25 侍見習い 陸
間もなくして、綱成と治郎兵衛は騎馬武者十数騎を率いた素襖の武士と対面した。
松田左馬助盛秀。元は備前松田家の出だが、九年前に北条家を頼ってきて後氏綱にその資質を見込まれ、後継者不在の相模松田家に養子に入った。家督を継いでからは広い領地――足柄平野北部を中心に二千貫近くに及ぶ。北条家家臣貫高では北条三郎長綱(約四千貫余)に次いで、第二位。――と多くの家来を良く治め、今では齢三十にして北条家家老を務めている。家格・血筋に見合う以上の器量を備えた男だった。
「これは孫九郎殿ではありませんか。……その御姿はいかがされたのです」
「いえ、どうという事はありませぬ」
「とりあえず松田城へお越し下さい。供の者も一緒に傷の手当てを致しましょう」
「ああ……、お構いなく。登城の太鼓に間に合わなくなりますので」
「はは、これは貴方らしくもない。
とすると、その怪我について何か話しづらい事情がお有りですか」
「いや……」
「例えば金子殿の件とか」
綱成はじっと盛秀を見た。
「この陣所もその為に置いていると聞きました。
わざわざ他人の領地にまで出張って熱心なことですな」
「近隣の誼です。北条家家老として頼られた以上は応えねば」
「誼ですか。松田と金子の足軽同士の諍いが何度か小田原に持ち込まれて、御本城様を悩ませていたことなら良く存じていましたが」
「惜しいですね。状況は絶えず変わっていくものです。
貴方も行く行くは城の一つも任されて北条家の中核を担う身なのですから、もっと注意深く周囲に気を配る癖をつけておいた方が良いですよ」
「はは、それはご親切にどうも。よくよく肝に銘じておきまする。
されど……」
「されど?」
「仮に我等の怪我が金子と関わりある話だとしても、結局それは福島と金子の間の事。それこそ小田原の評定・裁決に服すべき話であり、全く無関係な松田家が口を挟む余地は無いでしょう。国法に喧嘩を売るつもりでなければ、黙ってこの道を空けるが宜しかろうと存ずる」
盛秀は細い目を更に細くする。
「孫九郎殿。貴方のそういう毅然とした御姿は誠に頼もしい。御本城様が可愛がられるのも無理からぬことですな」
「……」
「ええ。私が案じているのは、松田家の兵に対して乱暴狼藉があったか否かという点のみです」
「その様なことは……」
「先程言ったでしょう。『もっと注意深く』なりなさいと」
綱成は蛇が絡み付いてくるような悪寒を覚えた。盛秀はあくまで穏やかに続ける。
「孫九郎殿。私は福島家相手に訴えを起こすなどという馬鹿をする気はありません。万が一間違いがあったなら大事にならぬよう内々に話を収めたいのです。厄介なことに我等松田にも家格相応の面子がありますから、そんな事態になれば家中の者達も騒ぎ出します。
金子殿の話はまた別として、ここは福島・松田両家の為と思い、御足労願えませぬか」
「……どうあっても松田城へ来いと」
「忠義に厚い福島の家来衆です。若き当主が家老の家に喧嘩を仕掛けたと聞いては、進んで責任を取ろうとするやもしれません。その様な事態だけは避けねば。そう思いませぬか?」
綱成は沈黙する。……やがて観念して嘆息した。
「……分かり申した」
「左様ですか。何やら無理に招くような形になってしまい、申し訳ありません。
まあそう肩肘を張らずに、ゆるりと休まれていって下さい」
綱成は治郎兵衛の方に向くと気落ちした様子で謝った。
「すまぬ、治郎」
「いいえ。私の事などお気になさらないで下さい」
治郎兵衛は返事をした後、何を聞かれるか、どう答えるかについて必死で考えを巡らせた。
* * *
