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北条戦記  作者: ゆいぐ
幕間 石巻家貞集中講義
32/43

32 石巻右衛門家貞 講義『北条早雲伝 終』

●本分・後書きにおける図は

『戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ(http://sengokumap.net/)』様の地形図を使用させて頂いています。

※後書きの図においては『大島』以外の島に関しては作者(ゆいぐ)が描画しております。

作者ゆいぐが図に書き込んでいる内容に関しては試行錯誤中であります。見づらい文字になってしまっていると思いますがどうかご容赦下さい。

●後書きの内容に関して間違いがあるかもなので注意して下さい。

●以下は創作(後書きの内容含む)に際して解説・主張を参考にさせて頂いている方々です。


(黒):黒田基樹氏の主張・推測(以下同文)

(下):下山治久氏

(則):則竹雄一氏

(盛):盛本昌広氏

(長):長塚孝氏


(鬼):ブログサイト『鬼無里~戦国期越後を中心とした資料的検討~』様

(さ):里見氏紹介サイト『さとみのふるさと』様

(右):youtube動画『右京大夫政元』様(主に上方関連の情報を参考にさせて頂きました)

(海):『海上保安庁』様(2015.11.15の黒潮流路を参考にさせて頂きました)

(韮):ブログサイト『農兵節と三島女郎衆』様


(ゆ):ゆいぐ(作者本人)


■31話・32話の様な長過ぎる後書きを載せることは、以降はやるとしても33話で最後になると思われます。本文が読み難くなってしまっており申し訳ありません。どうかご容赦ください。


家貞は解説を続ける。


「伊勢(ぜい)はまずは扇谷方国衆の三浦勢を打ち破って中郡岡崎城(神奈川県伊勢原市)を攻め落とした(一五一二・八月)。更に東郡の大庭(おおば)城(同藤沢市)、鎌倉と攻略を進めていき、最終的には武蔵国久良岐(くらき)郡(横浜市南東部)まで制圧を完了する」

「一気に巻き返しましたね」

「うむ。続いて早雲公は廃城となっていた玉縄城を三浦半島の攻略拠点・武蔵扇谷への備えとすべく改修を行った(十月)。そして翌年、扇谷・山内が敵対している間に片を付けるべく伊勢勢は三浦同寸(どうすん)義意(よしおき)親子が籠城する新井(あらい)城(半島南端)へ大挙して攻めかかる(一五一三・四月)。だが水軍衆も擁す巨大な海城(うみじろ)は抵抗も激しく全く落ちる気配が無かった」

「……」

「ここで三浦半島の周辺情勢を少し話しておこう。

挿絵(By みてみん)

伊勢方は半島への陸路は押さえたわけだが江戸湾の対岸、つまり房総半島では西上総(かずさ)真里谷(まりやつ)安房(あわ)里見(さとみ)といった勢力が支配を広げていた。この両者は政氏公・扇谷側に与しており、更に三浦当主義意(よしおき)の室も里見当主義通(よしみち)の室も真里谷当主全舜(ぜんしゅん)信嗣(のぶつぐ))の娘という縁戚関係をなしている。

また南西に連なる伊豆諸島に関しては神奈川湊の管轄権を山内側が取り戻した為に―一五一〇年に権現山城の上田蔵人が扇谷に帰参したことへの処分―その影響力が再び及びつつあり、現地代官による年貢未進が生じるなど伊勢の支配が揺らいでいた。この伊豆諸島は太平洋海運の権益を確保する為にも伊豆半島と同時に押さえておきたい地域であり、伊勢方は新井城攻めと並行して戦略を進めていくことになる」


治郎は集中が切れてきて新しく出てくる名前がこんがらがってきた。


「ええと、政氏公は房総半島にも味方勢力がいたんですね」

「そうだな。ただこの真里谷全舜という男が中々の曲者でな。自身は上総の経略を優先させることで伊勢・三浦の戦には積極的に関わろうとはしなかった」

「?」

「房総半島西岸を領する真里谷家にとって江戸湾での交易が大きな財源となっていた為、対岸の勢力と友好関係を保つ事が望ましく、更には領地の北側で下総小弓の原氏(高基側)・上総真名(まんな)三上(みかみ)氏といった敵を抱えていたのだ。

当時、伊勢家は既に本目(ほんもく)から六浦むつらまでの湊を押さえており、伊豆から相模東郡までを領する程に成長していた。そういう事を踏まえ態度を保留するのが最善だと判断したのだろうな」

「なるほど……。もう一つの里見……ですか。里見はどうだったんですか」

「うむ、こちらも真里谷と足並みを揃える形をとった。ただ里見家中は意思統一を欠いており、上総南西部の内房正木(うちぼうまさき)氏とも敵対していた為に三浦半島どころではなかったというのが実情らしい。ちなみにこの内房正木氏というのは相模三浦氏の庶流だな。相模三浦の歴史自体が古いから既に完全な別個の勢力だが」

「ふ、ふむふむ……」

「ここから先、伊勢側は長期戦の構えをもって新井城の攻囲を続けていくこととなる。氏綱公を大将とした住吉(すみよし)城攻めで同寸の弟同香(どうこう)を討ったのも束の間、扇谷が山内と和議を結んでしまい、家宰太田永厳(えいげん)の軍が相模西郡へ侵攻してくる。これを撃退した伊勢側は神奈川湊制圧を試みるも失敗。しかしその後、今度は八丈島で三浦勢との合戦に及びこれに勝利、伊豆諸島の支配を確立した(一五一五・四月)。更に早雲公はこの優勢をもって津久井領を治める扇谷側国衆の内藤氏に調略の手を伸ばし伊勢側に寝返らせる。

情勢の悪化を危惧した扇谷側は上杉朝興(ともおき)を総大将とする軍勢を相模中郡へ侵攻させるのだが、伊勢側はこれを撃破。いよいよ機も熟したと新井城への総攻めに出た」

「おお……」

「三浦も平将門(たいらのまさかど)公の御世以来、五百年に渡り名だたる戦で武名を轟かせてきた家だ。その意地をもって一月もの間、苛烈な反撃で応戦した。だが遂には力尽き、同寸・義意(よしおき)親子は自害して果てる。新井城は落城し、これをもって伊勢家は相模全土の領国化を果たした(一五一六・七月)」

「……長い戦いでしたね」

「うむ、最初の新井城攻めから実に三年が経っている。この間に長尾景春も上杉顕実も、そしてあの斯波義寛も没しており、早雲公御自身も六十一歳になっていた」

「駿河下向から三十年近くですか。……凄いなあ」

「ただ当然ながらこの相模統一をもって(しま)いとはならんのだ。いま一度当時の状況を整理しておこう。

挿絵(By みてみん)

伊勢家は扇谷・政氏公に敵対して相模東部・武蔵南東部・伊豆諸島を制し三浦家を滅ぼした。そしてこれらの地域には山内が権益を有する土地が含まれており、当然にその敵意も買うこととなった。他方で伊勢・三浦の戦に積極的に関わらなかった真里谷は、山内同様に高基公側に付く原氏・三上氏(独自路線)と上総北部で対立を続けていた。

