20 侍見習い 壱
●用語説明
鎧櫃:鎧具足を入れて持ち運ぶ為の四角い箱
小者・中間:
拙作では武士ではない身分として扱いますのでご了承下さい。
小者・中間は世襲できないものとして設定します。
作者もあまりよく分かっていません。
治郎兵衛は小田原城二ノ丸で馬を返して糸乃と別れると、箱根口門前で待たせていた卯吉と早川村の元自宅へ行った。最初は卯吉を城内の長屋に連れていこうとしたのだが、それは糸乃に止められたのだ。
治郎兵衛は自覚していないが、武士でない身分で城内に起居しているのは小者・中間といった雑用働きの者達が大半であり、彼等は北条の一門衆や城内に屋敷を与えられている武将もしくは他家から預かる人質達の暮らしの世話をすることを御役目としている。戦では徒士として主人の槍を持ったり馬の轡を取ったりしつつ、敵と交えれば主人が手柄を立てられるよう働く者達だ。
ちなみに治郎兵衛が普段使っている二ノ丸の長屋もそういう者達が使うか、もしくは籠城時に足軽や百姓達を収容する為の設備である。
北条家では、そういう低い身分の者達が自分の知り合いだからという理由だけで誰彼構わず城内へ連れていくことは認められていない。大名家としての威厳、城内の警備を考えれば当然の対応である。
彼等と大差無い身分の治郎兵衛が普段、当主嫡男の館に出入りしたり、家貞や綱成から座学や馬術の講義をしてもらえることは『特別扱い』なのであり、登用の経緯を知らない者達からすれば贔屓でしかない。そういった微妙な立場にある治郎兵衛が無自覚に振る舞うことは本人の為にもならず、糸乃が止めたのも規則云々より彼女なりの気配りからだった。
それに何より、治郎兵衛としても元自宅へ行く用があったのだ。
板の間に腰を下ろした卯吉がすまなそうに言う。
「治郎兄、悪かったね。御役目の後で疲れてたのに」
「気にしなくていいって。どうせ壺やら桶やら、まだ運んでない荷物が少し残ってたから」
「鎧櫃もあるね……」
卯吉は四角い蓋を開ける。
「ああ、それは昔、一兄と戦場跡で拾い集めたガラクタ。壊れちゃってて城下の鎧鍛冶に持ってっても引き取ってもらえなかったんだ。
あ、汚れてるから触らない方が良いよ」
「……そっか。何か掘り出し物の短刀とか紛れ込んでれば良かったのに」
「はは。そういうのは無かったなあ。しかもあの時は大人に見つかって叱られてさ。昔から一兄に付いてくと碌なことにならないんだよ」
「ふふ。でも今度は死体漁りじゃなくて、敵と戦いに行くんだものね。やられないように気を付けなよ?」
「うん……。実はもう何日か後に多摩の方へ発つんだ。扇谷上杉との戦があるかもしれないらしくてさ」
「そうなんだ……。
でも大したもんだよ、もう戦に連れてってもらうなんて。治郎兄は腕っぷしが強いから、きっと手柄を立てられるって。
ていうか、既にもう小田原城に住んでるんだもんね。馬だって乗って、あんな綺麗な人の供までしてさ。……ちょっと前までここで暮らしてたのになあ。もう今は別世界の人って感じするよ」
「そんな大したもんじゃないって。侍見習いだから、まだ正式に登用されたわけじゃないし。ただ北条の方達は皆親切にして下さるからそれに応えたいって、それは思ってる」
「そっか……。本当に良かったね、仕官がかなって」
「うん」
治郎兵衛は心から頷いた。
「あぁ。僕も今度、北条家の登用試験受けてみようかな」
「え?」
「良い考えだと思わない?」
「でも卯吉……、商いで沢山稼いでいつか小田原城下みたいな人の多い町で店を持ちたいって言ってなかった?」
「そうだったっけ。そんなこと思った時もあったかな……」
卯吉は笑っている。そして続けた。
「でもほら、所詮商人だからさ。毎日つつましく干物や紙なんか売り歩いても儲けなんてたかが知れてるし。そういう地道な積み重ねだって、野武士や何かに襲われれば、お父がやられたみたいに一瞬で水の泡だしさ」
「卯吉……」
「ああ。でも武士はやっぱり無理かな。この細い腕じゃ槍も満足に振るえないし」
それは自嘲だった。
「大した取り柄も無い、親もいない、おまけに……、こんな乱世で生きろなんてさ。随分無慈悲だよね、神様だか仏様だか知らないけど」
今日の卯吉は少しおかしい。流石に治郎兵衛も何かを感じた。
「ねえ、卯吉。その、……仕事で何か嫌なことでもあった?」
「ん? ううん。別に、何も」
「ほんとに?」
「うん。治郎兄ののんきな顔見たらたちょっと愚痴りたくなっちゃっただけ」
「のんきはひどいな、これでもそれなりに悩んだりもしてるけど」
「はは、冗談冗談」
それからしばらく、他愛ない会話が続いた。治郎兵衛は卯吉を元気付けるつもりで栄や綱成の話等を面白可笑しく話した。だが卯吉は乗りが悪い。反応が鈍い。それどころかいくらもしないうちに、ぼそりと呟いた。
「さてと」
「ん?」
「そろそろ。……行かないと」
「え、もう帰るの? 来たばっかりじゃん。今日も泊まっていきなよ」
「はは。治郎兄も小田原城に帰らないと駄目でしょ。それに、ちょっと人と会う約束があるから」
「これから? 村の人?」
「うん。そんなとこ」
「そうなんだ……、それじゃ仕方ないか。
じゃあ城まで一緒に行こう。できれば荷物も少し持ってほしいし」
「はは、分かった」
二人は荷物をまとめると家を出た。
もうすっかり日も落ちている。ただ幸い月が出ていた。小田原城までは大した距離も無い。やがて箱根門口前までやってきた。
「次の連雀は何日位の予定なの?」
「次かあ」
卯吉は脇の堀に目をやった。抑揚の無い口調で言う。
「次はちょっと長くなるかもしれない」
「そう……。私も小沢行きがどれ位の期間になるか分からないけど。
まあ、あの家は使えなくなっちゃうけどさ。お互い戻ったらまた会おうよ。どこでだって話せるし」
「うん、そうだね。それじゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ。帰り道、気を付けてね」
治郎兵衛は小さくなっていく卯吉の背中を見送った。ただどうもその後ろ姿が力無く見え、一抹の不安が拭い切れなかった。
* * *
翌朝、治郎兵衛は薄暗いうちから目が覚めてしまい、長屋の外へ出た。まだ日の出を知らせる城の太鼓も鳴っていないわけで、二ノ丸は静まり返っている。意味も無く歩いていると本丸の外周沿いに掘られた空堀の所へ来ていた。
卯吉は本当にただ愚痴りたいだけで自分を訪ねたのか。本当は何か話したい事があったのではないか。自分は城勤めの話などせず、それを聞かねばならなかったのではないか。考えれば考える程、胸の靄が深まっていく。
「いかがした、朝から冴えない顔をして」
振り向くと伊勢が立っていた。




