15 綱成の場合
小具足姿:
鎧・兜を装着していない
篭手、佩楯(太腿)、脛当のみの、細めのスマートな恰好
都筑郡:神奈川県川崎市
小沢城:
現神奈川県の川崎市の北西端に位置します。丁度東京都との県境辺りです。
多摩郡と都筑郡に跨っているのかもしれません
氏康が小田原を発つ日の早朝、治郎兵衛は本丸の氏康居館へ呼び出されていた。氏康、吉政は小具足姿である。やがて普段着の綱成が少し遅れてきたところで、氏康から今回の出立について説明があった。
「行先は多摩郡小沢城。多摩川中流の南岸側に位置する対扇谷上杉の前線拠点だ。近頃また扇谷と武田がしきりと連絡を取り合っているらしくてな。警戒を強めなくてはならん。
勿論、事が起これば六百程の兵が城に集まる手筈になっていたのだ。まあその数とて十分でななかったが……。此度はその上で、一部の兵を江戸城の備えに回すことになってな」
「評定でも爺が指摘してましたが、やはり世田谷の城を落とされたのは痛かったですな」
綱成が言っているのは武蔵攻略の基点となっている江戸城への補給線のことだ。その道筋は陸海ある。ただ江戸内海に関しては、西上総の真里谷、安房の里見が昨年来また敵対行動を取るようになっていた。つまり海路の安全を確保し切れていない現状で扇谷上杉に陸路を遮断される事態は出来れば避けたい……と治郎兵衛以外の北条家中の者達は考えていた。
「うむ。江戸への兵站がおぼつかなくなれば、その北の岩付の城を維持することも当然難しくなるしな」
「と言って、小沢には小沢の事情有り。あの地域は――」
「それ故、儂が志願したのだ」
「しかし、やはり初陣としてはいささか荷が重いのでは?」
「……まあな。儂にはお主程の武勇も胆力も無い。お主が津久井で武田相手に暴れ回った様にはいかんだろう」
「……」
「ただ、だからといって急場を家臣に押し付け城で安穏としてるような主になるのは御免だ。
それに。治郎兵衛とも約束をしたしな」
治郎兵衛が静かに深く頭を下げる。
それを見て綱成も小さく息を吐き、『若らしいですな』と呟いた。やがて踏ん切りが付いたらしい。ぱんと膝を打った。
「承知しました。ならば俺が福島の猛者共を連れていくまで、なるべく自重して城を守って下さいっ。なに、朝興など、この手で軽く捻ってやりますから!」
「いや。お主は此度も対武田だろうと父が言っていた」
綱成はずっこけた。
「まあその心意気だけ有り難く貰っていく。そういうわけでな、治郎兵衛」
「はい」
「仮に扇谷上杉が小沢側へ侵攻してくると、少ない味方で当たらなければならなくなる。そのことだけは覚悟しておけ。
此度儂や右京が少数で先行するのはその小沢周辺の、都筑から多摩南部の地勢や村の様子をこの目で確認しておく為だ。馬での移動だから連れていけぬが、十日かそこら後に小田原に集まってくる伊豆の者達と共にお主も来い。待っているからな」
「はッッ!」
氏康は満足そうに頷く。
伊豆は伊豆で武田の侵攻や今川への支援に備える兵が要る。小沢方面に出せる数は多くない。更にこれも評定で言われていた事だが、年明けの北条方の一連の敗戦が大きく響いて再び日和見をし始めた武蔵南西部の国人衆の手前、もう負けを重ねることが許されない。綱成の『あの地域は――』の事情も含め、氏康達は厄介な役目を負ったと言える。
「さて。そろそろ本曲輪の方へ挨拶に参るとするか、右京」
「かしこまりました」
一転して重い顔付きに戻った氏康に続き、吉政も出ていった。
残された部屋で治郎兵衛が綱成に尋ねる。
「そういえば孫九郎様はもう初陣を済まされていたのですね」
「ああ。年明けに津久井でな。もっとも主戦場だった高麗の方が負け戦になった上に江戸の根小屋を焼かれて世田谷まで落とされてしまったが」
「そうだったのですか……。戦は、恐ろしかったですか」
「ん? ああ、お前もまだ行ったことが無いのか。それで若の戦装束を見て顔を強張らせてたんだな?」
「そう、なってましたか……」
「感情を隠せない性質だな」
「……」
「しかし、そうだなあ。戦は……始まる前までは俺も震えていたな」
「やはり孫九郎様程の方でもそうなのですね」
「うん、あの時は武者震いが止まらなくてなあ」
「……」
「治郎。どちらかというとお前は、敵に殺されることより敵を殺すことが怖いのだろう」
あの試験の時にしても『北条家の者を殺めずに済んでほっとした』のではなく『自分が人殺しにならずに済んでほっとした』のが本心ではないかと、治郎兵衛は昨晩も一人で考えていた。勿論、何が何でも氏康の思いに応えるという気持ちに変わりはないが。
「……そうです。ですが、よく分かりましたね」
「まあ背後から殴り付けた俺に対する態度とか、馬の怒らせ方なんか見てれば何となくな」
「む……そんなものですか」
「そんなものだ」
少し似ているのかもしれない、と綱成は思った。
「まあ俺も戦はその一度きりだから偉そうなことは言えないが、一つだけ励まし?になることを言うならだな」
「はい……」
「実際に戦場で敵と槍を交えてみて、というか一合戦終えてみた感想なんだが」
