33 石巻右衛門家貞 講義『北条氏綱伝』
●後書きにおける地形図は
『戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ(http://sengokumap.net/)』様の地形図を使用させて頂いています。
●修正の予告
32話の神奈川湊の支配者に関して、新たに知った情報があったのでいずれ修正します。ひとまず神奈川湊は三浦氏滅亡以降は伊勢氏の支配となったものとして、読み進めて下さい。
●以下は創作(後書きの内容含む)に際して解説・主張を参考にさせて頂いている方々です。
(黒):黒田基樹氏の主張・推測(以下同文)
(下):下山治久氏
(森):森幸夫氏
(平):平山優氏
(右):youtube動画『右京大夫政元』様(主に上方関連の情報を参考にさせて頂きました)
(上):上州戦国史等紹介サイト『箕輪城と上州戦国史』様
(ゆ):ゆいぐ(作者本人)
●用語説明
正当性:道理に適っていて正しいとされる根拠。民から評価される具体的な政策の内容への評価。
正統性:ある社会の政治権力が正しいとされる根拠。血筋・役職等への評価。
ぐらいのイメージで使い分けているつもりです。間違ってるかもなのでまた修正するかもしれません。
勧請:神仏の分霊を請じ迎えること。
僅かな厠休憩を挟み、家貞の講義は容赦なく再開した。
「ではこれより先は御本城様、即ち二代当主氏綱公の事績について話す」
「よ、よろしくお願いします」
「うむ。先代早雲公の死後、伊勢家はひとまず義明公陣営に属すという形をとった為に戦線が縮小し、束の間の平穏が訪れる。ただその間も義明公側による下総千葉領(高基側)への侵攻や甲斐河内地方での今川・武田の合戦、上野南部での扇谷・山内の合戦等が行われてはいた」
「伊勢家は参戦しなかったのですか」
「うむ。専ら内政に従事した。
御本城様は領国支配の正当性を確保しつつそれを内外に知らしめるという方針の下、寺社に対する権益保護、修造・造営に取り組み、特に鎌倉の寺社には検地によって寺領の確定も行った。これらは祭祀権を強化したとも言い換えられる」
「う~ん……お寺や神社はそれだけ重要だったということですか」
家貞から貰った『北条家家来之心得二十一箇条』の冒頭第一条にも『仏神を敬い信仰せよ』とあるのだが、治郎にはこの条文の履行がどうも難しかった。
「そうだ。度重なる関東での戦乱によって往時の勢いは失っていたものの、戦も含めて民の営みに深く関わり国の秩序維持にとって重要な役割を果たしている事に変わりはない。修験宗も含めた寺社勢力に関して今後しっかりと理解を深めていけ。
またこの他、重要な政策として虎の印判や目安等といった早雲公の御世より始まっているものも有るのだがそれらも皆、支配の正当性を確保するという目的を含んでいる」
「支配の正当性……ですか」
「要するに我等が統治者として存在し得る為には、領民が現実に必要とする政を行っていく必要があるということだ。今はそれだけ覚えておけ。
駿河今川や越後長尾と異なり守護・守護代といった役職(正統性)を獲得出来ない以上、その要請はより切実と言える」
「ふ……ふむふむ。
幕府の権威が衰えたと聞いてたので守護というのも何となく名目的なものに過ぎないのかと思ってたんですが、そうでもないんですね」
「まあ室町幕府の職制は鎌倉幕府のそれを引き継いでいるしな。権限の内容とは別に三百年使われてきた名前の重みというものはある」
「なるほど……。
今川家や長尾家が獲得出来て北条が出来ないのは相模・伊豆が北条と敵対する関東公方・管領の管轄にあるからですか」
「一つはそれだな。まあ関東側から幕府へ推挙するという慣わし自体が途絶えて久しい事もあり、就任の望みはほぼ無いだろう。
二つ目の理由は家格だ。室町の足利将軍家との血縁の近さ、室町史以前から現在に至るまでのその家の血統・盛衰などが関わってくる話で、この点においても中々難しいというのが実情だな」
「ははあ……」
「さて話を戻そう。先程『専ら内政を』と言ったが、この時期に御本城様が取り組まれていた事がもう二つある。一つは京都外交、即ち北条への改姓だ」
「おお……」
「この北条とは即ち源頼朝公の外戚にして、その嫡流が途絶えた後の鎌倉幕府で代々執権を務めたあの鎌倉北条氏だな。
御本城様は正室養珠院様がその血筋とされている事から朝廷に願い出、公式の承認を得た。ここでは前関白近衛尚通公と親交を結び口添えを頂くという重要な過程があるのだが、それもまた別の機会に話そう。
今押さえておくべきは、改姓の意義だ。果たしてそれはどこにあるか」
急に尋ねられた治郎は長いこと悩み、ようやく答えた。
「やはり支配の正当性……?を確保する為でしょうか」
「御本城様が北条に改姓することで領民の信頼は高まると思うか?」
「う~ん……。何せ鎌倉に幕府が置かれていたのですから相模・伊豆の者達からすれば伊勢より北条という名の方が遥か昔から伝わっていて受け入れ易い……かもしれません」
「まあ一理あるな。確かに幕府の設置のみならず鎌倉北条氏は代々相模守に任ぜられてこの国を治めていた(正統性を備えていた)。領民にその事実を周知させれば一定度の効果はあるだろう。だがそもそも、こちらから喧伝する以前にこの史実を十分に心得ている者達がおり、御本城様の主眼はこの連中への意思表明にあったのだ」
「その連中とは……」
