21 侍見習い 弐
治郎兵衛は慌てて伊勢に頭を下げた。
「お早うございます。朝早くからこちらに何か御用ですか」
「いや、昨日は本丸の方で夕餉をとってそのまま寝たというだけの話だ。
それより上から見ていたが、お主こそこんな時分からこんなとこで長いこと突っ立って、何か心配事か」
「あ、いえ。私事なのですが……」
「……ふむ。私事というと、早川村のことか?」
「いえ、そうではないのですが。というかよく私が早川村の出だと覚えておられましたね」
「ふっ、まだ耄碌する年でもないわ。勿体付けずに話してみよ」
「は……。実は知り合いに連雀をやっている者がいるのですが――」
治郎兵衛は卯吉のことを話した。
「卯吉は体こそ小さいですが、性根が座っていて滅多に愚痴を零したりしませぬ。あの様に投げやりに話す姿など見たこともなかったので、どうも気になりまして」
「なるほどのう」
「それに、何と言いますか。対応の仕方を間違えた様な気もしており……」
「ふむ。お主が少し遠い存在に思えてしまったのかもしれんな」
伊勢はさもありなんと続ける。
「もっともな話じゃ。つい最近まで柑子百姓だった友が、武家の娘と馬を並べて偉そうに声を掛けてきて、その上城内の事を自慢気に話されては、その卯吉もさぞかし不快な気分になったであろう」
「いや、私は偉そうになど声を掛けておりませぬ。自慢気にも話しておりませぬっ。ただ卯吉が気落ちしてるように見えたから明るい話をと思ったのです!」
治郎兵衛の予想以上の剣幕に伊勢は後ずさった。
「分かった、分かったから。落ち着け。冗談が通じぬ奴じゃのう」
「冗談を言ってる場合ではありませぬ」
治郎兵衛は荒く鼻息を吐いた。
「まあしかし。実際にお主の立場がその卯吉に余計な遠慮をさせたかもしれんな」
「私の立場というと……、北条家に迷惑がかかるのを気にしたということですか」
「北条家にというより、北条家の中でのお主の立場を気遣ったのかもしれんということだ」
「そんな……」
「まあ一つの集団に属すとはそういうことだ。規模が大きければ大きい程に厄介なものよ」
「……」
「ところで、その卯吉が入ってる連雀は誰が取り仕切っているのだ」
「いえ、そこまでは……」
「ならば卯吉の家は知っておろう。どこの村だ」
「それは、山田村です」
「あの村か……」
「山田村が何か?」
「……。まあ今の話を聞いただけでは、何を言っても憶測にしかならん。
実際には何も起きておらず、ただの杞憂で終わるという事かもしれんし……」
「何か気に掛かる事でもあるのですか」
「……ううむ。もし商いに関わるいざこざが起きていたら少し面倒だと思ってな」
「……」
「連雀商人を取り仕切る座や豪商は、大勢の兵を従える大名や武将とはまた違う力を握っているのだ」
「……それは銭を沢山蓄えてるという意味ですか」
「連中が押さえているのは銭そのものと、物の流れだ。家来に俸禄を払うにも足軽を雇うにも、それから武具や兵糧を揃えるにも銭はかかる。その際に我々が彼等から借りることも少なくない。また物の流れが滞っては戦に支障を来たすどころか、民の生活が立ち行かなくなる。そうなっては大名・領主による統治も覚束なくなる。要するに国を強く豊かにするには、彼等に依るところが大きいのだ。
我等武家といえども上手く手を繋いでいかなくてはならん者達だ。それに力が大きければ顔も広く、中には家中の……、ん? 何じゃその不満気な顔は」
治郎兵衛は眉間に皺を寄せている。
「この間、櫓でお話を伺った時も思ったのですが、伊勢様は少し歯切れが悪うございます」
「な……」
「私にとってあのお話は本当に貴重な忠告として有り難かったです。しかし武士というのはもっとズバッと断じてズバッと動いていくのが格好良いと言いますか、そういう姿に惹かれます。御先代の早雲様など正にその鏡ではないですか」
「ぐ、む」
「右衛門様から早雲様の事績を教わり思うのです。判断に迷いや躊躇いが無く、大胆に素早く行動していく。流石北条家の始祖と言われる程の方だと感服致しました」
「ぐ……。
