34 石巻右衛門家貞 講義『北条氏綱伝 つづく』
●後書きにおける地形図は
『戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ(http://sengokumap.net/)』様の地形図を使用させて頂いています。
●修正報告
33話の後書きの史実年表等において甲斐武田氏の動きを少し詳細に記載しました。
●以下は創作(後書きの内容含む)に際して解説・主張を参考にさせて頂いている方々です。
(黒):黒田基樹氏の主張・推測(以下同文)
(下):下山治久氏
(平):平山優氏(主に甲斐武田氏関連の情報を参考にさせて頂きました)
(伊・板):伊藤潤氏と板嶋恒明氏
(右):youtube動画『右京大夫政元』様(主に上方関連の情報を参考にさせて頂きました)
(上):上州戦国史等紹介サイト『箕輪城と上州戦国史』様
(千):ウェブサイト『千葉一族 房総半島に栄えた桓武天皇の末裔』様
(崎):山崎一氏著 群馬県古城塁址の研究 補遺編上巻
(鬼):ブログサイト『鬼無里~戦国期越後を中心とした資料的検討~』様
(ゆ):ゆいぐ(作者本人)
●用語説明
・弁才天
(wiki弁才天より抜粋)
ヒンズー教におけるサラスヴァティーは川の名前であったものが女神となったもので、手に本や数珠、縄、琵琶、水瓶などを持ち、叡智や学問、音楽の神とされるが、漢訳経典『 金光明最勝王艇』巻第七「大弁才天女品第十五」では、「金光明最勝王経」の護法神として登場し、眷属(従者)を率いて天の伎楽を行なって金光明最勝王経を擁護し、諸病苦等を除く役割を果たすとある。 弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるともあり、これがのちに弁才天が福徳の仏とみなされる根拠となり、川辺に居住するとあったことから、川や湖、池などに祀られるようになった。また、8本の手に弓・箭・刀・矟・斧・長杵・鉄輪・羅索といった武器を持つとあることから戦闘神としての機能もあり、これは日本の『別尊雑記』(12世紀心覚による図像集)や『白宝抄』(鎌倉時代の天台系図像集)にも描かれ、これが宇賀神と習合した竹生島の八臀(8本腕)の弁才天坐像や江島神社の八臀の木造弁才天坐像などに繋がる。
・一町
約109m
「うむ。御本城様はこの状況を打開すべく再び外交交渉に取り掛かる。
結論としては小弓公方義明公の矛先を再び古河公方高基公に向けさせることで北条はこの窮地を脱したのだが、その背景を少し説明しておこう。即ち関東諸勢力に対する高基公の求心力が衰えつつあったという経緯をな」
「……」
「そもそも高基公が古河公方の座を勝ち取った永正の乱において、恃みとしたのが岳父の宇都宮成綱だったという話を昨夜したな。成綱は元々小田・上那須両家と姻戚にあったのだがこの頃更に結城氏とも婚姻関係を結ぶ一方、宇都宮家中で対立を深めていた芳賀氏等を謀殺や合戦によって降し一大派閥を築き上げた。
永正の乱後期、東関東においてはこの宇都宮氏派閥と下総千葉氏―配下勢力に原・高城、臼井等がいる―が高基公の陣営を形成していたわけだ。
だが高基公が三代古河公方に就任した四年後(一五一六)、この宇都宮成綱が没する。
これにより、成綱に圧伏させられていた重臣芳賀氏―永正の乱で政氏に付き、当主高勝が成綱に謀殺されており、その弟高経が当主に就いていた―が権勢を取り戻し、自ら擁立した当主忠興とも対立を深めていく。そして更には結城氏もこの芳賀氏と結び宇都宮に敵対。遂には忠綱が猿山合戦に負けて本拠宇都宮城を追われてしまう(一五二三)。以降、宇都宮家は年若い興綱が傀儡当主に据えられた。一方忠綱は重臣壬生氏の鹿沼城に退き、高基公に連絡を取りつつ宇都宮城への復帰を目指したが叶うことなく没している(一五二七。壬生氏もこの前後に芳賀氏側に転向)。
なお上那須家は家督争いをきっかけとして下那須家によって滅ぼされ(一五一六)、また小弓で義明公が立った(一五一八)直後に臼井、後に小田、最後には下総千葉家までもが小弓陣営に鞍替えしてしまった(一五二七)。
こういう経緯で高基公に付き従う主だった外部勢力は上野山内、乱後期以降に付き従った下野小山、上総庁南のみとなってしまったわけだな」
「ふむ……ふむ……」
「また先程話した小弓公方家と山内の縁組についても一つの見方が出来る。確かに北条包囲網の形成という点においてはある程度頷ける所があるものの、古河・小弓の対立という点から見れば半永久的に高基公は山内の積極的支援を得られなくなったわけで、つまりそれを止められない程に高基公の影響力が弱まっていたのではないか、とな」
