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北条戦記  作者: ゆいぐ
幕間 石巻家貞集中講義
31/43

31 石巻右衛門家貞 講義『北条早雲伝 伍』

●本分・後書きにおける図は

『戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ(http://sengokumap.net/)』様の地形図を使用させて頂いています。


●以下は創作(後書きの史実年表含む)に際して解説・主張を参考にさせて頂いている方々です。


(黒):黒田基樹氏の主張・推測(以下同文)

(家):家永遵嗣氏

(大):大石泰史氏

(鈴):鈴木将典氏

(平):平野明夫氏

(松):松島周一氏

(新):新行紀一氏

(鳥):鳥居和郎氏

(森):森幸夫氏

(下):下山治久氏

(木):木下聡氏

(西):西股総生氏

(真):森田真一氏

(則):則竹雄一氏

(P):ブログサイト『Papathana'sブログ』様

(ド):ブログサイト『ドンちゃんの他事総論』様

(今):ブログサイト『今川雑記』様

(狂):ブログサイト『古城址狂が行く!越後の古城巡り』様(至徳館関係の情報を参考にさせて頂きました)

(ら):ブログサイト『戦国らいふ』様

(鬼):ブログサイト『鬼無里~戦国期越後を中心とした資料的検討~』様

(右):youtube動画『右京大夫政元』様(主に上方関連の情報を参考にさせて頂きました)


(ゆ):ゆいぐ(作者本人)


●上条定憲について(後書きで記載のつもりが字数オーバーの為前書きに記載)

(鬼)

ブログ内記事「上条上杉氏の系譜1」において

上杉清方の息子に定顕・房実(定実父)・房定(房能父)がおり

定憲は花押の類似性から定顕の息子の可能性があると主張。

(ゆ)

wiki近世上杉氏系図に沿って当てはめるなら

定憲は為景正室の兄弟ということになる。


長綱(ちょうこう)と綱成が館を出てしばらく(のち)、昼頃に家貞がやってきて第六回講義が始まった。


「今日は古河(こが)公方足利政氏公の嫡子高基(たかもと)公が下野(しもつけ)国宇都宮城へ移座してしまった所からだな(一五〇六・永正三年四月)」

「よろしくお願いします」

「うむ。では始めよう。

両公対立のきっかけは二元政治だ。足利義政公・義尚公の所でも同様の話をしたが、実権をいつまでも手放さない政氏公に高基公は辟易していたのだ。無論、政氏公と連帯を強める関東管領上杉顕定の台頭に対してもな。故に高基公は自身の後ろ盾となる権力者を求め、それを下野宇都宮家当主の成綱(しげつな)―高基の岳父(舅)―が二つ返事で引き受けた。結果、両陣営は数度の和睦を挟みつつ衝突を激化させていくことになる」

「前回の『歪な力関係』の話に当てはめると……宇都宮氏が力を持ち過ぎていたということですか」

「受け皿となり得るだけの力を備えていた為に親子喧嘩が勢力争いに進化してしまったというとこだな。そしてこの第一次抗争そのものより、後の宇都宮家内訌(ないこう)や古河公方家分立の発火点となってしまったことこそが注目すべき点だ」

「ふむふむ……。

しかし……高基公の反抗的な振る舞いも良くない気がしますが」

「確かにな。後々の経歴も含めて見ると享徳の大乱を引き起こした祖父の成氏(しげうじ)公を彷彿とさせる」

「うろ覚えですが代々の古河公方様達も問題を起こしてばかりいますよね……。

体制とかも重要なのでしょうが、そもそも関東の足利一族がどうしょうもないのでは……」


家貞はちょっとのけぞった。


「お主は……面接の時からそうだが、割と過激な考え方をするな」

「そうですか……」

「まあ一理あるし、北条家として後々どうなっていくか分からない部分もあるがな。要するに後継者に対する教育も治世の要だということだ」

「はい」

「先へ進めよう。話は上方に移る。これも家督継承を巡って起きた事件だ」

「上方と言うと将軍家ですか」

「いや、京兆(けいちょう)細川家だ。

高基公移座の翌年(一五〇七)六月、あの細川政元が暗殺された」

「……!」

「京兆家では数年前から家督を巡って対立が起きていてな。後継者候補三人のうち澄之(すみゆき)派の家臣が主の不遇を怨み、遂に凶行に及んだのだ。これによって澄之は家督を継いだがその権勢は僅か四十日余りで潰えてしまう。同じ候補者だった澄元と重臣の三好之長(ゆきなが)、そこに与した高国(候補者の三人目)の軍勢に攻め立てられた末、澄之は自害へと追い込まれたのだ。

ただこれは始まりに過ぎなかった。次は三好之長の専横に反発した畿内諸勢力が高国の元に結集し、家督を継いだ澄元派と徐々に対立を深めていく。

一方で上方の混乱を知った周防の義稙公は大内義興の軍を主体として中国・四国から兵を集め、再び京を目指した」

「おお……。一気に急展開ですね……」

「対する京の将軍義澄公・澄元らは義稙公との和睦を考え、その交渉を高国に命じる。だが高国がこれに背き出奔(しゅっぽん)。義稙公・義興と連絡を取りつつ、自軍に呼応して挙兵した摂津・丹波の国衆と共に京へ侵攻する。結果、澄元と三好之長は敗走。義澄公も高国から禅譲を勧められると観念し、僅かな供を連れ近江へ落ちた。

その後、高国は上洛した義稙公を迎え入れる。こうして義稙公は苦節十五年の逃亡生活の末、再び将軍職に返り咲いた(一五〇八・六月)。まあこの後も両陣営の覇権争いは続いていくのだがな」

「それでも終わらないんですね……。でも、将軍だった義澄公に味方する者は少なかったんですか?」

「うむ。諸大名に動員要請はかけていたようだがな。曲がりなりにも政権の中枢であった細川家が内乱で分裂してしまった為、見限る者が多かったのだろう。何より上洛軍が迫っていたからな。例によって日和見する者達もいたと思われる」

「なるほど……」

「さて。話を再び関東に戻そう。

宇都宮へ移座した高基公が小山(おやま)城(祇園城)の小山氏(政氏側)へ攻撃を行う等したのを皮切りに、両公は下野・南奥(なんおう)諸氏(岩城・白川・小峰)に軍勢催促をする等して騒ぎを広げつつあった。

この事態を憂慮した山内・扇谷両家は和解の斡旋に動き出す。ただしそれはあくまで政氏公側に立った、つまり高基公に対して顕定へ許しを請わせる(起請文提出)といった内容の和議だった。勿論高基公は本心から納得などしなかったのだが、当時はまだ政氏公を支持する勢力が多かった為これを受け入れて古河へ帰座する(一五〇七・八月)。これで一件落着となるかに見えたのだが……」

「……?」

「今度は越後上杉家で守護代長尾為景が当主(守護)の上杉房能(ふさよし)(政氏・顕定同様に義澄派としてやってきた)を攻め、討ってしまう。そうして為景は房能の従弟である上杉定実(さだざね)を新たな守護に擁立した(定実は房能の養子。定実の父は房実(ふさざね)とされている)」

「あちこちで……」

「従来、越後では先代守護(越後で政務を執り続けた)房定(房実の兄にして房能・顕定の父)の頃から長年守護代を務めてきた長尾能景(よしかげ)(為景父。前守護代)が実権を強く握っていた。

加えて、越後上杉家が関東の乱に対応する役目を担っており、実際に派兵が重なって国の財務もそれに備える向きが強くなっていった経緯がある。守護の権力を強化することでより確実な徴税を行おうとした房能に対し、この能景(よしかげ)(為景の父)は不満(関東の為にばかり兵と銭を出せるか)を高める国衆側に立ち、それでも穏便に狡猾に自分達の権益を保持し続けてきたのだ。

だが若い為景(二一)は野心を抱く定実と結び、守護の交代という道を選んでしまった。まあ当時の成り行きもあったとはいえ、その突出した武勇と胆力を窺い知れる事件だと言えるだろう。

そして為景の下剋上は京都外交においても期待通り話が運んだ。京で政権交代した義稙公・高国は自陣営に与する勢力を求めていた為に、難無く定実の守護と為景の守護代補任(ぶにん)について許可が下りたのだ(一五〇八・十一月)。

