35 扇谷上杉朝興 噛みつく
●後書きにおける地図は
『戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ(http://sengokumap.net/)』様の地形図を活用させて頂いています。
●修正検討中
通称が左衛門系と弾正系が渋滞しており
もしかしたら諱で呼ぶようにいつか統一するかも分かりません。
武蔵野台地の北側に二つ川が流れている。その一つ、入間川の沿岸に位置する上戸は鎌倉末期以降、交通の要衝として栄えてきた。対して赤間川はその河原を霊場とし河越に多くの寺社が密集し上戸を宗教的側面から支えてきたのである。
しかし室町中期に入って享徳の頃(一四五七)、そんな両者の関係は太田道真・道灌親子が河越に築城を行ったことで徐々に変化していく。関東公方足利成氏に対抗する防衛拠点だったその城は道灌が整備した街道(現川越街道)と従来の河川流通をてこに門前町を発展させて上戸の人と富も呼び込んでいった。
そして更に時代は下り享禄三年(一五三〇)、今や河越城は太田の主家である扇谷上杉氏から本拠地として用いられるまでになっており、たったこの今も城内東側にある本丸の広間で当主朝興が家臣達と評定を開いている最中だった。
朝興の左には弟の民部少輔朝成、浅羽、曽我、春日、右には家宰の難波田弾正左衛門尉憲重、その妹婿上田上野介政広、三戸駿河守義宜、憲重従兄弟の広行、広宗といった面々が居並ぶ。
それら一同の視線は末席の春日兵庫助行信に集まり、小弓へ使いを果たしてきた報告が行われていた。
「小弓の御所様におかれましては、何より甲斐武田との婚儀、誠に目出度き事であり、両家の縁が深まる事を心より嬉しく思うと御機嫌も良く――」
朝興は堅太りした体を扇であおぎつつ行信を急かした。
「それで、肝心の北条への共闘については」
「はっ……その……」
「何だ。早く申せ」
「は。その……応とも否とも仰られず――」
「……」
朝興は扇を閉じる。平時も膨れっ面に見える暑苦しい顔は梅雨の湿気に縮れた髪と相俟って独特な迫力を帯びていた。
「で。その様な中身の無い返答を儂に伝えるのが役目と疑いもせず、お主は胸を張ってここへ帰ってきたというわけか」
「いえ、決してそういうわけでは。何とか食い下がったのですが御所様は中々取り合って下さらず……」
「……」
朝興は右手に座る別の武士―年に不似合いな白髪を少し混じらせている―をじろりと睨む。
「政広。全くの見込み違いではないか。武田が本腰になれば御所様も再び乗って下さると申したのは其の方だぞ」
「は。ただ小弓様も一筋縄ではいかぬ御方。今しばらく考慮すべく刻を置かれたものと」
「それは結局、大永の折のように御所様の出陣が見送られてしまうという事ではないかっ」
「い、いえ、まだそうと決まったわけでは――」
「大体儂は後家の叔母上をわざわざ平井から引き取るなどと、みっともない真似をするのは気が進まなかったのだっ。なのにそちが小弓様を動かすにはそれしかないと力説するから山内に頭を下げ、その失笑を買ってまで……っ!」
「は。確かにお怒りはごもっともなれど、どうかここは今少しの御辛抱を――」
バチンッと朝興は扇で床を打った。
「思えば昨年から失策続きだな、政広! 安中討伐の引き止め、朝廷外交、それに津久井への内応働き掛けっ」
「は、まったく……弁解の余地もございませぬ」
「……ぁ~、北条から真里谷を離反させた頃がそちの全盛だったか。赤間川に舞う蛍の如き儚い輝きだったな!」
「いや、何とも……。
誠に申し訳ありませんでした。お詫び申し上げます」
