2 春日 後編
「我等が相模全土を支配してようやく、というかまだ、十数年が経ったに過ぎぬ。あの時の百姓の様に北条の家を快く思わぬ者は依然多かろう。
そして何よりも、これからまだ戦は続く。残念だが力を用いずして乱れた世を正すことは出来ぬ。その合戦の度に我等は相模伊豆の民に兵として戦ってもらわねばならぬ。国境の村では乱取りに遭うこともあろう。下手をすればさせる側に立たせてしまうやもしれぬ。
その様なことを時折思っていると、我等北条の武士とはこの地に生きる民にとってどれほどの意義があるのか、我等が掲げる理想など画餅なのではないかと……」
侍はそこまで言って言葉を切り、咳払いをして付け加えた。
「とまあ、そういうわけで中々ままならぬものよと川面に向けて愚痴を零しておったのだ。先程は格好付けて『考えていた』などと言ったがな。まったく不甲斐ない話だ」
「……。この土地も北条家が入ったことで、大森の殿は城を追われ滅び、その戦で私の祖父も命を落としたと聞いております」
淡々と後を継いだ治郎兵衛に侍は少し驚いた。
「そなたの家……元は大森の家人だったのか」
大森氏は扇谷上杉氏の家臣であり小田原城主であったが、そこから山内上杉方へ降り、最後に北条方によって一五〇〇年に相模から追い落とされている。
「祖父が亡くなった後に帰農したそうです」
「そうであったか。父御は北条の支配を受けることとなったこの地に留まることを選んだのだな」
「はい。ただその父も私が生まれて間もなく小田原城の防衛戦に雑兵として加わり、その時の傷が元で亡くなったそうです。そして母は病で一昨年に亡くなりました」
「何と……」
侍はその面にありありと苦悩を浮かべた。
しかしながら、当人の治郎兵衛は然程悲しむ様子もなく、それどころか声に少し力を入れて続ける。
「ただその母が生前よく言っていたのです。北条の御殿様の代になってから暮らしが少しだけ良くなったと」
「……我ながら情けないがそれは空元気にしか思えんな。稼ぎ手を失い、主家を討たれ、そのような言葉本心から出よう筈がない」
「そうですよね。子供だった私もいつも腹を空かしていましたし」
「……」
「けれど、母が言おうとしてたことは……どうも、何というか生活の苦楽の事ではなかったんじゃないかと。ぼんやりとなのですが、そう思うようになりました」
侍は、はっとしたが、治郎兵衛の言葉を遮ることなく聞き続けた。
「母が望んでいたのは戦の無い、誰も飢えることのない、皆が笑って暮らせる世です。今がそういう世の中へ向かっている最中なのだと、お侍衆にだけでなく百姓に正面切って恥なく言える、そういう政が行われてるか否かという話を伝えようとしてたんじゃないかと思うのです。
その途上なら、ひもじさも田畑を焼かれた苦しさも、家族を殺された悲しさも拭い去れはしないけれど、それでもまだ前を向いて日々を営んでいけると……上手く説明できませんがそんな様な意味だったのではないかと」
「……」
「元々住吉の出である母は多分、扇谷、山内の上杉様の代で見出せなかったその兆しみたいなものを、北条様の治める小田原の政で感じたのだと思います」
話し終えた治郎兵衛が見ると、侍は自身が座っているその足元へ視線を落としていた。そうして無心にただぽつりと『届いていたのか』と呟いた。
「なんですか?」
「あ……ああ、いや。こちらのことよ。
……そなたの母は強いな。……いや、そのような一言でくくるは礼を失するか。大変な苦労を、乗り越えてこられたのだな」
「……はい。そうだと思います。」
治郎兵衛は母の横顔を思い出し、少し切なくなった。もう2年になる。
「だから、私も母のそういう思いを忘れたくないのです。その思いに沿うべく生きていきたいと思っております。私などに何が出来るか分からないのですが」
「……うむ。そうか、そうだな。真に殊勝なり。」
褒められて照れ笑いをする治郎兵衛の顔はまだどこかあどけなさを残している。
それを慈しむようにしばし見つめていた侍であったが、ふと視界の端の端に、こちらへ走ってくる小さな人影を見つけ、それが見知った者の顔であると分かると頭を掻いた。
つられて治郎兵衛も桜並木の土手の先に目をやる。
年老いた武士らしき者が何か大声でこちらを呼びながら走ってくるのが見えた。
「ううむ……いかん、そろそろ戻らねばならぬらしい。母御の貴き教えを話し聞かせてくれこと、礼を申すぞ」
「あ、いえ。私の方こそ、この様に言葉にしてみて改めて心の内を整理できたように思います。有り難うございました」
言いながら治郎兵衛は立ち上がった侍に向き直り、思わず息を呑んだ。身に着けている衣服こそ粗末だが、堂々たるたたずまいに十二分な円熟を窺わせる風貌はどこか冒し難い威厳さえ感じられ、こんな男が今の今まで自分の様な年端もいかない者の話に熱心に耳を傾けていたのかとやや呆気にとられた。
「そうか。ではな」
それまでと変わらぬ調子で別れを告げる侍に治郎兵衛はほぼ無意識に頭を下げた。
やがて治郎兵衛がようやく顔を上げてみると、桜並木のずっと続く先で、あの侍が迎えに来た武士と何事か交わした後再び歩き出していくのが見えた。
春風に桜の花弁がひらひらと舞い降る中、颯爽とゆく後ろ姿が次第に小さくなっていく。
見送る治郎兵衛は言い表しようのない何とも不思議な心持ちに包まれ、その日焼けた面を僅かに綻ばせていた。