松田城は足柄平野の北側に連なる松田山――丹沢山地最南部――山裾に在り、天然の要害たる二つの沢に挟まれた南北に長い山城だった。曲輪からは南に広がる足柄平野と酒匂川を一望できる。
城へ到着すると綱成は本曲輪の館に、治郎兵衛は前曲輪の兵舎に留め置かれて全く別個に尋問を受けることになった。
治郎兵衛は山田村で足軽連中に腹を立て喧嘩を売った事しか話さなかった。後は綱成の供として付いていっただけなので通った道もよく覚えていないとしらばっくれた。
自ら尋問を行う盛秀の様子は治郎兵衛に対してさえ丁寧であったから、それで押し通せるだろうと高を括っていたのだ。
状況が一変したのは夕刻である。午前中と似た様な問いをどうにか受け流し、内心胸を撫で下ろした治郎兵衛に向け、盛秀は言った。
「少し場所を変えましょうか」
機密を理由に目隠しされ、治郎兵衛は導かれるままに城内を歩かされた。やがて、何やら黴臭い所へ連れてこられ、そこで目隠しを外された。周囲を見回してそこが穴蔵の中だと気付く間に、目の前の格子戸が閉じ、海老錠がガチャンと閉められる。
「左馬助様、これは一体……!?」
「治郎兵衛殿。私は先程も尋ねた通り、卯吉なる者の脱走に誰が関わったのかが知りたい。まあ、その卯吉が山田村からどの方面へ逃げたのかも答えてもらえれば金子殿が喜ぶでしょうが」
「ですから、どちらも知らないと――」
「はい。なのでここでじっくり考え直して下さい。常に牢番を立たせておきますから、話す気になったら伝えて下さい」
「……」
「そういえば孫九郎殿から伺いましたが、後日、小沢へ向かう予定だったそうですね」
「『向かう予定だった』ではなく向かいます!」
「何も知らない新九郎様もさぞ待ち望んでいるでしょう」
「そうお思いなら……」
「だから不思議でなりません。何故そんな大事な命令を受けていながら、この様な浅はかな行いに及んだのですか」
「……」
「目の前の事以外見えなくなる気質ですか。それとも己が行う暴力だけは、どういう訳か特別に許されるとでも思いましたか」
「え……」
治郎兵衛は握り込んでいた格子を無意識に放した。
「ふふ、まあ良いでしょう。
治郎兵衛殿。私はただ、北条との間に亀裂を入れることなく松田を今より優位な立場に押し上げたいだけなのです。今回の振る舞いの代償と思って、その遊びにしばしお付き合い下さい」
「そんな……」
「それでは、ご機嫌よう」
口元に僅かな笑みを浮かべた後、盛秀は去っていく。
松田山の斜面に掘られた土牢の中、一人取り残された治郎兵衛は力無く座り込んだ。
■■■ 松田家 ■■■
■■ はじめに
松田家に関しては、相模松田家 22 代 松田邦義氏が編纂された『松田家の歴史』というPDFファイル(以下、『資料』と記載)がインターネット上で閲覧できたので、拙作ではそれを参考にさせて頂いています。
ただ『資料』はあらゆる古文書をまとめ上げたものらしく、『資料』内において所々に記述が一貫してない箇所がみられます(単に「ゆいぐ」が勘違いしてる可能性有り)。今現在も理解が及んでいない部分が幾つかあり、それでも他に情報を見つけられなかった為、限定的に採用させて頂くこととしました。
つまり、拙作が基盤としている黒田基樹氏の伊勢宗瑞事績に関する諸主張と矛盾しない範囲で採用させて頂くことにしました。
以下は断りが無い限り、『資料』に記されていた内容を記しています。
※言葉遣いが雑な記述になっていますがご容赦下さい。
■■ 概要
松田氏は藤原秀郷の後裔波多野氏の一族。
藤原鎌足 - 藤原不比等 - … - 藤原秀郷
- 波多野義通 - 義常 - 有常 - 義基 - 経基
●義通
源義朝に仕えた。妹は義朝の側室となり、頼朝の兄朝長を産む。
