野台地ですが、その内実は新旧の段丘面の集合体となっており武蔵野台地の南西部一帯は立川面として区分されています。

この立川面には立川市・府中市・調布市が載っており、その立川面において東西方向へ横断する形で立川崖線が存在しています。

(ここまでの記述はHP『ヤマネコの森』様の解説を参考にさせて頂いています)

また崖線とは崖が連なっている地形のことで、立川崖線も太古の多摩川が武蔵野台地の南側を削ったことでできた河岸段丘の連なりです。

ちなみにこの立川崖線のうち、調布市の南側を東西に走ってる部分を布田崖線と呼ぶそうです。

調布にしても布田にしても布の字が使われているのはこの地域でカラムシ等を用いて麻布が作られ税として納められていた歴史があるからだそうです。


●河岸段丘(wikiより抜粋)

河川の中・下流域に流路に沿って発達する階段状の地形。

平坦な部分と傾斜が急な崖とが交互に現れ、平坦な部分を段丘面だんきゅうめん、急崖部分を段丘崖だんきゅうがいと呼ぶ。

段丘面は地下水面が低く、段丘崖の下には湧水が出ていることが多い。

地殻変動や、侵食基準面の変動がその形成原因となる。

侵食力を失った河川が隆起や海面低下などにより再び下刻を行うとそれまでの谷底平野内に狭い川谷が形成される。谷底平野は階段状の地形として取り残され、河岸段丘が形成される。

下刻(かこく)

河流が川底の幅を広げるのではなく、川底を低下させる働き。下方浸食。

(ゆ)

この湧水や多摩川・支流の水が麻布を作るのに利用された模様。

恐らく急崖部分の連なりを崖線と呼ぶ、という理解で良いのだと思われる。


●津久井国衆の内藤朝行の動向

黒田基樹氏著『北条氏綱』p167において

1530~1531頃に北条から武田への鞍替えがあった可能性が考えられるという旨の主張が記されているので拙作では1530.6をその時期として設定します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