「なるほど……。山内憲寛は父である高基公を見限ったんでしょうか?」
「ふむ。それに対する回答も含めて山内の状況も話しておこう。
先程北条が山内配下の惣社長尾に対して内応工作を行ったと説明したが、惣社が靡いた理由の一つに長野氏の台頭がある。この長野氏は山内・長尾の下で上野西部の豪族を取りまとめてきた家なのだが、(白井)長尾景春の乱や永正の乱(惣社が顕実に与して敗北)を経て白井・惣社が衰えたのと対照に力を付けてきていた。惣社・白井は領土的にこの長野と隣接していたし、山内憲房を継いだ憲寛も長野を頼みとしており、そういった事から国外に支援者を求めていったという背景がある。そして惣社は北条だけでなく、白井と共に越後長尾にも通じたのだ。だがこれらの企みは露見し、越後長尾も山内と和睦してしまった。その後、長野氏に居城蒼海城を攻められた惣社は越後長尾の仲介を得て降伏、白井も長野と縁組をさせられて決着が着く(一五二七)。
ここに先程話した武蔵南西部国衆の北条への離反も踏まえると、大永六・七年(一五二六・七)当時の山内の苦境が分かるだろう」
「な、何とか」
「つまり当主憲寛としては山内に差し迫る北条の脅威が最優先課題だったわけで、公方家も内輪揉めをせず外敵の排除に共闘してほしいという辺りの事を考えていたのではないかと思う」
「なるほど……」
「そして御本城様はこの弱っている古河公方高基公を今こそ降す好機と小弓の義明公の野心を焚き付け、その矛先を北条から逸らすことに成功した。こうして北条と小弓公方家は和睦し、義明公は下総関宿城へ向けて侵攻する(一五二七・九月)。これに対し高基公の姻戚・筆頭重臣にして関宿城主の簗田高助が迎撃に応じ、両勢は名都借周辺で衝突した。簗田氏は意地を見せ、どうにかこれを撃退している(一五二七・十一月)」
「おお……」
「しかしだ。古河・山内両家ではここから更に内乱が勃発する。
古河では高基公の嫡子晴氏公が元服したのだが(一五二八・十二月)、それから間もなく晴氏公は下野の宇都宮・芳賀と結び宇都宮城へ移座してしまった。これに乗じようと小弓公方や政氏公は親和的な態度をとっている。対する高基公は小山氏の協力を取り付けて完全に敵対した」
「政氏公と高基公が繰り広げた争いを、今度は高基公と晴氏公が繰り返すんですか……。やはり外交の方針の対立があるんですか」
「今のところ確かな事は分かっていない。現古河公方が関東管領や小山と結び、古河公方嫡子が宇都宮と結ぶ構図は永正の乱と同じだが……。あるいは晴氏公が宇都宮を牛耳る芳賀・壬生、それと組む結城辺りに担ぎ出されているのか。晴氏公としても高基公が公方となってからの古河家の凋落に思う所があるだろう。まあ幾つかの可能性が考えられるな」
「ふむ……」
「もう一つの山内の状況を説明しよう。こちらでは享禄二年(一五二八・一月)に白井長尾家の当主が同族の者に殺害されるという事件が起き、その後継者選定や別件―山内配下の安中氏討伐決定(八月)―において長野氏が主導的に話を運んだ為、これまでの事も含めてその台頭を嫌った小幡氏(山内家臣)らが憲房の遺児憲政を擁立(一五二九・九月)。憲寛・長野方業・業正親子・高田対、憲政(6歳)・小幡・安中・藤田・用土・成田という抗争に発展してしまっている」
「ええと……。と、ともかく北条にとっては好機ということですか」
「そう言いたい所なのだがな。北条は昨年、小沢方面の国人達(大熊・中島等)に内応工作を仕掛けてこの地域を取り返したのだが、その報復とばかりに扇谷の朝興は三田領の吾名蜆へ侵攻し、築城を行った。これに対し年明け早々、北条もこの吾名蜆城を攻めたのだが撃退され、その敗戦を皮切りにまたしても小沢城、更には世田谷城までもが攻め落とされ(城主吉良氏はもう一つの拠点蒔田城に移動)、挙句江戸城下を焼き討ちされている。
またこの扇谷の動きと連動するように甲斐武田が津久井へ侵攻、房総の真里谷・里見も義明公が斡旋して成った和睦を破棄し、江戸湾で再び略奪等の敵対行為をとるようになっている」
「ああ……こないだ新九郎様と孫九郎様が話していたのはそこら辺の事なのですね」
「現在若君が城主を務めるこの小沢城は一連の合戦の後、朝興が兵を退いた多摩川南岸において再び北条が押さえたという経緯がある。それも覚えておけ」
「はい。