深く伏した政広は朝興の大きなため息を聞く。それでもなお低姿勢のまま遠慮がちに顔を覗かせた。
「こうなった以上は再び私の方から小弓様に働きかけます故、どうか、どうかしばしの御猶予を頂きたく存じます」
「……ふんっ。どうなりと勝手にいたせ」
朝興はふてくされたまま、進行役の広宗を促した。
「次」
「はっ。箕輪城の長野、忍城の成田両家から合力の要請が来ている件について御裁断願います」
「ああ、その話か。これは諮るまでもあるまい。どちらにも付かぬ。よいな、弾正」
「はっ。いずれに付いても義を違えることになります故」
扇谷の先代朝良の娘、つまり朝興の従妹は山内重臣長野氏の嫡男業正に嫁いでおり、また言うまでもなく山内と扇谷は北条に対抗すべく同盟関係にある。他方で扇谷は憲政陣営に与する国衆成田氏とも協力関係を維持しており、岩槻城攻防の折にはそれに乗じて謀反した奉公衆の菖蒲佐々木氏を鎮圧してもらっていた。
「うむ。それに成田は久喜の御隠居様(足利政氏)からの信頼も厚いしな。
では次」
「は。続いて大里郡の林野使用権の訴えに関し、広沢氏領本郷村と太田氏領武川村の争いにつきまして――」
外の廊下でどたどたと足音が響いたかと思うと朝興の近習が現れた。
「申し上げますっ」
「何じゃ。評定の最中は急ぎの用でない限り後にせよと言ったであろう」
「それが、津久井の内藤家より文が参りました為……」
「ん……文だと? 見せてみよ。早う」
朝興は憲重から渡された文を食い入る様に読んでいたが、やがて満足そうに目を細めた。
「ふはっ、これは……」
「いかがなされました?」
「当主の朝行が会いたいと言ってきおったわ」
「おお」
「政広、そちにも同席を願うとあるぞ」
「真ですか。
やはり武田に幾度となく領地を荒らされたのが堪えたようですな。いや、こちらの方はどうにか話が進みそうで安堵いたしました」
「うむ、うむ」
そうして僅かな間が空いたが、すぐに朝興は明るい調子で続けた。
「しかしなんじゃ、津久井からの返事が遅かった所為で無駄に政広を責めてしまったではないか、のう。まったく朝行も間が悪い男よな。はははは」
「は……はは。い、いや全ては某の至らぬ故にございまする。
しかしこれで上手くいけば多西の三田や八王子大石等もぐらつきましょう」
「その通りだ。揺さぶりをかけよ」
「はっ、かしこまりました」
「これは小弓様の御出馬を待つまでもなく、戦の機が訪れるやもしれんな。
義宜」
「は」
「石戸の資頼はどうしている。癪だが此度は奴の力も必要となろう。
文では調子の良い事を書いておったが」
「岩槻に未練があるようです。
今ならば石戸の兵のみでも赤子の手を捻るように容易く取り戻せると自信満々な様子でした」
「ふんっ、相変わらずか。
そもそも岩槻は奴が謀反した際にどさくさ紛れで奪った城ではないか。『取り戻す』などと片腹痛いわ」
「まああの、葛西城主の大石石見殿が資頼殿の娘婿ですからな。
岩槻の後は殿山を押さえて葛西北側の兵站を確保すべきであると、そう申しておりましたから助けたいという思いもあるのでしょう」
「どうだかな。
大体あの折武田が和睦を勧めてこなければ、奴の岩槻支配継続を認めたりなどしなかったものを。渋江に我等が恨まれるなど全くの筋違いだ」
「それは……確かにそうですが」
「ともかく今は葛西より江戸だ。
いずれ武田に津久井から相模中郡へ攻め入らせ、同時に我等は世田谷から江戸を攻める。
そうであったな、弾正」
「は。ただ三戸殿の申される事にも――」
「ん……?」
成り行きを危ぶんだ政広が片手で義兄を制し、言い改めた。
