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北条戦記  作者: ゆいぐ
侍見習い編 前編
18/43

18 行雲流水

永正一八年(一五二一)、夏も終わりに近いある日の夕暮れ時。

韮山(にらやま)城内の薄暗い廊下を、七歳の糸乃(しの)は探し回っていた。


「ぜんしゅうじ様~! ぜんしゅうじ様~~!」


柱に掛かった燭台に火を入れている武士に尋ねてみる。


「ぜんしゅうじ様をごぞんじないですか」

「ん? いや、分からんな。見ておらんぞ」

「そうですか、ありがとうございます」


糸乃はまたその名を懸命に呼びながら、せわしく歩いていった。


 * * *


糸乃が善修寺(ぜんしゅうじ)に会うのは養珠院の一周忌以来、二年振りだった。一通り挨拶を交わした後、糸乃は善修寺について説明してくれた。


「善修寺様は伊豆の狩野(かのう)家の()で、亡き早雲様の側室にして三郎様の御母上です。正室の南陽院(なんよういん)様がお体を悪くされてから後、伊豆の家中の内向きのことを取り仕切り御家を支えてきて下さった方でもありますから、失礼の無いようにして下さいね」

「かしこまりました」

「取り仕切ったなんて大袈裟なものではないから、そんなに構えなくて大丈夫よ。ただあの人が戦でいない時に留守を預かったり、皆の愚痴を聞いていただけなんだから」

「何を仰いますか。村の百姓や家来衆の不満が愚痴で済むうちに対処しておくからこそ、有事の際に皆が一致団結するというもの。北条の姫様達も他家へ嫁ぐ際は善修寺様を良き手本とするよう、教え込まれています。善修寺様ももっと堂々としていて下さい」

「ふふふ、困ったわね。

治郎兵衛殿、この子は昔からちょっと頑固な所もあるけど根は良い子だから仲良くしてあげてね」

「はっ」


ちょっと笑いながら返事を返す治郎兵衛を、糸乃は軽く睨んだ。


「『は』はないでしょう、治郎兵衛殿」

「あ、いやしかし、あれですね。善修寺様が早雲様の側室として韮山城におられたのに、糸乃様は随分親しいのですね」

「少し前までは毎年夏になると、北条の姫君達は韮山城を訪れていましたからね。私もそれに付いていき、善修寺様に可愛がって頂いていたのです」


糸乃は(おぼろ)げに昔を思い出していた。韮山へ行くと十数日は滞在していた。そういえば幼い頃は、よく一人で城内を歩き回って善修寺を探していた気がする。あれはいつ、しなくなったのだろう。何故栄達の元を離れて自分だけが――


その思考は、縁側から聞こえてきた遠慮の無い足音によって途切れた。間もなくして僧が現れる。


「いやあ、すまんすまん。糸乃が折角訪ねてくれたというに、遅くなってしまった」


黒衣(こくい)にくすんだ白い絡子(らくす)を付けているものの、野良仕事が似合いそうながっちりした体付きをしている。とても六十前には見えないが彼こそこの早雲寺の住職、以天宗清(いてんそうせい)だった。