そういう情勢の折……正確には伊豆諸島の制圧がなされた頃だが、早雲公に真里谷全舜から一つの提案が持ち掛けられていた」

「提案?」

「うむ。真里谷が伊勢・三浦の戦に対して不介入を貫くことと引き換えに、三浦が滅んだ後は上総の戦に合力を願えないか、とな」

「……むむ」

「目先の三浦半島制圧は重要だったが、それ以上にこの戦略には大きな意味があった。原氏への敵対が即ち高基公・山内上杉憲房への敵対になるという意味がな。

仮に伊勢家が高基公・憲房陣営と組めれば扇谷を攻め滅ぼすことも可能だったかもしれん。だが今話した事や長尾為景への支援も含め、憲房は伊勢家に対して大分恨みを募らせていた。そもそも長享の乱の折、関東管領家を一つにすべく先頭に立って戦ってきたのがこの憲房だ。山内が扇谷を攻める事と伊勢が扇谷を攻める事は全くの別儀と認識していただろう。

加えて新井城落城の一月前、下野国那須庄縄釣(なすのしょうなわつり)で合戦が起きた。ここで高基公陣営の宇都宮氏が政氏公陣営の佐竹・岩城(いわき)両氏に勝利した為、北関東の情勢は完全に高基公側優位に傾いた。これもまた伊勢への敵対を続ける憲房を強気にさせたのではと考えられる」

「ええと……伊勢家は高基公側には付けそうになかったということですね」

「うむ。

早雲公は高基公・山内と共闘する道に見切りを付け、政氏公・扇谷陣営から真里谷を引き離す道を選んだ。

一方で真里谷全舜にも早雲公と組むに至った背景がある。伊勢の台頭があったとはいえ、真里谷は依然として江戸湾を挟んで扇谷―江戸城の太田・葛西(かさい)城の武蔵千葉といった扇谷配下勢力―と接している。この扇谷の理解を得つつ自家を拡大するには、扇谷(政氏側)にとっても敵である原氏(高基側)を攻めることが最も有効な戦略だったというわけだ。この綱渡りじみた立ち回りに全舜という男の気質がよく表れている。

ともかくこうして伊勢勢は真里谷を支援する目的で上総へ渡海し、三上領の二宮庄藻原(もばら)郷(千葉県茂原(もばら)市)へ進軍する(一五一六・十二月)。これにより不利を悟った三上氏は真里谷・原との三つ巴を()め、高基公に付いて原と結んだ」

「んんと…………。色々新しい名前が登場し過ぎてその、私の頭がそろそろ限界なのですが……」

「まあ時間もあまり無いゆえ、ひとまず詰め込んでおけ」

「……!」

「こうして伊勢家は真里谷に恩を売り、両家のみによる同盟関係締結へと進んでいく筈だったのだが……また一人別の思惑を持って動いた者がいた」

「うぐぁ……」

「安心いたせ。既に登場している足利義明公だ。

義明公は還俗して政氏公―先の那須縄釣の敗戦を契機に小山家で世代交代が起きて新当主政長が高基公側に付いた為、小山城から退去させられた後、扇谷上杉朝良の勧めで渋江氏の武蔵岩槻(いわつき)城へと移り出家した(一五一六・十二月)―の政治的地位を引き継ぐと北関東での勢力拡大を諦め、下総の高基公勢力を攻め始めた。そしてその相手というのが原氏の被官である高城(たかぎ)氏だったのだ」

「……」

「義明公と共闘的に原氏への攻勢を強める真里谷・伊勢は翌年に再び出陣。伊勢側が三上氏の上総真名城を攻略し、それと連携した真里谷勢が原氏の本拠下総小弓(おゆみ)城を攻略した(一五一七・十月)。この一連の働きに対する見返りとして伊勢家は真里谷から二宮庄を譲り受ける。もっとも飛び地である為に真里谷側で代官を置くこととなり、これも後々面倒の種となるのだがな」

「……ふ、ふむふむ」

「展開が妙な具合になってきている事に気付くだろう。扇谷領の江戸湾北西岸に最終的な攻略目標を置いていた伊勢家は地盤固めの為に真里谷の手伝いをし、その戦いが扇谷の主家たる義明公との共闘になっているのだからな」

「…………なっているのですね」

「しかもここで真里谷全舜は更に一歩踏み込んだ奇手を打つ。高基公に張り合う義明公を小弓に呼び込み、新たな関東公方、つまり小弓(おゆみ)公方として擁立したのだ(一五一八・七月)」

「……! そうやって小弓公方は誕生したのですか」

「そうだ。これによって伊勢家は義明公・扇谷・真里谷・庁南(ちょうなん)(真里谷の宗家だが国力は劣る)・里見という陣営に与するか否かを迫られることとなる。与すれば扇谷を攻め滅ぼすという目標は頓挫し、与しなければ高基公・憲房陣営も含めて関東中が敵となる。全舜の策動によって伊勢家の戦略は大きく狂わされてしまったのだ」

「むむ……。関東全てを敵に回すのは流石に厳しいですよね」

「うむ。だがそれでもなお、早雲公は後者の方針で扇谷・山内をやり込める策を考えておられたようだがな」

「……やっぱり凄い御方ですね」

「しかし残念なことに、身体の方がその思いに付いていかなかった」

「……!」

「この頃から早雲公は体調を崩されがちになり、名実共に家督を氏綱公に譲ることを考えるようになられたようだ。そして世代交代時における御家の安定化や、近年に飢饉が続いていた事情も家中で熟議された結果、伊勢家は義明公陣営に付くこととなった。

伊勢と扇谷の間には真里谷が仲介に入り和睦が結ばれた。またこの少し前に扇谷当主の朝良が没して朝興(ともおき)が跡を継いでいた為、伊勢家もそれに合わせるという体で氏綱公へと家督継承が行われた。まあ三家の新当主が協調体制を築き、古河公方陣営に対抗していこうという内外への表明だな」

「御本城様が当主となったのですね。

それにしても……う~ん、まだ完全には理解してませんが勢力が沢山いて伊勢家の考えだけでは中々事が運ばないんですね……」

「そうだな。

この後、上総佐貫(さぬき)郷で起きた乱をきっかけに御本城様を大将とする伊勢軍が再び二宮庄藻原に進軍する。それに対して高基公は下総結城政朝(ゆうきまさとも)常陸(ひたち)小田政治らの軍勢を従えて上総へ侵攻、同時に武蔵方面へは山内憲房勢が侵攻してくる。

ただやはりと言うべきか氏綱公以下伊勢側はこの戦いに乗り気ではなく、早雲公の容体悪化を理由に上総から引き上げている」

「早雲公の容体悪化はただの口実だったんですか」

「いや。残念ながら事実だ。

その年の八月十五日、早雲公は韮山城で御一門や重臣の方々に見守られ、眠る様に息を引き取られた。

戦国乱世の始まりとも言われる時代にあって伊勢が進むべき道を果敢に切り開いてきた御方にしてはあまりにも穏やかな最期だったという」

「……」


治郎は僅かな驚きをもってそれを受け止めた後、感嘆と悲嘆が入り混じった深い溜め息をついた。


◆◆ 史実年表等 ◆◆


1512.8

扇谷の苦況に乗じ、早雲は扇谷との和睦を破棄。

三浦氏の岡崎城付近で三浦勢と交戦。伊勢側の勝利。

翌日、岡崎城を攻略。

ちなみに戦功のあった伊東氏に感状が出されるが

ここで初めて氏綱の名前が見られる(26歳)。

既にあちこちの戦に出ていたと思われる。


なお岡崎城を脱した三浦義同(よしあつ)同寸(どうすん))は

弟・道香(どうこう)の居城である住吉城(逗子市西端)へ後退。


早雲は更に鎌倉へ侵攻。

荒れ果てた鶴岡八幡宮で

『枯れる樹に また花の木を 植え添えて 本の都に 成してこそ見しめ』

という歌を詠み

関東で統治権力として存立する気概を示している。(黒)


