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北条戦記  作者: ゆいぐ
侍見習い編 後編
26/43

26 侍見習い 漆

日が沈み、夜は更けていく。

治郎兵衛は土牢の中に一枚あった(むしろ)に横たわった。地べたの冷たさと外気は、四月も終わりとはいえまだ少し(こた)える。だがこれから先、あの卯吉が追手の影に怯えながら野宿するのだと思えばどうという程もなかった。


――あれで本当に良かったのか。

正直、盛秀の指摘に虚を突かれる思いがしていた。卯吉を逃がす決断をした段階でさえも、まだ試すべき道があったのかもしれない。例えばあの日のうちに小田原城へ急ぎ戻れば伊勢を頼ることが出来たかもしれない。あるいは金子屋敷へ正面から乗り込み、綱成に間に入ってもらうことで交渉する余地があったかもしれない。卯吉の扱いに関して、与一郎の言っていた『北条家が介入出来る場合』に当たる不備を指摘することが出来たかもしれない。

そう考えると卯吉に適正な責めを負わせる機会を奪ってしまった様にも思えてくる。北条家武士としてではなくただの卯吉の友人として動いてしまったのだと気付いた。


治郎兵衛は卯吉への最初の対応も含めて己を悔いた。悔いた挙句、それらの判断が今、氏康と綱成、いずれかを裏切らねばならないという窮地へ自分を追い込んだのだという結論に行き着いた。


氏康が言っていた『十日かそこら』――小沢城へ向かう兵が小田原へ集まり、出立する期限。何としても守らねばならない約束の日――が迫っている。十日だとすれば残り五日。下手をすればもっと少ないかもしれない。


本来不採用の身である自分を見込んでくれた、初陣にも(かか)わらず『少ない兵で扇谷上杉に当たらねばならん』と覚悟を決めていた氏康。他方で正式登用された身ですらない自分を気遣い面倒を見てくれた、自分の暴走に最後まで付き合ってくれた綱成。正直に白状して綱成を裏切るか、このまま座して氏康を裏切るか。その厳しい選択もまた治郎兵衛の心を苦しめた。


眠れぬ夜が明け、陽が昇り、暮れて……また夜が来て、それも明けてしまった。


牢に入り三日目。

治郎兵衛は穴蔵の隅で胡坐(あぐら)をかき、腕組みして目を瞑っていた。昨日からは差し入れの握り飯(主に麦・粟)にも手を付けていない。苦悩し続けることに疲れ果て、半ば諦めの境地に入りかけていた。


 * * *


あるいは天佑(てんゆう)と言えたかもしれない。

その日の夕方近くに一人の武士が土牢を訪れて牢番に告げ、錠が外されて格子戸が開かれた。

顔を上げた治郎兵衛に、素襖(すおう)姿で小太りの若いその武士が告げる。


「治郎兵衛、出よ」


ふらふらと外に出た治郎兵衛の汚れた着物を、その武士は素手で払ってくれた。


「体は大事ないか」

「……は……はい」

「大したものだな。得物(えもの)を持った足軽十名余りを相手に暴れ回ったと聞いていたが」

「……」

「無理な話かもしれぬが、あまり兄上を恨まないでやってくれ」

「あ、貴方様は……」

「私は左馬助盛秀の義弟で六郎康定(ろくろうやすさだ)という。

付いて参れ。今より本曲輪(ほんぐるわ)の館の方へ案内する」

「ど、どういう事でしょうか。あ、それに目隠しは……」

「目隠し……? ああ、兄上の仕業か。お主が暴れるかもと思いその様な真似をされたのだろう。そもそも隠す程の場所ではないのだ」

「……」


城の南東側の斜面にある土牢から本曲輪までの短い道中、康定は現状を話してくれた。


「まず孫九郎の身だが心配は要らん。この三日館の方で丁重に預かり、怪我の処置もしておいたからな。福島の当主を長く引き留めておくなど出来んから帰らせようとしたのだが、お主の身柄を貰い受けるまでは帰らんと意地を張ってな。家来衆も迎えに来たが結局帰らなかった」

「孫九郎様が……」

「それからお主達がその卯吉なる者を逃がした件も孫九郎が自ら白状した」

「……! 孫九郎様は何も悪くないのですっ。ただ私が強引に手伝って頂いただけなのです!」

「うむ。心配には及ばん。金子殿も訴えはせぬと約束した。そして同時に兄上もな」

「え……? も、もしかして孫九郎様が私めを庇い何か犠牲を払ったのでは……!」

「案ずるな。それより、お主にも主張したき()があるだろうが、まずは金子殿に謝っておけ。卯吉を無理やり逃がすという暴力に及んだ事についてな」

「は、はい……。それは本当に、そう致します。誠に勝手を致しました。

しかし……、ならば後は私が責めを負うだけで済むのでしょうか……!?」

「まあ続きは中で話そう。ともかく入れ」


二人は板葺きの立派な館の前に来ていた。

先立つ康定に従い、治郎兵衛は板敷の広間へと通された。


「治郎兵衛を連れて参りました」


康定は広間の両側に並び座る者達に告げると、右側の末席に腰を下ろした。康定含めて六人が居たが半分は治郎兵衛の知らない顔である。戸惑いつつ治郎兵衛は座るととにかく挨拶した。


