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北条戦記  作者: ゆいぐ
侍見習い編 前編
16/43

16 石巻右衛門家貞 講義『北条早雲伝 弐』

後書きに早雲の周辺年表(1487-1498.9辺りまで)を載せました。

史実と間違ってる部分があるかもなので注意して下さい。

氏康達が小田原を発った翌日の講義は、懲りない綱成が治郎兵衛を馬場へ連れ出し、その次の日は家貞による座学が行われた。


「何やら日が空いてしまったな。まあ出立が近い故、槍の稽古を優先させるのは仕方ない」

「は、はい」


二十一箇条が治郎兵衛の胸にちくりと刺さる。


「よし。では前回の続きである盛時公の第二部より話していくとしよう」

「宜しくお願い致します」

「うむ。

駿河へ下向した盛時公は龍王丸(たつおうまる)派の今川家臣と合流し山西地域で蜂起(一四八七・十月末)、翌月には駿河館に追い詰めた小鹿範満(おしかのりみつ)を討伐する。もっとも小鹿派の残党掃討には更に時を費やし、山東、河東地域(富士郡南部の下方地域まで)の制圧をもってようやく駿河は龍王丸殿の支配に服した。

この戦いで若き君主の後見役として働いた盛時公は恩賞として河東地域(富士山の南。静岡県富士市)に三百貫の所領を貰う。同時に伊豆の堀越公方、足利政知公からは奉公衆の地位を与えられて伊豆の田中郷(国市)・桑原郷(函南(かんなみ)町)を拝領する。これは義澄公擁立を目論む政知公と京の細川政元の陣営に盛時公が(くみ)した、とまで言ってしまって良いのではないかと思う」

「……」

「一方、京都では六角勢相手に長陣(ながじん)を続けた将軍義尚公が二十五歳という若さで逝去(せいきょ)する(一四八九・三月)。酒色に溺れた所為だとも聞く。六角討伐は中止され、そこから父義政公が再び政務を見るのだが、その義政公も中風に倒れ(八月)、義尚公の後を追う様に亡くなる(一四九〇・一月)。ここで当然に義澄公は次期将軍候補の一人に挙がっていたのだが、御台(みだい)日野富子と畠山政長が推す義稙(よしたね)公(応仁の乱後、父義視と共に美濃に追放されていたが富子達に呼び戻された)が第十代将軍に就任する。

ここで留意すべきは伊勢貞宗公が足利義視との不仲(応仁の乱前に父貞親が義視暗殺を企んだ)もあって政所執事の職と家督を嫡男、貞陸(さだみち)公に譲られたという点だ。貞宗公は以降も義澄公擁立を諦めない政元と派閥を共にしていく。

ちなみに駿河で役目を終えた盛時公は再び京に戻る道を選び、義稙公の申次(もうしつぎ)衆として仕えるのだが、下向前に就いていた奉公衆としては復帰出来なかった所に義稙公との距離が見えるようにも思う。もっとも翌年(一四九二)には奉公衆に取り立てられた所を見ると、そこまで警戒されてたというわけではなかったようだ」

「……」

「さて。折角京に戻り幕臣として復帰した盛時公だったが事態はまた動き出す。

伊豆で政知公が亡くなったのだ(一四九一・五月)。その先は後家の円満院が家政を取り仕切るのだが、間もなく長男茶々丸が義母である円満院とその子潤童子(茶々丸義弟)を殺害し家督を奪ってしまう(七月)。この二人は義澄公の実の母と弟だ。伊豆は茶々丸派と反茶々丸派とが争い内乱となる。その影響で情勢が不安定となった隣国の駿河(北川殿)から再び要請を受けた盛時公はまた下向する(八月)。