子供が何人かいる。
①義常
源頼朝の挙兵に協力せず、頼朝が南関東制圧した後、追手を差し向けられ本拠松田郷で自害。
嫡子は有常。
②忠綱
子孫に波多野稙通・秀晴(元秀)・秀治(秀晴)等がいる。
③大槻高義
その子孫の松田成家が初代相模松田家当主としてカウントされてる模様。
この成家の系統の9代が盛秀、10代が憲秀【相模松田家】
●有常
鶴岡八幡宮で流鏑馬の腕前を見せる等して許されて鎌倉御家人に列せられ、松田郷を復される。
波多野氏の本領である波多野荘(現秦野市)は有常の叔父・義景が継承。
●経基
子供が三人いる。
④盛経:松田盛朝・信重の系統
信重子供に吉信(賢信・三郎の系統)・義重(信貞・六郎の系統)
⑤義泰:松田元成・元氏・元陸の系統【備前松田家】
⑥経秀:波多野宗高・宗長等の系統
■■ 松田元氏(頼重)(1427-1504)
⑤の系統に属する。備前松田八代当主元成(備前金川城主)の弟。
京で将軍家に仕えていたが、享徳の乱を受けて
足利政知・渋川義鏡等に従い関東へ下向(1458・頼重31歳)。
当時相模の足柄二郡では、大森氏が扇谷の下で勢力拡大中。
追い詰められて窮状にあった相模松田家に養子に入り
頼重と名を改めて家督を継いで相模松田第7代当主となる。
以降も松田と大森は対立を続ける。
『資料』では早雲1432生誕説を前提として、頼重が29歳の時(1456)に
早雲と武者修行に出た記録有りとする。
1467 備前勢を率い、三条氏を警護(応仁の乱時)
1490(63歳) 将軍義稙幕下に頼重の名有り『北条五代記』
1495 早雲小田原制圧時に一番に馳せ参じる『北条五代記』
1504(77歳)武蔵立河原の戦に50余騎を引き連れ参陣。『北条五代記』
■作者の検討
活躍年間が長過ぎる印象。
63で奉公衆、77で参陣は全く有り得なくはないが
他の人と間違えて記録されてると考える方がより自然に思える。
黒田基樹氏が主張する小田原奪取1499以降説(拙作で採用)とは合わない。
早雲1432生誕説も拙作採用の1456説とは合わない。
■■ 松田頼秀(1448?-1494)
幼少時、父頼重と共に関東に下向。
相模松田家八代当主となる。
1458 父と共に関東へ下向。
1462 足利政知、松田頼秀の跡地東大友半分を鶴岡八幡宮へ寄進 『鶴岡八幡宮文書』
※義鏡の失脚の巻き添えを食らったのではと、東京大学史料編纂所教授榎原雅治氏が指摘
1465 頼秀は政知に敵対し所領を没収される
その後、時期は定かではないが頼秀は山内上杉と組みつつ大森に対抗した模様
1471 龍泉寺(相模原市緑区青野原。曹洞宗)を開基
1480 太田道灌書状に頼秀の名前有り
1494.9
高見原の戦いより前の段階で山内側に参陣しようとするも
それを阻む大森氏頼・扇谷上杉定正に松田城を追われ、龍泉寺近くの西野々で自害
自害前に相模国津久井青根村の龍泉寺の住職に長文の書状を送っている
書状の中に『多年の山内上杉殿への親忠をもって馳せ参じようと思うが』的なくだりがあり
山内と結んでいたことが見てとれる。
■作者の検討
黒田氏主張に拠れば1494.9は早雲が大森・扇谷と組んで山内と対立してた時期。
仮に1490近辺に義稙幕下として頼重・早雲が親交を結んだとして。
しかし1494には頼重の嫡子頼秀と対立する大森側に早雲が付いた。
大森側は頼秀を攻め殺した。
頼重はその経緯を受けても、早雲小田原奪取時には一番に馳せ参じた。
→ よく分からない。
黒田氏主張(拙作が主に依拠)によれば
1496で小田原城が降伏した時に大森が山内に下り、相模西郡の政情が変化した。