――だがこれで収まらなかった者がいる」

「確か……関東管領の上杉顕定は房能の兄でしたよね」

「そうだ、顕定にとって越後上杉家は実家でもある。

ただ、下総古河では対立構造を抱えたままだった両公が再び抗争を再開しており(第二次)、更には顕定に帰参していた長尾景春も為景に乗じて上野で挙兵していた。顕定が目指した関東統治(公方管領体制の復権)は崩壊寸前に陥っていたと言える」

「……」

「顕定はそれらを応急的な対応で抑え込み、ようやく越後へ出兵する(一五〇九・七月)。

この顕定勢によって府中から追われた為景・定実は越中へ後退した。そこで為景は劣勢を覆すべく姻戚関係にある北信濃国衆高梨氏や反山内上杉である景春・早雲公へ支援を要請したのだ(景春は上野・武蔵で神出鬼没に活動中)」

「……」

「先に説明した通り伊勢家中は早雲公を筆頭にして関東の旧勢力を討つ方向でまとまりつつあった為、関東と上方の情勢を把握した上でこれに応じようということに決した(京の義稙・高国は定実・為景の地位承認に加え、奥州の伊達尚宗に対しても為景の救援に向かうよう命令を出していた。また前年、三河で義稙側の戸田氏を援けて義澄側の牧野氏を滅ぼした今川氏親も遠江守護に任じている)。

もっとも前回説明した通り、早雲公はもはや幕府を当てにはしていない。その意向を配慮したのはあくまで関東での孤立を避け、周辺勢力から味方を得易くする為だ」

「ふむふむ……」

「こうして伊勢家は伊豆侵攻以来十五年に及んだの扇谷上杉との盟約関係を、山内上杉とは三年近く続いた和睦関係を破棄して扇谷領の相模中郡へ侵攻(一五〇九・八月)、制圧した(のち)に武蔵久良岐(くらき)郡(神奈川県横浜市東部)へと進み扇谷方だった上田蔵人を降すと更に江戸城まで攻め寄せた(その後も一五一〇・三月まで武蔵に在陣。江戸城は落ちず)。

また翌年には武蔵多西郡方面へ侵攻して椚田(くぬぎだ)城を攻略している(一五一〇・五、六月。同じ頃津久井領へ移っていた長尾景春が挙兵)。

そして伊勢側の思惑通り、この関東管領家の不利を受けて古河公方家では両公の第三次抗争が勃発した。高基公は側近梁田(やなだ)高助の下総(しもうさ)関宿(せきやど)城(千葉県野田市)へ移座する。しかも更に同時期、政氏公次男義明(よしあき)公が政氏公への叛意を持って武蔵国太田荘(埼玉郡の東半分)で蜂起した」

挿絵(By みてみん)

「雪だるま式ですね……」

「うむ。後の小弓(おゆみ)公方だな。

一方、越後から為景らを追い出した顕定だったがこちらでは強硬な施政に国衆が反発し、それに乗じた為景が反攻に出る。劣勢となった顕定は上野へ退こうとするのだが、上田長尾家の寝返りにより退路を失い……」


治郎は唾をゴクリと飲んだ。


「最後に上田荘長森原(新潟県南魚沼市)の戦いで高梨勢に敗れ、討たれしてしまう(六月)」

挿絵(By みてみん)

「壮絶な最期ですね」

「うむ。顕定は早雲公の伊豆侵攻前から実に四十五年もの間君臨し続けたのだ。

そして同時にこれは伊勢側にとってまたとない好機だったとも言える」

「確かに……」

「だが残念なことに当主の討死・越後での敗戦を経てなお関東管領家の軍事力は頑強だった。顕定が越後で討死した翌月、新たな当主に就いた顕実(あきざね)から援軍を得た扇谷上杉朝良が久良岐方面で反攻に出る。更にその翌月には三浦郡の三浦氏も相模中郡へ攻め込んだ。

扇谷家は前年から取られてきた武蔵南東部を奪還するにとどまらず、津久井郡にも侵攻、これを制圧する。その上、上野から景春勢力が落ちていったことで上野・北武蔵の山内上杉家中・国衆が大軍で相模へ侵攻。扇谷・三浦勢と共に小田原城へ攻めかかった」

「……!」

「伊勢側は大道寺(だいどうじ)発専(ほっせん)(重時。盛昌の父)殿の討死を始めかなりの損害を出しながらこれを撃退するが、二月後には再び扇谷勢の侵攻を受ける(一五一〇・十二月)等しばらく不利な状況が続く」

「返り討ちに遭ってしまった形ですね……」

「うむ。だが折良くと言うべきか、以前に扇谷が古河公方家に降った後の変遷をなぞるように、今度は山内上杉家で内乱が起こる」

「……」

「永正八年(一五一一・九月)、関東管領職と家督を巡り当主顕実(あきざね)(足利政氏の実弟)と憲房(のりふさ)(一門最年長)が上野で軍事衝突した。更にはここに古河公方家の内乱が結び付く。政氏公が顕実を、高基公が憲房を支援することで戦線は拡大していった。取り残される形となった扇谷上杉当主の朝良は和睦の斡旋に動くが聞き入れられず、結果扇谷と伊勢の間でひとまず和睦が成立する(十一月頃)」

「……」

「それから半年後、憲房側が顕実本拠の鉢形城(武蔵国大里(おおさと)郡。現埼玉県寄居町)を攻略した為、顕実は政氏公の古河(こが)城へ落ちていった。そして更に翌月、今度は関宿城の高基公が古河城を攻撃して制圧。政氏公は下野国小山(おやま)氏の本拠小山城へと落ちていき、第三代古河公方に高基公が就任した(一五一二・七月)。またこの頃から義明公は政氏公と結び高基公に対立していく」

「おお……。扇谷の上杉朝良も高基公に降ったのですか?」

「いや。朝良は和睦の斡旋を行っていた時同様に政氏公側に立ち続けた為、憲房・高基公と対立していくことになる。再び上野・武蔵南西部・下総西部に敵対勢力を抱えることになったわけだ。

そして国力の回復に努めてきた伊勢側はこの機を逃さなかった。扇谷との和睦を破棄した(のち)猛反撃に出る」


●史実年表等

例によって間違いがあるかもなので注意して下さい。またいつも以上に記述が整理されていません。読んで下さる方はご容赦下さい。


1506.4

古河公方足利政氏嫡子の高基(たかもと)が宇都宮城へ移座。

政氏・高基間で抗争が開始(永正の乱勃発)。


高基:

「高」は将軍足利義高(義澄)から授与されたもの。

「基」は初代鎌倉公方・足利基氏より。


(黒)

高基麾下の宇都宮氏をめぐる国衆の争いに

高基が担ぎ出された(正当性の獲得)というのが実態か。

長享の乱終了により、両上杉氏と古河足利氏が一体化し

下部勢力としては拠るべき対立軸が消えてしまった為

今度は足利家内部にそれを求めて、という経緯と思われる。

この永正の乱を通じて古河公方足利家も領域権力化を遂げていく。


(則)

高基が宇都宮へ移座した当時

古河公方家臣は政氏派が多数で

高基に従う者はほとんどいなかった。

(それでも)

高基は下野の諸氏の抗争に文書を発給して介入し

同国における政氏の最大有力支援者小山氏を攻めている。

また南奥(なんおう)諸氏にも

懐柔要請(抱き込もうとしたか)を行っている。

対して政氏も

宇都宮の背後を攻めるべく

白川・小峰・岩城といった勢力に軍勢催促をし

高基もこれに対抗している。

第一次抗争の頃はまだ

小山攻めに関して諸氏から政氏への報告が多く

政氏を支持する勢力が多かった。


(ゆ)

かと言って翌年の和睦では

政氏側が実子高基はともかく

宇都宮成綱にさえ責任は負わされていない模様。

政氏も諸勢力の積極的協力は

得られなかったのではないかと思われる。

ただし

この第一次抗争が後の宇都宮家内訌や小弓公方挙兵の

発火点だったであろうし

為景の叛意を増長させる助けにもなっただろうと思う。


(則)