それにしてもすっかり複雑な情勢になってますね。義澄公・義稙公の陣営に分かれてた時代の方が幾分理解し易かった気が……。そういえばもう上方の情勢は昔程気にしてないんですか?」
「いや、そちらも情勢の推移を見定めている最中だ。
上方では義稙公が細川高国と対立して京を逐電した後、その跡を継ぐ血縁者がいなかった事もあり高国は義澄公の遺児義晴公を第十二代将軍に擁立している(一五二一)。その後高国主導の新政権がしばらく安定して運営されたこともあり、関東の諸侯にも義晴公を将軍とする認識が浸透した。
だがその後、大永六年(一五二六)の細川家中の内部抗争をきっかけに、義稙公のもう一人の遺児義維公を担ぐ四国勢が畿内へ侵攻する。戦に敗れた義晴公と高国は近江朽木へ落ちていった(一五二七・二月)」
「それではまた大名達が二つの陣営に分かれて争うことに……」
「うむ、ただ今のところ覇権争いに加わっているのは畿内・四国の一部の勢力だけだ。曲がりなりにも義晴公と高国は六年近く幕府を統治し、朽木にも伊勢宗家を含む奉行衆・奉公衆等が同行して御所の職務(諸人から持ち込まれる訴訟の処理等)を続けている。一方で義維公は義稙公の家臣を継承し澄元の嫡子晴元や三好氏と組んでいるとはいえ、朝廷外交が疎かな為にその心証が悪く、また両公の和睦を望む勢力とそれによる内部抗争を抱える故に未だ京へ入れていない。
少なくとも今はまだ将軍家対反乱勢力という構図なのだ。
その為、関東の主だった諸侯も変わらずに義晴公を現将軍と認めて関係を維持している」
「ふむふむ……」
「まあそれは単に忠義からというより、献金をして偏諱や官位の推挙を得るという目当てがあるのだがな」
「もしかしてそれらも支配の正当性を獲得する為に必要なのですか」
「家中や領民からの求心力を高める(正統性)という意味でな。
殊に官位は鎌倉より遥か前、律令制の頃より朝廷が管理してきた権威の象徴だ。職権を伴わなくなった今の世でもその効力は失われていない。御本城様も昨年、幕府ではなく近衛家を頼り従五位下左京大夫に任ぜられた」
「ああ、そう言えば栄様がその様な名乗りをしてました」
「う、うむ。
ちなみに同位の官職を既に得ている扇谷・武田への対抗、加えて鎌倉北条氏の任官をなぞっていくという意味合いもあるのだ。それも頭の片隅に入れておけ」
「なるほど……」
「そう言えばお主の前の名である『治郎兵衛』も……」
「ん?」
「……うむ。まあお主なら別段支障はないか」
「何ですか?」
「いや、気にするな」
なおも疑わしそうに見る治郎に構わず家貞は咳払いを一つした。
「ともかくだ。上方が注視すべき状況にあるのは確かだが、北条家も少しづつ確実に力を付けてきている。いずれは上方の情勢にも左右されない関東の要の国となれるよう、我等が力を尽くしていかねばならんのだ」
「ううむ……」
家貞は小さく息を吐く。それから文机に両手を置いた。
「さて。今の段階でお主に伝えておける事はこれで全てだ」
「おお……、やったー!」
「喜ぶな。
まあその……なんだ。
面接の折にお主が言っていた問いの答えには足らぬだろうがな……」
「問い?」
「『納得できるだけの理由』。確かその様な事を言っておったではないか」
「あ……」
「これまで聞かせてきた先代早雲公・御本城様と家中の者達によって積み上げられた伊勢・北条の事績は今後お主が武士として生きていく上で道を探る手掛かりになろう。殊に戦場に立つ前に己の中でよく咀嚼してみるといい」
治郎は、はっとした。
「それでわざわざ昨夜遅くから講義をして下さっていたのですか……」
「肝心の内政に関しては全く話せなかったがな。禄寿応穏の方策を学ぶ気があるならば生きて戻ってこい」
「右衛門様……」
治郎は文机から下がり、深く辞儀をした。
「どうも有り難うございました」
「役目のうちだ。大仰に考えるな」
家貞は横を向き、ふんと鼻を鳴らした。
* * *
日も傾き薄闇が辺りを覆い始めた頃、治郎は二ノ丸蓮池門の通りに面する蓮沼へとやって来た。
二町弱に及ぶ広い水面には蕾を膨らませた蓮の群生がぽつりぽつり見え、その中央に草木の茂る浮島があった。その緑に守られて佇む社に向かうと治郎はしばし手を合わせた。
やがて目を開ける。
そうして長屋へ帰ろうとしたところ、門の方から糸乃がやってきた。
「あ、治郎殿」
「どうも」
「ここにいらしているということはもしかして明日、小沢へ向かうのですか?」
「はい」
「そうですか。在竹も父は行けませんが、家中の者達が大藤殿の率いる隊に組み込まれて同道します」