「はい」
「あれは、やってた行いは殺し合いで間違いないんだが……」
「……」
「何というか。戦とは力とか信念とか、それから采配とかを、有らん限り全力でぶつけ合う場所なのだな……と思った」
「ぶつけ合う……」
「ああ。遣り取りしてたのは命だけどな。それは勝ち負けを付けたことの結果でしかないのかもしれないなと」
「……え」
「目的は相手の命ではなく、相手に勝つことなんだ。待った無しの本気で競うから、殺し合いになるけどな」
北条の子どころか武神の申し子の様な台詞だ。治郎兵衛はしばし呆気に取られていたが、苦笑いして言った。
「……いや、途中まではなるほどと聞いていたのですが。そこまで振り切れるのは孫九郎様だけですよ」
「俺だって完全に納得してるわけじゃない。ただ何となくそう思えてくるというかだな」
治郎兵衛は腕組みして考え込んだ。
「う~ん……。そういうものでしょうか。やっぱり私はどう考えてもそこまでは……」
「諦めるなよ。武士は精神が強くあってこそ、家中の者達が付いてくるんだからな?」
「いや、諦めるとか諦めないとかではなくてですね……。確かに強くなりたいと思います。しかし……」
「しかし何だよ」
「私も幼馴染によく前向き過ぎると言われるのですが、孫九郎様には多分敵わないだろうと悟りました」
「……。
もういい。仕事に行くぞ。折角有り難い体験談を話してやったというのに」
「あやかりたいと思いました」
「言ってろ」
だが綱成の足が止まる。
「そうだ。今日の講義は馬でなくて槍だ。足軽や小物連中と一緒にな。槍襖(集団で機を合わせて槍を突き出す戦い方)を練習しておけとさ」
「槍襖……ですか。かしこまりました」
「俺は今日も馬をやりたかったんだけど、若に怒られてしまったからな」
「そうなんですか。……ん? もしや、本当は一昨日も槍の訓練をする予定だったのでは」
「さ、さて、仕事だ、仕事。今日こそ名刀を生み出すぞ」
武神の申し子は武器も自作する。やはり敵わない。治郎兵衛は可笑しさを堪えつつ綱成の後に続いた。
* * *
丁度その頃だった。
武蔵国の橘樹郡神奈川湊の安宿で目を覚ました仁助は周りで雑魚寝している仲間達を起こさないよう、そっと部屋を出た。
神奈川湊は江戸湾西岸、帷子川河口にある宿場町だ。内陸、江戸内海の交易拠点として、更には紀伊半島、東海地方と関東を結ぶ太平洋海運の中継港としても機能しており、多くの人や物が行き交い栄えていた。
無論、乱世の常として安心安全が保障されているわけではない。北条氏がこの地域へ侵攻してきて以降、房総勢力との制海権争いが断続的に続いていた。それでも商人達は逞しく商いに勤しんでいる。
現在は北条氏家来、青木城主の多目新左衛門元忠――綱成が『爺』と呼んでいた玄蕃助元興の長男――支配の下、その津料が北条家の台所を大きく助けていた。
商人、中でも財力に富む者達は豪商と呼ばれる。仁助達の主、金子庄衛門もそうだ。北条家の本拠地である小田原城下に屋敷を構え、更には領地まで与えられて家臣として遇されている。仁助達の様な集団を他にも幾つか取りまとめることで北条家の商人統制を一部担っているのだ。
庄衛門は豪語している。いずれは同業者を蹴散らし北条家の御用商人になってみせると。言うだけあって交渉は巧み、顔も広い。仁助達が今いる神奈川湊にも懇意である問丸(海運を営む商人)の某という者が居を構えている。
対して、庄衛門の下で働く仁助の暮らしはどうか。稼ぎは女房と二歳の娘を食べさせるのがやっとだ。仕事も干物や紙、荏胡麻等を背負い、急ぐ日は六里、七里と歩くから楽ではない。道中、護衛を付けるとはいえ野盗の心配も尽きない。行先も敵国だろうが、そこが戦場となっていたり交易を禁じられていない限り行かねばならない。そして一度家を出れば二十日以上帰れない。おまけに仕事仲間の中には付き合いを遠慮したくなる様ながらの悪いのがいる……と愚痴を挙げればきりが無かった。
ただしかし、そういう厳しい暮らしの中にも細やかな喜びはある。一年程前から仁助達の集団に見習いとして加わり体格的に恵まれないながらも一生懸命に取り組んできた若い子が近頃仕事にも慣れ、一人の商人仲間として認められる程になってきていた。そういう成長を見ていると自分も励まされるものだ。その子と共に自分も、これから先も何とかやっていけそうだという力が湧いてくる。
仁助は眠気覚ましに大した当てもなく浜まで歩いてきた。大きな松の隣に立って伸びをする。遠浅で波が穏やかな入り江である。沖には廻船が数隻停泊しており、そこまで荷を運ぶ為の艀(小早)が砂浜に何艘も並んでいた。朝が早いせいだろう。波打ち際にある一艘の小早の脇に数人が見える他は誰もいなかった。
……ただの偶然である。目を凝らした仁助はその中によく知った小さい背中を見つけた。先を越されていたかと顔を綻ばせ、その名を大声で呼ぼうとした。
「卯、き――」
挙げかけた手が途中で止まり、ゆっくり下がる。それからしばらく、仁助はただ無表情で彼等を眺めていた。




