表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北条戦記  作者: ゆいぐ
侍見習い編 前編
19/43

19 龍笛の約束

韮山(にらやま)城内を探し回っていた幼い糸乃(しの)は笛の()を頼りに西曲輪(にしぐるわ)へ辿り着いた。柵の(きわ)に立つ笛の主を見つけると、細心の注意を払いそっと歩いていく。やがて彼女の斜め後ろまで来て止まった。


ちょうど()山間(やまあい)に沈もうとしているところで、眼下に広がる稲田と点在する民家を全て茜色に染め上げている。


柔らかい旋律とのどかな田園の景色に接していると、糸乃は優しい気持ちになるのだった。この今が永遠に続けば良いと思う程、心地良(ここちい)い時間だった。


――だがやがて日も暮れて残照も僅かとなる頃、笛の調べも終わってしまった。

糸乃はまだ物足りない気持ちを抑えつつ、笛の主に声を掛けた。


「ぜんしゅうじ様の笛の()はやっぱりほっとします」


いつも笛を聴き終えた後に糸乃が決まって言う台詞で、いつの間にか家中にもそれが広まっていた。やはり今もそういう気持ちだったからその通りに言ったのだ。

けれど振り返った善修寺はいつもの様に微笑んではくれなかった。


「糸乃、聴いてくれていたの。……ありがとうね」

「このごろ、あまり吹いて下さらなくなったと皆ももうしておりました。私はうんが良いですね。

また前みたいに皆の前で聞かせてください。きっとよろこびます」


善修寺は困った様に顔を少ししかめ、糸乃の前にしゃがんだ。


「今度、湯本のお寺に大殿のお骨を移すことになってね。だから、この笛も納めることにしたの」

「おさめる……?」

「ええ」

「おさめるとは、どういういみですか?」

「……」

「もしかして、もう……吹いて下さらないといういみですか」

「……許してね。これを奏でると大殿を思い出してしまうから」

「……」

「糸乃はこの韮山へ来ると、一番よく私の笛を聴いてくれていたものね。

最後に貴方が聴いてくれて良かったわ」

「……」


眼を潤ませる糸乃を、善修寺は優しく撫でてくれる。

糸乃は全く納得出来なかった。けれど彼女の寂しそうな表情を見ていると訳も分からず胸を締め付けられ、咄嗟に思い付いたことを一生懸命伝えた。


「なら私がいつか大きくなったら、今度は私がぜんしゅうじ様に吹いてさしあげます。いせ()の皆にもきかせて『ほっとするなあ』って言わせますから。だからそんなさびしい顔をしないでください」


遂に大粒の涙を(こぼ)す糸乃を前にして、善修寺はしばらく呆気に取られていた。だがやがて糸乃を抱き寄せ、『そうね。いつかきっと、またそんな日が来るわね』と呟いたのだった。


 * * *


そして今も、茫然と立ち尽くす糸乃の頬を涙が伝い落ちていく。糸乃は、ぽつりと呟いた。


「あの笛の()を聴きながら韮山の景色を眺めるのが、私大好きだった……」


善修寺が懐かしそうに言う。


「最後に奏でた時もいつの間にか傍に来ていたものね」

「善修寺様は……、あの日のことをずっと覚えていて下さったんですね」

「ええ」

「それなのに私ときたらあんなに大切な約束を、馬鹿だからすっかり忘れて……」


涙を拭いもせず、俯きもしない。そんな彼女を善修寺はまた抱きしめた。


「泣かないで、糸乃。子供の頃の思い出なんて誰しもそんなものよ。

それに言ったでしょう? 貴方に思い出してもらう為に奏でるんじゃないって。『これからは糸乃が笛の()を継いでいってくれるから安心して』ってあの人に伝えておきたかっただけなの。だからそんな風に自分を責める必要なんて全く無いわ」

「でも……」

「養珠院殿が亡くなった後も、貴方が本当に一生懸命に栄や妹達のことを見てきてくれたことは三郎から知らされていたの。そういう貴方に、これから北条の家を支えていく貴方にこの笛を継いでほしいの。以前私がそうした様に、家中の皆に奏でて聴かせてあげて。『ほっとするなあ』って思わせてあげて」