「全くもって殿の仰せの通りにございます。
加えて昨今、渋江は古河にも誼を通じている様子。岩槻は扇谷・古河の緩衝地帯としての役目を果たしております。相模の北条を討つことが肝心な今、我等があの城に手を出して何の得がありましょう」
「うむ、そうであろう。
何より久喜の御隠居様が既に渋江を許しているのだ。それで話は終いだ」
三年前、扇谷は渋江が守る岩槻城―公方家の奉公衆でありながら北条に降った為に敵とみなした―を攻めた。
だが窮した渋江は以前の主である政氏に泣き付く。結果、政氏と小弓義明から待ったがかかり扇谷は和睦せざるを得なくなったという経緯があった。
朝興は少し居住まいを正し『よいか、皆の者』と呼び掛けた。
「何度も言っている通り、故無く他国を攻めてもそれは侵略にしかならん。戦とは欲の為にするのではなく誇りの為にするものだ。果たしてそれを蔑ろにすればどうなるか、北条を見よ。相模伊豆を奪ったものの盗人の家などと呼ばれ武士にとって最大の恥辱を負う羽目になったではないか。絶対に我等は同じ道をたどるまいぞ!」
一同が声を大にして承服するのを見、朝興は深く頷く。それから思い出した様に付け加えた。
「そういえば……その盗人の倅が小沢に入ったとか言っておったな。広宗、三百だかの兵が入った後何か動きはあったか」
「いえ、特にこれと言うものは。相変わらず少ない領民と共に城の改修を続けており、また氏康自身は村々の慰撫に回っているようです」
「慰撫?」
「各所を視察し、その不満を聞いたり年貢の改定を協議する等しているようですな」
「無駄なあがきを……」
「大方、民が散った村から一人でも多く兵を募る気なのでしょう」
「それよ、それよ」
「は?」
「禄寿応穏などと宣わっても要はそれなのだっ。そういう口先の……っ!」
朝興は鼻息を荒くし、扇を強く握り込んだ。
「奴等のそういう口先の姿勢が気に食わんのだッ」
「確かに……。しかし上杉が捨てた地を拾うぐらいが奴等には似合いかもしれませんぞ」
「ふむ……盗人の倅は乞食だったか。ふっ……ふはっ……ははは」
「がっはっは」
大笑いする広宗に他の者達も続く。
ただその中で押し黙る憲重が朝興の目に留まった。
「いかがした、弾正」
「いえ。氏綱の子であればさぞ大掛かりな部隊を率いてくるかと思ったのですが。乱波の報告にも別段名の有る武将は入っておりませぬし……」
「そうだな……。どう思う、政広」
「やはり向こうにとっても江戸が防衛、流通の要なのでは……。加えて武田に相当苦しめられているのも確かです。結局小沢にまで手が回らず、仕方なく当主の嫡子を守りに就かせたという辺りでしょう」
「ふむ。だがそれはそれで気に食わん話だな……」
「と仰いますと?」
「氏康はまだ元服を済ませて間もないというではないか。
そんな若造が寡兵でもって前線を守るなどと……要は我等はなめられているのだ」
「……」
朝興は思案する。やがて一つの決断をすると憲重を呼んだ。
「弾正」
「はっ」
「深大寺城にはそちも入れ」
「承知しました」
「小沢の村々の惨状とそれ故に人数が集まらない事を兵に広めて士気を鼓舞するのだ。鍛錬も怠らせるな」
「はっ。しかし攻略目標を江戸ではなく小沢に変えるのですか?」
「そうではない。北条の跡取りがどれ程のものか儂自ら稽古を付けてやるのよ。もっとも氏綱の倅ではその稽古で命を落とす事になるやもしれんがな」
「されど……」
「何だ、いちいち水を差すな」
「城を改修しているという事は守りに入るつもりなのでは」
懸念する憲重に政広が説明した。
「義兄上。それならばそれで氏康自身、己が抱く民への気遣いなどただの自己満足に過ぎなかったと認める事になるだけでしょう」