後、東郡も制圧する。

東郡北部の当麻(たいま)郷(現相模原市)に禁制を出している。

西方の津久井城の内藤氏も

この時期以降に降った可能性有り。(黒)


東郡大庭城には扇谷上杉朝寧(ともやす)が居た筈だが動向は不明。

大した合戦もなく城を明け渡したと思われる。


上杉朝寧:

朝昌の子。

朝良の兄とされる(『上杉系図別本』)。

朝寧の子朝興が後に扇谷上杉家の当主となる。


1512.10

住吉城の義同に対抗すべく、北の扇谷に備えるべく

早雲は1494以来廃城となっていた玉縄城を改修。

宛行(あてがい)状から

伊勢側が久良岐郡南部まで制圧したことが見てとれる。

久良岐郡南部の新参家臣として間宮氏の名が見られる。

また

久良岐郡北部の平子郷周辺(本目(ほんもく)湊含む)

(神奈川県横浜市中区本牧ほんもく町辺り)を領する

平子氏(越後上杉家臣)を味方に付けるまでに至る。


1513

(黒)

早雲は伊豆の韮山城近辺の

奈古屋(なごや)(現静岡県国市)で宝珠を掘り出し

それを韮山の地に埋め、その上に仏塔を建立。

本殿として弁財天を勧請(かんじょう)

弁財天は江ノ島のものである可能性が想定される。

仏法の興隆に尽力していた早雲が見てとれる。


早雲の三男氏広が葛山(かつらやま)家を養子継承。

氏広自身は今川家の御一家衆の一人として

駿府に居住している。


(wiki)

傀儡守護と化しつつあった上杉定実が

守護家家臣筋の宇佐見房忠・定満親子や弟(甥)上条定憲

阿賀北(あがきた)衆等の勢力を糾合して

春日山城を占拠し断続的に抵抗を続けたが失敗。幽閉される。

房忠は自害。

(鬼:木村康裕氏の説を紹介)

2月を最後に定実側の政務関係の発給書状は見られなくなるので

為景側の守護実権掌握が完了した模様。


後、為景は新守護擁立を図るが

幕府は定実に父房定が幕府から安堵された京都高倉の

所領安堵を認めており(1515.12)、失敗に終わった模様。


1513.1

住吉城にいた三浦義同が伊勢側を攻め

清浄光寺(しょうじょうこうじ)(現藤沢市の南東側。鎌倉の北西)付近で戦闘。

三浦側が敗北。

同寸は住吉城を弟道香に任せ、自身は新井城まで後退。


1513.2

義稙側と義澄(実質義晴)側の和睦により

義稙の将軍職が確定。


1513.4

早雲が新井城の三浦同寸を攻め

籠城戦が展開。

この際古河公方政氏が三浦家臣を賞しており

扇谷・三浦が依然として政氏側だったことを示している。


斯波義寛、死去(享年57)。

家督は嫡子の義達(よしたつ)(1486生)が継いでいる。


またこの近辺で

尾張下四郡守護代の清州城主織田達定が謀反。

義達に討たれている。

家督は達定の弟(諸説有り)達勝が継承。


(ゆ)

ちなみに新井城は1494時に

伊勢・扇谷連合軍が攻略し

山内方だった三浦氏を扇谷に降している。

にも関わらず以降、長期戦になってしまった理由は

新井城そのものが

1494当時より改修されていた可能性が考えられる。


(wiki)(拙作で採用)

この当時三浦氏が籠城した新井城は

現在の三浦城跡から半島南端の三崎城跡までに及ぶ

巨大な縄張りを有しており

北条氏の代になってから、新井城・三崎城に分離した

という説がある。


1513.5

山内上杉憲房が武蔵菅谷原で扇谷と合戦。

この時点において

扇谷は山内・伊勢の両勢を相手にしている。

故に扇谷から三浦へ援軍を派遣したという記録は翌年5月まで無い。


1513.7

氏綱勢が住吉城を攻略。

三浦義教(道香(どうこう)。義同の弟)が自害。


1514.3

山内が武蔵荏原郡まで侵攻。扇谷と対陣。


1514.5

山内が再び荏原郡へ侵攻。

これを受け、扇谷は山内と和睦。

扇谷は家宰の太田永厳を相模西郡へ侵攻させる。

(黒)

これへの報復として

伊勢側は扇谷支配の神奈川湊へ侵攻したと思われる。

(時期は1514としか分かっていない)

これに関連して伊豆諸島でも小競り合いがあった模様。


太田氏:(wiki)

太田道灌の実子資康の系統(江戸太田氏)と

道灌の甥で養子となった資家の系統(岩槻(いわつき)太田氏)と

資雄の系統(名称無し)があり

永厳は資雄の系統と推定される。

永厳は家宰職と共に太田家家督も継いでいた模様。


1514.9

長尾景春が亡命先の駿河で死去(72歳)。


1514.12

早雲は鎌倉の本覚寺(ほんがくじ)等の寺院支配を進めた。


1515

早雲長女の長松院(母は善修寺殿)が

今川家筆頭家老の三浦氏員(うじかず)の妻となる。

(この時期と思われる(黒))


山内上杉顕実がこの年病没。

山内家当主の憲房が名実共に関東管領職を継いだ。


甲斐で信虎と西郡国衆の大井信達が対立し

今川は大井側に付いて信虎と戦った。


1515.5

早雲は姉北川殿の領地である駿東郡沼津郷に

代官という立場で判物を出している。


伊豆諸島でも争いがあり

扇谷側を退けて伊勢氏の支配が確立。

伊豆半島・諸島・三浦半島・東京湾という海上ルートにおいて

伊勢氏の支配が強まった。


1515.8? 1516?

曳馬(ひくま)城(現浜松市)で大河内貞綱が挙兵。

斯波義達もこれに加わる。

氏親が出陣して城を包囲。


1516

(コトバンク 佐藤博信『小弓公方足利氏の成立と展開』)

この頃から義明は政氏と結び、高基と対立する。

(ゆ)

拙作では(黒)1512高基公方就任頃よりを採用。


1516.6

扇谷は朝良の養嗣子朝興を総大将として

相模中郡へ侵攻。

伊勢側はこれを撃退。

後、伊勢氏の新井城攻めは激化。


東関東では那須縄鈎(なすなわづり)の合戦にて

宇都宮氏が佐竹氏に勝利。

これをきっかけとして

小山氏は成長から政長への代替わりを契機に

高基側へ鞍替えしてしまう。

高基は名実共に古河公方となる。


養嗣子(ようしし)

家督相続人となる養子のこと。


1516.7

三浦同寸、嫡子義意が討死。

伊勢氏は三浦郡を経略すると共に

相模一国を支配下に置いた。

後、早雲は三島社に指刀を奉納。

後、時期は不明だが早雲は三崎城を取り立て

そこを拠点に三浦郡支配を固める。

(ゆ)

津久井内藤氏は国衆であることに注意。


1516.9

今川が甲斐に侵攻。信虎は万力で敗退。

今川は勝山(かつやま)城(現甲府市上曽根町)を占拠。


1516.11

早雲は真里谷武田を支援すべく

上総に渡海。

東上総の二宮庄藻原郷(現千葉県茂原市)に侵攻。


当時上総では真里谷・小弓原・三上が三つ巴中。

国力的に三上だけはかなり下な模様。(ゆ)