「東国の武士達だ。特に支配者階級のな」
「ははあ……なるほど」
「そして中でも関東管領家たる上野の山内、武蔵の扇谷には、この北条という名は現幕府の関東副将軍に対抗する前幕府の日ノ本の副将軍の名として、つまり完全な敵対表明として受け取られたわけだ。加えて当時の鎌倉北条氏は伊豆・武蔵・上野等の守護を務めていた為に、この表明にはそれらの潜在的支配権の主張までもが含まれていたことになる。
ちなみにだがここから数年の間、北条を名乗るのは御本城様のみで一門の方々が用いるようになったのはもう少し後だ」
「ははあ……。北条姓にそういう意味があったとは知りませんでした」
「そもそもこの構想は早雲公から始まっていたとも聞くがな。説明はまた省くが冒頭で話した寺社の権益保護・修造等も北条改姓と深く関わっている話だ。
そういえばこの小田原城の北東に蓮沼があるだろう」
「はい……。真ん中に浮島があって何かお社みたいのが立てられている、あの沼ですよね」
二ノ丸の北東側に蓮池門があり、そこを出た所に門の名の由来である大きな蓮沼があった。
「あの社は御本城様が鶴岡八幡宮の源氏池に習って江ノ島の弁才天を勧請したものなのだ。武運長久、つまりは武士としての命運が長く続くこと、出兵した将兵の無事も含めて戦勝を祈願する為の施設だ。お主も小田原を発つ前に手を合わせていくと良い」
「ははあ、そういうものでしたか……。後で行ってみます。
これも改姓と関わる話ですか」
「そうだ。家紋の北条鱗とな。
しかし今回は戦史の説明を進める。つまりこの改姓が山内・扇谷に対する宣戦布告となったという事だ」
「やはり戦うことになるのですね」
「うむ。ただその和睦破棄の下準備として御本城様は謀を巡らせている。つまり先程言った二つ目の取り組み、調略だ」
「……ああ。御本城様は何と言いますか、あらゆる手を尽くすのですね」
「そうだな。しかもこの工作は極めて広範囲に行われた。一方面は武蔵国多西郡にあって山内に与していた八王子大石氏(葛西大石氏の宗家)、三田氏、小宮氏、平山氏といった国衆に、もう一方面は武蔵東部において足利氏一門の武蔵吉良氏に、扇谷配下では船方衆を擁する羽田浦の行方氏、そして江戸城代を務めていた江戸太田氏、同族の石戸太田氏にといった具合にな。
そしてこの中でも江戸・石戸の太田氏は扇谷によって同族に三名もの死者を出すという因縁を抱えていたから、諸勢力離反のきっかけとなっていた可能性が考えられるが……まあ詳細は不明だ」
「……」
「ちなみに現在、江戸太田家当主資高殿は御本城様の長女苗様を室に迎え一門に列せられている」
「栄様の姉上様ですか」
「うむ。そしてこの江戸太田家がかつて山内上杉顕定に鞍替えしていた時期(一四九〇年代)以降に繋がりを深めた山内重臣の惣社長尾家に対しても、御本城様は調略の手を伸ばした。あるいはこの惣社が三田氏ら国衆の離反に噛んでいた可能性も考えられるがな」
「凄いですね……。
それにしても、武蔵の南西部と東部が北条側に靡いたとなると扇谷はもうかなり追い詰められているように見えますが……」
「この時点での北条家中の認識もそれに近いものだった。
その上で更に、御本城様は兵力を集中させるべくこの他に古河公方の高基公にも関係の改善を求めたのだが……それはすげなく断られている。しかし準備にばかり時を費やせるものでもない。物事には機というものがある。
御本城様は扇谷の当主朝興と家宰太田永厳が河越城へ移った隙を狙い、遂に和睦を破棄して江戸城へと軍を進めた。江戸城は資高・資貞兄弟の内応によって降伏、開城。北条は次いで淵江の武蔵千葉氏(扇谷配下)も降伏させ、江戸湾西岸全域を支配するに至った。
そして更には多摩川南岸で残っていた稲毛(小沢城周辺)方面へも侵攻、これを制圧する。またこれらの動きに合わせ石戸城の太田氏も蜂起した。当主資頼はこの謀反によって兄の永厳とその子源六を討ち、そのまま軍を東進させると公方家奉公衆渋江氏の岩槻城を攻め落とした。御本城様はそのまま資頼を岩槻城主に命じている。
一方で北条勢は足利一門である渋川氏が拠る蕨城を攻略。扇谷方の葛西大石氏が守る葛西城攻めは失敗に終わったものの、それ以外の武蔵南東部を支配下に置いた」
「早雲公に勝るとも劣らない快進撃ですね」
「うむ。ただその早雲公の時代にこれと類似した状況があっただろう」
「む……」
「扇谷側もこれらの動きを座して見ていたわけではない。朝興は山内憲房と和睦・同盟を締結し、更には甲斐武田当主信虎に援軍を要請したのだ。この三勢力の反攻を受け、岩槻城は呆気なく落城。城主資頼は扇谷に帰参してしまった。
翌年、この岩槻城は再び北条が奪い返したのだが、またしても朝興から要請が行われ小弓の義明公とそれに従う真里谷恕鑑(全舜の子)・里見義豊(義通の子)が反北条に回ってしまう。他方、山内家では当主憲房が病没し、その跡を継いだ子の憲寛(高基の子。春氏の弟)が朝興との協調路線を維持、共に反撃に出てくる。その後、北条は扇谷と激突した白子原の敗戦で福島九郎殿を失って以降、防戦一方となった。そして翌大永六年(一五二六)、対北条という目的で小弓公方家・山内と里見・長野(山内重臣)がそれぞれに縁組を行い、ここに山内・扇谷・小弓・真里谷・里見・武田という北条包囲網が結成されてしまった」
「山内が小弓公方と結んだのですか」
「まあ実質、古河公方高基公も含めての反北条連合だな」