在竹は京都時代から伊勢家に従い、御由緒六家として大道寺・多目等と並んで称される程の家柄だが、現在は当主摂津守綱維(糸乃の父)が病を患い、嫡子の彦六も年少の為に大した奉公も出来ずにいる。という話を治郎は糸乃から聞かされていた。
「ああ、それで糸乃様もここへ」
「ええ。夕餉の支度を早めに済ませて来ました」
糸乃は水辺に立ち、浮島の社に向かって手を合わせる。治郎もまた手を合わせた。
途中で治郎が何度か薄目を開けては瞑り、それからようやく参拝を終えて糸乃が尋ねた。
「しかと念じましたか?」
「普段からあまり信心深い方ではないので……。こういう時だけ拝んでみても今一つ手応えがありません」
糸乃は吹き出した。
「もう。手応えなんて誰にもあるわけないでしょう」
「困ったものです」
「それはこっちの台詞です」
糸乃は仕方なく笑う。だが治郎は、ぼそりと言った。
「しかしどうなんでしょう。弁天様に手を合わせてみても仕方ないのかもしれません」
「え……?」
「人を殺める罪というのは、どの神様が許して下さるんでしょう」
「治郎殿……」
糸乃が夕闇に目を凝らしてもその表情は見えない。
言い掛けた言葉を飲み込み、糸乃は別の提案をした。
「これからというわけにはいきませんが、今度また菩提寺の以天様を訪ねてみましょうか。何か力になって下さるかもしれません」
「以天様に……」
「ええ」
「……ああ、そうか。それは良い考えですね。
でも糸乃様も一緒に来てくれるんですか?」
「はい。お邪魔でなければ」
「邪魔だなんて。是非お願いします」
「ふふ。では小沢から戻った後に必ず」
「必ず、ですか」
「必ずです」
糸乃の真っ直ぐな目を見ながら治郎は先程の家貞の言葉も思い出していた。
「違えぬよう頑張ってみます。
糸乃様の笛もいつか聴きたいですし」
「……! それは……必ずとは限りません」
「あ、ずるい」
「ずるくありません。いいのです」
「え~……」
「さあ、もう戻りましょう。治郎殿も明日に備えてゆっくり体を休めないと」
踵を返す糸乃に不満を言いつつ治郎も続いた。
* * *
翌朝、治郎は山角四郎左衛門定吉を大将とする軍勢―北条・山角・大藤・清水・在竹の五家から成る三百弱の兵―に加わり橘樹郡小沢城へ向け出発した。
●参考地形図
●上野諸侯の居城
平井城:山内上杉氏
勧農城:足利長尾氏
白井城:白井長尾氏
蒼海城:惣社長尾氏
箕輪城:箕輪長野氏
厩橋城:厩橋長野氏
安中城:安中氏
国峯城:小幡氏
花園城:藤田氏
新田金山城:岩松氏・横瀬氏
※惣社城は慶長年間の築城とのこと。
●下野諸侯の居城
福原城:上那須氏
烏山城:下那須氏
壬生城・鹿沼城:壬生氏
●下総諸侯の居城
本佐倉城:下総千葉氏
臼井城:臼井氏
栗ヶ沢城:高城氏(小弓落城の後に原胤清が避難中?)
●史実年表等
※間違っている可能性もあるので注意して下さい。
1525
将軍義晴が京に新たな御所を造営する為
費用の上納を各国に要請。
越後の長尾為景がこれに応じた。
為景はこの頃から、幕府の要人に金品を贈っている。
1526
越後では為景配下国人の中条藤資の子牛黒丸に
北信濃高梨政頼の娘(為景の姪)が嫁ぐ。
ちなみに藤資の正室は高梨政盛の娘。
1526.秋
(崎)
草津で越後長尾が白井・惣社に協力すると約定。
(wiki)
1524時点で通じていた模様。
1527
(黒:『中世関東武士の研究 北条氏綱』より)
下総千葉氏が小弓の義明に帰属するようになっていたと推測される。
(千)
1532辺りに下総千葉当主勝胤が重病の時に
嫡子昌胤から高基にそれを知らせる書状が送られており
高基が二階堂氏から豊前氏(千葉の取次担当か)へ
「話を聞いて驚いたが快方に向かうようよく療養に努めよ」
的な書状が出されている。
(ゆ)
享禄の乱も終戦し、遣り取りがなされたのだろうか。
甲斐では信濃国衆の伴野氏(小笠原氏の支流)が
信濃佐久郡の国衆を糾合した岩村田大井氏に押され
甲斐へ亡命。
長野氏が惣社顕景を攻めて降す。
(ゆ)
白井景誠はこのタイミングで
長野業正の姉を正室として娶らされたと設定する。
1527.5
武田は信濃佐久郡に出陣。
翌月に
大井側は伴野氏と和睦し、伴野氏は佐久郡の本領に復帰した。
伴野氏は所領の進呈を申し出たが、信虎は事態。
信虎は信濃善光寺に参詣した後、帰国した。
同じ頃、信虎は今川氏輝と和睦。
寿桂尼の判断によると思われる。(平)
1527.9-11
小弓公方足利義明が下総関宿城方面へ侵攻。
迎撃に出た高基側が名都狩要害(現千葉県流山市)を攻略。
同じ頃