つまり大森は山内側なので、相模松田と同陣営となる。
作者が思うに、これを期に
以前から山内と結んでた相模松田の立場が強くなったのでは。
そして1494に頼秀を自害に追い込んだ大森は
相模松田(頼秀の老親頼重)にとって相変わらず敵であり
早雲の進出時に、相模国人を味方に付けて大森を小田原から追い落とす
その際に、相模松田が活躍した。
そもそも1499以降の早雲小田原進出も相模松田からの要請が
理由の一つにあったのではないかと……妄想レベルだが。
しかし、これはこれで
1494.9時に大森側だった早雲を頼重がどういう目で見てたのかが
分からなくなる。
あくまで敵の助っ人位に認識しており、状況次第で組むのも有りだと思ってたのか。
1499以降に早雲小田原奪取なら、頼秀自刃から五年経ってるので
頼重も心境整理して、早雲に味方することを決断したか。
→ 後述で拙作ではどう設定(作者妄想)するかを記します
■■ 松田盛秀(顕秀)(?-1560)
④の系統出身。後に相模松田家九代当主となる。
1521 浦上の乱に遭い康定と共に相州松田左衛門尉を頼る。
『異本小田原記』『北条五代記』
1524 江戸城の戦で活躍『古文書』
1539以降の多々の内政文書等に活躍が見られる
※
『資料』には1510,1516の相模の戦で伊勢配下として活躍『出典無し』とも記載
→ よく分からないので拙作では無視
※
1519以降、備前松田当主元陸(元成の孫)は
それまで対立してきた浦上村宗と結び派閥を共にしている。
(※元成は浦上によって攻め殺されてる)
1521.1には足利亀王丸(義澄嫡子)を奉じて挙兵した赤松義村を浦上が撃破。
その後、赤松義村を幽閉・殺害。
浦上は播磨・備前・美作の支配権を奪う。
つまり備前松田家は浦上側。
→ 方針転換した元陸とは道を別にした一派がいてそれが④の人達ということなのか?
そもそも、④の人達(賢信・信貞)は
1456-1487辺りに将軍配下として文書に名が見える人達。
そういう意味で1477以降に早雲と親交があった可能性は十分有りそう。
その人達の一代か二代か後の者達がどういう経緯か不明だが備前にあって
浦上の乱に遭い、盛秀と康定が元氏の一族を頼り相模へ。
ということなのだろうか……
■■ 作者妄想(拙作で採用します)
8代頼秀と9代盛秀の間には8.5代というべき左衛門尉がいた。
頼秀の次男で1468生まれ位。
相模松田は父に預け、京へ上り将軍に近侍。
京都の義稙幕下で早雲と親交を結んだのも
(頼重は相模に下向したきり京都には戻らなかったとする)
それ以降早雲に付き従ったのも
1500の小田原城奪取で活躍したのも
1504の立河原合戦に参陣したのも
伊勢氏の小田原奪取後、相模松田家を継いだのも
1521に盛秀・康定を迎え入れたのも
この左衛門尉であり
1494時は早雲配下(義稙配下という立場から移行)という立場で
早雲と行動を共にした。
つまり父頼秀と対立する扇谷側陣営にやむを得ず付いた。
結果、頼秀は1494.9に扇谷・大森に殺され、松田領は奪われ
多くの家臣も大森配下となったが
1458下向以来培った相模松田家(頼重・頼秀)と相模国人の人脈は残っており
1499以降、小田原奪取時に、それを活用した左衛門尉の活躍あって
伊勢家の小田原城含めた足柄二郡(相模西郡)制圧は
それなりにスムーズに済んだ。
ただし左衛門尉に跡継ぎが1521近辺においていなかった為
盛秀・康定が家督を継ぐこととなった。
……という線で書いていきます。
盛秀の『盛』に関しては作者なりの解釈があるのでそれを使用予定。