真里谷(武田)氏:(黒)

甲斐武田氏の分流。宗家庁南(ちょうなん)(武田)家の分家。

始祖信長は甲斐守護武田信重の弟であり

足利成氏の命で上総を制圧し

真里谷城を築き、本拠とした。

以降、真里谷武田氏は西上総一帯を支配。

長尾景春の乱では太田道灌に攻められて降る。

その後は

武蔵六浦に在住し

浅草寺を修造している(1499)。

つまり長享の乱後半以降に関して

扇谷に味方していた可能性がある。

(三浦氏も1494に新井城を落とされて以降、扇谷に従っている)

武蔵の六浦・浅草は東京湾有数の湊で

海運において真里谷氏は大きな影響力を持ち

武蔵側とも密接な関係を持っていたことを窺わせる。

そして

永正の乱(1506.4~)では

政氏・扇谷陣営に与しており

当主信清の姉妹が三浦義意に嫁いだという関係にあった。

しかし

伊勢氏の三浦攻めにおいて

真里谷からの支援は行われていない。

三浦氏滅亡後は

政氏・扇谷への義理立てより

対原氏への戦略を優先させたようで

扇谷に敵対中の伊勢氏と組んで上総を攻めている。

早雲としても

扇谷より東京湾の海上権益を優先したか。

この早雲の判断は

在地の領域権力がその土地の権益を優先して

抗争相手を選択した一例と言える。

(ゆ)

里見義通と真里谷全舜娘の婚姻関係は

黒田基樹著『北条氏綱』の真里谷・里見家系図に依拠。

ちなみに同図では里見義実の妻も

武田の出で信長娘と記載。

なお

三浦滅亡前の時点で真里谷氏から伊勢に

合力の要請があったとするのは拙作設定です。


庁南(ちょうなん)(武田)氏:

真里谷の宗家であり庁南城を居城とする。

(wiki小弓公方より)

小弓公方擁立によって真里谷が勢いを増していくことに警戒し

高基派へと移っていく。(拙作で採用)

(wiki真里谷恕鑑より)

初めから高基派だった。(拙作では採用せず)

(則竹雄一著『古河公方と伊勢宗瑞』より)

信嗣・信勝を別個の人物として扱っている模様で

(wiki真里谷信勝では別名信嗣、法名全舜と記載)

死亡年齢や、帰属先の勢力についても

異なった説明がなされている。

なお原氏が政氏派だったか高基派だったかについて

書内で食い違いのある解説が見受けられた。

拙作では真里谷氏・原氏についてはひとまず同氏の解説は採用せず。


内房正木氏:

(さ)

房総半島へ渡った相模三浦氏の庶流。

外房正木氏が先に里見と同盟関係となり

(外房正木は上杉の血筋か)

1508に鶴谷八幡宮で政氏の武運長久を里見氏が祈った際に

鶴谷八幡宮棟札に国衙奉行に

No.2として名前が見える正木通綱は外房正木氏。

なお

1514.6に義通・実堯は安房北郡に討ち入り。

妙本寺(鋸南(きょなん)町吉浜)に陣を構える。

(ゆ)

敵がいた模様で里見は早雲の頃はまだ

伊勢と関わった記録が見られないので

拙作ではひとまず内房正木氏の制圧に乗り出していると

設定しました。

ただ房総半島の勢力に関しては調査不足なので

今後修正する可能性がより高いです。


武蔵千葉氏:

(wiki)

享徳の乱前期に下総千葉家当主胤直が関東管領側に付いたが

叔父の康胤が成氏側に付き、原胤房と共闘して

胤直・胤宜親子を攻め滅ぼした。

胤直の弟胤賢は子の

実胤(さねたね)自胤(よりたね)を連れて逃げるも途中で自刃。

実胤・自胤兄弟は武蔵へ逃れ扇谷の庇護に入る。

(山内の庇護とも言える)

(長)

その後、実胤は石浜城に、自胤は赤塚城に。

長享の乱中は扇谷・山内に付いたり離れたりしながら

葛西大石氏と争ったらしく

長享の乱中の1497に自胤家臣円城寺氏が

葛西大石石見守を殺害。

葛西城は武蔵千葉氏のものとなったと思われる。

ちなみに自胤はその数年前に死去しており

子の守胤が跡をついでいる。

守胤に関する情報としては

1521の本土寺過去帳で市川・小金間で多数戦死者が出た記述がある。

亡くなっているのは

葛西・布佐・小弓・臼井の者であり

高基・義明間での合戦によるものと思われる。

となれば守胤が関わっていた可能性がある。

そしてこの後の葛西での記録において千葉氏は登場しない。

ただしこの時期の葛西城主が

大石・千葉のいずれか定かでない。

千葉の方が少し確率が高いか(拙作設定とする)。


葛西大石氏:(長)

多摩府中の宗家大石氏の分家。

享徳の乱前期に関東管領方として葛西を領するが

景春の乱で景春方に付く。

そして道灌によって

宗家大石氏(江戸近辺にも領地を持ってた)や

豊島氏が敗れたので

葛西大石も道灌に降ったと思われる。

1497に武蔵千葉側によって大石石見守が討たれる。

ただ1524に北条が北上してきた際には

再び大石石見守(同族だろう)が

葛西に居ることが

扇谷家臣三戸義宜が長尾為景に救援要請する書状の中で

明記されている。

(黒)

この当時の葛西城主は葛西大石氏と記述。


小弓(おゆみ)原氏:

下総千葉家の執権(家宰)。筆頭家老。

下総千葉家同様に高基派。

下総小弓城を本拠としていた。

房総平氏の平常長(前九年・後三年の役で活躍)

の次男が千葉氏始祖であり

四男が原氏始祖とされている。


1516.12

政氏は小山氏鞍替えにより小山城を退去。

扇谷上杉朝良の勧めで渋江氏の武蔵岩付城へ移り

出家して法名道長を称す。


(臼田文書)

政氏から臼田氏へ高柳在住の義明に忠誠を尽くすことを求めている。


足利義明は還俗し

政氏陣営の頭目としての地位を引き継ぐ。


(黒)

義明の還俗は高基に対する敵対表明となった。

(ゆ)

この為に扇谷は高基と対立を続けることとなる。


(wiki)

那須縄鈎の合戦以降に時期は不明だが

山内と高基が和睦して高基次男憲寛が憲房の養子に入っている。


(ゆ)

山内・扇谷は対伊勢で折角和睦したものの(1514.5)

高基・義明の争いに参戦して再び袂を分かっている。

以降、南関東においては

高基・山内・千葉・原・他 対

義明・扇谷・真里谷・里見・伊勢・他

という構図が出来上がっていくが

早雲隠居後の伊勢の行動を見る限り

積極的に参加してる感じはあまりしない。


甲斐では都留(つる)郡で今川と郡内衆が戦闘。

今川は吉田山城(現富士吉田市)を拠点としていた。


1517

上方では三好之長が淡路に侵攻し、淡路水軍を掌握。


遠江曳馬城では今川方が勝利。

大河内貞綱は討死。斯波義達は敗れ虜囚となる。

義達は剃髪し尾張へ送り返された。

義達はその後遠州出兵の件で対立していた織田氏や尾張国人の支持も失い

事実上の引退に追い込まれた。


(黒)