折しもこの時義稙公は六角討伐を行おうとしていた。ただ義尚公の時と違い、軍事力として期待されていなかった盛時公はすんなりと許可を得られたようだ」

「……」

「そして盛時公はこの下向前に義澄派である政元、貞宗公とも茶々丸に対する方針を協議した。義澄公にとって茶々丸は仇敵であるだけでなく、将軍の座を狙う為にも排除しておかねばならない反乱勢力だ。今川家からの信頼(駿河の兵権に口を挟める立場)を手にした盛時公は政元達にとって極めて重要な存在に成長していたというわけだ。

さて。駿河に下った盛時公は龍王丸殿の後見役として、内乱が波及した甲斐へ援軍として出兵し、駿河が二の舞を踏まぬよう安定化に努め、更には駿河・伊豆の隣接地域(相模と駿東郡北部の御厨(みくりや)地域(御殿場市東部))を領有する国衆大森氏(扇谷上杉定正配下)と関係を築き、伊豆へ侵攻する機会を窺った。

ちなみに盛時公が扇谷と結んだ背景に、伊豆――政知が伊豆国主となって支配を確立する迄は山内上杉の守護国だった――には山内上杉と繋がりを持つ勢力が多かった為に茶々丸が同家との結び付きを強くしていたという事情もある。扇谷も山内と長享の乱による対立が解消されていなかった(一四九〇・十二月以降、停戦中ではあった)から盛時公(今川の兵)に貸しを作っておくことで将来的に利用しようという意図だったのだろう」

「……」

「やがて事態がまた動き出す。上方で六角討伐を終えて一定の成果を上げた義稙公が、今度は自身に近しい畠山政長の為、諸士の反対を押し切り河内(かわち)の畠山義豊討伐を断行する。そうして留守になった京で、遂に政元が日野富子、貞宗公の同意を得て武装蜂起する。義澄公を第十一代将軍として擁立したのだ(一四九三・四月。明応の政変。就任はしばらく先)。

義澄派の勝利(義澄の次期将軍就任)が確定した報を受けて、駿河の盛時公も家臣達と兵を率いて伊豆に打ち入る。盛時公は亡き主政知公が後継に定めていた潤童子の仇討、更に次期将軍内定者たる義澄公の統治策の一環という大義名分を得て、茶々丸派の切り崩し、討伐に掛かったのだ。

だが事は容易に成らなかった。まずは伊豆北部の三島を押さえ相模へ続く箱根路の往来を確保し、南進して韮山(にらやま)城、堀越御所までの制圧を遂げた段階で攻略は一つの区切りを迎える。茶々丸は御所から逃げ延びていった。後々茶々丸が山内上杉や武田を頼ることで、両家と伊勢・今川の対立は深まっていく。

なお、この時期に盛時公は韮山城を改修して本拠地とし、備中の本領を処分して、京に残っていた家族縁者等を駿河へ呼び寄せる。同時に出家して早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)と称された。まだ御年(おんとし)三十八の頃だな」

「ああ……、それで『早雲様』となられたのですね」

「うむ。出家された理由の一つには幕臣を辞すというけじめがあったのだろう。つまり伊豆の趨勢が覆されることは最早ないという段階に至ったという判断の(もと)、今川家武将として韮山に腰を据え、着実に伊豆制圧を遂行していくという決意を固められたのだ。二つ目には円満院、潤童子への哀悼の意を前面に押し出して茶々丸派の切り崩しや民衆の支持獲得を加速させる狙いがあり、三つ目には曹洞(そうとう)宗、臨済(りんざい)宗という禅宗を根本に置いた民心掌握政策の為であったと思われるが、こちらは他の内政の話とまとめてまた別の機会に話そう。

なお幕臣を辞すといっても、今川家・伊勢家は以後も上方の情勢を注意深く見極めながら方針を決めていくことになる。これは次回に話せると思うが、伊豆周囲の情勢が細川政元の策動と後々まで続く義澄公と義稙公の覇権争いに翻弄されることによるものだ。幕威衰えたりと言えどもその存在感・影響力はまだ大きく、後々盛時公は身をもって思い知ることとなる。