……あのな、治郎兵衛。後から歴史としてまとめて聞けば、いかにもそういう風に感じられるものだ。現実にはその間に筆舌尽くし難い苦慮や逡巡があるのだ。武家の当主とは然程簡単に務まるものでは――」
「何よりも、伊勢様」
治郎兵衛は真っ直ぐに伊勢を見ている。
「む、何じゃ」
「初めて早川の土手でお会いした時のこと、覚えておられますか」
「無論覚えているが……」
「あの時私は『皆が笑って暮らせる世』を望むと、そう申しました」
「確かに。そなたの母がそう願ったからと言っておったな」
「『皆』の中には、北条家の方達だけでなく百姓も、それから卯吉も入っております」
「……」
「国を強く豊かにすることが大切なのは何となく分かります。分かりますが、その為にあの真面目で優しい、身寄りも無く一人で頑張ってきた卯吉が割を食わされるという話なら……、私には到底見過ごすことなど出来ませぬ。北条家家臣ゆえに卯吉を助けられぬなど本末転倒もいいとこです!」
話ながら熱くなる治郎兵衛を伊勢はたしなめた。
「そういきり立つな。確かな事はまだ何も分かっておらんではないか。ともかく今日の勤め終わりにでも山田村へ行き、今度こそ事情を聞いてこい」
「あ、そうか……、そうですよね。もう一度聞いてくれば良いのか」
「それでだ、本当に何か厄介事が起きていたなら報告いたせ」
「伊勢様……」
「そんな必死な形相をされては放っておけんだろうが。仕方ないから儂も出来る範囲で手を貸そう」
「有り難うございます!」
「ったく。調子の良い奴じゃ。
明日……は無理だな。明後日の夕方、お主がいる西曲輪の櫓に行くから、その時に話を聞かせよ」
「はっ、かしこまりました」
幾分、元の調子を取り戻した治郎兵衛を見、伊勢は嘆息した。ただその目はどこか治郎兵衛を慈しんでいるようにも見えた。
* * *
治郎兵衛は昼前に二ノ丸の南西側にある足軽備え奉行の詰所へ行った。卯吉に会いに行くなら与一郎が同行してくれた方が何かと心強いと思ったのだ。詰所に与一郎はいたが、綱成もいた。槍奉行である綱成は足軽の装備に関する打ち合わせに来ていたのだ。
与一郎と綱成が既に顔見知りであることに少し驚いたが、話を聞いた綱成が『俺も行こう』と言い出した時にはもっと驚いた。何だか面白そうだからと言う。まあ居てもらっても困る事は無いので、結局同行してもらうことになった。
山田村は小田原城の北北東、二里(約8km)の辺りにある。治郎兵衛の気負いに綱成の好奇心も加わり、三人は自分達の御役目を他の者に肩代わりしてもらい、申の刻(午後三時)頃、馬で小田原城を出た。
城の北側に広がる足柄平野――西の箱根外輪山と東の丘陵地帯に挟まれた平野――は五本に枝分かれした酒匂川が流れている。水害さえ起きなければ実り豊かな水田地帯であり、田植えに精を出す百姓を横目に三人は馬を進めた。途中、綱成が渡河訓練だと言って橋の架かっている所も敢えて川を渡るのでそれに付き合ったりしつつ、夕方には平野北東部の大井郷(現大井町の辺り)に入った。
郷の東半分は丘陵地帯であり、鬱蒼とした樹林が広がる。山田村はその入り口に位置しており、三人は幾つかの緩い坂道を経て、辺りが薄暗くなる頃、ようやく村に辿り着いた。
村と言っても家屋はまばらである。そのうちの一軒のあばら家まで来ると治郎兵衛が呼び掛けた。
「卯吉ーっ、治郎兵衛だけど~」
返事は無い。入り口の筵をめくったが卯吉はいない。仕方なく中に入って帰りを待つことになった。与一郎は近くの家に行ってみると言って一人出ていった。
治郎兵衛が燭台の灯明に火を入れる。見回してみると、随分殺風景だった。物がろくに無い。
「もう次の連雀に出てしまったんでしょうか。いつも戻ってくると何日かは村に居るんですが」
「まあ与一郎が何か聞き込んでくるだろ。連雀って言っても家族は残ってるんだから」
「そうですね……。それにもし連雀に出たんだったら、普通に仕事をしに行ったわけだし、別段何も無かったってことになりますよね」
「そういうことだ。それだったらこっちで一晩泊まって明日小田原へ帰れば良いしな」