1503と1505で高基の花押が変化しており

宇都宮成綱のそれと類似性が見られる。

故にこの間に宇都宮成綱の娘瑞雲院との婚姻関係が成立した

と思われる。

また北関東伝統豪族との婚姻は高基に見られるのみであり

これによる権力構築が政氏との軋轢の一因となった。

ちなみに

古河公方家は筆頭重臣の簗田氏と婚姻関係を結んでおり

持氏に興禅院(満助娘。成氏を生む)

成氏に伝心院(直助娘。政氏を生む)

政氏に安養院(持助娘。高基を生む)

が嫁いでいる。(『古河公方と伊勢宗瑞』巻末家系図より)


(ゆ)

鎌倉府成立(他説では更に前)の頃から

関東公方足利家に仕えてきて重臣・姻戚となっている簗田氏と異なり

(家格は高くとも)外部勢力である宇都宮氏を

政権中枢に組み入れてしまう事を政氏は良しと思わなかった模様。

他方、高基からしても政氏の発言力は

関東管領上杉家を背景としているわけで

関東管領・古河公方で連帯して

実権を持ち続ける(家督を手放さない)政氏(顕定も)を

良く思っていなかったのだろう。

(則)によればこの婚姻の約定自体が既に

政氏の意思を離れたものだったことになりそう。


(則)

なお、古河足利公方家には先代成氏の代から

家督継承時期において

前代「大上様(おおうえさま)」と

後代「御方御所様(おかたごしょさま)」が

同一主旨の文書を発給するという

共同の権力行使体制(両上様体制)が取られており

この二元政治が両者の対立を生み出す一因となった


1506.6

親政氏である扇谷配下の国衆三浦氏が

高基側である下総(しもうさ)千葉氏を攻撃。

同時期に顕定が政氏・高基の和解を斡旋しており

顕定から扇谷の長老的存在の上杉朝昌を通して

三浦氏に撤兵が呼び掛けられ、実現する。


朝昌:朝良の父。朝興の祖父。朝興は朝良の甥。


1506.7

上方では赤沢朝経軍が大和へ侵攻。

9月にはこれに三好之長軍も加勢。

大和は蹂躙される。


(鳥)

一方、政元が山科(やましな)本願寺に趣いた。

『実隆公記』7.15に『細川東国進発之由風聞』とあり

(にわ)かに政元による東国出征の噂が広まった。

一方『宣胤卿記』7.16には

『自彼坊直下北州云々』とあり『北州』へ下る為と記されている。

(北洲:北陸)

(政元の修行願望の話の一つに過ぎないとの解釈もあるが

1505には河内誉田城攻めで実際に門徒千名が参陣している)


ともかく東国出陣の可能性に早雲側が対応したと思われ(鳥)

浄土真宗『禁教』かそれに次ぐ措置がとられたと思われる。(鳥・他)


(1506に『禁教』的政策がとられたとする根拠は

1566の浄土真宗本願寺派善福寺に宛てられた北条家掟書に

『60年間禁教政策が採られてきた』的な文章があることによる。

ただし、この早雲の対応が契機となって

北条家が浄土真宗を現実に60年間禁教とし続けたか否かは

諸説あり)


(ゆ)

早雲の対応を見るに、政元・今川間は

現実に軍事的衝突が起きてもおかしくない間柄であったと思われる。

そして後述の三河門徒の話も踏まえると

少なくともこの時期は今川(早雲)・本願寺間は

義稙・政元というそれぞれの頭目に属する形で

敵対関係にあったと思われる。


1506.8

(松)

氏親から三河国人奥平貞昌に宛てた書状に

戸田・奥平を窓口として三河の諸勢力を味方に引き入れようとした

今川の姿勢が見える。

また

少なくとも上野(現豊田市上郷町)辺りまでの

進軍を見込んでいたことが見てとれ

三河北部の中条氏との連携を視野に入れていた可能性がある。

ちなみに水野氏に関しては

1508に義稙から下野守に任官されており

いつの時点からかは不明だが義稙派だったことが窺える。


★『金言和歌集』の中に

(せい)かす(数)をたてて 参河の国をなと

せめてみよしに もたせさるらん』という歌があり

義稙派の者達の心情を詠んだ歌と捉える三氏(平・家・松)が

解釈(『金』と記載)をしている。

(細川成之:阿波守護細川家(讃州家)の実質当主。

子の義春・政之を早くに亡くした為に三好氏の台頭を招く。

澄元の祖父)


(平)

永正三河の乱の背景として

明応年間の室町幕府の動向に連動して義稙派に属した今川氏が

義澄派の三河守護職細川成之に近い松平氏と対立があった。

『金』:

三河在国の成之配下の兵達に

早く三河を進発してもらい上洛してほしい。

三河などは三好に任せておけばいい。

(成之は義稙派という想定。成之本人が三河にいたわけではない)


(家)

奉公衆の所領が集中していた三河の支配は

奉公衆の動向を規定する為

明応の政変以降

義澄派と義稙派にとって対決点となっていた。

『金』:

成之に管轄国の三河へ三好を出兵させて

自分達の所領を回復してほしい。

(成之は義稙派という想定)

((ゆ)ただ成之の孫澄元は1503時点で細川政元の養子に入ってる)


(新)

局地的には牧野・戸田の領地争いだったが

大局的には反政元派の活動の一環として

位置付けられるものだった。


(松)

『金』:

三河の成之配下の兵に

とっとと三河から出勢してほしい。

そうすれば三河を攻めて

三好の支配を除くことが出来るのに。

(成之は政元・義澄派という想定)


(P)

西三河において

本願寺教団と岩津松平家の惣領は細川政元が押さえていた。

(ともかく本願寺と政元の影響が西三河に及んでいた模様

細川政元と対立する足利義稙派にとって西三河の地は

細川氏支持派が支配する土地と映ったに違いない。


(ド)

1506.4に讃州家澄元と三好之長が兵を率いて入京。

澄元は高国・澄之と対立する姿勢をとる。

(政元は澄元配下の三好の軍事力を買い、結び付きを強める)

今川氏親は高国に与したようで

讃州成之が治める三河へ侵攻した。

1506.8に今川は

『幕府・伊勢氏(宗家)が

三河分郡守護を務めた所領回復の為

伊勢氏代官・松平家の横領を停止させる』と

大義名分を上げて兵を起こした。

幕府から三河討伐を今川氏親に命じたのだろう。

(ゆ)

松平が他国人同様に代官領を

そのまま横領していた可能性はありそう。


(ゆ)

明応の政変以降も三河には守護が任命されておらず

群雄割拠状態になっていたと思われるが

(平・松)両氏が三河に阿波細川氏の兵力が

駐屯していた時期があったと推定していることは

参考になる。


1506.9-11

後、早雲は氏親に従い、三河へ進軍。


(家・松)

今川と義稙の仲介を務めている吉良義信(松)が

早雲に対して吉良庄安堵の返礼の文を送っている。

ここで既に義稙側に氏親・早雲が付いていることが

見てとれる。


(黒・大)

この進軍には遠江の後方攪乱と

牧野氏と争う戸田氏を支援する目的があった。

(鈴)

義澄・義稙の対立に基づく争いでもあった。


(ゆ)

戸田氏の勢力拡張の為の謀略に牧野氏がはめられて

両者の争いに乗じた今川・伊勢が東三河へ進出したが

その大義名分は三河の親政元派・親斯波派の掃討であり

あるいはその先に尾張斯波の打倒も見据えていたかもしれない。

という印象。

ともかく

早雲・氏親は新たな包囲網が形成されぬよう

侵攻対象を慎重に選択していたとは思う。


吉良氏:

(wiki)

足利一門。室町幕府においては

足利将軍家に次ぐ待遇を受ける

足利御三家(足利氏御一家ともいう。他に渋川氏・石橋氏)の筆頭。

「御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ

吉良が絶えれば今川が継ぐ」と俗に言われ

家格は足利一門の三管領家(斯波・細川・畠山)より上。


吉良義信:

応仁の乱頃から京都で主に活躍しており

義政・義尚・義稙・義澄・義稙と仕える。

ちなみに

1498.12-1501は屋敷に篭り出仕拒否をしている。

1507の澄之・澄元の抗争では皇居の警護をしている。

1508の義稙入京時には

義信自邸を仮御所としており親密さが窺える。


三河国:

