37 氏康と百姓 前編
●用語解説
雌雄眼:
左と右の目の大きさが異なっていること。
欠落:(wikiより抜粋)
戦乱・重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること。
闕落とも。
真昼の熱気が和らぎ蝉の声にも気怠さが混じり始めた頃、小沢城にて宴が始まった。なお情勢が情勢であるから二ノ丸、外曲輪で飲む足軽、百姓達に振る舞われる酒は盃一杯のみであり、むしろ彼等の目当ては食べ物にある。
他方、本丸館の広間に集められた土豪、それに氏康以下北条家来衆においては酒の制限は無く、酌の相手をする女達―蒔田の農家や商家の者―まで呼ばれていた。
この末席に座る治郎の目の前にも鮎の塩焼き、ぜんまいの煮付け、玄米飯、茄子の味噌汁といった料理が並んでいる。普段の雑穀の握り飯や雑炊と比べ物にならない馳走に治郎もすっかり心を奪われ、氏康の挨拶が終わるや否、夢中で頬張っていった。
ただ女も酒も家来衆が酔う為ではなく土豪達をもてなす為の仕掛けである。
同輩が席を立ってあちこちで歓談を始めた頃、治郎も料理を平らげ、手持ち無沙汰にしている若い土豪―高田主税助持則―の席へ行って教わった通りの挨拶をした。
「毎日暑い中、御苦労に存じます。今日は楽しんでいって下さい」
「あ、治郎殿。いや、こういう席は不慣れなものだからどうも……」
「私もです。けどこんな御馳走にありつける機会なんて滅多に無いですから、食べられる物は食べとかないと勿体ないですよ」
「はは……、流石に腹が据わっていますな」
元百姓で今は氏康の直臣、かつ最年少で物腰も低い――治郎はこの宴において我知らず潤滑油として機能した。話題も話術も無かったが確かに機能した。
初めこそ愛想笑いだった土豪達も杯を重ねるにつれ気を許し、中には酒を注ぐ女にちょっかいを出したり家来衆と腕相撲に興じる者まで出始める。いつしか彼等は互いの立場を気に留めなくなる程に打ち解けていった。
やがて宴も終わりに近付いた頃、治郎が元いた席に戻り満足気なため息をついていると濃い眉に顎髭の武士が声を掛けてきた。登用試験以来、すっかり顔馴染となった山角四郎左衛門定吉である。
「楽しくやってるかー、治郎! ……ヒック」
「四郎左様。顔が真っ赤ですけど大丈夫ですか?」
「ああ、問題無い。酌をしてくれた娘に抱き付いたら張り手を食らっただけだ」
「何やってるんですか……。
新九郎様も『この情勢であるし今日は接待を旨とせよ』と仰ってたのに」
「いや、その若があまりにもお飲みにならんから注ぎに来る土豪達の方が逆に気を遣う有り様でな……ヒック……代わって杯を受けていたのだ」
「新九郎様は酒が苦手なのですか」
「女子も近付けんし、少し固いのだなあ。当主たる者どちらにも慣れて頂かんと……ヒック。
しかし治郎、お前は全然顔に出ないなぁ。まるで素面ではないか」
「いえ、私も飲んでません。
始まる前に新九郎様から初めての酒は特に気を付けるよう言われたものですから。
前後不覚になっては御役目が果たせないと思いまして」
説明を聞いて定吉は目を潤ませる。そして唐突に治郎の肩を鷲掴みした。
「偉いッ! ……お前は武士の鑑だぁ……」
「何で泣いてるんですか……」
「よし、儂が許すから最後に一杯飲めっ。
宴もそろそろ終わりだからな、何も差し支えなかろう」
「は、はあ。それなら有り難く」
定吉が陶製の徳利を取り、治郎が手にしたかわらけに濁酒を注ぐ。
治郎はとろりとしたその液体を口に含み、ゴクンと飲み込んだ。華やかな香りが鼻へ抜けて強い酸味と辛味が口の中に広がり、同時に胃の腑から熱が溢れてくる。
「どうだ」
「何やら体の芯が熱くなってきました……」
「がっはっは。そうかそうか」
「これが大人の味ですか」
「ははは。
それにしても酒は良いな……ヒック……人と人の垣根を取っ払ってくれる。
宴が始まる前まで兵衛などは若の方針を案じてたが、いざやってみればこの通りだ。連中の顔を見ろ。これだけ飲み合えば十年来の知己も同然だ」
「そう思います」
「これで百姓達の力を借りて扇谷を打ち払えるぞぉ」
定吉につられて頭がぼーっとしてきた治郎は景気良く返事した。
やがて小者達が広間の灯明や蝋燭に火を入れ始める。それを見た吉政が氏康に一言二言囁くと皆の方に向き直り、手をぱんぱんと打った。
