38 氏康と百姓 後編
今氏康は両脇に控える家来衆が見守る中、正面に立つ土豪達二十数名に向けて生まれて初めてとなる演説を行っている。北条側へ彼等の心を引き寄せるべく、慎重に言葉を選び、懸命に紡いでいた。
「――振り返れば六年前に我等北条がこの小沢へ侵攻して以来、扇谷上杉との間で戦が相次ぎその所為で大切な家族を失った者、大事な家や田畑を荒らされた者が大勢いる。
そういう折にまだ城の改修や、戦への参加を求めねばならない事を誠に済まなく思っている。この通りだ」
氏康は深く頭を下げた後、土豪達一人一人の顔を見た。若者や老人が少なからずいるのは当主を戦で亡くしたからだ。一様に日に焼け、土と汗に汚れた彼等を見て、それでも氏康は声を張った。
「ただそれでも、是が非でも扇谷・山内の両上杉はこの関東から排除せねばならん。
関東管領という職を負っている故に其方等は当然のものとして両上杉をその上に戴いてきたことだろう。だが現実には享徳の頃、つまり我等北条が足利茶々丸討伐の為に伊豆へ攻め入るより四十年も前からこの関東では戦が絶えなかった。
それは何故か。ひとえに両上杉が関東の平穏を保つだけの力を持っていなかったからに他ならない。
扇谷は山内に背き、更に両者は古河・小弓の公方家に与して争い、あるいは配下が起こした謀反の鎮圧も満足に成し得ない。そのような者達が関東を統べるのがそもそもの間違いであり、それでは戦の世が終わる筈もないのだ」
氏康は一旦言葉を切る。
土豪達は自分の言葉に真剣に耳を傾けているように見えた。
「無論、北条もその茶々丸討伐を遂げてから上方の情勢が変化する中で自家の存続という目的の為に
関東での戦火を広げてきた。その罪は否定しようがない。
ただ、今に至って一番の肝要はいかにしてこの乱世を終わらせるかという事だ。
先程話した通り、我が祖父早雲は当初の目的こそ違えどやがてはこの無能な支配者達を民の敵と見定め、これを排そうという明確な意志を持って最後の十年を戦い抜いた。
そして今その思いは父氏綱が受け継ぎ、戦を終わらせるだけではなく内乱が起きづらい仕組みを備えた国を築こうとしている。それも上杉の様に権威にあぐらを掻く武士が民に賦役を負わせるだけの国ではなく、民が必要とする政を武士が行う、民と武士が支え合う国をだ」
力強く訴える反面、内に秘める不安を拭えない。だがそれを押し殺して最後の言葉を伝えた。
「……今後、恐らく扇谷がこの小沢に再び攻めてくる。少なくとも我等はそう踏んでいる。
もしかすると其方達の中には次に戦が始まったらとりあえず参戦する体で、あるいは欠落をしてでも難を逃れようと思っている者がいるかもしれん。
しかしそれは一時凌ぎにしかならぬ。
仮に扇谷や山内が北条に打ち勝ち国を広げても、隙あらば互いにいがみ合う、また配下勢力を御せず、民を戦の道具程度にしか思わぬ彼等では享徳から続く内乱の世がまた繰り返されるだけなのだ。
永久に関東の地から戦を失くす為に……どうか我等の考えに賛同して共に戦ってほしい。武士だけでなく百姓も笑って暮らせる新しい国を共につくり上げてほしい」
氏康はもう一度深く頭を下げた。
再びざわつき出した土豪達からは、思いのほか好意的な声が多く上がっている。
追い打ちをかける様に家来衆側に立つ大熊直元が呼び掛けた。
「なあ皆の衆、知っていよう。
若君様は我等の村を回って施しをして下さった。年貢の改定にも取り組んで下さった。城の普請だって本当なら一年の中で必要な夫役として課されてもおかしくない所を割高な日銭で雇う形にして下さったのだ。それも戦になれば俺達の家族も避難する城の改修をだぞ。
それに俺や中島の様に年若い土豪にも礼をもって接して下さる様な方だ。お主達にもそうだったろう。
あの扇谷の朝興なんぞとは比べるべくもない。本当に付いていくべき主が誰なのか、よくよく考えてみてくれよ」
ざわつきは止まない、どころか大きくなっていく。
土豪達の中で親北条の思いがはっきりと共有される……かに思われたその時だった――
「駄目じゃな。全く話にならん」
太々しい台詞の後、土豪達の中からゆっくり進み出てきたのは何と杖をついた老人である。
氏康は再び緊張した面持ちで身構えた。
「御老人。何か、存念があるならば聞こう」
老人は余裕の笑みさえ浮かべ、しかもいきなり核心に切り込んだ。
「伊勢の子倅殿よ。とどのつまりお主等に付いてこの小沢で生きていくならば、いついつ迄という明確な期限も無いまま扇谷の侵攻を防ぎ続けねばならん、そういうことじゃな」
「それは……」
「この小沢がいつ国境でなくなるのか、あるいは小沢を守り通すに十分な数の兵がいつ集まるのか。我等にとっての肝要はそれじゃよ。乱世を終わらせるなどはそれより遥か先の事。ましてや六年かけて扇谷と一進一退の戦を繰り返し、この小沢はぼろぼろにするぐらいしか出来なかったお主等がどんなに立派な志を持とうが何の説得力も無い」
「……」
「大方小田原の大殿も攻勢をかけるだけの兵を用意出来なくなり、あとは我等をはぐらかす為の屁理屈を息子に授けるのが精一杯だった、そんなとこであろうよ」
子倅と言われて必死に堪えていた定吉が遂に激昂する。