糸乃が挨拶をし、治郎兵衛のことも紹介すると以天は大仰(おおぎょう)に頷いてみせた。


「ああ、そういう者か。儂はてっきり『婿を(めと)ることになった』とでも紹介されるかと、内心冷や汗をかいたぞ」

「なっ……! そんなわけないでしょう。三郎様から(ふみ)で笛の件について知らされている筈です」

「そのついでに婿の紹介をするかもしれんではないか。久し振りに来たついでにそういう話を持ってこられても困るからな」

「もう……。分かりました、そういう話の時は事前に文で伝えるようにしますから」

「いや、娶ることを決める前にここへ寄越せ。儂が見極めて駄目な奴だったら、出家させて大徳寺にでも送ってやるわ。生半可な奴なんぞ許さんぞ」

「勝手にして下さい。知りません」


会話を聞いて善修寺が可笑しそうに笑っている。そんな彼女を以天はちらりと見た。善修寺は静かに首を横に振る。以天は『ふむ』と言ってあぐらをかいた。


気付かない治郎兵衛が、先程から気になっていたもう一つのことを善修寺に尋ねる。


「善修寺様、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」

「ええ。何かしら?」

「実家の狩野(かの)城を攻め落とされて、御当主も討ち死になされ、早雲様を恨みはしなかったのですか」


糸乃が振り向き、『治郎兵衛殿』とたしなめる。だが善修寺は気に留める様子も無く答えてくれた。


「いいのよ、大丈夫。もう随分昔の話だもの……。

あの当時は恨むより何より、恐ろしくてね。何せ初めてあの人を見たのが、城内の一室に避難してた私達女子供の前に現れた、返り血を浴びた甲冑姿だったから」

「……」

「そんな人に嫁ぐんだと思うと恐くて仕方なくて夜一人でよく泣いていたわ……。でも実際に輿入れして、会って話してみると嘘みたいに穏やかな人でね。南陽院様もお(からだ)を崩されがちだったのに田舎娘の私を本当に気遣って下さって……」

「……」

「伊豆の村里(むらざと)が伊勢の討ち入りによる戦禍から少しづつ立ち直って昔の姿を取り戻してくにつれて、私も伊勢の家に馴染んでいくことが出来たの」

「……そうだったのですか」

「韮山のお城にいた頃、あの人は私の笛をよく聴いて下さってね……」

「……」

「いつも奏でている間は目を瞑って安らいだ顔をされてるのだけど、調べが終わってしばらくすると、決まって腕を組まれて『風、か……』って難しい顔をされていたわ」

「風?」

「ええ」

「風とは一体……」


きょとんとする治郎兵衛に以天が尋ねた。


「何だ、お主は早雲公の名の由来を知らんのか」

「はい、存じませぬ」

「そうであったか。ならば良い機会ゆえ聞いていけ。

何をや(はばか)らん。その庵号は当時、盛時(もりとき)と名乗っておられた大殿(おおとの)がこの湯本を流れる早川(はやかわ)を見て口にしたことを由来としておる」

「ここで早川を見て……」

「うむ。今より三十年以上も前(一四九四・初夏)の話だ。その頃韮山を押さえて伊豆の形勢にようやく目途が付いた盛時公は、相模西郡を治めていた大森定頼(おおもりさだより)に請われてこの湯本で会談をした。盛時公としては大森家当主との顔合わせと共に、事前に約定(やくじょう)していた三浦氏討伐の策を詰めるつもりで会談に臨んだのだが、大森側が伝えたのは三浦討伐だけでなく武蔵侵攻までを含めた従軍要請だった。

当時、国力・兵力で伊勢は扇谷に遠く及ばん。伊豆の平定も終わらぬうちに相模も敵に回すなど出来る筈もない。上方も扇谷に付いて親義稙側の山内を攻めるよう言ってくる。何より盛時公は伊豆に打ち入る時点で山内との軋轢を覚悟しており、いよいよここで山内、つまり関東管領家と(じか)に対決することを決断した」

「……」

「従軍合意の証文を取り交わして会談を終え、小田原へ帰る定頼を見送ったその後だ。

早川を眺める盛時公がその名と由来を聞き、『ならば儂もさしずめ早雲(そううん)といったところか』と小さく笑われたそうだ」

「……」

「分かるか」

「よく……分かりませぬ。まさかこれが噂に聞く禅問答(ぜんもんどう)ですか」

「……うむ、全然違うな。今一度考えてみよ」


善修寺は、急かすことなく治郎兵衛を待ってくれている。糸乃はどこか上の空だ。


「う~ん……。ならば……」

「ならば?」

「……備中で生まれた盛時公が京に上り幕府に出仕し、そこから北川殿の求めに応じて駿河へ下り、更に京に戻った後に再び駿河へ下り、そして将軍家の意向に応じて伊豆へ攻め入り、遂には関東管領家の内輪揉めに加わって武蔵にまで行くこととなりました。