「……むむむ」
「この後、北条は扇谷や山内によって蕨、小沢等の城が奪い返され、玉縄城まで攻撃を受けてしまう。加えて里見の暴挙によって鎌倉の鶴岡八幡宮も焼失した。更には駿河で今川氏親公が亡くなった為に嫡男氏輝公が跡を継ぎ、その隙を衝いた武田が御厨方面へ侵攻してくる。これには伊豆の高田、駿河の葛山氏が共闘して防衛に当たったが一族の者が討死するなど大きな損害を出した。
そして程なく氏輝公が武田との和睦を選んだ事もあり、江戸城攻略から続いた扇谷・山内との戦いは一つの区切りを迎えることとなった」
「三歩進んで二歩下がった感じですね……」
●参考地形図①
●参考地形図②
●史実年表等
※間違っている可能性もあるので注意して下さい。
1519-1520
越中で神保慶宗が
本願寺の下間氏と縁組し
越中守護畠山氏から独立の動きを見せる
神保慶宗:
1506に越中一向一揆側に寝返り為景父の能景を討っている。
1519.10
上方では京在京勢力の減少を衝き
澄元が阿波で挙兵。
1519.11
澄元・之長らが摂津国兵庫に上陸。
1519.12
義稙は赤松義村に澄元を討伐するよう指示。
義村は元々は義澄・澄元派であり
義稙がこの頃から赤松を通じて澄元と
密かに関係を結んでいた模様。
1520
武田信虎は大井信達と和睦。
信達の娘(大井夫人)を正室に迎える。
越中では守護畠山尚順が猶子勝王を大将として
能登畠山能総・越後守護代長尾為景と討伐軍を結成し
神保慶宗の越中射水郡守山城を攻撃するも落ちず。
1520.2
澄元・之長が尼崎で高国を破る。高国は近江坂本に敗走。
義稙は高国を見限り、澄元らに通じる。
1520.3
三好之長が入京。
(黒)
氏親が伊豆の三島大権現社(現静岡県松崎町)の
大禰宜職を金差大炊介に安堵する書状を発行。
今川家が伊勢家領内の政に関わる書状はこれが最後となる。
ただしこの種の判物は欲する側が必要として要請する物であり
金差側が伊勢氏の上位権力として今川氏を捉えていたことを
示しているにすぎない。
ただそれでも、早雲死去から半年以上経ったこの時点で
そういう認識を持つ地域権力が存在していたこと自体は
興味深い事実である。
1520.5
澄元は上洛しないまま京兆家の家督を継ぐ。
高国が六角定頼・京極高清、丹波の内藤貞正らの支援を得て逆襲。
三好・海部以外の阿波勢の裏切りもあり
澄元・之長が等持院の戦いで敗れる。之長は処刑された。
澄元は摂津へ追放され、阿波へ落ちていく。
甲斐では
栗原・今井・大井氏(三国衆)が
甲府への集住(統制強化)を拒否し、本領に引きこもる。
翌月、信虎と三国衆が合戦、信虎が勝利。
王代記は『以後奇政、万民憂之』と記している。
「以降、圧政が始まり万民が憂えた」とのこと。
国衆を圧伏し自身を得た信虎が
領国統治の強化を図るようになった模様。
1520.6
甲斐では信虎が集住拒否の三氏の勢力を各所で撃破。
澄元は阿波勝瑞城で病死(享年32)。
子の晴元が7歳で家督を継承。
1520.8
義稙・高国の和睦的な感じで
猿楽が催される。
1521
伊勢貞陸、死去(享年59)。
息子の貞忠が政所執事職を継承。
幕府の財政管理と訴訟を担う。
関東では
義明が下総千葉領へ侵攻。
安房里見義通・下総臼井氏・扇谷配下の葛西大石氏等が従軍。
(ゆ)
32話後書きの長塚孝氏の推測によれば
武蔵千葉氏も従軍しているのではと思う。
扇谷上杉朝興も小弓公方の下
古河公方足利高基・山内上杉憲房と敵対する。
(前年まで扇谷・山内間は和睦関係にあった)
甲斐では武田信虎(27歳)が今川の影響を排し
甲斐一国の統一を遂げる。
以降も武田・今川の抗争は継続。
信虎は左京大夫に就任。
1521.1
赤松義村が
犬猿の仲である備前守護代浦上村宗への反攻を目論み
義晴(10歳)を旗頭に担ぎ上げる。
浦上に敗れた義村は幽閉、暗殺される。
義晴の身柄は浦上へ。
1521.2
甲斐では今川が
富士川沿いの河内地方へ侵攻。
大将は福島氏か。
河内の国衆穴山氏当主・信風が
今川に降った。
河内地方:
西八代郡と南巨摩郡の一帯。
1521.3
管領の高国と対立した将軍義稙は和泉国堺へ出奔。
義稙は後柏原天皇の即位式に出仕せず
高国が警護の職務に当たる。
これにより天皇の信任を失った義稙の放逐を高国は決意。
伊勢貞忠や奉行人の多くは義稙を見限り京に留まった。
高国と誼を通じる浦上から義晴が京へ招かれる。
高国は新たに義晴(義澄の子)を第12代将軍に擁立。
(1521.12に征夷大将軍に補任される(11歳))
以降、高国や伊勢貞忠らが政務の運営に当たる。
1521.4
信虎は左京大夫に叙爵される。
1521.7
信虎の調略により穴山氏が今川と断交、武田に再帰属。
これに対し今川氏親は
駿河富士郡の国衆富士氏らを買い河内へ侵攻させた。
1521.8
甲斐では信虎が河内へ出陣。今川方の富士氏を撃破。
今川は遠江高天神城主福島助春を大将とする大軍を進発させた。
1521.9
信虎は迎撃に出るも、敗北(大島合戦)。
福島勢は甲府盆地へ侵入。
大井氏の属城富田城(南アルプス市)を制圧。
信虎は正室大井夫人(臨月だった)を丸山城に避難させた。
越後では為景が一向宗信仰を禁止。
1521.10
飯田河原にて、信虎が寡兵でもって福島勢を撃破。
淡路まで退いた義稙は
畠山尚順・畠山義英を従えて上洛を試み