扇谷勢が北条の岩槻城を攻めた模様。落ちず。
なお
義明から北条へ参陣要請があった。
(黒)
1527後半以降、しばらく北条は小弓公方側として活動していく模様。
武田の目は信濃に向き、今川と和睦した。
山内上杉も、義明が高基を攻め始めると
高基支援に回り
扇谷への援軍を出すことが出来なくなった模様。
1527.10
上方では義晴が
高国・尹賢・六角定頼・朝倉宗滴等の軍勢を引き連れ
京を奪還。陣を一新。
伊勢貞忠・貞能親子(兄弟か)や貞辰等も義晴に従っている。
伊勢貞辰:(wiki)
伊勢貞国の子に貞親・貞藤・早雲母がいる。
その後の世代は
貞親―貞宗―貞陸―貞忠
貞藤―貞職―貞辰
早母―早雲―氏綱
となっている。
つまり貞辰から見ると
氏綱・貞陸は又従兄弟。
1527.11
義維派の三好元長・畠山義堯や丹波勢等が入京。
その後散発的に小競り合いが京で行われる。
京の治安悪化。
和睦の噂があると公家日記有り。
1527.12
(崎)
白井長尾景誠が
惣社顕景から為景への書状の信書において
長野氏に対処すべく
越後長尾に越山を切望する旨を伝えている。
1528
義晴派の高国・尹賢は京奪回を試みるが
義維派の晴元に敗れる。
敗戦を期に尹賢は晴元側に寝返る。
甲斐では武田信虎が信濃諏訪攻めを行うが
諏訪頼満に敗退。
長尾為景は将軍義晴から
毛氈鞍覆と白笠袋の使用を許可される。
(西)
これらは守護の身分指標となるもの。
また為景嫡男が義晴から『晴』の偏諱を拝領し
晴景と名乗っており、これらを踏まえると
為景は幕府に対して自らを国主として認めさせたと言える。
(wiki)
叙爵して信濃守となったことも含めて
京都の将軍と直結して家格を上昇させ
越後守護上杉氏とは異なる「長尾」という新たな家を作り上げることで
守護の権威からの自立を図ったものと言える。
(サイト『Sightsinfo Project』様による解説より)
毛氈鞍覆と白笠袋の使用許可に関しては
飯田興秀(大内氏被官)、桑折貞長(伊達氏被官)、松浦隆信(肥前国人)等
家臣・国人クラスでも許可されているので
これのみをもって国主認定されたとは言えない。
室町時代の故実書にもこれらの許可は
将軍・公家や「大名と随分の衆」になされるとある。
「随分の衆」は頼りになる有力者という意味。
ちなみに
毛氈鞍覆:
引馬(行列の先頭の馬)の鞍に被せる毛氈。
毛氈:
獣毛を固めて作ったフェルトのような敷物の覆い。
白傘袋:
衣傘(絹を張った長柄の傘)を入れる白い袋のこと。
甲斐武田氏は徳政令を発している。
1528.1
義維派の三好元長が東寺に滞在する義晴を訪れ、面会。
だが、後々関係が悪化。
義晴は朽木稙綱を頼って朽木に落ち延び
若狭の武田元光らの支援を得て
堺公方の義維(元長らが擁立した)と対立。
奉公衆・奉行衆・女房衆・昵懇公家衆など
幕府を支えた人々の多くは朽木に従う。
1528.3
和睦交渉が進まない中
朝倉宗滴軍(義晴側)が帰国。
三好元長(義維側)も四国へ帰国。
1528.5
和睦決裂となり
高国配下の摂津衆が義維・晴元側へ寝返る。
堺にいた晴元勢が
義晴への崇敬を約したとの噂が公家日記にあり
高国が孤立していた可能性有り。
高国・尹賢は近江へと落ちた。
月末には義晴・六角定頼も近江へ没落。
京都はまた将軍不在に。
義晴の将軍としての職務は続けられる。
他方
堺の義維は
後奈良天皇が即位式への援助を期待して
左馬頭に任官するも
積極的に援助をせず、上洛もしなかった為
朝廷はまた義晴寄りとなる。
(右)
義晴の方が朝廷の儀式・儀礼を
しっかり理解していたように思われる。
京都は
晴元配下の柳本賢治が暫定的に統治。
後、三好元長と主導権争いに発展していく。
1528.7
晴元首脳部は
三好元長に付き
元長を下山城守護代に任命。
元長は京へ。
柳本賢治は京を去り、各地で転戦していく。
1528.8
武田は金刺昌春の帰国援助を大義名分に
信濃国諏訪郡への侵攻を開始。
迎撃に出た諏訪頼満・頼隆親子と
境川で合戦、武田が優勢だったが
夜襲によって諏訪が勝利を収める。
武田は諏訪から撤退。
義晴は後奈良天皇に改元を執奏。
享禄に改元。
1528.9
義晴は朽木谷へと落ちていく。
また軍記物の情報になるが
高国は朽木・伊賀・越前・播磨・備前・出雲
等へ移り支援者を探していた。
義晴・晴元に和睦の動きが出る中で
和睦斡旋の主導者柳本が高国に兄を殺されていた為
高国は蚊帳の外にされていた模様。
高国は