その延々と流れていく御自身を(かえり)みて『雲』と例えられたのではないか、と」

「……ほう。北条の家についてそれなりに学んでおるようだな」

「右衛門様に教わっております」

石巻(いしまき)子倅(こせがれ)か。ふむ、なるほど」

「では当たりでしたか」

「ははは。五十点といったとこだな」

「む……」

「よいか、治郎兵衛。

我等禅宗の教えに『行雲流水(こううんりゅうすい)』という言葉がある」

「行雲……、流水……?」

「うむ。雲は行き、水は流れる。別の言葉で諸行無常(しょぎょうむじょう)とか飛花落葉(ひからくよう)と言ったりもするが、要するに『万物は不定(ふじょう)である、世は移ろい変わりゆく』という意味だ」

「……」

「盛時公は早川の水面(みなも)を刻々と移ろいゆく乱世になぞらえ、ならばそこを行く自分もただの雲ではなく『早雲(そううん)』であるなと合わせたのだ」

「……なるほど。そういうことでしたか。早く流れる川に、早く流れていく雲。

ああ……それで『風』なのですか。風に流されていく雲ということですね」

「うむ。ただな、まだその理解でも十分ではない」

「え」

「『早き風に流される雲』ではなく『早き風に乗る雲』であると、大殿はそう言われていた」

「風に、乗る、ですか」

「流されるばかりでは行くべき場所にいつまで経っても辿り着けぬ、その風を見極めて乗らねばならんのだ、とな」


行くべき場所。そこが治郎兵衛の母も言っていた『皆が笑って暮らせる世』か。

治郎兵衛は何となく、初めて会った時の伊勢の横顔を思い出していた。


「室町将軍家、今川、堀越公方、扇谷上杉といった勢力の中にあって自家が生き延びることを考えてきた盛時公が、それまでと少し違う物の見方を始めようとされていたのかもしれんな。そしてこの時より少し先のことになるが」


以天は善修寺の方を向く。


「善修寺殿の笛の()と、復興していく伊豆の田畑(たはた)の景色がそれを後押ししたのでしょう」

「そうでしょうか。そうだと()いのですが……」


善修寺は目を伏せた。


「……さて。横から口を挟んだ挙句にすっかり長くなってしまいました。お許し下され。坊主の口が回るは(さが)ですゆえ」

「ふふ、お気になさらず。話が下手な私が説明していたら日が暮れてしまいますもの。

治郎兵衛殿も納得してくれたようだし、……そろそろ本題に入りましょう」

御意(ぎょい)。笛は宿坊(しゅくぼう)ですか」

「ええ、本当に駄目ですね。年を取るとそういう肝心な所が抜けてきて」


その時、それまでずっと黙り込んでいた糸乃がひどく困惑して言った。


「善修寺様。私何か……思い出さなくてはいけないことが……。

その笛というのは一体……」


だが善修寺は穏やかに微笑む。


「いいのよ、糸乃。私がここへ来たのは三郎から貴方が龍笛(りゅうてき)を習う気になってるという(ふみ)をもらったからなの。その事がただ、とても嬉しかったの。

貴方に笛の()を託したくて、それをあの人にも見届けてもらいたくて……、だから来たのよ。無理して思い出さなければいけない事など一つも無いわ」

「でも、私……」

「さあ、行きましょう。あの人も久し振りに聴きたがっているでしょうから」


善修寺は静かに立ち上がった。


 * * *


やがて四人は境内(けいだい)の一角にある墓所(ぼしょ)に来た。背後は樹木が生い茂っている。

直方体の石材で組まれた土台に四角い墓石が据え置かれていた。『早雲寺殿天岳宗瑞公(そううんじどのてんがくそうずいこう) 大禅定門(だいぜんじょうもん) 俗名(ぞくみょう)伊勢新九郎盛時』とある。


しばし四人は手を合わせた。


その後、善修寺は糸乃に向けて静かに微笑んでみせ、笛を口に当てた。


心が()ぐ様な優しくて温かい、それでいてどこか懐かしい調べが彼女達を包み込んでいった。


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