(P)

三河は足利一門の第二の創業地で

伊勢氏宗家が管理する将軍家直轄地や

一門衆筆頭格の吉良氏の領地があるだけでなく

六代将軍義教による粛清を受けた前々守護一色義貫の被官衆の領地がある上

本願寺教団(浄土真宗)の拠点まであり

それを支える国人・土豪衆も少なからずいた。

阿波細川家の成之(澄元の祖父)は

養父の前守護持常より三河国を受け継いだものの

持て余し気味であったようで

1465の額田郡の国人一揆も単独では鎮圧できずに

伊勢氏被官衆の助力を請うたり

応仁乱中では国中の国人・土豪達が

それぞれの思惑で独自行動を取ったりしていた。

おまけに応仁乱中には

細川勝元から讃岐守護の兼務を命じられて讃岐国人衆の取り込み行う中で

三河国守護としてまともに支配力を及ぼすことができていなかった。

そして乱後は三河に守護は置かれず

守護代や国人等が割拠する国となった。


本願寺:

親鸞を開祖とする浄土真宗。

蓮如(1415-1499)は伊勢宗家の庶流から二人を室としており

伊勢宗家と親しい。また日野家も浄土真宗に帰依しており親しい。

蓮如は親政元派であり北陸や河内の一向一揆を操って

義稙派大名(畠山・朝倉等)と戦わせている。

他方、七男蓮悟は義稙配下の伊勢貞仍(いせさだより)とも親交があったようで

(貞仍は伊勢一族の中では珍しく当初から?義稙派)

義稙が越中から越前へ移る際に

少数の義稙一行を加賀を素通りさせてもいる。

ちなみに

石川数正・家成の祖である政康は下野で蓮如に会い

従って三河へ移ったとされている。

以降、石川家は三河の浄土真宗門徒の総代的立場となる。

(P)

ただし

1494に松平親忠によって石川家の本拠小川城が制圧され

親忠・長親の代で

桜井、青野、藤井、福釜、東端と

矢作川下流域から油が淵に至る

本願寺教団の諸寺院を囲むように松平の分家が置かれる。

本願寺は松平を快く思っていなかっただろう。

門徒武士は本願寺と松平という二つの主を持つこととなった。


(右)

1504~1505で河内畠山は義稙派に統一された。

畿内で細川は両畠山氏の相手をすることに。

大阪に門徒を抱える本願寺は対応を迫られて

蓮如の様に義稙と縁組しつつも政元と仲良くとはいかなくなった。

実如は細川に付くことを選択。

ただ結局、大阪の門徒集は実如の軍事命令を拒否。

自衛・信仰を侵害されない限りは武器を持たないと。

他方、加賀の門徒衆は畿内への参陣に応じた。

好戦的な門徒の誕生か。

加賀門徒が畿内から加賀へ帰った後

仏法の敵を蹴散らせという命令が出され

加賀一向一揆の一斉蜂起(1506)

越中一向一揆へと繋がっていく。

この一斉蜂起の直前、政元は山科本願寺を訪れている。

北陸へ下向して直接指揮を執る為の協議では(神)

この頃、政元は阿波細川・畿内畠山・大和仏教勢力と対立し

義稙への警戒もあり、危機的状況にあった。

ただ畿内対応の為に結局立ち消えに。


(wiki)『般若野の戦い』

細川政元が自身の権力強化の為に有力守護大名の力を削るべく

能登畠山氏・越前朝倉氏に目を付け

両勢力から圧迫を受けていた加賀本願寺9代法主実如と手を組み

門徒に両国へ侵攻させた。

越前は朝倉宗滴が対応した為に九頭竜川の戦いで返り討ちにされたが

能登は内乱状態、越中は諸守護代がまとまって対応できなかった為に

侵攻が続いた。

後、能登は両畠山氏和解によって内乱が収まった為に門徒を撃退。

結局反政元・本願寺連合の唯一の穴である

越中へ門徒がなだれ込むこととなった。

越中守護畠山尚順は畿内で細川と争っていた為に身動き取れず

越後の上杉房能へ救援要請を出した。

房能は門徒が越後へ溢れることを警戒して要請に応じ

守護代長尾能景が出陣する(1506.9)。

神保氏の裏切りがあり、能景は討死。

府中長尾家家督を為景が継ぐ。


府中長尾家:

元々三条長尾家だが府中に移り住み(但馬屋敷・長尾館)

府中長尾家と呼ばれるようになった。

但馬屋敷のすぐ南西側には

守護所(政庁)である至徳館(しとくかん)がある。


(ゆ)

(家)によれば房能は一応1500前後に

古河公方・山内上杉と共に義稙派から義澄派へ

転向したわけで

しかも政元は過去に越後に下向して外交活動しており

房能とは面識を得ているわけだから

親細川政元の本願寺からすれば

越後上杉と戦う事態は避けたいと考えるのではと

思ったのだが、難解である。

一向門徒がそれだけ制御が効きづらい存在だったのか

房能は義稙にも義澄にも良い顔をしていただけで

どちらに対しても軍事支援を行う気はなく

領内の安定・自身の権力(守護職)維持を第一としていた

という辺りなのだろうか。


◆以下、しばし三河の話です。

挿絵(By みてみん)

三河松平氏:

応仁の乱前後で阿波細川・伊勢宗家と結び付き

三河で小豪族から急成長してきた為に

長親の頃は三河内外の他勢力から敵視されていた模様。

他方で上述の通り、親政元の本願寺を

警戒はしていた模様。


(ゆ)

ただ本願寺は親政元であるし

仮に松平も親成之を継続していたならば

1506当時、政元は阿波細川成之との協調路線を受け入れているので

本願寺・松平は反今川という点では協調路線を取れるように思える。

だが

1506-1508頃に関して

松平としては今川に従うという選択肢もあっただろうに

そうはしなかったのが何故か。

阿波細川に縁故のある家が多かったのか。

本願寺の方針が親政元であった故に、三河の門徒武士もそれに倣い

松平家中の方針が親政元に傾いていったか。

この疑問には

『三河守護職細川成之に近い松平氏(平)』という主張以外は

今のところ、回答となる解釈を見つけることが出来ていない。


(P)

ちなみに松平一族は浄土宗を奉じ(浄土真宗には非ず)

一族の結束に大樹寺(だいじゅじ)を活用したが

家康の代に至るまでは

家臣に対して浄土宗への転向を勧めることは基本的になかった。


松平長親:(1473-1544。現在は長忠と呼称する模様)

三河の安祥(あんしょう)城城主。安祥松平家二代当主。別名長忠。

徳川家康の高祖父(孫が清康でその孫が家康)。

叔母は戸田宗光に嫁いでいる。

祖父・父は伊勢宗家の被官でもあった。(wiki)(P)

(ド)によれば長親も伊勢宗家の土地の代官。

今回(1506)は今川・伊勢とは直接対決してはいない模様。

この時点での戸田家との関係は不明。

(平)によれば親細川勢力。


松平信光:(1404?-1488?)

三河の松平惣領の岩津松平家初代当主。長親の祖父。

応仁の乱頃、伊勢貞親に仕えた。

東軍に属して細川成之と共に、三河復権を狙う一色氏を破った。

戸田宗光に娘を嫁がせる。

信光が岩津城を攻略して後、本拠を松平郷から岩津城に移した。

その岩津城を継承したのが親長。

ただ応仁の乱以降の松平家の急激な発展により

三河国内外の他勢力と敵対関係を深めるようになったとのこと。(wiki)


松平親忠:

信光の三男。

子供に親長・長親がいる。


松平親長:

親忠の子。

1476-1480は京都に出仕し、伊勢氏に仕えた。

1508に今川が攻めてきた時の

岩津松平親長の本拠が岩津城らしい。(黒)


松平信忠:(1490?-1531)

長親の子。1508当時は既に長親から家督を継承していたが

実権は長親が握っていた。


松平宗家当主:

- 信光 - 親忠 - 長親 - 信忠 - 清康 - 広忠 - 家康 -


戸田宗光:(1439?-1508)

父が正親町三条氏の出であり

正親町三条実望は氏親の義兄で義澄側近。

妻は徳川家康の祖先信光の娘。

伊勢宗家の被官。

西三河田原領の国衆。

1501時点では松平方。

1506-1508頃は今川方。


牧野古白:

三河国衆。1495時点で義稙派だった。

義稙から三河旗頭に命じられたとも。(wiki)

1505に松平氏への押さえに氏親が

古白らに今橋城を築かせ古白が初代城主となる。(wiki)

戸田氏に対抗する為だった説も。(wiki)

後、戸田が今川に『牧野が松平に内通している』と讒言した為に

牧野が攻められる羽目になったとも(wiki)

1506に今川・伊勢・戸田に攻められ古白は自害した。


(鈴)

古白は討死当時は義澄派であった。

この時期既に今川・伊勢は義稙陣営に与していた模様。


(ゆ)

正親町三条実望繋がりで

戸田・氏親・早雲が結び付いていたとするならば

義澄は実望の仲介を知り

認めていたということだろうから

義澄と早雲の仲に関してはそこまで悪化しておらず

(あるいは義澄は氏親・早雲に然程関心を持っていなかったか?)