1517-1519は関東で不作・飢饉があり

とりわけ1518・1519はひどかった模様。

伊勢の扇谷との和睦にも関係していたか。


1517.1

今川方の富士吉田城が陥落。

今川方は曳馬城の方を優先したようで

今川は郡内衆と和睦を結んだ。


1517.4

千葉領の下河辺(しもこうべ)番匠免(ばんしょうめん)(埼玉県三郷市)で合戦。

原氏の被官高城治部少輔討死。相手は不明。

(ゆ)

栗ヶ(くりがさわ)城は高城氏の居城。(異説有り)

位置関係からして義明勢力(義明や扇谷等)が

相手だったと思われる。(拙作で設定)


1517.5

千葉領の弥冨(佐倉市)で合戦。

弥冨原当主孫九郎が討死。


1517.9

早雲は三島社に御服十二重その他を奉納。

戦勝への御礼に加えて

領内の有力寺社保護を始めていた

と思われる。(黒)


1517.10

早雲は真里谷武田を支援して

小弓原方であった三上氏の真名(まんな)城(千葉県茂原市)を攻略。


二日後、伊勢と連携する形で

真里谷が原氏の小弓城を攻略。

当主の原基胤が討死。

後を継いだ原胤清は高城胤吉の下総栗ケ沢城(あるいは根木内(ねぎうち)城)に後退。

(なおこの頃に

原虎胤は父友胤と甲斐へ落ち延びた模様で

後年『甲陽五名臣』として名を馳せることとなる)


二日後、原氏の小金領にて

真里谷が原と衝突した模様。

この際、早雲は

海上経由で侵攻しつつその支援に当たった模様。


見返りとして伊勢氏は上総二宮(にのみや)庄を領有することとなる。

1519の知行注文(知行地リストか)で

幻庵宛てに二宮庄年貢1000貫文の記載がある。


(黒)

ただ現実的にこの飛び地を伊勢家が支配することは困難なので

実際は真里谷武田側で代官を置き

その年貢を伊勢氏に納めていたのではないかと思われる。


(ゆ)

二宮庄の範囲は不明だが

1889に茂原市近辺の村が統合されて

二宮本郷村が発足しており

千葉県に二宮の地名は

茂原市以外で見つからなかったので

二宮本郷村と藻原を含む辺りか近辺と思われる。

飛び地であった為

後年、権利関係で揉めることになった模様。

伊勢家としては上総中東部を奪取しに行ったというより

真里谷の支援に行ったと見るべきかと思う。


1518

今川と小山田氏の間で和睦成立。


信虎は守護所を石和館

(現甲府市川田町・笛吹市石和町)から

甲府(甲現府市古府中町)へ移転。


1518.2

早雲は相模当麻(たいま)郷へ進軍。

武蔵の山内上杉配下である大石氏・三田氏と

衝突した模様。

これが早雲最後の軍事行動となる。


1518.4

扇谷上杉朝良が死去(44歳?)。

朝興(ともおき)が名実共に扇谷当主となる。


朝良という後ろ盾の一つを失った事をきっかけとしてか

政氏は太田庄久喜(現埼玉県久喜市)の

甘棠院(かんとういん)に隠遁。

永正の乱は一応終結となる。


朝興は引き続き政氏陣営

つまり小弓公方足利義明方に与する。


1518.7

義明が真里谷全舜からの要請を容れて

下総小弓城に入り、小弓公方足利家を創出し

高基勢力に対抗する。

(黒)

義明としては高基に対抗すべく

支持基盤として利用したのだろう。


(ゆ)

義明擁立についての中心人物は

全舜の子信清(恕鑑(じょかん))だという説も有り。

(拙作では採用せず)


★(黒)

小山城を追い出された政氏の事例が示す通り

古河公方・小弓公方はそれ単体で

関東勢力の頭目として存立することは

叶わなくなっていた。

名目上、関東政界の頂点に戴かれはするものの

実質は統治主体ではなく

一個の地域権力として

配下勢力達の動向に左右されながら

家を保っていくこととなる。

それは室町時代の鎌倉府政権とは明らかに

性質を違えていた。

伊勢氏は真里谷との盟約関係によって

小弓公方側に付くこととなる。

早雲は既に両上杉に取って代わる事を意識しており

今川家ではなく、伊勢家を

関東の政治秩序の中に組み込んだと言える。


同時にこの姿勢の早雲に対して

山内上杉家は激しい嫌悪を示し

1519.7の時点で伊勢家に『他国の逆徒(ぎゃくと)』という

あだ名を付けている。


他方、扇谷上杉も小弓公方陣営であり

このことにより、伊勢・扇谷の争いは

ひとまずの終着を見る。

これは小弓・真里谷からの和睦周旋があったか

もしくは飢饉を背景とする領国回復を

早雲が優先したことによるか

それともその両者か、不明。


(ゆ)

1517~1523辺りの

伊勢家の行動を見るに

小弓公方の一勢力として盛り上げていこう

的な気概があまり感じられない。

しかし単なる調査不足の可能性もある。


1518.8

大内義興は10年在京して義稙・高国政権を支えてきたが

出雲尼子氏・安芸武田氏が不穏な動きを見せ

そこに加え麾下の国人の離反が相次いだ為

管領代を辞し、周防へ帰国する。

義稙側は最大の軍事力を失うこととなった。

次いで畠山尚順も同様の理由で帰国。


高国が幕政を専横したこともあり

義稙・高国は次第に対立を深めていく。


1518.9

(黒)

租税の徴収・賦課の書状に関して署判が

花押に代わり

虎の絵と禄寿応穏の四字から成る印判が

押捺される形式に改められる。

(虎朱印状に加えて『調』朱印状も創設。

前者は農村宛て、後者は商人・職人宛ての物らしい)

以降、この文書様式が東国の他の大名にも広がっていく。


朱印状:印判に朱肉が用いられているので。


1519.4

(黒)

少なくともこの時点でまだ

早雲が伊勢家当主を務めている。

6月までには隠居した模様。


箱根権現社領の4465貫が幻庵に与えられる。

当時別当を務めていた大森氏一族の海実の後継に

幻庵が定め置かれたことを意味している。


1519.6

真里谷信清弟の信秋の本拠佐貫(さぬき)郷で『大乱』あり。

高基勢力に属する者による反乱か。(黒)

一方、高基軍が上総へ侵攻。

(常陸小田政治と下総結城政朝も従軍)。

山内上杉憲房は武蔵へ侵攻。

真里谷側は形勢不利と見たか

富津(ふっつ)市年表)

佐貫城は真里谷氏によって

1501~1521の間に築城とのこと。


1519.7

この時点で伊勢・扇谷が

和睦状態にあることが確認されている。

また朝興が高基・義明の和睦周旋に当たっていた模様(成らず)。


この時点で初めて氏綱が

伊勢家当主として確認されている。


前月の『佐貫で大乱』に応じる形で

氏綱は渡海して小弓・真里谷支援の為に

上総藻原に進軍している。


信清は

山内上杉の家臣に宛てて

高基と義明の和睦周旋を依頼。(不利と見たか)

だがその返書として

『そもそも数年前から

同様の和睦の勧めが扇谷側からなされているが

宗瑞のごとき「他国の逆徒」を

信用することなどできないことであり

むしろ同じ関東勢力として

伊勢氏を討つならば和睦周旋をしよう』

的な書状が送られている。


『他国の逆徒』表現が見られる初の文書であるが

以前からそう評されていた可能性は高い。


(黒)