善修寺は笛を差し出し、糸乃の手にそっと握らせる。糸乃はそれをじっと見つめた。


「大丈夫よ。小さい頃から負けず嫌いで芯の強かった貴方だもの。いつかきっと吹きこなせるようになるわ。必ずね」

「善修寺様……」


以天が明るく言う。


「糸乃。儂と治郎兵衛と、それから大殿が立会人(たちあいにん)だ。受け取っておけ。そして善修寺殿を凌ぐ吹き手となることを、改めて約束いたせ」


糸乃は早雲の墓石をしばらく見つめた後、以天に小さく頷く。次いで治郎兵衛を見た。

治郎兵衛は事情を完全に理解したわけではなかったが、糸乃の気持ちが何となく伝わったので力強く頷いた。

糸乃は最後に善修寺に向き直る。鼻を強くすすり、涙を拭った後、深々とお辞儀をした。


「善修寺様が大切にされた龍笛(りゅうてき)、有り難く御受け致します」


善修寺は微笑み、『お願いね』と言った。


 * * *


その後、善修寺から指導を受ける為に糸乃は宿坊の方へ戻っていった。治郎兵衛は帰っても構わないと言われたのだが、綱成から護衛を言いつかったこともあり笛の特訓が終わるまで待つことにした。もっとも今後は善修寺も小田原に移り、秋までは笛の指導に当たるらしい。


「以天様、どこか境内の木陰を借りて書物を読んでいても良いですか」

「ふむ、木陰と言わず宿坊の空いてる部屋を使って構わんが……。

なあ、それより折角湯本に来たんだから少し疲れを癒していくと良い」

「はい?」

「ふっふ。付いておいで」


そう言うと以天は寺の者に断りを入れ、早雲寺を出た。

畑の道を西へ向かう。いくらも行かないうちに、川沿いに建つ民家が数軒見えてきた。以天は『おとこ湯』という大きな看板が掛かった家屋に入っていく。


「あ、和尚様。いらっしゃいませ」


板の間の右手に文机があり、少年がちょこんと座っていた。


「よお、相変わらず流行(はや)っとらんな」

「こんな時間から入られるのは和尚様位ですよ」

「はは、(たま)にだ偶に。今日は二人で頼む」

「はい。ごゆっくりどうぞ」


以天は板の間に上がり、銭二文を少年に渡す。帳面に何か書き込む彼の前を素通りし、向かいの壁際でおもむろに僧衣を脱ぎ始めた。


「治郎兵衛、刀と着物はこの行李(こうり)に入れるのだ」

「以天様、ここはもしかして湯屋(ゆや)ですか」

「そうだ。ただし天然のな。箱根火山の恩恵だ」

「ははぁ。話に聞いたことはありましたが……」


衣服を脱いだ二人は手拭いを持ち、脇の出口から再び外へ出る。

竹垣(たけがき)に囲われて、もやもやと湯煙が立ち(のぼ)る大きな岩風呂があった。


「うわぁ、これは良いですな」

「はっはっは。折良く貸し切りだな」


治郎兵衛は少し熱めの湯に浸かり、大きく伸びをした。

竹垣の無い場所からは、少し低い所を流れる川も見える。


「せせらぎと鳥のさえずりを聞いてると、帰りたくなくなってしまいますなあ」

「そうだろう。

これは須雲川(すくもがわ)というのだ。この少し先で早川に合流して小田原の海へと流れていく」

「ははぁ」

「秋には川向こうの山岸(やまぎし)の紅葉が鮮やかに色付いてなあ。それを(さかな)に飲む酒は最高だぞ」

「はは。いいのですか、仏様に仕える方が酒など」

「ふん、真面目だのう。趣きを(かい)する心も時には必要だぞ」

「はは……。

ああ、今思ったのですが早川の早の字と須雲川の雲の字を合わせると、早雲公の御名前になりますね」

「ふふ、お主も気付いたか。大殿がこの地を(いおり)を置く場所として選ばれたのは、それも理由にあったかもしれんな」


何よりも小田原城をその後ろから見守りたかったのだと以天は思っている。


「菩提寺が建つ前は庵だったのですか」

「いや、大殿が湯本へ来た当時は真言宗の真覚寺(しんかくじ)という荒れ寺があったのだ。そこの高齢の住職に交渉し、境内の一角に庵を置かせてもらった。今も当然に残っているぞ」

「ははぁ。しかし真言宗の寺を臨済宗に改宗させてしまって、その住職や湯本の人達は怒らなかったのですか」

「下手を打てばそうなっていたかもしれんな。だが大殿と今の御本城様が十数年の統治を経て民の信頼を得、大殿亡き後に御本城様が住職を説得して臨済宗としての菩提寺を置くことを認めてもらったのだ。

まあ元々鎌倉の御代(みよ)に広まった新しい仏教は、武士や百姓に馴染み易いものだからな。その住職も宗派の威勢を維持するより、民の拠り所を保つことを優先してくれたと聞いている」

「う~ん。何だか難しい話ですが、その真言宗の住職様も尊い判断をされたということは分かりました」


宗教事情にも疎い治郎兵衛にとっては、仏教に新旧があるという話からして分からなかった。


「はは、まあ一番の大事はそこかもしれんな。あとは石巻の子倅にでも聞いておけ」

「はい」


二人はしばらく大自然の湯舟を満喫した後、昼前に早雲寺へ戻った。だが糸乃の特訓はまだ続いていたので、続いて治郎兵衛は写経(しゃきょう)をやることになった。

宿坊の一室で半刻(はんとき)(一時間)程かけ、意味を知らない漢字を三百字程書き写した治郎兵衛はぐったりして奥書院にいる以天に報告に行った。しかしそこで更に三回分の料紙を追加されてしまい、げっそりして宿坊に戻った。