政元の動向が早雲にとって問題になっていた

とも思える。

義澄的には今川・斯波の仲が悪くて困る

位の感覚だった可能性もありそう。

少なくとも義澄は

肉親の仇を早雲にとってもらっているわけで

その点は恩を感じていただろう。


1506.9-11

早雲は同じ伊勢一族の関氏を通して

その主筋の

信濃松尾小笠原定基を今川方に付けた。


また幕府奉公衆の伊奈氏の一族である伊奈盛泰が

早雲の家臣として働いていることが確認されている。


11月に今川軍は三河へ侵攻。

今橋(いまはし)城(後の吉田城)を攻略(今橋合戦)。

また石巻(いしまき)

八名(やな)郡石巻郷。現豊橋市石巻町の石巻山城)を攻略。

(石巻は石巻家貞の一族の出身地とされる)


今川軍は更に西三河へ進軍。

早雲は三河の吉良庄(現西尾市)を治める吉良義信の家臣に

挨拶の返信的な書状を送っている。


1507

正親町実望の子、公兄(きんえ)が駿河へ下向。


扇谷上杉朝良の妹が山内上杉憲房に嫁ぎ

両家の同盟(婚姻)関係が復活。


山内上杉憲房:(1467-1525)

永享の乱で足利持氏に討伐されかけた関東管領上杉憲実の孫。

享徳の乱のきっかけとして

足利成氏に謀殺された関東管領上杉憲忠の甥。

顕定の養子となっていたが

(長尾景春の乱末期には

景春によって山内家当主に擁立されている)

1507に顕実が顕定の養子となり

山内の家督を継ぐことが決まった為

庶子の立場が確定している。

もっとも顕定・顕実とは別にれっきとした兵力を有しており

長享の乱等、各地で転戦した模様。

後、足利高基の次男憲寛を養嗣子とする。


顕実の養嗣子化について:

(則)

第一次両公の抗争の終結を目指す顕定が

公方・管領体制の修復・補完を図ったことによる。

(ゆ)

がたが来ていた所へ高基によって

もう少しぐらついたからと思われる。


山内上杉顕実:(??-1515?)

古河公方足利成氏の次男。政氏の弟。

(政氏の子とする説も有り)

(wiki)

憲房の叔父を殺害したのが顕実の父であり

憲房の祖父を討伐しかけたのが顕実の祖父。

少なくとも憲実は持氏に確執があった。

(これが後の抗争の一因にあったかは不明

顕定の養子となり顕定の死後に関東管領職を継ぐ。


1507.3

武田信縄、死去(37歳)。

家督は嫡子信虎(13歳)が継承。


1507.6

細川政元は邸内の湯屋に入ったところ

澄之を擁する内衆香西元長・薬師寺長忠ら

の企みにより祐筆に殺害される。


背景に澄之の不遇・赤沢朝経の処遇への不満

三好之長が元長の出身国讃岐に政治介入し始めていたこと

等があった模様。


内衆は更に澄元・三好之長の屋敷に攻め寄せ

澄元らを近江に敗走させた後

澄之に細川京兆家の家督を継がせる。


他方、細川高国は澄元・三好之長陣営に与する。

彼等は河内・山城等で澄之・内衆の拠点を制圧。

澄之は山城の宿所、遊初軒(ゆうしょけん)にて自害。


同月、幕府は義稙を支える大内義興の追討令を安芸・石見の国人らに出す。


なお、6月かは不明だが

澄元・澄之の争いの中で澄元によって

親政元派だった本願寺実如(蓮如五男)が山科本願寺を追放され

近江堅田御坊に逃れている。


細川野州(やしゅう)家:

京兆家の分家。

室町幕府管領細川頼元の一子満国(備中守護)を祖とする。

その子の持春、孫の教春が

下野守を名乗ったことから野州家と呼ばれた。

(野州は下野国の異称)


細川京兆家:

実質的に細川宗家。


細川高国:

野州家の出。1484生。

高の字は義澄が義高と名乗っていた頃に貰い受けた。

政元の養子だった時期があったが

後、野州家に戻り家督を継いだとする説有り。

ちなみに当時の野州家は

備中国浅口郡と伊予国宇摩郡の分郡守護を務めており

阿波細川家ほど大きな家ではない。


1507.8

澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督を継承。


関東では

政氏側に立つ両上杉氏によって和解が斡旋され

高基が古河城に帰座することで停戦となる。

顕定は出家し可諄(かじゅん)となる。

(則)

高基は思う様に支持勢力を集められず仕方なく応じた。

ただし

和解内容は政氏の思惑に沿う形で

高基が顕定に許しを請う起請文を提出した。

対立の基本構造は何も解決していない。


そして同時期に越後上杉家で内乱勃発。

当主房能(顕定実弟)が守護代(家宰)長尾為景に攻め殺される。

(関東へ落ちようとしたが追撃を受け天水越(あまみずこし)で自害)

為景は房能の従弟である定実(さだざね)を擁立。


(真)

為景は

房能の養嗣子である八条上杉氏の

権力拡大を懸念し挙兵に及んだ。

(八条尾張守・龍松親子は長森原で顕定と共に討死)


(西)

越後内乱の背景の一つに関東と越後の関係がある。(拙作中で記述)

(西:著書内であくまで想像の域を出ないがと断りあり)

加えて

為景が若かったこともあって

房能と自身の軍事的才覚の差にのみ着目し

安易に謀反に及んだのではないだろうか。


(wiki)

上杉房能の能は烏帽子親である能景の一字であり

先代守護房定の死後、実権を握っていたのは能景である。

(ゆ)

拙作((西)に依拠)で書いた様に

房能が実権を取り戻そうと強権支配を強めていく流れに

繋がったと考え得る。


(他説)

越中の一向一揆征伐に出向いた

長尾能景(よしかげ)(為景父)の討死が

上杉房能が援軍を出し渋った所為だと為景が考えた

とするものもある(あくまで一因として主張)。


★(鬼)

(黒)(真)に沿う形で一次資料の検討をもって定実の野心説を展開。

((ゆ)は(黒)(真)を見てないので、三者の主張が同一かは不明)

この仮説の概要は以下の通り。

古志郡で活動した上条家があり(古志上条家)

系譜の真相は

(親)房実 ― (子)定実・定明

ではなく

(祖父)房実 ― (親)定俊 ― (子)定実・定明

であった。

そしてこの定俊を排して山内上杉顕定の養子『憲明(幼少時)』が入れられ

古志上条家を継承した。

これは憲房・憲明の養父顕定による越後・管領一体化の戦略。

この憲明は山内上杉憲房の実弟。

その後、憲明は長森原の戦い直前の椎谷の戦いで死亡。

古志上条家は定明が継承。

それから時代は下り

1551-1553間に守護代長尾氏が正当性の主張の為に

『天文上杉長尾系図』を作成。

((ゆ)

上杉謙信に関東管領を譲ることになる憲政が越後入りしたのが

1552とされるので(異説あり)、それに際してなのか?)

そして、その系図中では

憲房近縁の憲明が為景側によって討たれた事を隠す為に

系図から意図的に外された。

((ゆ)

憲房近縁の、というのは憲房が憲政の父だから

憲政の叔父を討ったのが為景側だという事を隠したい

という意味か?)