ここで高基・憲房側が

槍玉に挙げているのは伊勢氏である。

関東の内乱の中で上手く勢力拡大してきた伊勢氏は

従来の関東秩序の勢力からすれば

当然に受け入れ難い勢力であった可能性が高い。

また仮にそれが高基陣営の真意でなかったとしても

軍事行動の際の求心力を得る為に

『余所者の侵略者を排除する』

という大義が非常に有効に作用していたと思われる。

以降、伊勢家の方針として

関東での正当な政治勢力としての立場を確保するということが

重要な課題となっていく。


(ゆ)

前述済だが、1514.5に

扇谷と和睦した山内だったが

書状にあるように数年前からまた抗争状態になっていた。



1519.8

足利高基が小弓領の

上総椎津(しいづ)城(現千葉県市原市)を攻撃。

在陣は11月まで続いた可能性有り。


早雲が努めていた駿河沼津郷代官職は

氏綱に継承されることなく氏親へ返還される。

以降伊勢氏が今川領内の政に関わる事はなくなり

実質的に伊勢家は今川家から分離する。


早雲、韮山城にて死去(64歳)。

氏綱はこれに伴い、もしくはこれ以前に

帰還したと思われる。


甲斐の信虎は躑躅ヶ崎館の建設に着手。

城下町を整備して有力国人達を集住させていく。


◆◆ 伊豆諸島(主に八丈島)に対する検討その1 ◆◆


●海流と潮流の違い

海流(黒潮・暖流・寒流等)は偏西風や貿易風によって

海水が引きずられることで起きる

地球規模の海水の流れであり

基本的に同じ方向に流れ続ける。

対して潮汐流(潮流)は潮汐の周期と連動しているので

半日程度の周期で流れる方向がほぼ真逆に変化する。


●伊豆諸島周辺の海流(韮)

日本の太平洋側沿岸は

その南を日本海流(黒潮)が通っており

それに乗ってしまうと伊豆諸島まで流され

伊豆諸島に漂着出来ない場合

太平洋を漂流する羽目になる。

ちなみに羅針盤の無い当時は

陸・島を視認出来る範囲内を航行する

沿岸航法(地乗り)が主流である。

沿岸部が潮流の影響を大きく受ける為に航行距離は限られるが

天候不良・時化の際には湊に避難し易い。

(ゆ)

それらの理由からも湊を領することは

戦国大名に津料(湊使用料)をもたらしたのだろう。


(沖合は風の影響を強く受ける。

江戸時代には帆走技術が進歩したが

伊豆諸島に漂着した廻船は数百隻にのぼる)


(韮)

なお、この日本海流は現代においては

三宅島・八丈島間を通過する年が殆どである。

※南側へ張り出す形で大きく蛇行する年も偶にある。

(拙作では戦国時代もそうであったと設定する)

(ゆ)

従って

西日本太平洋側・江戸湾を行き来する廻船から津料(湊使用料)を徴収する

あるいはこれらと優先的な契約を結ぶには

伊豆半島・伊豆諸島を支配下に置くことが重要となる。

関東内陸に関わる河川流通と結び付く江戸湾を支配下に置くことは

更に重要となる。


挿絵(By みてみん)


●(ゆ)伊豆諸島から関東への航路

天気が良ければ房総半島南端や伊豆半島東側から

伊豆大島を視認可能な模様。

更に年に数回は房総半島南端から八丈島を視認可能な日がある模様。

従って

八丈島から伊豆半島や江戸湾へ航行することは

日本海流を渡るリスクがあったとはいえ不可能ではなかった模様。

とはいうものの

諸島北端の伊豆大島を経由するルートが一般的だったらしいので

(八丈島へ向かう者達に関して中継点の伊豆大島で何度か事件が起きている)

伊豆大島を押さえることは諸島支配に大きく関わっていたと思われる。


●(ゆ)

伊豆諸島の人口は

相模武蔵に比べれば人口は遥かに少ないだろう。

例えば(黒)解説では八丈島は五箇村が登場するのみ。

故にここから年貢を徴収する事以上に

伊豆半島・伊豆大島周辺を航行する商船等から

税を取る事が戦国大名にとって重要だったのでは。

勿論、八丈絹という特産品は上方にも納められており

相応の高級品であったことは窺われるが。


伊豆七島(いずしちとう):(wiki)

図に示した島のうち、青ヶ島を除いた七島。

江戸時代の終わりにはその名が定着していた模様。

現在は青ヶ島・式根島も有人島である。

従ってこの呼称は差別的であるとの批判を受けている。

またこれらの他にも図中で描いていない島があり

これらの島嶼(とうしょ)が伊豆諸島と呼ばれている。

島:大きな島。 嶼:小さな島。 島嶼:いくつかの島々。


●(ゆ)ルート確保

神奈川湊―伊豆大島・八丈島間で年貢を運ぶには

浦賀・富津・造海(つくろうみ)城辺りが友好的でないと難しそう。


●(ゆ)

(黒)を参照するに

八丈島代官奥山忠督(ただまさ)には

同族の神奈川奥山氏が神奈川湊にいる模様。


●(ゆ)

神奈川湊の支配権と伊豆諸島の支配権は

必ずしも共通のものとして考えるべきではない。

現に八丈島合戦で伊勢が勝利し

伊豆諸島が伊勢家に帰属した後も

神奈川湊は山内(扇谷の可能性もあり)支配である。

この為、年貢は

伊豆大島から伊豆半島か相模湾の湊へ運ばれるようになったと思われる。

(合戦前からその状況になっていたと思う)

伊豆諸島周辺の海流を踏まえれば

伊豆諸島の年貢を

伊豆大島から神奈川湊へ運ぶのも

伊豆大島から熱海・小田原港等へ運ぶのも

難易度に大差は無いように思える。

これらの事から

『神奈川湊を支配』が必ずしも『伊豆諸島を支配』を意味するものではないと考える。

そもそも伊豆諸島は伊豆国管轄だった。


●相模東郡の名月(めいげつ)院(現神奈川県鎌倉市山ノ内)の事例

(盛)

長尾景春の乱・長享の乱において

扇谷が相模で一円的支配を広げた際

六浦周辺における一部地域の支配権が山内から扇谷に移ったが

1505に扇谷が山内に屈したことで

当該地域における明月院の支配権が

再び山内に復したことを思わせる

山内上杉顕定から名月院宛ての書状が存在する。

(六浦の塩場と関所を元の様に管理することを認める内容)


●【(下)説を参考にした拙作設定】

(下)

後北条氏は

神奈川郷と神奈川湊の支配を別個に行っていた。

(ゆ)

明月院や下記の上田氏の神奈川湊の例で見るように

山内側は飛び地になろうとも

従来の権益を取り戻そうとする傾向が見られる。

(wiki上田政盛)

神奈川湊に関しては

1505に扇谷が山内・古河に降った際には

山内が湊の支配権を取り返している。

加えて1509.8の上田氏権現山城蜂起の原因もそれであると記載。

(ゆ)

そこで拙作では

1510.7に扇谷・山内連合軍で権現山城の上田氏を降した際にも

山内は神奈川湊(神奈川奥山氏)の支配権を

扇谷から取り返したと仮定してこれを拙作の設定とする

(扇谷朝良の妹が山内が憲房に嫁いでいることで

あるいは飛び地支配

郷は扇谷、湊は山内という支配形態すら可能だったのではとも思う)。

この様に設定することで

⑲(黒:1514に八丈島で三浦方が奥山忠督勢と合戦に及んだとする)を

一応の整合性をもって理解した。

(調査・検討不足なので後々変更する可能性有り)