「ああ、皆の者。楽しんでいる所、誠に申し訳ないが日も暮れてきた故そろそろお開きとしよう。最後に若に挨拶を頂くので、どうか静粛に、静粛に願いたい。
では、若」
「う、む。……オホン。皆の者、本日は」
氏康は何故かそこで言葉を切り、また言い直した。
「本日はこうして親睦を……ふ……」
「若?」
「親、ぼ……く」
再び口をつぐんだ氏康は吉政が手を伸ばす間もなく、後ろにごろんと倒れてしまった。
「若ッ!」
皆が驚き慌てて駆け寄る。その身を案じる衆目が集まる中で……酔い潰れた氏康は気持ちよさそうに眠っていた。
* * *
結局近習達が氏康を奥の寝間へと運ぶ間に吉政が締めの挨拶をして宴は解散となり、土豪達は荒木兵衛尉長広が先導して外曲輪の大手門まで見送った。治郎と同輩二人もこれに同道している。
その帰り道、治郎は隣の長広に話し掛けた。
「土豪達も満足してくれたみたいで良かったですね」
「若は最後にやらかしてたがな」
「こちらへ来て以来、きっと慣れない仕事の連続で疲れてたんですよ」
平静を装い重圧に耐えていたのかもしれない。ましてや氏康は治郎と同い年の十五歳である。その心労を思わずにいられなかった。
「まあ真面目でひたむきなとこは相変わらずだしよくやってるとは思うが。
ただそれはあくまで北条側からの見方だ。果たして連中がそこまで好意的に評してるかどうか……」
「何やら引っ掛かる言い方ばかりしますね。
そういえば四郎左様が兵衛様は宴に反対だったみたいな事を言ってましたが」
雌雄眼である長広の表情は松明によって陰影を濃くしている。
普段、銭米のやり繰りで『あーっ、もうっ』と言いながら頭をガリガリ掻いてぶつぶつ愚痴っている彼とは何やら様子が違った。
「ふん。
お前、年初めの戦でどうして俺達が扇谷に敗れたか知ってるか?」
「いえ、詳しくは。兵力で負けてたからですか」
「それもあるが何より従軍した百姓の士気が極度に低かったのだ。あいつ等扇谷勢と槍を交えたはいいが碌すっぽ持ち堪えられず逃げ出しやがった」
「……」
「俺や主水、修理の郷村は別だが残り六割は自ら進んで北条に付いてるわけじゃない。襲来の報せを受けるや村を捨て欠落していった者もいる。
連中の平時の愛想の良さをそのまま鵜呑みにして危うく命を落としかけたんだ」
主水は中島主水祐秀方、修理は大熊修理亮直元のことで北条に忠誠を誓う彼等は若いながら土豪達の牽引役を果たしていた。
「では次もそうなる恐れがあると……?」
「あの時より百姓も足軽も少ない。十分有り得る」
「いやしかし……俄かに信じられませぬが……。
普請の際も皆協力し合ってというか、活気づいた良い雰囲気でやってますし」
「他人の心は中々見えないものだ。殊にこの様な土地で長いこと辛酸を舐めてきた者達の心はな」
長広の言葉は重い。治郎は卯吉のことを思い出した。
「その事は新九郎様にも?」
「無論言ってあるが、かえって村の見回りに力を入れる始末だからな。
周囲の者にしても四郎左殿はあの調子だし、右京殿、大藤殿なども基本は若のやりたい様にやらせるつもりでいる。
俺一人が無駄な出費を抑えるよう異を唱えて和を乱すばかりだ」
「そんな事はないと思いますけど……。
そういえば大藤様は目付役と伺いましたが、何か立場が違うのですか?」
「ああ。要するに御本城様としては若に北条の後継者として家臣の目を憚らず堂々とやってほしいのだろう。
だから大藤殿は余程まずい事態でない限り若の判断を尊重する筈だ」
「百姓を信じるか、否かですか。
……ああ、でも結局彼等の力を借りないことには兵が足りないのでは」
「ふん。何も正面から当たるだけが戦ではない。こうして城を改修してきたのもいざという時に籠城する為だろうが」
「まあ確かに」
「若も大切な初陣だが俺とてもう失敗は出来んのだ。
またしても小沢から撤退という最悪の事態だけは避けねばならん」
その強張った横顔からは彼の抱く強い危機感が窺えた。
* * *
それから数日が経過した。だが郷村に帰ってくる百姓の数は目立って増えた様子も無い。改修に加わる人数も精々微増といった程度である。
事態を見て長広は百姓への懸念を氏康に改めて進言した。過去の合戦による人的損失も踏まえつつ、これ以上の執着は得るものが少ないと主張したのだ。だがそれを聞いた氏康はむしろ百姓達との距離を縮めるべくもう一度土豪達に向き合う決意を固め、翌日の作業終わりに彼等を本丸の館前へ集めたのだった。