(ゆ)

作者の意見は妄想の域を出ないが

(鬼)を見て疑問は一応あった。

顕定の討死後、憲房が幕府に対して

為景討伐の支援要請をした書状が残っているそうで(森)

何故そこで憲房は自身の正当性を主張すべく

憲明が為景側に討たれたという事実を提示していないのか。

(鬼)では憲明実在の根拠に

この書状を挙げていないので

そこに憲明を思わせる名は無いのだと思われる。

また

越後側の情報が抹消されたとしても

上野の山内側では、曲がりなりにも

顕定の養子だったのだから

古志上条家に憲明が入る時点の記録が残っていそうなものだが

それは見つかっていない。

(顕定の越後討伐時の書状には憲明と思われる名が登場する)

憲政が越後長尾と示し合わせて処分してしまったのだろうか。

なお

上述の仮説を拙作に取り入れるかはまだ検討中。


1507.9

定実擁立に反対する阿賀北衆の

本庄(ほんじょう)時長と色部(いろべ)昌長が挙兵。

色部昌長が平林城(神林村)に籠城し山内上杉に救援を要請。

顕定は救援に向かおうとするも

上野国の長尾景春が

乱に乗じて挙兵し、白井・沼田両城を占拠。

その為に進軍できず。

(白井城は白井長尾氏である景春のかつての居城)


1507.12

周防では京の混乱を受け

義稙・大内義興が周辺国にも呼び掛け上洛軍を組織。

備後の(とも)まで進軍。


この頃、三好之長の専横に反発する畿内諸勢力が高国の元に結集。

また澄元配下の者達による京兆家の政務への越権も有った模様で

澄元派と高国派は対立。


澄元が義興と和議を結ぼうと高国に指示するが高国は出奔。

高国は摂津・丹波の国人等を味方につけ、義稙・義興と結ぶ。


むしろ澄元が京を追い出されて(1508.4)

高国(23歳)が京兆家を継いだという説も有り。


1508

第二次政氏・高基抗争勃発。

(則・那須文書)

詳細は不明だが両者の思惑を超え

在所で様々な所人や雑説を巻き込み展開した模様。

(雑説:種々の風説、うわさ)


1508.1

1506.11-1508.4のいずれかの時期(家による推定)に

(黒は1508初めと推定)

将軍義澄から冷泉為広宛で

(黒:義稙上洛の報を受けてのことと思われる)

『昨年(1507か)に氏親・早雲双方へ書状を出した。

だが早雲は形だけの返事だし、氏親は返事さえ寄越さない。

氏親は義稙と申し合わせているしどうしたら良いか。

今川は父政知が義政に引き合わせてやったわけだし

(『今川家については政知・義政にも申し入れていて』と(黒)は解説)

近年までは親交を結んでいたのに

この様な事態に困惑している。

まあ近年の事はもう仕方ないから忘れるが

改めて忠勤を励むよう書状を出すので

正親町三条実望にそう伝えるように』

的な内容を書いた書状が存在する。


(ゆ)

義澄は『氏親が義稙と申し合わせている』と認識している。

忠勤を奨励するどころか糾弾すべき状況なのに

ましてや動員要請しようという相手に対して

暢気な内容に見える。

表現上穏やかなだけで、内心は激しているのか

もしくは今川の遠江・三河での軍事行動について

政元も死去したこともあって

詳細な理解をしていないのか

他に別の理由があるのか不明。


1508.2

正親町三条実望が駿河へ下向。

義稙の動きを受けて義澄は諸大名に軍勢の動員を求めている。


1508.4

高国が義澄に謁見。

高国は細川家内部のゴタゴタを理由に

義稙に対抗することは不可能と説明。

義澄に義稙へ将軍位を譲るよう迫った。


将軍義澄(27歳)は僅かな家臣を連れて近江へ逃れる。

澄元・三好之長も敗走。

細川京兆家は高国が継ぐ。


伊勢貞陸(いせさだみち)は義澄に従わず京に残り

引き続き政所執事を務める。

息子の貞忠は御供衆に就任。


ちなみに

一条兼良が著作『樵談治要』の中で

応仁の乱頃の世を『戦国の世』と表現したり

近衛尚通(ひさみち)がこの1508.4当時の様子を

日記『後法成寺尚通公記』(近衛尚通公記)に

『戦国の世の時の如し』と記している。

いずれも中国の春秋戦国時代の乱世になぞらえており

公家達がその様な認識を有していたことが

『戦国時代』という呼称の由来となっている。


1508.6

義稙は大内義興を従えて入京。

高国をかなり警戒しつつも、高国に迎えられる。

再び将軍の座に返り咲いた。


京を追われた義澄・澄元・三好氏は巻き返しを図り

以降1509-1532に渡り義稙・高国・大内氏陣営と争う

両細川(りょうほそかわ)の乱)。


氏親は遠江守護の補任を要請し、認められる。

→早雲・氏親は中央からの政治的圧迫を受けなくなる。


(ゆ)

早雲は短いながらも義稙の下で申次衆を務めており

義稙派に鞍替えする際に

その繋がりがほんの少し役立った可能性があるかも分からないが

結局は今川共々

有力守護・国主としての立場を買われたのだろうし

信用されていたかは不明。


(P)

斯波・今川いずれが大きくなり過ぎても困るから

適度に争わせておこう位に思われていたのではないか。


1508.7

戸田宗光死去(69歳?)。

家督は子の憲光が既に継いでいると思われる。


1508.8

(松)

冷泉為広が駿河を発ち上洛した模様。


1508.冬?

大徳寺七十二世住持の東渓宗牧が

早雲に『天岳』の道号を与える。

(『道号頌』(道号の意味・意義についての解説書)より)

(P)

早雲は京の情勢を理解すべく

大徳寺と連絡をとっていたと思われる。


1508.10

早雲が今川軍総大将として西三河へ侵攻。


松平一族の惣領家である岩津松平親長の

本拠岩津城(現愛知県岡崎市)を攻撃。

救援に来た安祥(あんじょう)松平長親軍と

矢作(やはぎ)川近辺で衝突。

田原の戸田氏に不穏な動きがあり、今川軍は撤退。

ただこの戦の結果を受けても

今川に従属している東三河の国衆が離反することは無かったようで

今川方は松平氏にそれなりの損害を与えた模様。

以後、岩津松平家は衰退していき

安祥松平家が宗家を自認するようになった。

ちなみに早雲が駿河以西で戦をするのはこれが最後となった。


当時松平氏は義澄・細川成之派であったと推定(平)


一方甲斐では

信虎(信縄の子)が信恵(のぶよし)(亡き信縄の弟)を

勝山合戦にて敗死させ

甲斐武田家の内乱は終結した。


(ゆ)

政権を握る義稙・高国・義興・伊勢宗家と

彼等に追い出された義澄・澄元(阿波細川成之の孫)・三好之長が

対立する構図である

なお

義稙の意向を今川が確認済だとして

阿波細川と異なり野州高国は三河と繋がりが無いので

今川の三河侵攻が黙認されたのだろうか?