……まあ見方を変えれば、その幕威こそが当時の伊勢家中にとって精神的支柱でもあったのだがな」


どうも話が一段難しくなった様な気がした。


「幕府官僚だった者やその縁者を多く配下としていた伊勢家の武士が伊豆という見知らぬ地に来て、関東武士――鎌倉の時代から武家政権を支え、今もなお上方の支配を拒み続ける、頑なで誇り高い者達――を相手に、もしくは彼等と共に戦っていく為には相応の心の拠り所が必要だったということだ。中央政権たる幕府の意向に沿って自分達が動いているのだ、というな」


無論、治郎兵衛はその『拠り所』が崩れるなどというオチは知らない。

そもそもそれ以前に、腑に落ちなかった。


「何だか、よく分からないのですが……」

「ん?」

「幕府の威光が衰えて、独立してやっていこうという流れの中で、それでも幕府の方針を尊重というか、頼りにするといいますか……少し変な気がしました」

「ふむ。

まあ追々、幕府と朝廷の関わりや源氏と平家という武士の頂点に君臨した者達の歴史を学んでいけば理解が深まるだろう。

しかし結局のところ、従う側にいる武士の多くはいつの時代も何かに拠らずにはいられぬのかもしれん。そういう意味では百姓の方が強いのだろうな」

「……」

「ひとまず其処ら辺にしておこう。今日はもう少し先まで進めたいのでな」

「は、はい」

「ここからは『早雲公』と呼称するぞ。

伊豆北部を制した伊勢家は中部の茶々丸派重臣狩野氏の制圧に取りかかるのだが、他方で早雲公御自身は今川軍の総大将として遠江攻略に向かう(一四九四・八月)。遠江は今川家にとって守護斯波家から取り返したい地であるという歴史的因縁もあったが、何よりその斯波家が前将軍義稙公――京に投降後、側近の手引きで越中に落ち延びていった。斯波家当主義寛は六角・畠山討伐軍の折に大将を務めており親義稙側だった――の派閥である上に、守護代甲斐氏や一部の国人が茶々丸を支援していたという事情があった。

早雲公は遠江中部までを攻略した後、帰還。その後息をつく間も無く今度は扇谷上杉定正から要請を受け大森氏と共に三浦郡新井城を攻めて国衆三浦道含を扇谷に降伏させた後、定正本隊と合流し武蔵高見原で山内上杉顕定勢と対陣する。ただ定正が急病で死去し、扇谷軍は本拠河越城へ帰還。早雲公は古河公方政氏公の軍と合流した顕定勢と牽制し合うも正面から激突することはないまま伊豆韮山へ引き揚げる(一四九四・十一月)。

その後、扇谷・伊勢側は山内上杉勢によって大森氏の本拠であったこの小田原城が攻め落とされ(一四九六・七月。正確には降伏開城。この戦で大森側に早雲の弟弥次郎盛興が長尾景春と共に加勢するも負傷し、以降戦線を離脱)、同時に茶々丸勢も武蔵から甲斐を経由して駿河御厨へ侵攻してくるという逆襲を受ける。更にはそれらをきっかけに伊豆中部の狩野氏も反攻に転じて(一四九七頃)しばらく防戦を強いられる。だがそれらを凌ぎ切った(のち)狩野(かの)城を攻略、城主狩野道一(かのうどういつ)を討ち、茶々丸を遂に自害させる(一四九八・八月)。そのすぐ後に明応七年の大地震に見舞われるという混乱もあるが、ようやく、足掛け六年に渡った伊豆での戦いは終わりを迎える。

早雲公はこの(のち)、将軍家も含めた外部勢力から『豆州(ずしゅう)』、『韮山殿』と呼ばれ伊豆国主として公認されるに至る」

「足利茶々丸は手強かったんですね……」

「うむ。だが逆に伊豆での戦いを苦労して制したことが、伊勢家の結束を固めるきっかけとなったのかもしれん。……さて、今日はここまでと致そう」

「有り難う……ございました」


へろへろとなった治郎兵衛を『しっかり致せ』と励まし、右衛門は出ていった。治郎兵衛の出立までに最低でも早雲伝を終わらせるつもりらしい。ただその見積もりは早くも綱成から横槍を入れられることとなった。