◆◆ 伊豆諸島(主に八丈島)に関する検討その2 経歴と拙作設定 ◆◆

以下、断りが無い限り『戦国大名・伊勢宗瑞』(黒田基樹氏著)による。

この著書では神奈川郷と神奈川湊を特に切り分けて扱ってはいない模様だが

wiki上田政盛の頁では切り分けて考慮されてるように見受けられ

参考文献で黒田基樹氏の名が挙げられている。



①享徳の乱(1454-1483)以前から八丈島を含む伊豆諸島は山内上杉が支配

享徳の乱頃は

家宰(白井、後総社に養子)長尾忠景の所領。

被官の神奈川奥山氏が神奈川郷を管轄。

享徳の乱頃、奥山忠茂を八丈島代官として派遣。


(盛)

神奈川郷の後背地である小机も山内領だった。

享徳の乱終盤の長尾景春の乱により

神奈川郷近辺を治める忠景配下の代官矢野氏が

景春側に付くものの

扇谷方の太田道灌により制圧され

この頃に六浦・藤沢等には扇谷家臣が進出したようだ。


(ゆ)

1485に都鄙(とひ)合体で享徳の乱が終結した。

その時の交渉内容で神奈川湊の支配権が

山内・扇谷のいずれに移ったかは不明。

名月院のパターンが神奈川湊で起きた可能性もあるが

当時は太田道灌の活躍で扇谷の威勢が上がった時期なので

そのまま扇谷が神奈川湊を持ってた可能性もありそう。


②1494に扇谷・伊勢が三浦を降す。

その際、山内領の玉縄要害が扇谷支配となる。

そういう次第で近隣の山内支配領(神奈川東部)

が相次いで扇谷支配となった。

(ゆ)

三浦半島が扇谷方に転じたことで

神奈川湊―伊豆大島の航行に影響が出た可能性はある。


③1495.8以前に茶々丸が伊豆大島へ落ちる。

(ゆ)

つまり伊豆大島は山内領だった可能性が高い。

追討の為に伊勢勢も島へ渡り支配を広げた

もしくは伊豆大島全域を支配することで

諸島全域を押さえた可能性もある。


④伊勢氏が伊豆一国を制圧(1498.8)

当時(1498.8.13)八丈島代官の

奥山忠督(忠茂の子)が

神奈川郷へ年貢を納めているので

神奈川奥山氏の管轄下にあったことは間違いない。

ただしこの時点で、神奈川奥山氏が

山内・扇谷のいずれに属していたかは定かでない。


なお、伊豆半島を制圧した早雲は③の通り

御簾真敷(みすさねしき)

(長戸路真敷。伊豆下田の有力者。長津呂が拠点)を

代官として八丈島に派遣した。


長津呂:

三浦半島南端の城ヶ島に長津呂という地名有り。


(ゆ)

ともかく、伊勢家は

伊豆半島を制圧した上、伊豆諸島にも進出し

太平洋海運で活動する者達に対し

影響力を持つに至った。


(ゆ)

③④以前の時期に関しては

神奈川湊が山内支配であったならば

伊勢家管轄による伊豆半島―伊豆大島の航路が

この時に出来た可能性はある。

扇谷(伊勢と同盟中)支配であったならば

諸島の年貢は一括で神奈川湊へ

運ばれていた可能性もある。


⑤立河原の戦で山内敗北。

1504.11に越後上杉房能軍が関東へ侵攻。

扇谷方の相模東郡大庭城を落とし、拠点としている。

(盛)

この折に周辺の寺社が制札獲得の為に

越後上杉に金銭を支払っている。

(しかも金額は越後上杉より低いが

扇谷への援軍に来た三浦勢にまで制札代を払っている)

(ゆ)

越後上杉配下の平子氏が本牧に領地を有したのは

この折か、1496の小田原城攻めに対する

越後上杉への返礼だったのではなかろうか。


⑥扇谷が古河に降伏したことで長享の乱終了(1505.3)

時期は不明だが伊勢・山内も和睦した模様。


(wiki上田政盛より)

神奈川湊(ゆ:おそらく神奈川奥山氏もだろう)に関しては

長享の乱以前は山内領であったが

長享の乱での戦功により

この扇谷降伏時までは扇谷配下の上田氏が支配していたが

降伏によって再び山内支配となった。

(ゆ)

後、上田氏が権現山城で蜂起したのは

その地縁的なものがあったのだろう。

1505以降も神奈川郷は領し続けていた可能性はある。

そして

ここから1509.8までは扇谷・山内の和平状態が続く。

⑦を踏まえると

これにより伊豆諸島の権益に関して

山内が再び影響を及ぼすようになったと思われる。

伊勢・山内の分有となったか、あるいは山内の調略が及んだのでは。


いつの時点からかは不明だが

御簾真敷と奥山忠督の間で抗争に

なっていたと思われる。


(ゆ)

この時点で忠督は山内方であったと考える。

当時、伊勢・山内は和睦中なので

早雲があえて

伊豆諸島の権益に対する御簾の振る舞いを放置(扇動?)した可能性も。


⑧1507

(伊勢は山内と停戦中、扇谷と同盟中)

奥山忠督が伊勢領の下田の御簾の下へ出仕。

これは屈服を意味する。

なお朝比奈弥三郎が同行している。

朝比奈は後、三浦(扇谷配下の国衆)の代官として名が見えるので

この時点で既に三浦麾下にあったと思われる。

また忠督・弥三郎は連携していたと思われる。


三浦同寸が早雲に解放を働き掛けた可能性はある。


忠督は下田に留め置かれ(抑留)

その為か神奈川奥山氏の方で

新たな八丈島代官の任命が行われている。

1508に弥三郎は八丈島への帰途に就く。

(伊勢・扇谷は同盟中なので解放されたか?)

そして中継地の三宅島に寄るが

そこで再び御簾方に拘束され神倉島(御蔵島)で1510.4まで抑留。


⑦⑧に関して

どこまでが早雲・朝良・同寸の意思であったかは不明。

((黒):神奈川湊・神奈川奥山氏を扇谷方として想定)

一方、八丈島の権益を巡って下位権力者が上位権力者を頼り

争いを激化させていったと考えられる。

つまり、1509.8に長尾為景からの要請に応えて伊勢氏が挙兵した事も

これら下位権力者達の対立が一因として有ったのではないか。

また国境沿いでは他にも同様の対立を抱えていたのではないか。

(ゆ)

伊勢が山内(もしくは扇谷)に対して

関係悪化を気にしなくなっていった表れと思える。


⑨1509.8 伊勢が山内・扇谷に開戦。相模中郡へ侵攻。

後、上田蔵人が扇谷に対して権現山城で蜂起。

(ゆ)

同時に麓の神奈川湊も実効支配したのではないだろうか。

神奈川奥山氏が上田に降ったならば

⑧における『新たな八丈島代官』は

そのまま神奈川湊への納付を続けたと思われ

伊豆諸島の権益は、伊勢の独占状態となったのだろう。


⑩1510.4

八丈島代官の御簾真敷は

1508.4以降神倉島で拘束してきた

奥山忠督・朝比奈弥三郎を解放する。

八丈島五箇村のうち四つを忠督が

一つを弥三郎が代官を務めることになった。

代官任命により両者の伊勢への従属がなされたと捉えられ

下田在住の御簾の下に両者が属する形になったと思われる。

忠督に関しては

当時、神奈川郷を支配していた権現山城主上田蔵人が

伊勢に付いた為に、神奈川奥山氏が上田氏に降り

この様な措置がなされたのだろう。

(ゆ)