1506.8に記した様に

もしも松平が他国人同様に

伊勢宗家の土地を代官でありながら横領していたなら

(戦国の一般形態)

伊勢宗家からも三河の松平領侵攻に対して

待ったはかからない、ようには思える。


1508.11

為景が擁する上杉定実の越後守護就任が

義稙政権によって認められ、為景も守護代に命じられる。


1508.12

甲斐中地域(甲斐中央部)で

信虎が郡内国衆小山田氏に勝利。

当主小山田弥太郎(信有の父。信恵方)は戦死。

残存した工藤氏・境小山田氏は早雲を頼り従属する。


1509

春?に義稙は高国のとりなしで

伊勢貞宗を政務に復帰させている。


義澄の子、義維(よしつな)誕生。

母は阿波細川氏の出とも。斯波氏の出とする説も。

出生年には諸説あり。

嫡男とされなかったのは母親の出自の為とする等、諸説あり。


一方、本願寺実如が山科本願寺に復帰。

北陸門徒に対する一揆の禁止を発布している。


一方相模では、伊豆諸島支配を巡り

伊勢氏と扇谷上杉氏(三浦氏含む)が対立するようになっていく。

(32話後書きで経歴をまとめて記述)


(黒)

両者の境界地域において

他にもその様な土地を抱えていた可能性があり

それらもまた火種になっていったのでは。


1509.6

細川澄元・三好之長の軍勢が京都の如意ケ嶽に進軍。

高国・義興・尚順が迎撃に出た。

澄元側は兵を十分に集められなかったらしく敗北。

澄元・之長は阿波へ退き、再起を図る。


上野では上杉憲房が景春方の白井城を攻略。


以降、景春は上野・武蔵でゲリラ戦を展開。

顕定が和睦を申し出るも受け付けなかった。


第二次政氏・高基抗争が和睦。

(則)

ただし顕定は二月後に越後出兵中の陣所から

大森式部大輔に引き続き調停中である旨を書き送っている。

扇谷上杉朝良は岩城家臣岡本氏に

政氏の思い通りの和睦となるよう努めていると書き送っている。


1509.7

山内上杉顕定・顕実が越後へ侵攻。

(顕定の実弟房能を敗死させた長尾為景への報復と

房能方勢力の回復の為)

扇谷上杉朝良は関東の留守を預かるべく上野に在陣。

為景は擁立した定実と共に越中へ後退。

劣勢を覆すべく、山内上杉に敵対する関東勢力へ支援を要請。


1509.8

為景の要請に景春・早雲が応じる。

伊勢は扇谷との同盟、山内との和睦を破棄して挙兵。


(森)

早雲の判断の背景に

長尾景春との親交(下記)や

義稙政権が定実・為景の越後支配を認めていたこと

また

義稙が奥羽の伊達尚宗に定実への救援を指示していることが

挙げられるかもしれない。

(尚宗の正室が定実の妹(もしくは姉))


ちなみに伊達への指示と同様の指示が早雲に下っていたかは不明。


1509.8

早雲は高麗寺(こうらいじ)要害(現大磯市)

と住吉要害(現平塚市)を取り立て

(取り立て:築城)

相模中郡を制圧。

更に武蔵、久良岐(くらき)郡(現神奈川県横浜市東部)へ進軍。

権現山城(横浜市神奈川区)の上田蔵人(うえだくらんど)入道が

(上田政盛か。蔵人は扇谷上杉氏家臣。家老か)

伊勢側に寝返って蜂起。

早雲は江戸城付近まで北上。


だが江戸城は落ちず、翌年三月まで

早雲の武蔵在陣は続いた。

詳細地は不明。


1509.10

早雲の動きを受けて

上野にいた扇谷上杉朝良が江戸に帰還。


京では伊勢貞宗が死去(享年66)。


義澄が義稙の暗殺を謀るが、襲われた義稙は凌ぎ切る。


(ゆ)

後年、1530年代に

伊勢宗家の庶流である貞辰等(細川高国に仕えていた)が

関東へ来て氏綱の家臣になる事を思うと

以降も伊勢宗家と北条の繋がりが続いていた可能性はある。


1510

(則)

この年を最後に宇都宮家当主

成綱(高基岳父)の発行文書が見られなくなる。

重臣芳賀(はが)高勝(政氏側)との間で武力衝突となり

当主を忠綱が引き継いだ模様。

忠綱の発給文書初見は1512.3なのでその間の事か。


1510-1513に今川は斯波と戦う(早雲不参戦)。

三河では飯尾氏が今川に、大河内氏が斯波に付いている。

吉良・松平は動かず両勢の動向を見守っていた。(大)

結果、斯波側は完全に尾張へ押し込められた。


1510.3

この頃まで早雲の武蔵在陣は続いていた。

一方、三河で戸田憲光が今川氏に謀反。

早雲もこれを受けて駿府へ行き対応が協議される。

早雲は韮山城へ帰還。


1510.5-6

為景の要請に応じた長尾景春は

被官の吉里氏と共に津久井山へ移っている。

5月の時点で既に扇谷領津久井山で挙兵している。


(黒)

長享の乱時に扇谷陣営所属の景春と早雲は親交があり

景春・早雲間で連絡があったものと思われる。

(景春はいつでも顕定の敵)

一方

早雲は山内上杉領の武蔵椚田城を攻略。

津久井領を景春方が占領したので椚田へ進軍できたのだと思われる。

城主の家老大石(道俊か)は由井城へ後退。

(その後、大石氏は由井城を本拠に国衆となっていく)


他方

越後では山内上杉顕定の強硬な施政が越後国衆の反発を招き

それに乗じた為景が四月末から

佐渡を経由して越後に上陸。

反攻に出る。

顕定もここから負けっぱなしというわけではなかった模様


1510.6.20

為景勢は府中を奪還。


(府中奪還以前からか?)

顕定は関東への撤退を行うも

坂戸城主上田長尾房長が裏切り

退路を塞がれる。


越後で顕定が長森原の戦いで

高梨政盛に敗れて討死。

(為景生母は高梨氏の出)

八条尾張守・龍松親子も討死。


妻有荘にいた憲房は山内上杉軍を率いて上野白井城へ退却。

そこへ景春が上野国衆と沼田家と連携して侵攻。

景春は為景に援軍を要請するが

為景は越後国内の平定を優先したか兵を出さず。

(景春が援軍出さない為景に怒っている書状有り。

為景は配下勢力には援軍を指示しており、その軍が動かなかったか)


山内上杉家家督と関東管領は顕実(成氏の子で顕定の養子)が継承。


古河では山内家家督の後継を巡り

政氏・高基の争いが再燃。第三次抗争勃発。

高基が梁田氏本拠の関宿(現野田市)に移る。


朝良は政氏の意向に沿った条件で和睦を斡旋するも成らず。


また高基の弟義明が武蔵太田庄で独立、挙兵。

(則)まずは高基側に与したと見られる。


コトバンク 佐藤博信『小弓公方足利氏の成立と展開』:

当初は高基と同一行動をとったが1516頃から一転。


快元僧都記(かいげんそうづき)

『先年御父政氏様御勘当アリ、奥州エ御下向有之』

とあるので勘当されていた時期があった模様だが

近年、義明が奥州へ下向していたことは否定されている。


・太田荘

開墾したのは太田氏(道灌の先祖)。

その後鳥羽上皇の娘に寄進され、それをてこに太田氏は更に繁栄。

南北朝期に鎌倉幕府を攻略した際に小山朝氏に戦功があり

尊氏から与えられた(『梅松論』)。

下河辺荘(しもかわべのしょう)も同様らしい(小山氏の乱wikiより)。

(太田が埼玉郡の東半分を占めている。

下河辺荘はその東に隣接する更に細長い地域で

下総国葛西郡に含まれる地域。

高柳座所(現埼玉県久喜市寶聚(ほうじゅ)寺)は後者にある)

小山氏もどうやら太田氏の出らしい。

氏満期に氏満が宇都宮・小山・新田など、反足利の氏族を討伐。

1380年の小山討伐は特に激しかった。

足掛け17年行われ、小山氏嫡流は途絶えた。

その中で足利氏に奪われたのが太田荘や下河辺荘であり

これらの肥沃な土地があった為に後の古河移座が可能となった。


享徳の乱では

1455に鎌倉が今川範忠に攻略されて

成氏が古河へ移座した頃から?鷲宮神社が古河の管理下に。

1459には太田荘の戦いでも関東管領側が敗北。


成氏期の奉公衆に渋江氏が太田荘(一部である可能性もあり)

を領していることが記録されてる模様。

また御料所(直轄領)としても記録されている。


(黒)

古河での抗争再燃は

山内顕定の死亡より前のタイミングで起きている。

(ゆ)

文意からその様に主張しているように見受けられた。

根拠は未記載。


(ゆ)

1510.3の時点で高基が

陸奥の石川尚光に官途状を発給しているという事実はある。

がこれが直ちに叛乱行為と言えるか。

兆しとは言えそう。

wikiでは山内家督を巡り古河抗争が再燃したとある。


1510.7

山内上杉の援軍を受けた扇谷上杉朝良が逆襲。

権現山城が落城し、上田氏は扇谷に家老として帰参。

(家老という条件で降伏を促したか(黒))

これにより神奈川湊は扇谷支配に戻る。

(現城跡の東隣の幼稚園から、西側の高島台まで

尾根が繋がっている急峻な山が当時はあり

その麓がもう神奈川湊だった模様)


