17 在竹糸乃 湯本早雲寺に赴く
【用語説明】
一里半:約6km
参禅:禅を修め習うこと。
郷:数村を合わせた地域というイメージで使ってます。
総門:
寺院・神社等の最初の入り口に設けられた門。禅宗での呼び方らしい。
別当:
本話では寺務を統括する長官を意味する。延暦寺等の場合は座主と言ったりもする。
別当寺:
神社を管理する為に置かれた寺。神仏習合の時代のこと。
神仏習合:
日本土着の神道と日本の仏教が融合して一つの信仰体系として再構成された現象。
治郎兵衛と糸乃は小田原城を出た後、東海道を馬で西に進んでいる。早雲寺(菩提寺)がある湯本郷までは一里半程ある。
「馬を乗りこなすコツですか」
「初めて乗った時に最初こそ良かったのですが、乗ってるうちに言うことを聞いてくれなくなり、最後には投げ飛ばされてしまいました」
「ふふ。落馬はするものだと思って慣れた方が良いです。相手は生き物ですし。
むしろしがみ付くことに気を取られていると危険な落ち方をすることがありますから、落ちないことより安全な落ち方を身に付けることを意識した方が良いです。頭や腰を打っては致命傷にもなりますからね」
「なるほど……」
「乗りこなすコツは……何でしょうね。姿勢については孫九郎殿から教わってるでしょうし」
「はい」
「あと、今の段階で気にするべきは心構え的なところでしょうか」
「心構え、ですか」
「ええ。自分が馬に対して主人であるという意識を忘れないことです。馬は物ではありませんが、こちらが気後れしてもいけません。馬を気遣ってるつもりが不要な躊躇いになると、それは自分の体の動きにも現れます。曖昧な指示はかえって馬を混乱させますから」
「ははぁ……なるほど。よく覚えておきます」
「でも結局は数をこなすことですね。私も二年程乗ってますが、馬も人と同じでそれぞれに気質が違いますし、息を合わせて乗る、長い時間疲れさせずに走らせるとなると、まだまだ至らない点ばかりです」
「ニ年……。孫九郎様は三カ月も乗ればと言ってましたが」
「あの人は少し別だと思った方が良いです」
「あ、それは分かります」
「ふふふ。馬を乗りこなすことは家中を治めることにも通じるものがあると聞きますから、頑張って下さいね」
「ははぁ……励んでみます」
二人は早川に出た後、川沿いにまた西へ進んでいく。
「それにしても糸乃様は凄いですね。馬も笛も扱えるとは」
「あ、いえ、笛は全くの素人です。
ただ栄様と私が舞を習い始めていたら、三郎様が私には龍笛を勧められて、私も何となく惹かれたので……。それでこうして菩提寺に受け取りに行くことになりました」
北条三郎。法名を長綱という。早雲の息子達の中では末子である。若くして出家して京の天台宗総本山、園城寺(三井寺)で修業した後、相模に戻り箱根権現の別当寺金剛王院に入寺、後に箱根権現別当の地位を継いでいた。ただ同時に広大な知行地を早雲より相続しており、その関係で現在は小田原と箱根を行き来する忙しい日々を送っている。
治郎兵衛も名前だけはぎりぎり知っていた。
「菩提寺に笛を作る職人でもいるのですか」
「いえ、そういうことではないらしいです。ただ三郎様が以天様に話を通してあるからと仰ってました」
「以天様? 菩提寺の住職様ですか」
「ええ。以天宗清という臨済宗の和尚様です。昔、韮山城近くの香山寺に住職として就いてもらう為、早雲様が京から招いたそうです。早雲様が亡くなられてからは大徳寺の住職に出世されたのですが、その後御本城様に請われ、菩提寺の開山に迎えられました」
「とても偉そうな方ですね」
「もう六十に届く御年ですが、僧侶らしからぬ明るくくだけた方ですよ。でも粗相が無いよう気を付けて下さいね。北条家が長くお世話になっている方ですから」
「気を付けます……。
それにしても、早雲様が京都時代に参禅してできた縁が、その様に繋がってるのですね」
「ええ。もう一つの禅宗である曹洞宗についても、元々ご実家の備中伊勢家の菩提寺がそうですし、一族からも曹洞宗に入られた方達がいたそうです。今川家と北川殿の縁を取り持つことや、伊豆の修善寺を立て直す時などに力を借りたと聞いてます」
「そうなんですか……」
「ただ、大徳寺で学ばれていたのは禅の教えだけでなかったみたいですが」
「と言いますと」
「同時に兵学も学ばれていたらしいのです。師である春浦宗煕様という方が早雲様の様な武士達を集めて、孫子や六韜といった兵書を使って講義されてたそうで」
「寺で兵学ですか」
「ええ。ちょっと変わってますよね」
「はは、本当に」
「春浦様のことは、あの一休様も『法中の姦賊』と批難したそうですから」
「一休様?」
「一休宗純といって春浦様同様に大徳寺の住職を務められた方です。仏教の権威や戒律に囚われない生き方をして広く民に支持されたと聞いてます。応仁の乱等で荒廃していた大徳寺の復興にも尽力されたそうですよ」