堺まで進むが高国側の稙長(尚順の子)に敗北。
※尚順は直接は稙長とは戦わなかった。
1521.11
武田勝千代誕生。
福島勢は油川信恵の属城である勝山城に移動。
態勢を立て直し再び甲府に向けて進軍。
甲府郊外の上条河原で武田軍と激突。
福島勢は大敗を喫し、助春以下一門が悉く討死。
『甲陽軍鑑結要』には原虎胤が助春を討ったとある。
(ゆ)
虎胤は小弓城を陥落させられた恨みを
北条の同盟者である今川相手に果たすことになった。
1521.12
扇谷・山内は抗争再燃。
越中では
畠山勝王(義就孫で義英子)・能登畠山・越後長尾連合軍が
神保慶宗とそれに加担した椎名慶胤を討伐。
これにより為景は慶胤に代わり
越中新川郡守護代に就任。
1522
(平)
武田信虎が富士登山。
甲斐平定を周囲に示す宗教的示威行為と考えられている。
(デモンストレーション)
1522.1
富田城に取り残されていた今川敗残兵が
開城、明け渡し、駿河へ帰国。
遊行上人不外が信虎を説得したことによる。
不外は今川兵の帰国を見届け、諏訪へ旅立った。
遊行上人:
時宗教団における指導者の地位の敬称。
今川撤退により、穴山氏の武田への帰属が確定。
信虎は事実上甲斐を統合した。
1524以来、今川氏親は病床にあり
殆ど軍事行動を行っていない。
氏綱が武田との対立継続を断念したのは
それが関わっている可能性がある。(平)
1522.2
上野南部において扇谷・山内が合戦。
1522.11
上野南部において扇谷・山内間で合戦。
(黒)
氏綱の武蔵侵攻(むしろ調略面か?)は
この状況に乗じたものと思われる。
1523.4
前将軍足利義稙が阿波国撫養(現鳴門市)で死去(享年58)。
以降、阿波の細川館で義維と晴元は養育される。
養育の中心人物は細川元常か。(右)
足利義維:(wiki)
義澄の次男にして義稙の養子。
細川元常:(1482-1554):(右)
和泉上守護細川家の出。母が成之の娘。
元常は澄元の従兄弟。
1500頃阿波に匿われていた可能性有り。
(wiki)
ちなみに和泉国は
細川が上守護家と下守護家の世襲によって治めていた。
1523.7
氏綱が伊勢姓を用いている最後の書状が確認されている。
1523.7-9
この間に北条姓への改姓がなされた模様。
翌年には高基が書状で北条姓を用いている為
氏綱による単なる自称ではなく
室町幕府からの承認があったのではないかと
思われる。(森)
ただししばらくは北条姓を名乗るのは氏綱のみ。
1523.8
下野国猿山で合戦。
結城政朝軍が宇都宮忠綱軍に勝利。
(忠綱は成綱嫡男。高基妻の瑞雲院は姉妹)
両勢力の境界付近『中村十二郷』の支配を奪還。
(この合戦は少し前まで1526.12とする説もあった)
宇都宮城を芳賀氏等に占拠された
忠綱は壬生綱房の鹿沼城へ移る。
他方
芳賀氏等は宇都宮興綱を擁立。
興綱は忠綱の弟。(諸説あり)
小山氏と結城氏:
小山氏の祖は源頼朝配下の太田政光。
1150頃下野小山へ移り小山氏を名乗る。
その息子結城朝光が結城氏の祖。壇ノ浦等で活躍。
1523.9
近衛尚通の日記『後法成寺関白記』に
『北条』氏から進物があった記録が見られる。
(黒)
尚、北条改姓から1524.1までの間に
小机領(矢上川以南)の経略が行われた可能性が高い。
ちなみに小机領の扇谷方の拠点は権現山城であり
城主は上田蔵人入道。
ちなみに後年?氏綱は
廃城となっていた小机城を改修し
小机領の本拠としている。
1523.11
宇都宮忠綱が下野皆川領へ侵攻。
河原田合戦で皆川勢に勝利するが
(皆川氏当主の宗成は討死)
後、援軍に来た結城・小山勢に敗北。
1523・1524で
忠綱・壬生綱房派と芳賀(他に笠間・塩谷)派が
宇都宮付近で合戦。
1524
(wiki)
惣社長尾当主の顕方が北条と結び謀反を企むも
山内憲寛によって鎮圧。
謀反の背景に永正の乱で顕方が山内顕実側に付いて敗北した為
山内家宰の座を取り上げられてしまった事情がある。
顕方は謀反を鎮圧されて惣社当主の座も失った。
なお
惣社家を継承した顕景(惣社庶流高津家)もまた
1524.10に北条から内応を誘われる。
(ゆ)誰が北条と惣社の間を取り持ったのか:
1509に扇谷が伊勢に攻められた際
朝興は太田資高を通して
山内家宰長尾顕方に援軍を要請している。(黒・歴代古案)
更に遡ると
太田道灌謀殺の後、実子資康(資高父)が山内上杉を頼った頃(1488)の
山内家宰が惣社長尾顕忠である。
(1509顕忠死去によって甥の顕方が家宰を継承)
資康が最終的に江戸城へ帰還できたのは
長享の乱終了頃(1505)らしいので
そういった経緯を通して
太田・惣社のパイプが出来た可能性があるかも分からない。
(黒:編『中世関東武士の研究 扇谷上杉氏』)
また扇谷朝良の室と惣社長尾顕方の室が
姉妹(顕方養父の顕忠の娘)であり
朝良の子藤王丸は1518生なので
永正の乱での鉢形落城後の政治過程で形成された
惣社・扇谷の婚姻関係があった。
行方氏:
(角川日本地名大辞典より)
羽田浦を統治しており
船方衆を擁していた。
(下)
元々は鎌倉幕府の御家人。
「守護政権である上杉氏から代官職を認められ
……羽田浦に入る利益は行方氏を通して
上杉に吸い上げられていた」と記載。
(ゆ)
武蔵守護は1481までは顕定でその後は不明であり