 * * *


翌朝、二ノ丸の南東にある馬小屋へと治郎兵衛は連れてこられた。


湯本(ゆもと)菩提寺(ぼだいじ)へ笛を受け取りに……ですか」

「そうだ。なに、道はこの糸乃(しの)が知ってるから心配無い。糸乃は馬も乗りこなすから稽古をつけてもらうつもりで行ってこい。それから、お前はもしもの時の護衛役でもあるから、何かあればしっかり守るんだぞ」

「はあ……」


綱成の隣には治郎兵衛が初めて見る侍女が小袖に括り袴姿で立っている。


在竹糸乃(ありたけしの)と申します。よろしくお願いします、治郎兵衛殿」

「は。こちらこそよろしくお願い致します」


そういえば栄が(まい)の稽古から逃げてきたと言ってた折に、その名を聞いた気がする。

黒髪が綺麗で涼やかな目をした人だった。


やがて綱成が威勢良く治郎兵衛の背中を叩いた。


「よーし、行ってこい。馬場ではなく外の悪路(あくろ)で乗ってこそ上達も早いってもんだ。帰ってきたら今度は速歩(はやあし)を教えてやるからな」

「あの、そういえば今日の御役目は……」

「ん? ああ、問題無い。俺がちゃんと話を付けといたから。

糸乃も頼んだぞ、こっちも石衛門に負けてられないからな」


何故張り合っているのか。そもそも槍の訓練を優先させるべきではと思いつつも綱成の勢いに流され、治郎兵衛は糸乃と馬を並べて箱根口門を出たのだった。


1487.10

盛時、龍王丸派の家臣団と共に山西地域石脇城で

兵を集めて蜂起。


1487.11

駿河館に追い詰められた小鹿範満、自害。

戦後の恩賞として盛時は

駿河に駿河河東地域(富士山の南。静岡県富士市)に三百貫の所領を貰う。

山西地域の石脇城を居城とした説もあり。


また堀越公方足利政知に奉公衆の地位も与えられ

伊豆の田中郷(国市)・桑原郷(函南町)を所領としてもらう。


1488.9

盛時の発給書状からまだ駿河に在住していることを確認できる。


1489

龍王丸派による駿河支配確立が年中に完了。

龍王丸は元服し今川氏親と改名。

※元服時期については諸説あり。


関東では古河公方足利政氏が家督を継承。


京では義尚生前中に日野富子主導で美濃土岐氏の下に身を寄せる

義視・義稙親子を呼び戻し義政に対面させる計画が進行していたが

これを義政は知らなかった。

義視は応仁の乱の敗軍の将であり

その傀儡となるであろう義稙が次期将軍に就くことには

反対の者が多く中々計画が進まなかった模様。


甲斐では武田信昌が隠居、嫡男信縄が家督を継ぐ。

この時期甲斐では守護武田・国人の穴山等が争う乱国状態。

この後、信昌は信縄の異母弟信恵を後継者に望むようになり

信縄と信昌・信恵の対立が乱国状態に拍車をかける。


1489.3

九代将軍義尚、六角討伐中の陣所で急死(享年25)。

酒色に溺れたことによる脳溢血とも。

以後、義政が再び政務を見る。

義尚がいなくなったことで義政の信任厚い貞宗が口利きし

盛時が幕臣に復帰できたのかもと作者は勝手に妄想


1489.8

義政、中風で倒れる。10月に再度倒れる。

その後、義視親子が義政と対面を果たし

義稙の時期将軍就任が内定。



1490.1

義政死去。


1490.7

日野富子・畠山政長に推され

義稙が第十代将軍に就任。

細川政元・足利政知は義澄を推していた。

貞宗は応仁の乱前に父貞親が義視暗殺を謀ったこともあり

政所執事の職と家督を息子貞陸に譲って退く。


1490.12

関東では両上杉氏による長享の乱が一旦停戦となる。

ただ古河公方足利政氏等は以降も各所に在陣しており

支持勢力間では争いが続いていた。



1491.1

義視死去。義稙は父という後ろ盾を失う。

以後は畠山政長が権力を独占。


1491.2

細川政元が澄之を猶子にする(親族の子を養子にした)。

澄之は政知の妻円満院の甥。


1491.5

足利政知死去。以後継室の円満院が家政を見る。

長男茶々丸は素行不良により牢に入っている。

(元服後の名は伝わっていない)