1510.8-9

三浦氏が相模中郡に侵攻。

住吉要害を制圧。

(高麗寺要害もか)

後、朝良、三浦勢によって津久井城も陥落。

津久井領も扇谷上杉支配となり

内藤大和入道が入部した模様。


(黒)

武蔵多西郡の椚田城も山内上杉に奪回されたと模様。


1510.9

ここ近辺で景春は上野?から撤退。

最終的に駿河へ落ちていく。

これにより、以前から扇谷上杉朝良から要請のあった援軍を

憲房は送る。


(黒)

軍の内訳は

家宰の長尾顕方の代官矢野憲信、

家老の大石源左衛門尉(道俊か)とその一族、

家老の長尾景長の代官成田中務丞といった山内上杉家の家臣に加え、

従属下にあった国衆として

忍領・成田顕泰、岩付領・渋江孫太郎、花園領・藤田虎寿丸(業繁か)、

また武州南一揆といった者達であり

武蔵における山内上杉軍の主力と言える。


(黒)著『戦国大名・伊勢宗瑞』において

渋江孫太郎は国衆と表記されているが

後の頁では岩槻城主として

渋江右衛門大夫(もと孫太郎)は古河公方奉公衆

と記述されている。


1510.10

扇谷・山内勢は小田原城へ侵攻。

伊勢側は防衛し切ったものの

(両上杉は帰還した模様)

家老の大道寺発専(重時。盛昌の父)が討死した模様。


前年からの早雲の対扇谷戦略は失敗に帰した。


1510.12

扇谷上杉朝良が再度、相模西郡へ侵攻。

鴨沢要害(現中井町)を攻撃。

陥落はしなかった模様。

ちなみに、ここで戦功のあった三浦氏に対し

政氏から感状が出ている。

つまり扇谷は依然として政氏に付いていた。


1511

駿河へ落ちていた長尾景春が(恐らく駿河御厨から)

甲斐を経由して武蔵に侵攻。

後述の山内内乱に乗じたか。

ただ失敗に終わった模様。


1511.3

近江の久里(くり)城に亡命していた義澄に嫡男の義晴誕生。

母は日野永俊の娘(富子の姪)か?


1511.7

阿波の澄元勢が再度上洛を目論み出兵。


1511.8

澄元勢が高国勢を破り京都を制圧。

義稙・高国・義興は一旦京都を退き、丹波へ退いた。


近江にいた義澄が死去(享年32)。

義晴(亀王丸)は義澄派の

播磨守護赤松義村の元に送られて育てられる。

(赤松家当主義村の後見を政元の姉がしており

義村の妻が澄元の縁者でもあった)

他方、義維は阿波国守護之持(澄元の兄)の元で育てられる。


後、反撃に出た義稙勢は澄元勢と

船岡山(ふなおかやま)(京都府京都市北区紫野北船岡町(むらさきのきたふなおかちょう))で合戦。


船岡山合戦で澄元側(赤松氏等)が敗れる。

三好之長は高国側と裏で結び

(もしくは戦意が無かった)

船岡山へは参陣しなかった。

澄元は阿波に撤退。

義稙側(大内義興・尼子経久等)が勝利。


1511.9

山内上杉家内で家督継承を巡り軍事衝突。

当主顕実(成氏の子)は鉢形城、

憲房(一門最年長)は上野平井城を居城としていたが

対立を深めていく。


更に政氏が実弟顕実を支援し

高基が憲房を支援することで戦線は拡大。


朝良は和睦の斡旋を試みるが成らず。

あるいは朝良が窮状に瀕したことで

扇谷・伊勢の和睦が打診された可能性有り。


阿波の細川成之が死去(享年78)。

義稙・高国により淡路守護尚春の子が

阿波細川の家督に任命される(阿波守護となる)。


1511.11

少なくともここまでの時点で

伊勢・扇谷間で和睦が結ばれていることが

今川家内の書状遣り取りから確認される。


(黒)

今川家臣福島氏から

室町幕府同朋(どうぼう)相阿弥(そうあみ)への書状の中で

『一方隙明け』という表現がされており

ここから当時

伊勢家の行動は今川家の行動の一部として

今川家で認識されていたことが見て取れる。

恐らくそれは早雲も同様の認識だっとと思われる。

ただ実態としては伊勢家が

独自に戦略展開しているという状況だった。


この時期近辺で

相模三浦郡国衆の三浦氏が西上総の真里谷武田氏と婚姻関係を結ぶ。

(黒)

同寸の年齢・義意の官途名から義意の実際年齢が

10歳程若かった可能性があり

それに伴い婚姻締結も永正の乱勃発頃の可能性がある。

(ゆ)

1506.4が公方第一次抗争開始時期で

1506.6に三浦氏が千葉氏を攻めているので

その頃に対千葉の意味もあって

真里谷と結んだ可能性があるということだろうか。


1512.1

阿波細川家当主の之持(成之の孫。澄元の兄)が死去(享年26)。

以降、義稙政権の安定と

細川家の後継者問題が原因で

澄元はしばらく上洛行動に出ていない。

京兆家養子という立場でありつつ

阿波細川家の年寄衆と協調体制を取りながら

後継問題を片付けていく。

※1533没説も有り。


阿波細川家は澄元の子で晴元の弟

持隆が継ぐこととなる。

(1517に阿波勢により淡路が制圧される)


1512.3

宇都宮成綱が芳賀高勝に対し傷害事件を起こし

これによって

成綱・忠綱親子対芳賀高勝の内紛(宇都宮錯乱)が勃発する。


1512.6

顕実勢が新田・佐貫(さぬき)両荘へ出陣。

迎撃に出た長尾景長・横瀬景繁勢(憲房側)が勝利。

景長・景繁勢は平井城から出陣した憲房勢と合流し

顕実・長尾顕方が守る鉢形城を攻撃、陥落させる。

顕実は政氏の古河城へ落ちていく。

家宰の座は総社(そうじゃ)長尾氏の顕方から(宗家)足利長尾氏の景長に移った。


この敗戦を受け政氏は6.18には古河城を退去した。

そして下野小山城へ移座。(堀内文書・秋田藩採集文書)

(小山氏は下野における政氏最大の支援者)


山内上杉家の家督を憲房が継承。

関東管領職には依然、顕実が就いている。


堀内文書・秋田藩採集文書:

同じ頃に足利義明は小山領へ入部。

『南之上様』と尊称される。

(『南之』は小山城から見てという意味なのか??)


上方では高国が播磨へ下向。

澄元派だった赤松氏と和睦する。

後、赤松氏は義稙から赦免される。


・足利・白井・総社・越後の長尾氏:(wiki)

桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。

六代景為(越後の為景に非ず)の次代で

関東系(宗家足利を含む)と越後系に分かれ

前者から白井・総社などへと派生し

後者は三条(後に移転したので府中)・古志・上田などへと派生した。


1512.7

関宿城の高基側が簗田(やなだ)高助の協力のもと

古河城へ入る。

高基は古河公方を継承。

(高基の最大の支援者は下野宇都宮氏)

朝良は政氏側として憲房に和睦を斡旋するが聞き入れられず

結局扇谷(朝良)も憲房と対立していく。

(朝良にとって憲房は妹婿)


つまり扇谷は政氏側に付き続けた模様。(ゆ)


以降、東関東では

政氏方である

常陸佐竹氏と陸奥岩城(むついわき)氏が

宇都宮氏(高基側)との対立を激化させていく。


(黒)著『北条氏綱』より

高基が古河公方継承すると

義明は政氏と連携して対抗する立場をとった。

1516で政氏が出家した頃に

還俗して政氏の政治勢力の後継者としての立場を明確にした。

(黒)著『戦国大名・伊勢宗瑞』より

「政氏の出家にともない還俗した」的な文意。

続く文章で

「ただ還俗の明確な時期は不明で

政氏の出家をうけてしたのかも」的な文意。

(コトバンク 佐藤博信『小弓公方足利氏の成立と展開』)

1516に義明は政氏と結び、高基と対立する。

(ゆ)

拙作では(黒)著『北条氏綱』を設定とする。


1512.8

扇谷の苦況に乗じ、伊勢は扇谷との和睦を破棄。

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