播磨・備前・美作に支配地を持つ
備前守護代の浦上村宗と共闘していくことになる。
1528.12
古河公方足利高基の嫡男春氏が元服。
(上杉家文書より)
高基から山内憲寛から山内家宰長尾憲長(足利長尾当主)へと
指示が伝わり、憲長が越後長尾為景に交渉し
越後長尾が将軍義晴に、偏諱を請い
(ゆ:金品を贈ったということだろうか)
春氏が『晴』の偏諱を受けるに至った。
この後、山内憲寛から高基へ金三千疋
晴氏へは二千疋が贈られている。
また加冠の経費一切は越後長尾がもったとある。
(ゆ)
晴氏は20歳なので元服としては遅い。
100疋=1貫
1貫=10万円(拙作設定)
3000疋=300万円となる。
(鬼)
この12月
為景嫡男の道一丸も義晴から
『晴』の偏諱と弥六郎の名乗りを与えられ
弥六郎晴景と改名する(19歳)。
(wiki)
それ以前の段階で越後守護上杉定実の猶子となり
その娘を正室として
定景を名乗っていた。
※幕府からの御内書では道一と呼ばれている。
柳本賢治は京都統治権の奪還を目指し
山崎へ出陣するが三好元長に敗北。
1529
(黒)著『北条氏綱』より
里見義豊が安房の鶴谷八幡宮修造の折、棟札に
古河公方当主として晴氏の名をあげており
高基・晴氏間で抗争が始まっていたこと
里見氏が晴氏側に付いていたことが
見てとれる。
また里見氏の動向からその頭目小弓公方義明も晴氏側に付いていた
と思われる。
※(ゆ)
本書には『鶴峰八幡宮(館山市)』とあるが鶴峰八幡宮は市原市・富津市所在であり、鶴谷八幡宮が館山市所在である事から誤記と思われる。
(横)
この棟札では晴氏を鎮守府将軍と呼び
公的権威の源泉たる関東公方の為に
祈願をした旨を書いている。
里見氏はこの鶴谷八幡宮においては
他の寺社と異なり、自家の為の祈願は行っていない。
ちなみに1508では政氏の為の祈願を行っている。
(ゆ)
棟札に義明ではなく晴氏を最高権威者と仰いでいる。
小弓公方はあくまで自称なので
晴氏を選んだのだろうか?
棟札:(wiki)
寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念として
棟木・梁など建物内部の高所に取り付けた札。
書かれる内容は築造・修理の目的を記した意趣文や
その年月日や建築主・大工の名・工事の目的など建築記録だが
関連して他の事に及ぶものもある。
(黒)
祖父政氏・宇都宮興綱・芳賀次郎(高綱か)・成田親泰・足利基頼等が
関与していた模様。
とりわけ政氏・基頼がいずれの陣営に属していたかは不明。
享禄の内乱:
残存資料があまり無い模様。
(wiki 享禄の内乱より。推定入ると断りあり)
高基派:小山小四郎(政長嫡子)
晴氏派:足利政氏・宇都宮興綱・芳賀次郎(高綱か)
憲寛(高基四男)派:長野(方業?)・高田憲顕
憲政(前管領の憲房実子)派:安中・小幡(顕高?)・藤田業繁・用土業国・成田親泰・里見義豊・上杉朝興・(足利義明)
注釈にて
(黒):興綱は晴氏派
そのほか諸説有り。
(ゆ)
里見の名はあるが真里谷氏の名は出ていない。
足利基頼:(wiki)
生誕年不明。1513には元服していたと推定されている。
高基の弟。
高基・義明の対立では高基側に付き
高基・春氏の対立でも高基側に付き、1529頃も高基側。
(ゆ)
芳賀高綱は宇都宮興綱を擁立した芳賀氏一族だと思うが情報無し。
なお晴氏が宇都宮城へ移座した時期は不明。
1531.6には帰座を検討している。
また上野国新田金山城では
岩松家当主の昌純が
家老横瀬泰繁の専横を排すべく
挙兵を試みるも事前に露見して、泰繁に討たれた。
泰繁は昌純の子(異説あり)氏純を擁立。
この抗争は山内家の内乱に連動したものだったと考えられる。(黒)
岩松氏:
足利氏の支流だが、鎌倉時代初期の親子喧嘩をきっかけに
当主の母方である新田姓を名乗るようになり
以降、新田岩松氏で通っている。
他方、扇谷上杉朝興がこの1529年中に
北条方の勝沼国衆の三田政定の領地
武蔵高麗郡吾名(現埼玉県飯能市)に進軍。
吾名蜆城を築城。
上方では
元長は傍流の三好政長らと対立。
元長が高国と和睦を図ったことで、晴元が不満を抱き
憤慨した元長は阿波へ下向。堺公方府の軍事力が低下。
高国が浦上村宗と結託して挙兵。摂津へ侵攻。
堺公方府(義維側)は劣勢に。
(ゆ)
ちなみに(黒)著書において
享禄の内乱と北条氏の関わりに関して特に記述は無い。
(ゆ)山内の家宰長尾氏の内乱に至る概略(崎・wiki参考)