「……治郎兵衛、参上致しました」


左側に座る綱成が横目で見、下の方で握り拳を作ってみせる。訳が分からず曖昧に頷く治郎兵衛に康定が声を掛けた。自身の右隣りに座る老人を紹介する。


「治郎兵衛、この方が金子庄衛門殿だ」

「あ……。

こ、この度は誠に無礼を働きました。本当に申し訳御座いませんでした」


腰を折って深々と頭を下げる治郎兵衛に庄衛門は苦虫を嚙み潰した様な顔をして答える。


「……ああ、うむ。今回は多目に見て訴えるまではせぬということで決着した。お主も我等に対して遺恨を持ったりなど決して致すでないぞ」

「あ、有り難うございまする。かしこまりました」


康定がほっとした顔をし、今度は左側末席に座る男を紹介した。


「それから治郎兵衛。そちらにおられる薬師(くすし)綾小路(あやのこうじ)殿にも厚く御礼を申し上げよ。ご多忙の身ながら、お主の怪我、等を診る為にわざわざこちらへ足を運んで下さったのだ」


治郎兵衛は袴姿に坊主の薬師に向き直り、また深くお辞儀した。


「私の様な者の為……、御足労頂き誠に有り難うございまする」

「その様子では其方(そなた)も大事無さそうだな。

なに、北条の殿さんに頼まれたまでのこと。礼には及ばんよ」

「北条の殿さん……」


繰り返す治郎兵衛に、右側上座の盛秀が声を掛けた。


「治郎兵衛殿。此度の事、我等松田にも多少の行き違いがあった様です。この通りお詫び申し上げますので、どうか水に流して下さい」

「は……、はあ……」


相変わらず細い目で静かに笑う顔からは不穏な気配を感じずにいられなかったが、その言葉だけは確かに事が平和裏に片付いたことを語っていた。


「全ては御本城様の計らいによるものです。

(じき)に見えられますので、直接御礼を申し上げなさい」

「御本城様が……」


状況の変化に困惑しつつも、未だ主のいない首座に目をやった。その人は福島・金子・松田の間に入って瞬く間に事を収めてしまったらしい。にわかに信じ難い話である。治郎兵衛は北条家に仕官して以来まだ会ったことがない、その当主という人に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。


間も無くして、広間右奥の引き戸が()く。皆が一斉に頭を下げた為、治郎兵衛も慌ててそれに習った。『その人』が入ってきて首座に着く。一拍(のち)、静寂と化した室内に威厳のある声が響いた。


「大儀である」


何故か聞き覚えがあることに治郎兵衛は益々混乱しつつ、ゆっくりと顔を上げる。そして唖然とした。正面に座っていたのは、あの伊勢だったのである。


「来るのが遅くなって済まなかったな、治郎兵衛」

「……い、伊勢様?」


驚き戸惑う治郎兵衛に上座の盛秀がとどめを刺した。


「治郎兵衛殿、『伊勢様』ではありません。

先代早雲公が長子にして第二代北条家当主、左京大夫(さきょうのだいぶ)氏綱様です」

「伊勢様が……御本城様……」

「うむ、そうだ。騙していて悪かったな」


治郎兵衛は横面を張られた思いだった。


綾小路典薬頭盛直(てんやくのかみもりなお)

公家。どちらかと言えば下級公家。半家の家格を有する堂上家の出。丹波氏嫡流。丹波氏は平安以来の医家。1523に典薬頭に就任。北条家を頼った公家の先駆け。


田代三喜(たしろさんき)(1465-1544)

三喜は通称。名は導道、字を祖範。範翁、廻翁、支山人、意足軒、日玄、善道の多くの号がある。

曲直瀬道三・永田徳本などと並び日本における中医学の中興の祖。武蔵越生の生まれで堺から渡明して医術を学び、日本に帰ってからは下野足利、下総古河、武蔵と住まいを移り、関東一円で庶民を苦病から救って医聖(いせい)とあがめられた。1531年には足利学校に在籍していた曲直瀬道三と会い、以降道三を後継者として育てた。著書には『三帰廻翁医書』等がある。


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