「……ああ。そういう事か」
「されど殿。内藤、武田の出方次第では本格的な動員をかける事になります。あまり無茶はなされませぬよう」
「分かっている」
静かに応えた朝興の目は何故かそれまでと打って変わり、暗く冷たい光を宿しつつあった。
●地図(1530.5時点)
●騎西城・垂種城を治めた伊賀守流小田氏
(wiki小田氏より)
伊賀守流小田氏。
鎌倉幕府の評定衆、六波羅評定衆・引付頭人、のち鎌倉府の奉公衆となり
享徳の乱の後、騎西城に拠った一族。
本領は陸奥国高野郡 で在名は「高野」だったが小田姓を名乗っていた。
小田顕家、成田長泰の弟で小田顕家の跡を継いだ小田朝興などがいる。
小田顕家(wiki):
騎西城・垂種城の城主。大炊頭。
常陸小田氏の一族とされるが、関係は不明。
(ゆ)
伊賀守流小田氏は1525に奉公衆だった菖蒲城佐々木氏が北条に付いた際
どういうスタンスだったのか。
パターン①
岩槻城の渋江氏の様に、奉公衆ではあるけども高基が頼りにならないなら
北条に付いてでも地位と領地を維持したいと考えていた。
パターン②
奉公衆として高基もしくは晴氏に忠誠を誓っており
菖蒲城の佐々木氏が北条に与した際も
それを鎮圧した山内憲寛の軍勢に味方した。
(ゆ)
→戦の記録が残ってないので1525では憲寛に味方して1530でも奉公衆としての立場を貫いていたと設定します。
●史実年表 (おさらい)と▲拙作設定
1524.1
北条勢が扇谷支配の江戸領へ侵攻。
江戸太田氏
(城代の資高すけたか・資貞兄弟)の内応を得て
江戸城を制圧。
後、稲毛地域(小沢城周辺)とを制圧した模様。
同時に足立郡石戸城主の太田資頼も蜂起。
1524.3
北条は足利家御一家の渋川氏が治める
蕨城を攻略。
1524.6
武田・両上杉軍は河越城へ入る。
以降、河越城が扇谷上杉の本拠となる。
1524.7
朝興は江戸城奪回を図り江戸領に侵攻。
信虎は岩槻城を攻める。
太田資頼は扇谷への帰参を条件に降伏。
1524.8
北条は岩槻城を攻めるが落ちず
十月初めまでには撤退。
1525.2
北条は岩槻城へ侵攻。
▲資頼に降っていた渋江遺臣が城内で謀反。
北条は岩槻城を攻略。
渋江三郎(前年資頼に攻められた渋江右衛門大夫の遺児)を
城主に復帰させた。
資頼は石戸城に後退。
同時期、
菖蒲城の奉公衆金田佐々木氏が北条側に付く。
扇谷は
真里谷武田信清(恕鑑じょかん)に支援を要請。
真里谷はそれまでの北条との縁を切り、両上杉に付く。
扇谷は山内にも援軍要請。
憲房の養嗣子である憲寛(高基の四男春直)が軍を率いて
菖蒲城を攻めた。
▲忍城の成田氏と騎西城の小田顕家が憲寛側で参戦。
後、菖蒲城は落城した模様。
1526.5
扇谷が渋川氏の武蔵蕨城を攻撃。
また小弓公方配下の真里谷武田信清(恕鑑)と
安房里見義豊がこれを支援。
里見方の正木通綱勢は
江戸湾を渡り、石浜・品川近辺に進軍。
1526.6
蕨城が落城。
1527.9-11
扇谷勢が北条の岩槻城を攻めるも落ちず。
▲渋江氏が甘棠院の足利政氏に和睦斡旋を求める。
▲政氏・義明の意向により扇谷・渋江は和睦。
1529.6.18
朝興から京の近衛尚通に文が届く。
二日後、尚通は返書と伊勢物語を朝興に送る。
(佐脇栄智氏の主張)
北条に対抗する為の宣伝戦略の一環として音信したのでは。
1530.1
北条氏宿老の遠山軍は吾名蜆城を攻めるも扇谷に敗北。
朝興はそのまま南進して小沢城、世田谷城を攻略。
更に江戸城を攻めて根小屋を焼き、河越城に帰還。