「ははぁ……。糸乃様は色々ご存知なのですねえ」
糸乃はくすりと笑った。
「治郎兵衛殿、感心してる場合ではありません。神仏への信仰は民や武士を統べる政と大きく関わっていると聞きます。北条の者となるからには寺社の由来や僧の名前・事績等についてもしっかり知識を広げていかなくてはなりませんよ」
「なるほど……。
いずれ、必ず。そのうちには……」
「ふふ、その言葉は覚えておきますからね」
川沿いの道はやがて山間へと入っていく。
小田原城本曲輪が建つ場所が箱根外輪山の末端であれば、ここも同じ箱根外輪山の入り口である。この先に湯本郷があり、そこから更に登っていけば箱根山の芦ノ湖畔(早川の水源でもある)に建つ箱根権現に至る。
「山が随分近くなりましたねえ」
「え、ええ……。この先の」
糸乃は唾をごくりと飲んだ。
「……林道を抜ければ風祭郷に入ります。そこから入生田郷を経て早川を渡った先が目的の湯本郷です」
背の高い木々が茂り朝陽が遮られて薄暗い。
時々、鴉の『ぎゃあぎゃあ』という声が降ってくる。
「小田原の様に人の行き交う城下も良いですが、こういう所も落ち着きますな」
糸乃は反応しない。考え事でもしてるのだろうかと思っていたところ、再び鴉の鳴き声が響き渡り、糸乃の肩が小さく震えた。
「糸乃様?」
「……大丈夫、何でもありません」
「もしかして鴉が苦手ですか」
「……そんなことは、……ありません」
「表情と台詞がかけ離れてますが」
糸乃は目をうるませ、手綱をぎゅっと握り締めている。それでも姿勢は崩さない。
「幼い頃から栄様達に付いて何度も通ってる道なのです。鴉如き、何の問題もありません」
治郎兵衛は苦笑いし、『分かりました』と返した。
間もなくして山間の開けた平地に出たものの、家屋はまばら。畑も何となく荒れている。というか人の気配が感じられなかった。
「ここが風祭郷……ですか」
「ええ。ここは少し特殊なのです」
糸乃の調子は元に戻っていた。
「特殊?」
「早雲様が小田原に入って間もなくしてから主従の関係を結んだ者達が住んでいて、詳しくは知りませんが彼等は忍びを生業としているとのことです」
「忍びですか」
「はい。ですから相模伊豆だけでなく隣国、遠国まで広く飛び回って働いてるようです。普通、忍びというと乱波や草と呼ばれる野盗崩れのならず者集団を思い浮かべるでしょう?」
「そういうものですか」
「そうです。けれどそれらとは異なり早雲様に忠誠を誓った誇り高い者達だと聞いてます。ですから家中の人達も彼等のことを他の忍びと区別する意味を込めて『風魔』と呼んでます」
「風魔、ですか。何やら物騒な感じがする名ですね」
「ふふ。この村にはその者達の家族が暮らしてます。少ないですが人はいるのです。気立ての良い、普通の人達ですよ」
「ふうむ」
そこから更に半里程進み、河原に出た。
「ここを渡ればようやく湯本郷です」
「橋は、無いのですね」
「ええ。架けようという話も出てるらしいのですけどね。ただこういう世だから、難しいところもあるのでしょう。
大丈夫。普通の道を行く時と同じ様にしてれば馬が勝手に進んでくれます。私の後に続いて下さい」
「分かりました」
早川の由来は流れが急なところにある。勿論、渡河地点として選ばれている場所なので比較的なだらかで川底も浅いが、初めて騎乗で川に入る治郎兵衛にとっては気の抜けない関門だった。
糸乃が何度か振り向きつつ声を掛けてくれる。彼女は先程の林道とは別人に思えるぐらい落ち着いていた。
「余計な力を抜いて、普段と同じ姿勢を保てば大丈夫ですから。乗り手が不安になるとそれが馬に伝わることもありますから、ゆったり構えて下さい」
途中、治郎兵衛の馬が足を滑らせたもののどうにか堪え、無事に渡ることが出来た。
「ふう」
「さあ、もう少しです。行きましょう」
二人は緩い坂道を登り、湯本郷に入った。周囲を囲む山々は低く、思った以上に空が広い。ここでは百姓達も行き交っている。のんびりとした良い所だった。
やがて民家と畑に混じって建つ早雲寺に着いた。
渋い味わいの総門である。門番に取り次いでもらい、緑の多い境内を通り、茅葺き屋根の書院へと案内された。縁側を行き裏手に回ると外に庭園が設えてある。傾斜のある敷地にごつごつした岩や背の低い木々が配されている。その後ろはもう山林となっていた。
「治郎兵衛殿」
糸乃に声を掛けられて我に返り、後に続く。やがて通された部屋の正面には僧侶……ではなく、小柄な初老の女性が座っていた。身なりからして、さる家格の武家に所縁のある尼僧らしい。彼女がいたことは糸乃にとっても想定外だったようだ。
「善修寺様……」
「久しいわね、糸乃。待っていたわよ」
驚いて固まっている糸乃に向けて、彼女は穏やかに微笑んだ。