元々は古河公方への対応を巡り政知と対立したのではとの説有り。

更に円満院が実子潤童子に堀越公方を継がせたいが為に

讒言したのではとの説有り。

もっとも脱獄後の茶々丸の経歴も牢番・円満院等だけでなく

家臣を殺害という記録もあるので

茶々丸自身に起因するものでもあったのではと作者は妄想。


この時点では盛時は義稙の申次衆となっている。

軍事力となる奉公衆ではないわけで

下向前からすると格下げであり

義稙から見て警戒対象だったのか

それとも駿河下向は前将軍の意向に沿うものではなかった

のではないかと作者は妄想。


1491.7

茶々丸脱獄して義母円満院・義弟潤童子

(義澄の実母・弟)を殺害。

伊豆は茶々丸派と反対派で内乱状態に。

伊豆はかつて山内上杉守護国であったことから

同家に繋がりのある家が多く

その関係で茶々丸と山内上杉は結び付く。


将軍義稙は義尚同様に奉公衆・寺社等からの支持を

取り付けるべく六角討伐を計画。

なお総大将(義稙も参陣してるわけで実働部隊隊長という感じか)に

斯波義寛が就任。

義寛は前回も総大将を務めており

諸士が士気低めの中、大軍を引き連れ参加しており

朝倉に取られた越前の返還を求めて

六角討伐に精を出すが色よい返事は結局貰えず

途中で帰還してしまった模様。

今回も同様の下心はあったものの

義尚贔屓の奉公衆からも、東軍出身の守護大名等からも支持を得られない

義稙にとっては数少ない味方だった模様。

今回は朝倉討伐の御教書が出るのだが

その軍事力に二の足を踏んだ幕府は結局動かなかった。


1491.8

幕府による六角討伐再開。

六角高頼は近江を追われる。


盛時は駿河へ下向。

貞宗が義澄派だったこともあり盛時・政元を交え

義澄将軍就任と茶々丸討伐に関して

密議がなされたのではないかと作者は妄想。

ただこの時点では将軍義稙が茶々丸を武力討伐まで

するつもりでいたかは不明であり

政元・貞宗も『今後京がどうなるかは分からないが

とりあえず伊豆討ち入りできるよう

下準備をしておいてくれ』位の話を盛時と

したのではないか。


義稙にとっては茶々丸はむしろ手を結ぶべき相手

の様にも思える。



1492

この年、盛時は奉公衆に取り立てられる。


政氏は元号が明応に代わっても延徳を使い続け

親室町幕府の山内上杉に対立した模様。


1492.6

伊豆での内乱が波及して甲斐でも新たな内乱が生じた

とする説あり。

駿河隣接地域を治める穴山・小山田からの要請で

早雲が今川名代として援軍に出たと主張する。


早雲に対抗する兵は小山田氏が率いたとも(wiki)