上田氏が神奈川湊も支配下に置いていたと思われる。

★つまり上田氏の蜂起は

扇谷・山内の双方に対する敵対行為だった事になる。

弥三郎に関しては三浦同寸から離反したのだろうか。

伊勢が攻め込んだ中郡は三浦の支配地だったので

伊勢・三浦の仲も険悪になっていた。

ただし結局、弥三郎は1515.4には三浦方として八丈島に上陸している。


早雲は1510.3まで江戸城攻めで武蔵に在陣。

後、三河の戸田氏謀反を協議する為駿河へ行ってから

韮山城へ帰還。

5月からは為景の要請に応じて武蔵横山庄椚田城攻めを行っている。


⑪1510.5

三浦義同が配下の北村秀助を八丈島に派遣して

奥山忠督(伊勢側)と合戦させている。

(流通権益確保の為と思われる)

しかし決着は着かず北村秀助は三浦郡へ帰還。


⑫1510.7

権現山城が扇谷・山内連合軍に攻められ

伊勢も援軍を出すが撃退される。

城は落とされ(謀反鎮圧)

上田蔵人が扇谷上杉氏に帰参。


(ゆ)

神奈川湊は山内からすると

長享の乱以前から支配地である。

その支配権が上田に渡り

長享の乱終結時に再び山内が取り戻している。

そういった因縁深い権益地ゆえに

⑫で再び神奈川奥山氏・神奈川湊が山内に属した可能性があり

現地代官の忠督にも動揺があった可能性がある。

つまり神奈川湊の支配者が山内に戻ったことで

年貢の納入先は神奈川湊のまま維持しようとしていた可能性がある。

(拙作では何か月か後に山内に属したと設定)

しかし実際には忠督も弥三郎も動向は不明。

(ゆ)

ちなみにこの後⑬以降、扇谷・山内は再び険悪になっていき

㉑で和睦するが、三浦滅亡後に小弓擁立(1518)があり

古河・小弓を軸として

扇谷・山内はまた対立していく。

そして1523頃に氏綱が扇谷へ攻め入った際は

権現山城主は上田蔵人だった

(『北条氏綱』黒田基樹著p76文意より)。

結局どこかの段階で神奈川湊の支配権は

上田氏に移った可能性が高いし

そもそも、1510.7上田謀反鎮圧時から

上田氏が神奈川湊を支配し続けた可能性もある。

(拙作では山内が1510.7で取り戻したと設定)


⑬1511.11

扇谷が政氏・高基抗争に巻き込まれ

高基側の山内憲房と険悪となる。

その為か扇谷・伊勢間に和睦成立。

(この時点以前に成立してる可能性有り)


⑭1512.5

早雲は御簾左衛門次郎(真敷の子か)を下田から追放。

左衛門次郎は三浦同寸に降る。

新しい八丈島代官に藤兵衛が任命され、八丈島へ派遣される。

この頃

三浦氏は相模中郡を支配下に置いており伊勢氏と敵対中。

なお、朝比奈弥三郎の中之郷村でも年貢未進問題が発生。

そしてこれらの事件を契機とするように

伊勢・三浦は再び抗争を展開し始めた。


⑮1512.8

伊勢は扇谷との和睦を破棄。中郡へ侵攻。

中郡大庭城・鎌倉等を制圧していく。


⑯1512.10

最終的には神奈川郷・港の手前である

久良岐郡平子郷(神奈川県横浜市中区本牧ほんもく町辺り)を領する

平子氏(越後上杉氏家臣)を味方に付けるまでに至る。


⑰1513

伊勢・三浦の対立の影響を受け八丈島でも

扇谷配下の奥山忠督が軍備を固めている。

(黒:あくまで奥山忠督は扇谷麾下としている)


⑱1513.5

扇谷は武蔵菅谷原で山内と合戦。


⑲1514

時期は不明だが、この年

伊勢は扇谷領の神奈川郷へ侵攻。神奈川奥山氏と合戦。

戦果無く伊勢は撤退。

状況からして1514.5の相模西郡侵攻への報復だったと思われる。


これに際し、八丈島の忠督が出陣しようとするも

三浦側が八丈島へ軍を派遣し

忠督勢と合戦、勝利して忠督を降している。

伊勢に神奈川郷が取られて八丈島の支配権(年貢納付先)が

伊勢へ移るのを危惧した為に

直に八丈島へ兵を出した模様。


この直後、忠督は三崎へ赴き三浦氏に年貢を納めている。

そして帰りに伊豆大島へ寄った所で

伊勢方の朝比奈恵妙が大軍で合戦を仕掛け勝利。

忠督は三浦氏を頼り落ちていった。


(ゆ)

忠督が扇谷配下なら三浦がそこへ合戦を仕掛けてた上に

納付先まで三浦へ変更させてしまうことは

絶対有り得ないとまでは言えないが、おかしいように思う。

伊勢による神奈川侵攻・八丈島での三浦・忠督の合戦は

1514.5の扇谷・山内の和睦より前

つまり

扇谷・山内が敵対関係にある中で行われたのでは。

忠督が山内配下だったから

三浦から攻撃されたと考える方が理解し易い。


(ゆ)

三浦は伊豆諸島へ兵を出せる状況にあった。

つまり伊勢側の包囲は

そこまでガチガチのものではなかった模様。

(あるいは包囲が続いていたのかも不明)

であれば海上から新井城へ

兵糧を入れることも可能だったのだろう。


⑳1514.3

山内が武蔵荏原郡まで侵攻。扇谷と対陣。


㉑1514.5

山内が再び荏原郡へ侵攻。

これを受け、扇谷は山内と和睦。

扇谷は家宰の太田永厳を相模西郡へ侵攻させる。


㉒1514.10

伊勢に降った忠弘(忠督の弟)が代官として任命され

八丈島へ赴任。


㉓1515.4

三浦方の奥山忠督・朝比奈弥三郎が八丈島へ上陸。

伊勢側も援軍を忠弘の下へ派遣。

五月、両軍は城郭を構えて対峙。

六月、伊勢方の援軍として朝比奈恵妙軍が到着。

両勢、合戦に及び、伊勢方が勝利。

忠督は降伏、弥三郎は下田で斬首された。

これにて伊豆諸島の帰趨は決した。


(ゆ)

平子氏の一件だけ見ても

伊勢が行った相模中郡侵攻以降の攻撃は

扇谷だけでなく、山内に対する敵対行為となっていた。

この事実は三浦滅亡後に

伊勢が山内憲房・高基と和して武蔵扇谷を攻める戦略

(1513.3~1514.5の時点では

扇谷を伊勢・山内が攻めるという状況が出来上がっていた)

を採らずに

真里谷を扇谷・政氏から引き離すという

戦略を採った一因となっていた可能性がある。

まあ山内としては

曲がりなりにも配下だと思っている扇谷を攻撃する伊勢に

敵意を募らせていた可能性も高い。

ともかく

他国の兇徒呼ばわりは

ここらへんの所からも来ているのではないだろうか。


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