「貴様、若に対する暴言に飽き足らず御本城様にまで……っ」
「やめよ、四郎左」
「何じゃ、欺いた次は力で脅すのか?」
「なッ……まだ言うかッ!」
「四郎左ッ」
普段聞いたことも無い鋭い一声に定吉はたじろぐ。老人は構わず続けた。
「まあ所詮騙し騙され、奪い奪われが常の世じゃ。殊更にお主等を責めるつもりはないがの。
ただ子倅殿のやる事が――」
氏康を見て鼻で笑う。
「一時の施しや馳走、挙句に絵空事と、いかにも大名の跡取りが周りの大人や書物から得た知識でもって政をした気になっているようじゃったから流石に見兼ねての。
中にはそれを真に受ける目出度い連中もいるようじゃが……」
直元と秀方に鋭い一瞥をくれ、声を大にして続けた。
「ここに集まった者達とそれに従う百姓全てがその様な安くて都合の良い存在だなどとは、くれぐれも思わんでもらいたい。
そうであろう、皆の者!」
煽られた土豪達は応えこそしなかったがその瞳には明らかに迷いが生じている。
一方の氏康も口を挟めず、それでも止まらない老人は暴言を重ねた。
「口耳之学、確かそんな言葉があったのぅ。良い機会ゆえ、それに関連してもう一つ教えて進ぜよう。
のう、子倅殿よ。お主が上杉とは違うと言い切る、我等民を重んじる心とやらは一体どこから来ておるのだ。やはり今言った類の他人から教わっただけの字面、上っ面の知識か。それとも噂によく聞く、余所者の伊勢を民に受け容れてもらう為の媚売りか? まあどちらでも構わぬが……いずれにせよ全てが全て軽いのじゃ。
全くもって溜め息が出るのぅ。若い者達の気紛れで伊勢なんぞに与したが間違いの始まりであっ――」
老人の言葉終わりを待たず、拳を握り締めた定吉が踏み出す。
刹那、治郎が体ごと正面に入って抱き止めた。
「離せ、治郎……ッ! 主に対するこれ程の侮辱、礼を弁えぬ者は殴ってやらねば気が済まん!」
怒りに我を忘れたか、かつてない定吉の剛力に治郎は驚きつつ必死で止めた。
「堪えて下さい……っ、四郎左様っ!」
「お主は口惜しくないのかッ、この性悪爺めッ」
「口惜しいですよ、口惜しいですけど……ッ」
氏綱の訓戒がある。ただそれと同時に前半の指摘には頷ける部分が確かにあった。故に治郎は俯いている氏康を案じた。
一方、たじろぐかと思われた後ろの老人も激昂して喚き始める。
「やれるものならやってみよッ! これでもかつて扇谷の先代朝良公に従った立河原の合戦で足軽首を三つ取った身じゃッ、お主の様な猪侍に遅れは取らんッ!」
杖を振り上げ殴りかかろうとする老人を今度は土豪達が止めに入る。
最早話し合いどころでなくなるかと思われたその時、肝心の氏康がぽつりと呟いた。
「どこから来ているとて――」
定吉と老人に気を取られていた皆が振り返る。
すっかり気落ちしていた氏康はおずおずと続けた。
「人が苦しんでいる様を見れば己の心も苦しいではないか」
あっと誰しもが思った。
この様な乱世で何を今更と問いたくなるような、しかし最も根本的な思考に全員が虚を突かれたのだ。
しん、と静まり返った周囲を気にする様子もなく氏康は老人に付け加える。
「いや、其方の言う通り北条が民に必要とされる政をせねば関東に居場所が無いのも事実だ。そう教わってきた。ただ儂が民の為の政をしたいと思う理由とその事とは別儀だ。
……御老人の諫言は耳に痛い事ばかりで碌に反論出来なかったが、せめてそれだけでも分かってもらえると有り難い」
茫然とただ言葉を受けていた老人は はっと我に返り、自身を掴む者達を乱暴に振りほどいた。
「ええい、離せっ」
更に捨て台詞を吐く。
「ふんっ、やはり現を知らぬ若者の甘い戯言よの。
すっかり気が削がれてしまったわ」
老人は何やかんやと喚きつつ一人勝手に帰ってしまった。
すると間もなく、残った土豪達の中で数人が小声で揉め始め、やがて背中を押された一人の男が氏康の前に出てきた。それは何と治郎が酒宴で最初に酒を注いだ持則である。
「あのう……祖父がとんだ無礼を働きまして……。誠に申し訳ありませんでした」
「其方は確か菅生の」
「はい。高田主税助持則にございます。父が早くに世を去り、祖父は長い間当主をしていたものですから未だ当時の気性が抜けておらず……」
「いや、よいのだ。……其方等の窮状を知りながらなお無理を通そうとしているのは我等なのだからな。やや辛辣ではあったが百姓としての本音の一端を知ることが出来て良かった」
持則はすっかり恐れ入って口篭っている。後ろの土豪達も気まずそうに俯く者ばかりで再び氏康に同調する声は上がらない。
氏康は僅かに困り笑いを浮かべ、締めくくりの挨拶をしたのだった。
* * *
だがその晩。
負け戦さながらに落ち込んでいた氏康の元へ更なる凶報がもたらされた。
城の北側に位置する矢野口の数村が扇谷方によって焼き討ちされたのである。これに対し金石斎と長広が兵を率いて向かうも敵勢は素早く撤退。北条側は死傷者への対応をしたのみで何の成果も挙げることが出来なかった。
扇谷側がどこまで計算していたのかはともかく、この一件が百姓達を繋ぎ止めたい北条側にとってかなりの痛手となってしまったことは確かだった。