ともかく

国人栗原氏が河内の穴山氏の下へ退去したのを

信縄が追撃。信縄と穴山の合戦となった模様。


以降信恵が小山田氏らを味方に付けて信縄に対抗。


1493.2

畠山政長の対抗者であった畠山義就は既に死去しており

後継者義豊は幕府に目立って反抗しておらず

討伐の大義は無かったにも拘わらず

義稙は自分に近しい畠山政長の利になるという理由で

討伐軍を企図。

政元の反対を押し切り河内へ進軍。


1493.4

京で河内畠山義豊討伐に出た義稙の留守を狙い

細川政元・伊勢貞宗・日野富子がクーデター。

義澄が11代将軍に擁立される(就任はしばらく後)。

富子の意向で貞宗が後見役に就く。

義稙の下にいた奉公衆・守護大名は

富子の呼び掛けに応じて殆ど自国へ帰った模様。


1493.6

畠山政長、自害。

義稙は側近らの手引きで京を脱出。

畠山政長領国の越中に下向。越中公方となる。

この時の義稙はそれなりの陣容を整えており

越中守護代神保氏、能登守護畠山義統、越前守護朝倉貞景

加賀守護富樫泰高、越後守護上杉房貞らが恭順している。

更に西国の大友・大内、菊池、島津氏らも支持。

ちなみに山内上杉顕定も義稙派で

後々、茶々丸も庇護した。


ともかく

これによって全国の諸勢力に義澄派・義稙派という

衝突の理由が新たに追加された。

明応の政変が戦国の幕開けとする説も有力。


義稙の北陸からの上洛作戦開始は1499。


1493

作者が参考にした書籍では

『この年(1493)が早雲の伊豆討ち入りの年と思われ

1495.2には既に中部の勢力狩野氏への対応に

当たっていることから少なくともこの時点で

韮山・堀越御所は制圧されていた筈だ』と

記述されている。


早雲は駿東郡北部の御厨地域と相模を領有する扇谷と連携し

沼津付近から伊豆西海岸の国人(富永氏等)を味方に引き入れつつ

また、駿東郡南部を領有する在国奉公衆(当時は今川に従属か)

葛山(かつらやま)氏も味方に引き込み

茶々丸の居館堀越御所を制圧した模様。


後年?早雲は葛山氏の娘を側室に貰い受ける。

その子氏広は葛山家に養子に入り家を継ぐことになる。


作者の考えとしては

上方のクーデターが仮に失敗した場合

早雲が謀反人の一味という立場に陥ってしまうことを危惧して

また茶々丸派の切り崩しをスムーズに行う為にも

その成功が確定してから伊豆へ打ち入ったのでは的に思い

(茶々丸派家臣としても自分達の主が次期将軍の仇敵とあっては

戦意を保ちづらい)

また

早雲が扇谷への援軍に出た(1494.9-11)前提として

東海道の三島が茶々丸側に奪還される

(箱根路を使って相模から駿河へ帰還できなくなる)

恐れがなくなったと言える段階に至っていたと考え

(足柄路にしても三島の北西付近を通過して東海道に繋がる)