神奈川湊同様、支配の変遷が分かりづらいのですが
ひとまず扇谷配下だったと設定しました。
(後に変更の可能性もあり)
船方衆:
船に乗って働く人。船乗り。
(ゆ)
農民が戦になると陸上で戦うのと同様に
船方は戦になると水上で戦闘・輸送を行う
位のイメージです。
水軍衆との違いは調査不足なので
拙作中では混同してます。
浦:
地形。
海や湖が湾曲して陸地に入り込んだ所。入り江。
1524.1
3日に朝興が山内と同盟締結の為に河越に在城。
(家宰永厳が山内との同盟締結の為に
憲房が在陣する羽尾峯に出仕しているのでその結果待ちか)
その隙を衝き、北条勢が小机領から多摩川を渡り
扇谷支配の江戸領へ侵攻。
江戸太田氏
(城代の資高・資貞兄弟)の内応を得て
13日に江戸城を制圧。
江戸城陥落を受けて
朝興は河越城維持も難しいと考えたのか
14日に松山城へ退去。
そこから15日には
山内上杉憲房のいる藤田陣(現埼玉県寄居町)へ移動し
(憲房は10日には和睦交渉の為に羽尾峯にいたが
和睦成立を受けて藤田まで後退していたと思われる)
救援を求めた模様。
同時期に多摩川南岸に残されていた小机領北部の稲毛地域と
江戸領を制圧した模様。
同時に足立郡石戸(現北本市)城主の太田資頼も内応。
(資頼は岩付太田氏)
朝興が河越城から後退したのはこの為か。
あるいは
武蔵南西部の国衆が山内から離反する、した事が
伝わったのか。
また資頼内応の際に太田永厳が討死した可能性有り(黒)。
(ゆ:永厳討死を拙作設定とする)
太田永厳:(黒)
資家の法名が義芳永賢であり
発音が類似している為、永厳のことであると思われる。
そうなると1524.1.16に死去となる。
石戸城で離反した資頼との戦で子源六共々討死した可能性あり。
太田氏について:
(ゆ)
太田氏は系図に混乱が見られ、以下に示した2パターンいずれについても
理解が及ばず、疑問点が残っていますが
拙作ではひとまず黒田氏推測を元にした系図を利用します。
【黒田基樹氏著書『北条氏綱』中での解説を元に(ゆ)が書いた系図】
【中世太田領研究会著『太田資正と武州大乱』の解説を元に(ゆ)が書いた系図】
※文中では数パターンの可能性を指摘しており、その中の1パターンとして作図してみた物であり、しかも間違っている可能性もあるので注意して下さい。
岩付城:(黒)
武蔵忍城主の成田自耕斎正等が1494以前に築いたと考えられ
1494に古河公方家の拠点として確認されている。
養子顕泰(惣社長尾忠景の三男)が1497に在城
その後に忍城へ移ったと思われる。
1510からは渋江右衛門大夫が在城。
渋江氏は公方奉公衆として1513から移座してきた政氏を支え
政氏出家後は
政氏から継承された政治勢力の一つとして
義明陣営として活動していた模様。
そして(少なくとも)政氏在城の時から
扇谷が岩付城を支えてきたことで
渋江・扇谷の結び付きが強まり
1524に謀反した資頼が、扇谷方として渋江氏を攻めた。
地名『岩付』の由来:さいたま観光国際協会(HP)
岩槻の地名は、室町時代初期の永徳2年(1382)に『長谷河親資着到状』という古文書の中で初めて「岩付」として登場しており、現在の「岩槻」の字が使われ始めたのは江戸中期からである。槻はケヤキの古名で、城の土塁や町の随所にケヤキが植えられていたことからこの字が当てはめられたといわれている。
(ゆ):拙作では『岩槻』を採用。
ちなみに当時の扇谷上杉朝興の領土は
武蔵江戸城を本拠として
河越領(川越市周辺)・松山領(東松山市周辺)・
小机領(横浜市・川崎市)・下総葛西領(葛飾区周辺)。
扇谷家の家宰は太田永厳だった。
昨年から扇谷は山内に和睦申し入れをしており
この月に、扇谷・山内間で和睦した上で同盟締結。
(黒)
北条は扇谷・山内両者に対して敵対行動を取っている。
それを踏まえると扇谷・山内の同盟も理解し易い。
江戸城:
墨田川(古利根川)・荒川(現・元荒川)・入間川(現・荒川)が
江戸内海(東京湾)に注ぐ出口の一角に立地する要地。
江戸領:
多摩川・墨田川・入間川に挟まれた地域で
西は府中(現府中市)の手前まで。
(ゆ)
黒田氏著書『北条氏綱』『戦国北条五代』『関東戦国史』では
「高輪原(高縄原)の戦い」というワードが登場せず
合戦が行われたとされる大永四年一月十三日(wiki)についても
両軍衝突の記述は見受けられない。
ひとまず拙作もその方向で書くこととする。
1524.2
内応した太田資頼が
古河足利公方の奉公衆渋江右衛門大夫の
埼西郡岩付城を攻略。
氏綱はこれを容認し資頼に岩付城支配を任せた模様。
一方、扇谷からの要請を受け甲斐武田氏が
北条領国へ侵攻。
扇谷・武田の同盟交渉は昨年末から始まっていたと思われる。(黒)
武田軍は津久井領の相模奥三保に侵攻。
同領の子猿橋で数度の合戦。
予定としてそこから北進して、由井・勝沼を経由して
山内の陣所に合流する筈が
それら武蔵南西部の国衆が北条に従属したことと
津久井領を経略できなかった影響で
結局秩父郡へ転進
三月晦日に山内上杉憲房と合流。
1524.3
氏綱は足利家御一家の渋川氏が治める
足立郡南部(戸田市)の蕨城を攻略、破却。
蕨城が扇谷勢力圏にあったことから
当時、渋川氏は扇谷と密接な関係にあったと思われるが
これにより没落している。
(コトバンク?)