(長尾氏は足利・白井・惣社・惣社庶流の高津がいる)
家宰職は永正の乱(1506.4-1518)で
顕実側に付いて敗北した惣社から足利(景長)に移ってしまう。
これを恨んだ惣社(顕方)は長野氏の台頭もあって
北条に内応し謀反を企てる。
(越後長尾にも白井・惣社が通じる)
しかし1524に高津(顕景)に攻められ
惣社当主の座を奪われる。
(黒:憲房が顕方を追放し顕景を惣社当主としたと主張)
だがこの惣社(元高津の顕景)もまた北条に内応。
ただ結局この内応も失敗し、山内に帰参を願い出る。
白井(景誠。景春の乱の後に憲房に帰参した景英の子。景春の孫)が
これを取りなすも長野氏は許さず。
他方、結局越後長尾は山内と和睦し
長野が惣社(蒼海城)を攻め
長尾越後の仲介で惣社は降伏(1527)。
惣社(顕景)は当主を幼い実子(顕孝)に交代。
ちなみに家宰職はそのまま足利(憲長)が継承し続けている(1524に父景長より継承)。
ちなみに1529時点では白井当主(景誠)は22歳。
そういう状況だったので
長野が白井・惣社を凌ぐ力を持ち始めていた事が窺われる。
(wiki:長野氏は享徳・景春・長享の乱で力を付けていった)
1529.1
山内上杉方で白井長尾景誠が
同族の長尾八郎に殺害される。
白井長尾の家督をめぐって紛争が起き
箕輪長野業正が収拾に当たる。
惣社長尾顕景の三男憲景(18)が白井に養子に入り
白井長尾の家督を継ぎ
家宰である足利長尾憲長(26)の娘を妻とすることで決着する。
(wiki:箕輪長野・惣社・足利長尾が協調して解決に当たった模様)
1529.6
扇谷上杉朝興が京の近衛尚通に接近を図り書状を送る。
初信であった模様。
甲斐では都留郡の小山田氏が税の徴収を拒否した為に
信虎は都留郡への
路次封鎖(経済封鎖。荷留)に踏み切っている。
対立の原因は北条から小山田氏へ調略が行われた為とも。(黒)
穀物の高騰や富士参詣の道者の関銭が大幅に減った模様。
1529.8
山内上杉当主憲寛が
家臣安中氏(上野国碓氷郡安中城)の討伐に出る。
背景に箕輪長野と小幡・安中の対立があったと思われ
憲寛が箕輪長野家を支持した為に行われた模様。
山内と同盟中の扇谷上杉朝興が制止するも聞き入れず。
朝興は出家して道興と名乗る。
(和睦周旋に失敗して出家は顕定もやっていた)
ちなみに朝興の嫡子朝定はこの時、4歳。
北条はこの頃から近衛尚通との交流再開。
1529.8-1530.3の間に
氏綱に対して従五位下・左京大夫への任官が行われた。
1529.9
西上野の山内家臣小幡顕高らが
前代憲房遺児の竜若丸(憲政)を担ぎ叛乱。
顕高らは憲寛が在陣する安中陣を攻撃。
憲寛は敗北して箕輪領の程田(現群馬県高崎市)に後退。
これに箕輪長野氏が従っている。
ちなみに
小幡に隣接する高田家は憲寛方。
武蔵花園城の藤田家は竜若丸方。
といった具合に山内家中の
上野・武蔵の家臣を巻き込み、山内上杉は内乱となった。
小幡顕高:小幡憲重の父。
1529.11
小山田氏は当主母方の縁を頼り
駿河瀬名氏から今川氏へ働きかけ
武田からようやく路次封鎖を解除してもらった。
小山田氏は武田に帰属することを誓った模様。
1529.12
江戸城代遠山直景が吾名蜆城の攻撃に向かう。
1530
朝廷は義晴を権代納言に昇進させる。
和睦の話が進みつつあり
義晴の帰京を期待しての昇進だった模様。
地方の大名も義晴との関係を維持し続ける。
扇谷上杉朝興の斡旋で、山内上杉憲房の後室(朝興の叔母)が
武田信虎に側室として嫁ぐ。
(wiki 丸鳥氏主張)
これは武田・扇谷間の結び付きを強めた。
(ニコニコ大百科)
扇谷は山内が頼れないので武田を頼った。
越後では上条定憲による抗争が勃発する。
ちなみに定憲は1513の上杉定実の謀反にも加担していた。
中条氏初め揚北衆は為景に付く。
(wiki)
定憲は上杉定実の兄弟とされる。
(鬼)
ブログ内記事「上条上杉氏の系譜1」において
上杉清方の息子に定顕・房実(定実父)・房定(房能父)がおり
定憲は花押の類似性から定顕の息子の可能性があると主張。
(ゆ)
(鬼)・wiki近世上杉氏系図に沿って当てはめるなら
定憲は為景正室の兄弟ということになる。(拙作で採用、設定)
(wiki)
揚北衆(越後北部の国衆)は
中条、本庄、新発田、竹俣、黒川、色部、鮎川、水原、大見安田氏等がいる。
各勢力の動向は未調査。(ゆ)
1530.1
北条氏宿老の遠山軍は朝興軍に敗北。