そんなわけで糸乃が特訓を終えて治郎兵衛を呼びに来た頃、その心はしっかりと無の境地に達していた。というか放心状態になっていた。


(さる)正刻(せいこく)(午後四時)を過ぎる頃、治郎兵衛と糸乃は以天と善修寺――もう一泊して小田原城へ向かうということだった――に見送られて帰途(きと)に就いた。

帰り道、妙に小綺麗になっている治郎兵衛を不審に思った糸乃が『のんびり温泉に浸かってた』と聞かされて大層機嫌を損ねたり、糸乃が早雲寺で泣いてしまったことを栄に秘密にしておくよう約束させたられたり、それから糸乃の在竹(ありたけ)の家の話等を聞かされながら、なんやかんやで無事、小田原城近くまで戻ってくることができた。


色々あったが終わってみれば治郎兵衛にとって良い休日だった。小沢城へ発つその日まで、また気持ち新たに御役目と修練に取り組もう、そう強く思っていた。だから……治郎兵衛は道の向こうから歩いてくる卯吉を見つけた時も『今回は早く帰ってこれたんだな』位にしか思わず、その名を大声で呼んだ。ましてや糸乃と馬を並べて歩む自分が卯吉の目にどう映るかなど、考えも及ばなかった。


後々、治郎兵衛は松田(まつだ)城の薄暗い土牢(つちろう)でただ一人、この時の自分を深く悔いることになる。


●用語解説


行雲流水:

万物不定という意味から派生して

「何事も自然のままに。なるようになる」の意味もあります。

いつかそれに対する早雲の反応も書けたらと思ってます。


行李(こうり)

竹、柳、(とう)等で編んだ蓋付きの(かご)


宿坊:

仏教寺院や神社に設けられた宿泊施設。僧専用のものは僧房ともいう。


竹垣:

竹で編んだ垣根。


開山(かいさん)

寺院を創始すること。また創始した僧。


大禅定門(だいぜんじょうもん)

戒名の位号。


●以下、善修寺殿の周辺年表です。

善修寺殿の俗名等も含め、かなりの部分を作者の想像で設定してます。


1456

伊勢盛時誕生。


1472

以天宗清(いてんそうせい)誕生。


1480

狩野善(かのうよし)誕生。


1498

伊勢氏、狩野城を制圧。当主道一自害。

伊勢氏、伊豆一国を制圧。

以降も早雲は韮山城を本拠地とする。


1500

善(20)、早雲(44)の側室となる。

伊勢氏、小田原城を奪取。

氏綱、13歳にして小田原城城主となる。


1503

長女、長松院誕生。

南陽院はこの頃より体調が悪くなり

側室の善と葛山殿が内向きのことを取り仕切ることが多くなる。


1504

春浦宗煕(しゅんぽそうき)の弟子であり、早雲法兄の東渓宗牧(とうけいそうぼく)を介して

当時京にいた以天は早雲から招きを受け

伊豆韮山城近くの香山寺住職となる。


1506.7 南陽院が死去。


1508

長男、三郎長綱誕生。幼名菊寿丸。

早雲、東渓より天岳の同号を貰う。


1509

氏綱、養珠院を娶る。


1510

次女、青松院誕生。


1511

葛山殿、死去。


1514

在竹家長女、糸乃誕生。


1515

氏康誕生。綱成誕生。治郎兵衛誕生。


1516

栄誕生。


1517

早雲、以天に依頼して湯本に早雲庵を建てさせる。


1518

早雲、家督を氏綱に譲る。


1519

早雲、韮山城にて死去。

伊豆修善寺にて荼毘にふされる(火葬)。

善、出家して善修寺と名乗る。

以天、京都大徳寺の住職となる。


1521

氏綱、真覚寺(早雲庵)を早雲寺として改修。

寺は真言宗から臨済宗へと改宗。

同時期に以天に開山となってもらうことを依頼。

初冬、以天、相模に下り早雲寺開山となる。

早雲遺骨を早雲寺に移す。

(糸乃7歳)


長綱、天台宗三井寺上光院(滋賀県大津市)に入寺。


1524

長綱、出家。長綱(ちょうこう)と名乗る。


1525

長綱、17歳にして箱根権現別当に就任。


1527.7

養珠院、死去。


1528.7

養珠院の一周忌が催される。


1530.4

早雲寺で二年振りに善修寺と糸乃が再会。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