一族がその後、北条に仕えている。
1524.4
この時点で勝沼領の国衆三田政定が
北条に従属していることが確認されている。
(黒:江戸侵攻時に既に約定がなされていた可能性が高い)
位置的にこの南にある由井領の国衆大石道俊(顕重か)は
これより前の時点で従属していた模様。
両者はこの前は山内上杉の支配に服していた。
また
勝沼・由井の間に位置する
戸倉城の小宮朝宗・檜原城の平山心清斎も
北条に従属した模様。
他方、氏綱は高基への接近を図り、書状を送る(1524.4.1)。
(黒:政治的正当性の確保が目的か。渋江氏没落の弁明か)
(ゆ:渋川氏を降した件を気遣った可能性もありそう)
同時に高基陣営の上総東金の酒井隆敏からも
その旨について書状が送られている。
氏綱の文面から、これより前の時点から
高基への接近を試みていたことが見てとれ
それは江戸侵攻の時点かそれ以前の可能性もある(黒)。
(ゆ)
扇谷への攻撃で
義明からの心証は悪化していただろうが
高基へ接近することで
更に悪化させたと思われる。
他方
北条は多摩方面の山内方国衆にも調略を仕掛け
成果を出しているので
山内への敵対行為となっており
それは高基の心証を悪化させていたと思われる。
そう考えると
ここでの高基への書状は
高基には逆らわずにその配下である山内は除く
という北条の立場表明ぐらいの意味しか無かったように思える。
渋江氏:(黒)
著書『北条氏綱』p.94で小弓方の古河公方足利家奉公衆と表記。
(ゆ)
奉公衆の給与に関しては調査不足だが
実効支配が広まる当時においては
例えば義明が渋江氏を家臣と認めて
渋江氏がそれを了承した時点で
「古河公方奉公衆」という肩書には
あまり意味がないように思える。
つまり高基が渋江氏を支援する動機にはならないと思える。
従属を押し付ける理由にはなるかもしれないが。
また同日付で高基が庁南武田三河守を
味方と認識して義明方との抗争状況を知らせている書状が存在。
両上杉が和睦しても
高基・義明間は依然として激しい対立状態にあったわけだが
ともかく高基は氏綱を信用せず
形だけの返書を送るにとどめた。
また北条・扇谷共にこうなっては
小弓を支援することは不可能だろうと観測している。
(ゆ)
やはり、(黒)解説の通り
高基・義明の様な頭目勢力がいて
その下に諸大名が結集しているというより
諸大名が正当化獲得の為に頭目勢力を利用していると見た方が
高基・義明敵対と扇谷・山内同盟が並立している事実を理解し易い。
ただ早雲時代は
対立勢力同士の和睦はあっても
同盟までは無かった様な気がする。
1524.6
武田・両上杉軍は河越城へ入る。
以降、河越城が扇谷上杉の本拠となる。
1524.7
朝興は江戸城奪回を図り江戸領に侵攻。
朝興の花押入りの書状で妙国寺・本光寺に禁制を与えている。
信虎が岩槻城を攻める。
太田資頼は扇谷への帰参を条件に降伏。
後、信虎は帰国した模様。
1524.8
氏綱は岩槻城を攻めるが落ちず
十月初めまでには撤退。
1524.10
憲房は一旦上野に戻り
上州勢(上野国衆?)を率い毛呂城を攻撃。
これに扇谷勢も従軍。
氏綱は両上杉からの和睦に応じ
三田氏を寄親とする毛呂氏は毛呂城と共に
山内側に降る。
10-11月、氏綱は
津久井侵攻を続ける武田にも和睦を申し入れ
その礼?として翌年に千貫を送っている。
ただ氏綱は信虎をいつも「表裏」を行う人物なので
和睦も当てにならないと評している。
和睦申し出の一因は家臣・領民の疲弊が一因か。
後日氏綱は武田と敵対中だった今川の了解を得る必要があった為
和睦成立が遅れたと述べており
武田と停戦する為に
今川の立場を気遣っていたことが見てとれる。
他方、氏綱は長尾為景にも援護を呼び掛け
(為景は家宰の立場ながら実質越後の領国化を進めていた)
何度か進物もしている。
また山内上杉配下の惣社長尾顕景に内応を呼び掛けている。
(惣社は顕定時代と比して他の長尾氏・小幡・長野等に押され、立場を弱めていた)
この時点では顕景は応じていないが
後、為景に対して
北条に付くよう働きかけるようになり
更には惣社が隣接地域の
箕輪・厩橋長野氏や足利長尾家と抗争に至る。
(黒)
ともあれ両上杉・武田との和睦は
氏綱にとって不本意であり、改姓から始まった一連の活動が
挫折したことを意味する。
太田資高:
江戸太田氏。
1498生誕(wiki)
(黒)
1490頃生誕の可能性あり。
(ゆ:生誕年の特定の論理に関してはまだ理解に至らず)
大和守の受領名からして道灌の直系ではなく
道灌の叔父資俊の直系の可能性もあり。
なお
1524.10の書状で万好斎(法名同悦)の名で見えており
この時点で出家していたと思われる。
(ゆ)
資高は氏綱の娘(浄心院)婿であり
その為に庶長子となった景資が既にいる。
出家ということは
景資に江戸太田家の家督を譲ったか?