朝興はそのまま南進して小沢城、世田谷城を攻略。
更に江戸城を攻めて根小屋を焼き、河越城に帰還。
また朝興からの要請で武田信虎が甲斐郡内猿橋に出陣。
以降、武田と小競り合いが続く。
1530.4
氏綱は甲斐郡内に侵攻。
武田に従う小山田信有と矢坪坂で合戦して勝利。
北条勢は帰国。
●鎌倉北条氏と小田原北条氏
平貞盛の子①維衡(伊勢平氏の祖)の
孫α季衡の子孫に伊勢宗家・小田原北条家がおり
孫β正衡の子孫に清盛がおり
平貞盛の子②維将の子孫に鎌倉北条家がいる。
これらの系図がそのまま事実ならば、小田原北条家と鎌倉北条家は同族となる。
(もっともそれを言い出したら全て同族になる)
ただ
鎌倉北条家が維将の子孫であるかについては
諸説あるようで、詳細はwikiを参照されたい。
維将の孫直方の子孫か否かという疑義や
北条の嫡流ではなかったとする説等もある模様。
●1527以降の小弓公方・里見・真里谷の動向に関して
(黒)
北条が義明陣営に属した時点が、この1527後期であったかに関しては
この時期ではないだろうかという推論にとどめている。
ただ1534初め頃まで、北条が義明陣営に属していたことは確認済で
扇谷も北条と争いつつ義明陣営に属していた断定。
また
1527~1529位までにおいて
北条の軍事行動について明確な事は知ることが出来ていないが
断片的な情報は存在する、と記述。
(伊・板:
1527-1529にかけて北条氏関連の記録に大きな欠落がある)
(ゆ:
黒田基樹氏著『中世関東武士の研究 北条氏綱』記載の
氏綱文書目録で1520以降、記録が無い年は1523,1528,1529,1530
なので、三氏はそれを言っているのだろうか?)
ともかく
この義明・北条の和睦により、義明陣営(里見・真里谷)が
扇谷を支援することはなくなったと断定。
つまりは
義明が北条と和睦した1527に
義明に属する里見・真里谷も北条と和睦し
包囲網の東側は崩れた、という認識。
(wiki)
wiki北条氏綱:真里谷・里見が義明に従い北条への敵対をやめたという見方は、あくまで一説。
wiki真里谷恕鑑:義明は恕鑑へ北条との融和を打診したが、恕鑑は拒否した。
wiki足利義明:小弓擁立の後、恕鑑と対外政策で対立し、その死後継争いに介入した。
※wikiに関しては誰の主張・推測によるものかは不明。
(下山治久氏著『北条氏綱の関東進出・デジタルアーカイブス』より)
1530で氏綱が里見義尭の久留里城を攻撃している。
(小櫃山縁起より)
1531.8月に北条が里見と上総小櫃山で戦うと記載。
(ゆ)
(下)書内では1529を享禄元年としている。
(wikiを見る限り1528が享禄元年)
日時の混同があって小櫃山の話を1530と記述してしまっているのではないだろうか。
なお、久留里城の北に小櫃台という土地がある。
(ゆ)
拙作では1527の北条・小弓の和睦より
後の時点で里見・真里谷が再び北条と敵対関係に入った
と設定します。
●長野氏の解説(wiki・黒)
長野氏は系譜に混乱が見られる為
拙作では黒田氏主張に沿って、系譜を設定します。
上野長野氏:(wiki)
上野国群馬郡長野郷(高崎市浜川町周辺)が本拠地とみられている。
長尾景春の乱中(1477.5)に史料上、長野氏が登場する。
上野西部の豪族を取りまとめて『箕輪衆』を結成し
山内・長尾氏に仕えていた。
この両氏が享徳・長享・長尾景春の乱で衰退するのと対照的に
勢力を拡大させた。
長野憲業:(wiki)
箕輪城主。箕輪長野氏。
1514永正の乱において戦死。
没後には厩橋長野氏から方業が入嗣し
箕輪長野氏を継いだ。
長野方業:
(黒)
箕輪長野氏当主。業正の父。
厩橋長野氏の賢忠の弟。
憲業の没後に箕輪長野氏を継いだ。
なお山内上杉では『方』を「まさ」と読む慣例があるので
方業はまさなりと読む。
(wiki)
1524に惣社顕景・白井景誠が北条・越後長尾と結び
憲寛に反旗を翻した際、方業が惣社の重臣徳雲斎を調略した。
徳雲斎が内応発覚して顕景に殺害されると
方業は兄の賢忠と共に惣社城の惣社長尾顕景を攻め
既に憲寛と和睦していた越後長尾為景が仲介して、顕景は降伏した(1527)。
長野賢忠:(黒・wiki)
方業の兄。厩橋長野氏の第三代当主。
長野業正:(黒・wiki)
1491生。方業の子。信濃守。正室は扇谷朝良の娘。
姉が白井長尾景誠正室。妹が里見義尭正室。
景誠暗殺後に白井家の実権を握り、山内での立場を向上させた。