「はい。少し早く出ないとですが、朝の登城太鼓には間に合うでしょう」
やがて、しばらくして与一郎が帰ってきた。だがその表情は冴えない。
「一兄、何か分かった?」
「ん、それがな。村の者は前回連雀に出てったきり、卯吉を見てないって言うんだ」
「え……」
「連雀に行ってる奴等はまだ誰も帰ってきてないんだ。予定じゃ帰りは五月中頃らしい」
「そんな……。だって現に卯吉は昨日私を訪ねてきたんだよ?」
「だから、一人だけ先に帰ってきたってことだろ……」
「何で……」
「さあな。仕事でヘマでもやらかして帰らされたのか、それとも何かあって嫌になって抜けてきたのか……」
「商売品を何か忘れてて取りに戻ってきたってことはない?」
「その程度の事ならお前に言うだろ」
「……」
綱成が与一郎に言った。
「なら連雀を取り仕切ってる奴に事情を聞きに行ってみるか? 何か知ってるかもしれん。この山田村は誰だったかな……」
「確か金子庄衛門殿です。西にある金子村にでかい屋敷を構えてます。金子村もこの山田村もあの方の領地ですね」
「ああ、あの成金爺か……」
「しかし考えてみると、卯吉が何か都合悪い事があって連雀を抜けてた場合は、俺達が金子殿に会いに行くことで返って藪蛇になるかもしれません」
「金子が卯吉の所在を知りたがってるかもしれないということか」
「はい。それも有り得るかと」
「……」
落ち着いている二人に対し、治郎兵衛は冷静でいられず立ち上がった。
「一兄、とにかく今からでも行ってみようよ。もしかしたら卯吉は今その金子様の所に居るってこともあるかもだし。話を聞けば『何だ、そんなことか』ってなるかもしれないじゃない」
「待てよ。もしも本当に卯吉の身に何か起こってるなら慎重に動くべきだ」
「『何か』って何さ。
大体金子様だって北条家の家臣なんでしょ。一生懸命連雀商いやって北条家にも税を納めてる卯吉にひどい事なんてする筈ないじゃないか」
「そうとは言い切れないんだよ。残念だけど、大名である北条家でも家臣の領地の政に介入出来る場合と出来ない場合があるんだ」
「……。……でも、そうだとしても正しい事は誰が判断したって正しいんだし、あの卯吉が何か咎められる様な事をする筈な――」
「しッ!」
綱成が鋭く遮った。小声で呟く。
「外だ。足音が近付いてくる」
二人も聞き耳を立てた。確かにゆっくりと誰かが歩いてくる。一人らしい。やがて入り口の前で止まった。筵がまくり上げられる。
もしかして卯吉が帰ってきたのかという三人の期待はあえなく裏切られ、いかつい野武士が現れた。
●足柄平野を流れる酒匂川について
戦国時代、足柄平野を流れる酒匂川は現在の様に綺麗な一本の流路ではなかったらしいです。平野の入り口で何本もに枝分かれして、相模湾の手前でまた一本に合流する様な形状だったのではないかと調べたサイトに書いてありました。
それを一本にまとめたのは、徳川幕府の伊奈忠次達であり、それによってより効率的な用水と収穫面積を確保したそうです。
歌川広重の東海道の絵にも、酒匂川で胸下位まで浸かって人足達が客を担いで運んでいく所が描かれています。
ここから先は作者の勝手な妄想ですが、元々枝別れしていて、各川がもっと浅い水深であり人足、つまりプロでなくても渡れるような川だったのが一本にまとめたことで人足に頼らなければ渡れない位深くなってしまったのではないかと思いました。
ちなみに似た様な話が大井川でもあるそうです。
いくら何でも後北条氏が酒匂川を渡って出兵・帰還する度に、胸下位の深さのある川を兵や馬に渡らせてたとするのは危険で非効率的な気がしますので、拙作ではそういう設定で書かせて頂きます。
なお戦国時代同様、徳川幕府も橋をかけることを良しとしない風潮があったそうで酒匂川でも小舟や人足が活躍したようです。
もっとも、冬など乾燥して水嵩が減る時は、徳川幕府も橋を一時的にかけたりもしていたようです。
酒匂川は急流である為、当時の技術レベルでは橋をかけても水量が増えた時にあっさり流されてしまっていたのではと考察しているサイトもありました。