しかし資高の菩提寺の権利関係承認の書状を
資高宛てに送ったものなので
「出家」の意味がいまいち不明。
加えて年齢的にも資高ではなく景資に浄心院を嫁がせる方が
合理的な気もする。
また「万好」という命名に自嘲を感じなくもない。
降伏の後に資高と氏綱の間に軋轢が生じたのだろうか。
それとも(黒)年齢推定に誤りがあるのだろうか。
1525
扇谷から越後長尾為景に送られた書状の中で
氏綱が『他国の逆徒』と罵られている。
(ゆ)
32話後書きで紹介した扇谷家臣三戸義宜が
江戸城陥落によって葛西城が孤立しており
救援を長尾為景に求める書状を出している。
書状は七月着か。
1525.2
氏綱は和睦を破棄して岩槻城へ侵攻。
これを攻略して
渋江三郎(前年資頼に攻められた渋江右衛門大夫の遺児)を
城主に復帰させた。
資頼は石戸城に後退している。
(ゆ)
渋江氏は扇谷を見限ったというよりも
元々義明寄りだったので
居城を取り返す為にやむなく北条に従ったという形だろうか。
またこの頃に
古河公方足利氏奉公衆の
菖蒲城(現菖蒲町)の金田佐々木氏が北条側に付いた。
これに対し扇谷は
真里谷武田信清(恕鑑)に支援を要請。
真里谷はそれまでの北条との縁を切り、両上杉に付く。
小弓公方の擁立主体である真里谷の離反は
小弓公方勢力全体の北条への敵対を意味していた
と思われる。(黒)
また扇谷・真里谷から
越後の長尾為景へ参戦要請がなされ
他方氏綱からも為景に参戦要請がなされるのだが
結局、為景はどちらにも付かなかった。
また扇谷は山内にも援軍要請をしており
憲房の養嗣子である憲寛(高基の四男春直)が軍を率いて
菖蒲城を攻めた。
後、菖蒲城は落城した模様。
(ゆ)
既に小弓勢力への敵対行為をしてきたわけだから
北条としては
まあこうなるだろう位の感じだったのだろうか。
高基が北条の扇谷攻めに乗じて
小弓・真里谷を攻めてくれれば
という期待があったかもしれない。
1525.3
山内上杉家当主、憲房が病死。
実子憲政はまだ2歳だったので
憲寛が家督と関東管領職を継承。
山内の惣社長尾顕景の
次男・景総が出奔して北条家に来る。
顕景が内応を約し、その人質として来たか。(黒)
氏綱は扇谷方である下総葛西城の
葛西大石氏を攻めるも落ちず。
この時期北条は
越後への書状を甲斐経由で送ろうとして
信虎にその容認を求めたが
信虎は長尾為景に遺恨ありとして承諾しなかった。
(wiki 武田信虎より)
山内に配慮した為と記載。
(ゆ)
それだけ上野が厳戒態勢になっていたのだろうか。
武田は山内との同盟維持を憲寛と確認。
1525.4
氏綱は体調を崩し、湯治へ(伊豆か(黒))。
金刺諏方昌春が武田を頼り甲斐へ訪れる。
金刺諏方昌春:
元諏方大社下社大祝だったが
1518に上社大祝の諏氏惣領の諏方頼満に敗れ
没落していた。
信虎も諏方頼満とは父信縄以来宿怨の間柄だった。
大祝:
神職の階級。
京では細川高国が出家し、家督を息子の稙国が継ぐ。
1525.5
連歌師の柴屋軒宗長によって
北条家の武運長久を祈願して
三島明神社(三嶋大社か)
へ和歌50首が奉納される。
1525.8
飛鳥井雅綱が小田原城を訪問。
氏康(10歳)に蹴鞠伝授書を贈る。
名字はいまだ伊勢。北条使用は当主以外では氏時の1529.10が初見。
河越城から扇谷上杉朝興が出陣。江戸城へ向かう。
(恐らく(黒))江戸城から迎撃に出た福島九郎の軍と
白子原(現和光市)で激突。
福島側は多数の死傷者を出し大敗。
九郎も討死。
この年、早くも武田との和睦が破れており
相模・甲斐は『合戦暇なし』という状況になった。
氏綱は戸倉城主の小宮氏にも応戦に向かわせているが
自ら江戸へ救援に行けなかったのは
武田に当たっていた可能性がある。
1525.7-9
惣社長尾顕景が北条家に付くことを断念し
山内に帰参を願い出る。
白井長尾景誠が取りなすも
箕輪(方業)・厩橋(賢忠)の両長野家が許さず
顕景を攻めた(1527)。
1525.10
細川稙国が病没。
1526
小弓公方勢力が扇谷方として参戦。
(上)
小弓・古河・山内・扇谷が反北条で一時的に同盟締結。
小弓・山内と里見・長野の婚姻についてもこの1526に記載。
(wiki)
両家に婚姻関係があった事が記載。
ちなみに憲寛は晩年、小弓領へ移っている。
1526.5
朝興が渋川氏の武蔵蕨城を攻撃。
(黒:編集『中世関東武士の研究 扇谷上杉氏』p.84)
(ゆ:破却済だった筈だが補修したのか?)