それ以前に三島とその南部近辺に位置する韮山を

制圧済みだろうとして

時系列が定まってない部分を設定してみました。


もっとも、愛鷹山の北側を通ることで三島付近を経由せずとも

駿河から足柄路に入ることは可能であり

この愛鷹山北側ルートが当時どの程度開けていたのか

軍勢が通るに適した道があったのかは不明なので

なお検討の余地があります(悪しからず)。


また、立場的に早雲が細川政元達より下にあった事を考えると

果たして

上方の行方を見届けてからなどという暢気に構えていられたか

怪しいところでもあります。

『伊豆の争乱を伊豆国外に波及させないよう

政元達は早雲に早いとこ対応させたかったのでは』

的に考察するブログサイト様もありました。


ちなみに早雲の出家時期に関しては幕府の禄を受けず

伊豆の領地だけでやっていけそうだと判断した時機に

京の家族縁者を駿河に呼び寄せると共に

出家に踏み切ったのではと考え

韮山までを押えた段階を出家の時と設定してみました。

しかしこれに関してもまだ検討の余地があります。


1494

政元は管領に就任。


1494.7

山内・扇谷の間で停戦破棄。戦端再開。


1494.8

早雲、今川軍総大将として遠江中部に攻め入る。

幕府としても親義稙の斯波義寛を叩いておきたかった模様。

また守護代甲斐敏光と本郷(現掛川市)の国人原氏が茶々丸と

以前から誼を通じ支援していたという背景もある。


この時のことが『円通松堂禅師語録』に

『平氏早雲者』と記述されており

『早雲』という庵号を資料で確認できる最初となっている。


多分往年を振り返りながら記録された物ではなく

出来事からそう時間が経たないうちに書かれたと

思いたいです。


1494.9

扇谷上杉定正からの要請で早雲は大森氏と共に

山内上杉方の三浦郡新井城を攻め、三浦道含(定正異母兄)を降伏させる。

※諸説あり


その後定正本隊と合流し、武蔵高見原で山内上杉顕定勢と対陣する。

(早雲が定正に初めて面会)

定正が急病で死去し、扇谷軍は本拠河越城へ帰還。

早雲は政氏と合流した顕定勢と対峙し

大きな衝突は無いまま伊豆へ帰還(11月)。


1495.1

義澄が第十一代将軍に就任(14歳)。

実権は政元・貞宗・富子らに握られていた。


1495.2

『早雲庵宗瑞』の名で署名された判物が確認されている。

伊勢家の文書という意味では初めて早雲の名を確認できる物。


1495.8

これより前の時点で茶々丸は一旦伊豆大島へ落ちている。


1496

再び今川軍による原氏(原田荘・現掛川市)への

侵攻があった。


1496.2

山内上杉方の太田顕資(道灌の甥)が

七沢要害(神奈川県厚木市)攻略の陣城を築く為

岩常山を制圧。

政氏へも出陣を要請。

その後七沢要害は陥落した模様。


1496.6

日野富子死去。


1496.7

山内上杉側は相模西郡まで進軍。

山内上杉を頼っていた茶々丸が武蔵・甲斐を経由して

駿河御厨地域(扇谷配下大森領)を制圧。

西郡に山内上杉方が築いた小田原攻略の為の陣所を

扇谷方に援軍として加わった

伊勢弥次郎盛興(早雲弟)と長尾景春が攻撃。

山内上杉方が勝利。

この後、弥次郎、景春、三浦同寸、上杉朝昌、上田一族等が

援軍として参加して篭っていた大森氏の小田原城は

開城、降伏する。

弥次郎はこの時の傷が元で戦線を離脱することになる。


景春は長享の乱当初、政氏配下として参戦してたが

政氏が山内上杉側に付いてしまった為

山内上杉と戦い続ける為に扇谷側に残った模様


この直後から今川氏親の初陣と思われる遠江侵攻が行われるが

早雲はこれに参加していない。

山内上杉への対応で手一杯だったと思われる。


1496.9

今川軍が遠江山口郷(現掛川市)を制圧。

支配地域を遠江中部へと広げていった。


1496.12

伊豆柿木郷で戦功をあげた雲見郷の高橋氏が感状を貰う。


1497

小田原城の敗戦を受けて、伊豆の狩野氏が反攻に転じる。


1498

狩野道一、国清寺(国市)で自害。

※諸説あり


後年?早雲は狩野氏の娘を側室に貰い受ける。

善修寺殿(北条幻庵の母)である。

狩野氏一族は他にも多数早雲に仕えており

道一の自害をもって滅亡したわけではなく

早雲は縁組することで懐柔路線を取った模様。


1498.8

茶々丸自害。場所は不明。

茶々丸勢力は滅亡し、伊豆での戦が終わる。

早雲は将軍家公認の伊豆国主となる。

伊豆守護は代々山内上杉氏が継いでおり

鎌倉府管轄国の守護任命権は関東(古河)公方にあり

早雲は最後まで任命されなかった模様。

推挙権が室町幕府にあり

それを関東側は断れないという説もあり。


ただ室町幕府が発給する関東への書状は

1490.7以降極端に少なくなり

1492を最後に途絶えている。

これをもって上方は関東の支配を諦めた

とする見方もある。


早雲は茶々丸討伐に伴い伊豆諸島支配も確立。

(この経緯はまた別の話で書くかも)


1498.8.25

明応七年地震。


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