また小弓公方配下の真里谷武田信清(恕鑑)と
安房里見義豊がこれを支援。
里見方の正木通綱勢は
江戸湾を渡り、石浜・品川近辺に進軍。
1526.6
氏綱は三田氏の勝沼領を通過し
河越領の高倉(埼玉県鶴ヶ島市)へ進軍するも
蕨城が落城。
南足立地域(武蔵千葉領)まで北条領は後退した。
今川氏親が駿府館で死去(享年53-55)。
家督は嫡男氏輝が継ぐ(14歳)。
これを生母の寿桂尼(中御門氏の出)が補佐していく。
1526.7
甲斐の武田信虎が駿河御厨に侵攻。
葛山氏(当主氏広は氏綱の弟)や伊豆の高田氏等が応じ
梨木平で衝突。
葛山・高田、御宿(葛山家臣)の一族に死者が出た。
上方では
高国が従弟の細川尹賢の讒言を信じて重臣香西元盛を殺害。
高国側で内訌となる。
細川尹賢:
高国の従兄弟。高国と同じ野州家の出だが
典厩家に養子に入っており家督を継いでいた。
高国が京兆家を継ぐことを良く思っていなかった。
細川典厩家:(wiki)
当主が官途とした右馬頭・右馬助の唐名にちなんで
典厩家と呼ばれる。
1526.9-11
山内・扇谷の両勢が再び北条領へ侵攻。
多摩の小沢城が落城。
さらに南下して鎌倉の玉縄城を攻撃。落ちず。
両勢は東郡鵠沼(藤沢市)に後退。
他方
海路で里見軍(義豊・実尭)が鎌倉に押し寄せ
鶴岡八幡宮を焼き討ちした。
1526.10
細川晴元(13歳)は三好元長(之長の孫)に擁され
義維を旗頭として挙兵。高国と戦う。
晴元の正室は三条公頼の長女。
高国と晴元(澄元の子)の争いは細川家の家督を巡る争いでもある。
この時期近辺で義晴から将軍御内書が出され
地方大名への上洛が呼び掛けられている。
(右)
若狭武田・畠山・赤松・山名・朝倉・六角等に対し出され
若狭武田のみが上洛。
但馬山名・伊勢北畠が動くも晴元側の外交調略に
身内争い等が起きて京へは上れなかった模様。
六角も晴元側に引き込まれた。
晴元側では和泉上守護家の細川元常が中心で動いていた模様。
1526.12
若狭武田元光軍が上洛して京へ到着。
1527
この年、信虎は信濃へ侵攻し始め
それにともなってか今川とは和睦した。
前年の氏親死去が影響しているか。
北条とは和睦していないものの、争った記録はない。
1527.2
桂川の戦い(京都桂川原一帯で行われた)。
故澄元側(義維・晴元方の三好元長(之長の孫)等)が
室町幕府軍(義晴・高国・尹賢・元光)を破る。
義晴・高国は近江へ逃走。
元長・晴元が入京。
ただ晴元の本拠は堺であり、堺公方府という疑似幕府を創設した。
義維は堺に居ながら、京都及び山城国・摂津国を実効支配した。
義維は朝廷から次期将軍を約され、堺公方と呼ばれるようになる。
義晴・高国は武田元光を伴い近江に逃れる。
もっともこの間も義晴・晴元の間で交渉が行われている。
義維:
四国で没した義稙が猶子に迎えていたという説もある。
(wikiでは養子と記載)
ともかく義稙の奉行人・側近を召し抱えていた。
猶子:(wiki)
身分や家格の高い仮親の子に位置付けられることによって
社会的に上昇したり
一家・同族内あるいは何らかの関係を有する
他氏族間の結束強化のために行われた。
つまり
官位の昇進や上の家柄の相手との婚姻を容易にしたり
親子関係を結ぶことで
両者一族の融和や統制を強化するといった目的で結ばれた模様。
一般的に家督や財産などの相続・継承を目的としない点で
養子と異なっており
子の姓は変わらず、仮親が一種の後見人としての役割を果たすなど
養子と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい
ただし、実際の用例においては明確な区別はなく
猶子と呼んでいても相続がなされる場合もあり
養子とまったく同義で使用されることもあった。
1527.3
阿波細川家臣
三好元長・海部之親の対立によって
義維の上洛目途が立たず。
月末にようやく義維は堺に至る。
1527.6
(右)
義晴・義維の両陣営が和睦するという噂有り。
両陣営が様子見していたことで
義維は上洛に至らなかったか。
義維自身の正当性の低さも原因か。
(右)
他方、この時期近辺で義晴は近江で
将軍として朝廷・公家と遣り取りしつつ
諸大名へ上洛の御内書を発給していた。
(朝倉・土岐・山名・赤松・河内畠山・大友等40通近く。
4月には甲斐武田にも送りつつ
関東管領上杉憲寛・諏訪氏・木曽氏に対し武田を援護するよう
内書を出している。
上洛軍を望む以上に自身の正当性アピールが最大の目当てだったという説有り。
銭や馬等を贈った諸大名も有り。朝倉氏は実際に上洛している)
1527.7
氏綱妻の養珠院が死去。
1527.8
宇都宮忠綱は
宇都宮城への復帰が叶わぬまま死去。
壬生綱房が宇都宮興綱側へ寝返り
その謀略によって暗殺されたとも。




